翌朝のリヴァーノ港は、東海祭の日よりも静かだった。
静か、といっても、普段の港町としては十分に騒がしい。荷車が石畳を鳴らし、魚商人が声を張り上げ、帆船の索具が風に鳴っている。祭りの飾りも、まだ半分ほど残っていた。
だが今日は、市民が港へ押しかけることはなかった。都市警備兵が、早朝から岸壁の周辺を封鎖していたからである。
日本国と、ヴァレシア王国。もはや、地方の領主と未知の来訪者という話ではない。
今日初めて、中央政府同士が顔を合わせるのだ。
◇
「来ました」
港務所の二階で、窓辺に立っていたアレシナが海を見た。
沖には、いつもの白い「いわみ」が浮かんでいる。そこから、一隻の小型艇が離れていくところだった。これまでに何度か目にした、日本の高速艇だ。帆も櫂もないのに、水面を滑るように近づいてくる。
アレシナの後ろには、王室外交官、財務官、宮廷魔術師、高位聖職者、近衛隊長、そしてリヴァーノ辺境伯が控えていた。
「今回は、誰が来るの?」
アレシナが尋ねた。
「日本政府の“特別代表”だそうです」
辺境伯が答えた。
「名前は?」
「榊真綾」
「サカキ・マアヤ」
「はい」
「どういう人物なの?」
辺境伯は、一瞬黙った。
「それが」
「何?」
「少々、変わった経歴の持ち主らしいのです」
アレシナは、父親を見るような目で辺境伯を見た。
「あなたがそれを言うと、不安になるわ」
「私のことではありませんよ」
「分かっています」
辺境伯は、手元の資料を確認した。
「七十一歳」
「七十一?」
「元外交官で、複数の国で大使を務めた経験があり、国際機関にも勤務していた。現在は、政府の特別代表です」
「随分なお年ね」
「日本では、それほどでもないそうです」
アレシナは、昨日読んだ報告を思い出した。平均寿命は百歳以上、健康寿命は九十五歳。
「そして」
辺境伯は続けた。
「かつて、“内親王”だったそうです」
アレシナが振り返った。
「……何ですって?」
◇
艇が岸壁に着いた。
最初に警備の担当者が、次に検疫の担当者が、続いて政府の職員たちが上がってくる。そして最後に、一人の女性が岸壁に姿を見せた。
アレシナは、一瞬だけ辺境伯を見た。
「七十一?」
「そう聞いています」
「本当に?」
「日本側の記録では」
どう見ても、七十一歳には見えなかった。
白髪は混じっているし、目元には年齢も刻まれている。だが姿勢は真っ直ぐで、足取りもしっかりしていた。顔立ちだけなら、五十歳前後と言われても違和感がない。
薄い灰色を基調とした外交用の正装に、派手な装飾はない。胸には、日本国政府を示す小さな徽章が付いているだけだ。
彼女は岸壁に上がると、周囲を一度だけ見渡した。観察するような視線だったが、辺境伯が初めて日本人を見たときのような好奇心を、露骨に表に出すことはない。
そして、まっすぐにアレシナを見つけた。
同行する日本側の職員が何か告げるより先に、榊真綾はアレシナの前まで進み出て、立ち止まった。そして、ごく自然な動作で頭を下げた。
「ヴァレシア王国国王特使、アレシナ王女殿下とお見受けいたします」
翻訳は、ほとんど遅れなかった。
「日本国政府特別代表、榊真綾です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
アレシナも、王室式の礼を返した。
「父アルヴェリオ三世の名代として、歓迎いたします」
二人が顔を上げ、数秒のあいだ、互いを見つめた。
この人は、礼法を知っている──アレシナはそう思った。
外国人がヴァレシア式の礼を知っている、という意味ではない。人前で、誰がどこに立ち、いつ視線を下げ、どこで相手に譲り、どこから先は譲らないのか。そうした、宮廷で育った者に特有の「間」を知っているのだ。
◇
会談室へ向かう途中、アレシナは我慢できなくなった。
「一つ、先にお聞きしてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「あなたは」
アレシナは、言葉を選んだ。
「以前、日本の王族だったと聞きました」
日本側の職員が、ほんの少しだけ表情を変えた。だが、榊本人は平然としていた。
「はい」
「“内親王”と」
「その呼び方で合っています」
「では」
アレシナは、彼女を見つめた。
「あなたも、王女だったのですか?」
榊は、少し考えた。
「皆様の言葉に置き換えるなら、おおむね、そうなります」
「でも、今は違う」
「はい」
「……なぜです?」
榊は、少し笑った。
