翌朝。リヴァーノ辺境伯館の会議室には、昨日よりも多くの紙が積み上げられていた。
日本側が用意した文案に、ヴァレシア側が作った対案。翻訳AIによる仮訳に、王室書記官による修正文、法務官の注釈。そして、そのすべてに、付箋のような細い紙片が大量に挟み込まれている。
「……昨日より、戦場らしくなりましたね」
リヴァーノ辺境伯が言った。王女アレシナは、紙から顔を上げなかった。
「あなたは、本物の戦場へ行ったことがあるでしょう」
「あります」
「なら、これが戦場に見えないことくらい、分かるはずです」
「剣の代わりに、言葉で刺し合う場所ですぞ」
日本側の榊真綾が、小さく笑った。
「外交官としては、否定しづらいですね」
アレシナが、榊を見た。
「お認めになるのですか」
「ただし、今日は刺し合うより、縫い合わせる仕事です」
「縫う?」
「昨日まで別々だった二つの国の関係を、とりあえず破れない程度に」
翻訳AIは、その比喩を一度そのまま訳しかけてから、『外交的な比喩』と注釈を付けた。
辺境伯が、満足そうに頷いた。
「良い言葉ですな」
「覚書の本文には入れませんよ」
◇
文書の名称からして、すでに揉めていた。
日本側の提案は、こうだった。
『日本国政府とヴァレシア王国政府との間の暫定友好及び連絡に関する覚書』
それに対するヴァレシア側の仮訳は、こうだ。
『日本国政府とヴァレシア王冠との間における当座の友誼ならびに使者往来に関する確認文書』
「“政府”という語が、二回とも消えていますね」
日本側の国際法担当が言った。王室の法務官が答える。
「“王国政府”という言葉が、我々には少々不自然なのです」
「なぜです?」
「王国を統治しておられるのは国王陛下であり、その下に諸官がおります。これでは、政府が国王とは別に存在するようにも読めてしまう」
日本側の国際法担当は、額を押さえた。
「なるほど」
逆に、ヴァレシア側が苦労した言葉もあった。
「“暫定”というのは」
アレシナが尋ねた。
「単に“仮の”という意味だけではないのですね?」
「はい」
榊が答えた。
「現在必要な取り決めを、先に作っておく。ただし、それを永久の最終形とはしない、という意味です」
「つまり、約束はしているけれど、将来改めることも前提にしている、と」
「その通りです」
「便利な言葉ね」
「外交では、非常に」
「昨日から、便利な言葉が多すぎません?」
「外交ですので」
◇
最終的に、日本語の正文の題名はこうなった。
『日本国政府とヴァレシア王国王政府との間の暫定友好及び連絡に関する覚書』
そして、ヴァレシア語の正文はこうだ。
『日本国の政府とヴァレシア王冠を代表する国王政府との当座の友誼・連絡確認書』
完全な直訳ではなく、双方の制度に合わせた名称を、互いに認めることになったのである。
「正文が、二つあるのですか?」
辺境伯が聞いた。
「はい」
「内容が食い違ったら、どうなるのです?」
日本側の国際法担当とヴァレシア側の法務官が、ほぼ同時に答えた。
「協議します」
二人は、思わず互いの顔を見た。アレシナが笑う。
「そこは、同じなのね」
◇
だが、問題は題名ではない。中身だった。
第一の柱は、相互の平和的な意思である。日本側の案は、こうだった。
『両政府は、相互の関係を平和的手段により発展させ、武力による威嚇または武力の行使を原則として行わない』
ヴァレシア側が引っかかったのは、「武力による威嚇」という言葉だった。
「軍を国境に置くだけでも、威嚇になるのか?」
近衛隊長が尋ねた。
「状況によります」
「では、軍事演習は?」
「状況によります」
「また、便利な言葉ね」
アレシナが言うと、榊は肩をすくめた。
「便利なのではなく、世界が複雑なのです」
最終的に、この部分は「相手方に政治的意思を強制する目的で、武力または武力行使の明示的な脅しを用いない」という、より具体的な表現に改められた。
アレシナは、その一文を何度も読み返した。A国の外交を知る者にとって、それは決して軽い文章ではなかった。
◇
第二の柱は、相互の統治領域の尊重である。
「“領土”ではないのですか?」
アレシナが尋ねた。
「現時点では、境界の全体像が確認できていないからです」
日本側の法務担当が答えた。
「日本側でも、転移後の海域の境界について、まだ測量を続けている最中なのです」
「国境が、分からない?」
「正確な海上の境界は、まだです」
アレシナは、少し意外そうな顔をした。
「日本ほど測量ができても?」
「だからこそ、確認できていないものを、勝手に確定させないのです」
昨日も、一昨日も、日本人は同じだった。分からないことは、分からないと言う。
「ヴァレシア側も、同意します」
王女は答えた。
「ただし、これは日本の船が我が国の港へ自由に入れる、という意味ではありません」
「もちろんです」
「逆も?」
「同じです」
◇
第三の柱は、外交使節と公的な訪問者の安全だった。ここは、意外なほど早く決まった。
互いの政府が正式に認めた使節に対して、故意の拘束、暴行、財産の略奪、不当な妨害を行わないこと。そして、必要な警備を提供すること。
ただし、問題が一つあった。
「その使節が、罪を犯した場合は?」
リヴァーノ辺境伯の騎士が尋ねた。
「重要なご指摘です」
日本側の国際法担当が、即座に答えた。
「ただ、今日の文書では、外交特権の詳細までは定めない方がいいでしょう」
「外交特権?」