「長くなりますので、会談の途中にいたしましょうか」
「私も、ぜひお聞きしたいですな」
辺境伯が横から言った。榊が、辺境伯に目を向ける。
「あなたが、リヴァーノ辺境伯ですね」
「はい」
「報告書を読みました」
「ほう」
「七枚も質問されたそうで」
辺境伯の娘が、横を向いた。アレシナも少し笑う。
「日本にまで伝わっているのね」
「かなり詳細に」
「……お恥ずかしい」
「良いご質問でした」
辺境伯の顔が、たちまち明るくなった。
「でしょう?」
「褒めない方がいいですよ」
アレシナが言った。
◇
午前九時四十分、会談が始まった。
今回は、前回とは席順から違っていた。
片側に並ぶのは、ヴァレシア王国の一行だ。アレシナ、王室外交官二名、法務官、財務官、宮廷魔術師、高位聖職者、リヴァーノ辺境伯とその娘、そして書記。
反対側には、日本国の一行が並ぶ。榊真綾のほか、外務省の政策担当、国際法担当、経済・技術担当、科学・未知現象担当、安全保障担当、翻訳・文化分析担当。そして双方の補助職員たち。
最初に行われたのは、驚くほど地味なことだった。
互いが、本当に自国を代表しているのかどうか。その確認である。
◇
アレシナは、父から預かった文書を差し出した。
王璽が押され、国王アルヴェリオ三世の署名がある。王女アレシナを国王特使に任命し、日本国政府との予備的な外交協議を行う権限を与える──という内容だった。ただし、軍事同盟、領土の変更、恒久的な条約、王国の財政を拘束する大規模な契約については、別途国王の承認を必要とする、とも記されている。
日本側は、その文書を撮影し、翻訳した。紋章、封蝋、紙、筆跡──すべてが記録されていく。
「疑われているのですか?」
アレシナが尋ねた。
「確認させていただいています」
榊が答えた。
「その違いは?」
「疑い続けるためではなく、確認が済んだら信頼できるようにするためです」
アレシナは、少し考えた。
「なるほど」
今度は、日本側の番だった。
日本国政府の正式な任命書が差し出された。本来は電子認証と署名によるものだが、アレシナたちには電子認証の意味が分からない。そのため日本側は、同等の内容を紙の文書でも用意していた。
「榊真綾氏を、日本国政府の特別代表とする、と?」
「はい」
「この方は、日本国の首相の命令を受けているのですか?」
「正確には、政府としての正式な任命を受けています」
「国王からではなく?」
「はい」
「天皇からでもなく?」
「はい」
そこで、アレシナは先ほどの疑問に立ち戻った。
「やはり、お聞きしたいです」
「どうぞ」
「あなたは、かつて天皇の一族だった」
「はい」
「でも今は、政府に仕えている」
「はい」
「そして、その政府は、天皇が命令するわけではない」
「その通りです」
アレシナの顔には、はっきりと「意味が分からない」と書いてあった。
◇
榊は、少し笑った。
「私は生まれたとき、“真綾内親王”でした」
翻訳AIが注釈を表示する。
『内親王:皇統に属する女性皇族の高位の称号。王女に近いが、制度上の違いあり』
「そして二十六歳のときに、皇籍を離れました」
「皇籍?」
『皇族としての、法的な身分』
「離れることが、できるのですか?」
「できます」
「ご本人の意思で?」
「制度上の条件と手続きがありますが、私の場合は、本人の意思もありました」
「なぜです?」
「外交官になりたかったからです」
アレシナは、瞬きをした。
「王女では、外交官になれないのですか?」
「できないわけではありません。ですが私は、皇族として外交をしたかったわけではないのです」
榊は、穏やかに言った。
「一人の公務員として、政府の政策に責任を持つ仕事がしたかった」
「公務員?」
『国家の行政業務を、職業として担う者。身分の世襲ではない』
アレシナは、榊を見つめた。
王族でありながら、その身分から自ら離れ、試験と職業によって国家に仕える。理解できない。だが不思議なことに、目の前にその実例がいる以上、否定のしようもなかった。
「後悔は、なさっていますか?」
少し、個人的すぎる質問だった。口にしてから、アレシナはそう思った。だが、榊は気にしなかった。
「時々は」
「あるのですね」
「人間ですから」
榊は、少し笑った。
「ただ、戻りたいとは思いません」
「王族をお辞めになっても、王族のような礼儀は残るものですな」
辺境伯が、感心したように言った。
「幼いころに、叩き込まれましたから」
「それは、よく分かります」
アレシナが言った。
このとき初めて、二人の間に、ほんの少しだけ共通するものが生まれた。
◇
正式な議題に入った。
第一の議題は、日本国政府がヴァレシア王国をどのような存在として認識しているか、である。アレシナは、自ら質問に立った。
「日本側に、確認したいことがあります」
「はい」
「あなた方は」
一瞬、間を置いて、アレシナは言った。
「ヴァレシアを、国と見なしていますか?」
部屋が静まり返った。
単純な質問ではない。日本の人口は八千三百万、ヴァレシアは百九十万。技術の差、軍事力の差、国力の差がある。そして、この世界で強国が小国をどう扱うかを、ヴァレシアはよく知っていた。
榊の答えは、早かった。
「はい」
アレシナの目が、わずかに動いた。
「現時点で我々が確認している限り、ヴァレシア王国は、領域と住民、統治機構を持ち、自らの意思で外交を行っている政治主体です」
AIが、慎重に概念を置き換えていく。
「日本国政府は、今後の協議において、ヴァレシア王国を対等な外交主体として扱います」
辺境伯が、息を吐いた。アレシナは、念を押した。
「人口の差があっても?」
「はい」
「技術の差があっても?」
「はい」
「日本が、我々より強くても?」
榊は、一瞬だけ黙った。
「強い側に、相手を国ではないことにする権利があるとは、考えていません」
王室外交官が、筆を止めた。この一文は、必ず王都へ送られることになるだろう。
◇
「では」
アレシナは続けた。
「日本は、ヴァレシアの土地を要求しないのですね?」
「要求しません」
「港は」
「要求しません」
「島は」
「要求しません」
「軍事基地は」
榊の表情が、少しだけ変わった。
「現時点で、その要求はありません」
「将来は?」
「将来について、絶対の約束をすることはできません」
前回の日本の使節と、同じ答えだった。アレシナは、むしろ安心した。
「ただし」
榊は続けた。
「もし将来、施設の利用や共同での活動を提案することがあったとしても、ヴァレシア政府の同意なく、一方的に占有することはありません」
「なるほど」
「そして、同じことを、日本側の領域についても求めます」
対等であること。そこだけは譲らないのだと、アレシナは理解した。
◇
次の議題は、航行についてだった。ヴァレシアの東岸と日本の西岸、その間に広がる海のことである。
「日本の船がヴァレシアの港へ入る場合は」
王室外交官が言った。
「事前の許可を求めます」
「原則として、同意します」
「軍用の船は?」
「別途、協議させてください」
「航空機は」
「同様です」
「日本人が、国内を自由に移動することについては?」
「現段階では、ヴァレシア側の許可と、同行の条件を尊重します」
「リヴァーノについては?」
辺境伯が口を挟んだ。
「現地での暫定的な合意を、当面は維持したいと考えています」
「結構」
「ただし」
日本側の安全保障担当が言った。
「日本人の安全について、ヴァレシア側にも責任ある対応を求めます」
「当然です」
近衛隊長が答えた。空気が、わずかに硬くなる。それを、榊が柔らかく戻した。
「我々も、こちらで事件を起こさないよう、自国民を管理いたします」
アレシナは頷いた。
「それなら、公平です」
◇
検疫の議題には、両国とも真剣だった。
「病は、軍隊よりも国を殺すことがあります」
ルメリア教の聖職者が言った。日本側の医療担当が、すぐに頷く。
「その認識は、完全に一致します」
「日本人が、我々の病に弱い可能性は」
「あります」
「我々が、日本の病に弱い可能性は」
「あります」
「魔法に由来する疾病については」
「こちらには知識がありません」
「日本由来の、人工微生物については──」
日本側の医療担当がそう言いかけた瞬間、ヴァレシア側の全員が、聞き慣れない言葉に止まった。医療担当は説明を加えた。
「我々は、生命をある程度、人工的に改変することができるのです」
「生命を?」
宮廷魔術師が顔を上げた。榊が、横を見る。
「そのお話は、後ほど」
「はい」
医療担当は、大人しく引き下がった。
「質問が、一枚増えましたな」
辺境伯が呟いた。
「書かないでください」
娘が言った。
◇
そして、最も難しい議題に入った。交易である。
「商人たちは、すでに日本との取引を望んでいます」
アレシナが言った。
「予想しています」
「日本の薬」
「はい」
「農具」
「はい」
「機械」
「はい」
「書物」
「はい」
「そして、武器」
部屋の空気が変わった。榊は、はっきりと答えた。
「武器の提供は、現在考えていません」
「一切?」
「少なくとも、現段階では」
近衛隊長が、少し残念そうな顔をした。アレシナは、さらに問いを重ねた。
「では、医療は?」
「緊急の人道目的であれば、個別に検討します」
「農業の技術は」
「検討の対象です」
「機械は」
「種類によります」
「なぜ、そこまで慎重なのです?」
日本側の経済・技術担当が答える前に、榊が言った。
「我々自身が、まだ答えを持っていないからです」
「日本ほど進んだ国でも?」
「進んでいるからこそ、です」
アレシナは、首を傾げた。
「例えば」
榊は、机の上の水差しを指した。
「日本の浄水設備を一つ持ち込めば、多くの人を病気から救えるかもしれません」
「良いことでは?」
「はい」
「なら」
「その結果、都市の人口が急増するかもしれません」
アレシナが止まった。
「労働力の価値が変わり、土地の制度が変わり、税収が変わります。既存の井戸の業者や治癒師たちが、職を失うかもしれません」
財務官が、少し身を乗り出した。
「薬なら?」
「同じです」
「農具なら?」
「同じです」
「機械なら?」
「もっと大きな影響が出るでしょう」
榊は言った。
「我々が善意で渡したものが、皆様の社会を壊してしまう可能性があるのです」
辺境伯が、黙り込んだ。アレシナも、黙った。
日本は、技術を出し惜しみしている。最初は、そう思っていた。だが違う。少なくともこの女性は、渡すことの危険を恐れているのだ。
「では、何も渡さないのですか?」
「それもまた、一つの選択です」
榊は言った。
「そして、それもまた影響を与えます」
「どういう意味です?」
「日本が存在すること自体が、すでにこの地域の政治を変えているのです」
一瞬、アレシナの視線が鋭くなった。
ヴァルガニアとベルカディア。こちらから、まだ詳しく説明していない部分だ。
「気づいているのね」
「はい」
◇
「ヴァルガニアについて」
榊が言った。
「差し支えない範囲で、教えていただけますか」
アレシナは、父の命令を思い出した。弱みを、隠しすぎないこと。
「強国です」
「人口は」
「我々より、はるかに多い」
「軍事は」
「強い」
「ヴァレシアへの要求は」
少しの間があった。
「時々、あります」
「領土ですか?」
「それだけではありません」
交易、関税、港湾の権利、婚姻、通商の特権、国境の問題。属国にまでは至らない。だが、少しずつこちらの選択肢を削り取っていく。そういう種類の圧力だった。
「ベルカディアは?」
「ヴァルガニアよりは、友好的です」
「同盟を結んでいるのですか?」
「いいえ」
「なぜです?」
「他国に頼りすぎることは、それはそれで危険だからです」
榊が、小さく頷いた。
「理解できます」
アレシナは、問いを返した。
「日本は」
少し迷ってから、王女は言った。
「我々の後ろ盾になってくれますか?」
正面からの問いだった。辺境伯も、黙り込む。
榊は、すぐには答えなかった。十秒近く、彼女特有の、宮廷育ちの静かな間が流れる。誰も、急かすことはできなかった。
「今、それをお約束することはできません」
アレシナの表情は、変わらなかった。
「ただ」
榊は続けた。
「ヴァレシア王国の外交の意思が、外部からの武力や脅迫によって不当に奪われるような状況を、日本政府が無関心に眺めている──とは、申し上げません」
「それは」
「同盟の約束ではありません」
「分かっています」
「軍事支援の約束でもありません」
「はい」
「しかし」
榊は、アレシナを見つめた。
「我々は今、ここで皆様を、一つの国として扱っています。その言葉を、都合よく忘れるつもりはありません」
アレシナは、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
◇
休憩に入った。午前の会談だけで、三時間を超えていた。
窓際で、アレシナと榊は、偶然二人きりになった。
完全な二人きりではない。数歩離れたところには護衛がいるし、翻訳AIも動いている。それでも、会議の席とは違っていた。
「榊代表」
「真綾で構いませんよ」
「では」
アレシナは、少し迷った。
「真綾」
「はい」
「あなたは、私をどう見ていますか?」
榊は、眉を上げた。
「難しいご質問ですね」
「日本から見れば」
アレシナは、自分の服に目を落とした。王家の紋章。王女であり、国王の特使である自分。
「私は、古い時代の人間なのでしょう?」
榊は、しばらく彼女を見つめていた。
「いいえ」
「気を遣っています?」
「少しだけ」
アレシナは吹き出した。榊も笑う。
「ただ」
榊は続けた。
「制度が古いことと、人間が古いことは、同じではありません」
「あなたは、王女を辞めた」
「はい」
「私は、辞められません」
「それは、お辛いですか?」
その問いに、アレシナは少し驚いた。
これまで彼女の前に立った者は、誰もが王女という身分を珍しがるか、政治的な価値として見るかのどちらかだった。だが、この女性だけは違う。
知っているのだ。生まれたときから、自分より先に肩書が歩いていく、あの感覚を。
「……時々は」
アレシナは答えた。榊が、微笑んだ。
「私と、同じですね」
◇
「日本では」
アレシナが言った。
「あなたが元内親王であることは、今回の人選に関係していたのですか?」
「しています」
「やっぱり」
「皆様の王女殿下がいらっしゃると分かりましたから」
「王女には、元王女を?」
「分かりやすいでしょう?」
アレシナは笑った。
「随分と計算高いのね、日本政府は」
「外交ですから」
「でも、それだけではない?」
「はい」
榊の声が、少し変わった。
「私は、政治制度がまるで違う国同士が話し合う仕事を、長く続けてきました」
「だから?」
「相手を“遅れている”と呼んだ瞬間に、外交はたいてい失敗するのです」
アレシナは、黙って聞いていた。
「皆様には、皆様がここまで生き残ってきた理由があります」
榊は、窓の外を見た。石造りのリヴァーノの街、帆船、魔法灯台。
「それを知らずに、日本のやり方を持ち込むつもりはありません」
「本当に?」
「努力はいたします」
「そこは、断言しないのね」
「七十一年も生きていると、断言には慎重になるものです」
「七十一……」
アレシナは、あらためて榊を見た。
「本当に、七十一なの?」
「そこからお疑いになります?」
「だって」
「戸籍の記録を、お見せしましょうか」
「いえ」
アレシナは笑った。
「日本が怖くなるから、やめておきます」
◇
午後、会談が再開された。今度は、具体的な文書の作成に入る。
正式な国交の樹立ではない。そこまでは、まだ早い。
だが、双方に外交の窓口を置くこと。使節の安全を保証すること。無断の軍事行動を避けること。海難救助で協力すること。感染症対策の情報を共有すること。交易と技術移転は個別に協議すること。互いの統治領域を尊重すること──この程度であれば、今日のうちに合意できる可能性があった。
「文書の名称は?」
王室外交官が尋ねた。日本側の国際法担当が答える。
「“日本国政府とヴァレシア王国政府との間の暫定友好及び連絡に関する覚書”を提案します」
翻訳AIが、死んだ。
正確に言えば、数秒間、沈黙した。
『語義の圧縮が困難です』
「日本にも、長い文書名があるのですな」
辺境伯が笑った。
「行政組織というのは、世界が違っても似るもののようです」
榊が答えた。
アレシナは、文書を眺めた。
「明日、詰めましょう」
「はい」
「そして、合意できれば?」
「署名いたします」
「私と?」
「私が」
アレシナは、少しだけ笑った。
「現役の王女と、元内親王ね」
「後世の歴史家が、喜びそうですね」
「日本にも、歴史家はいるの?」
「大勢」
「面倒ね」
「非常に」
◇
夕方、会談は終わった。
港へ戻っていく榊の一行を、アレシナは辺境伯館のテラスから見送った。辺境伯が、隣にやってくる。
「いかがでした?」
「怖いわ」
即答だった。
「でしょう?」
なぜか、辺境伯は嬉しそうだった。
「でも」
アレシナは続けた。
「昨日とは違う」
「何がです?」
「日本という国が」
王女は、沖を見た。白い船、「いわみ」。
「船では、なくなった」
辺境伯は、娘に言われたことをもう一度言われたような顔をした。
「人間になりましたか」
アレシナが、彼を見た。
「あなたの娘にも、言われた?」
「似たようなことを」
「そう」
王女は、再び海を見た。
「なら、たぶん正しいのね」
◇
その夜、アレシナは父へ送る第一報を書いた。
通信魔法では、長い文章は送れない。まずは短文を先に送り、詳細は後で届ける。
その最後に、一文だけ、自分の言葉を付け加えた。
──日本は、極めて強大である可能性が高い。
少し考えてから、次の一文を書く。
──しかし現時点では、我々を臣下として扱う意図は認められない。
さらに迷ってから、もう一文。
──交渉可能な相手と判断する。
書き終えると、アレシナは机の隅に置いた、弟セルディオの質問状を見た。結局、一問も聞けなかった。
「……明日ね」
次の日、日本とヴァレシアは、互いの国名を並べた最初の文書に、署名することになる。