「外国の使節を、受け入れる国の普通の人とまったく同じようには扱わない、という制度です」
騎士の眉が寄った。
「罪を犯しても、裁かれないと?」
「それほど単純な話ではありません」
「しかし──」
「そこは、次の協議に回しましょう」
榊が手を上げた。アレシナも頷く。
「賛成です」
辺境伯が、紙に何か書き込んだ。
「質問が、一つ追加ですな」
「だから、あなたは当事者ですよ」
娘が言った。
◇
第四の柱は、海難救助である。
この議題のために、ガルディオが珍しく正式な会議に呼ばれていた。
「なんで、俺が?」
「最初に、海で日本人と会ったでしょう」
ネリオが答えた。
「それだけで、王国間の文書に口を出すのか?」
「海難救助の実務が分かる人間が必要なんです」
「なら、最初からそう言え」
日本側の案は、簡単なものだった。遭難した船、漂流者、急病人、海上の災害について、互いに可能な範囲で救助を行う。
「“可能な範囲”?」
ガルディオが文面を読んだ。
「無理なら見捨てても、約束違反じゃないってことか?」
「救助する側まで沈むような状況で、救助を義務にすることはできませんから」
日本側の海上保安担当が答えた。ガルディオは、数秒黙った。
「……まともだな」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
ただ、この条項には誰も反対しなかった。
帆を使う者も、機械で海を渡る者も、海で人を助けることの意味だけは、説明する必要がなかった。
◇
第五の柱は、検疫と、疾病に関する情報の共有である。ここも、話は早かった。
むしろ、ヴァレシア側からより厳しい案が出された。
「未知の病が疑われる場合には、港への上陸を拒否できると明記したいのです」
ルメリア教の聖職者が言うと、日本側の医療担当が即答した。
「賛成です」
辺境伯が驚いた。
「自国の民が、上陸を拒否される可能性がありますぞ」
「当然です」
「お嫌ではないのですか?」
「嫌でも、感染症は止まりませんから」
この数日で、聖職者と医療担当は妙に仲良くなり始めていた。互いの医学の体系はまったく違う。だが、「政治的な見栄のために病気を隠す者は信用しない」という一点で、二人の考えは完全に一致していたのだ。
◇
第六の柱は、問題の軍事活動についてだった。ヴァレシア側の案は、こうだ。
『双方は、相手方の領域へ、許可なく武装兵力を進入させない』
ここで、日本側が待ったをかけた。
「“武装兵力”の定義を、確認させてください」
「兵士のことでは?」
近衛隊長が尋ねた。
「海上保安官は、どうなりますか?」
「兵士ではない、と?」
「日本の法律の上では、軍ではありません」
「だが、武器を持っている」
「はい」
「では、どうなるのだ?」
室内が静まり返った。まさに「いわみ」そのものの問題だった。軍艦ではない。だが、武装している。
「軍事組織に限らず、政府の管理下にある武装部隊を対象にしましょう」
日本側の安全保障担当が提案した。
「警備隊も、含まれるのか?」
「含みます」
「辺境伯の私兵は?」
騎士が尋ねた。
「それは、政府の管理下にあるのですか?」
今度は、ヴァレシア側が黙り込む番だった。
封建制度の下にある地方軍、王軍、都市の警備隊、貴族の軍、傭兵──日本側の分類とは、まったく噛み合わない。
榊が、少し笑った。
「ここにも、世界の違いが出ますね」
最終的に、条文は「相手方が、組織的な武力と合理的に認識する部隊」という文言に落ち着いた。双方の法務担当者が、そろって不満そうな顔をする程度には曖昧な表現だった。
「これで、よいのですか?」
アレシナが尋ねると、榊は答えた。
「完璧な文書を作っているあいだに事故が起きるよりは、ずっと良いでしょう」
アレシナは頷いた。
「分かりました」
◇
そして、最も長く議論が続いたのが、第七の柱──交易と技術についてだった。
日本側は、交易そのものは禁止しない。しかし当面は、政府の許可制とすることを求めた。
「商人には、嫌われますな」
辺境伯が言った。
「日本側の商人にも、嫌われます」
榊が答える。
「日本にも、商人がいるのですか?」
「大勢」
「もう、こちらの品を買いたがっていると?」
「現地のお酒を調べている企業なら、すでにあります」
ガルディオが、勢いよく振り向いた。
「ほら見ろ!」
「ですから、まだ輸入の許可は出ていません」
日本側の担当官が言った。
「何だ」
ガルディオは、露骨に肩を落とした。
◇
だが、笑い話では済まない部分もあった。
「農業の技術」
ヴァレシアの財務官が言った。
「医療の技術」
聖職者が言う。
「造船」
辺境伯が言う。
「通信」
王室外交官が言う。
「魔法研究のための機器」
宮廷魔術師が言う。
日本側は、そのすべてについて、即答を避けた。
「では、何なら渡せるのです?」
アレシナが尋ねた。
「まず」
日本側の経済・技術担当が答えた。
「知識そのものを、危険度と社会への影響によって分類します」
「例えば?」
「手洗いの方法」
「それは、すでに知っています」
「では、より精密な感染経路の管理」
「それは?」
「比較的、低リスクです」
「抗菌薬は」
「中から高」
「発電機は」
「高」
「農業用の肥料は」
「種類によっては、高」
「工作機械は」
「非常に高い」
「武器は」
「原則として、提供しません」
「あなた方の観測装置は?」
宮廷魔術師が、横から尋ねた。
「物によります」
「魔力を測るものは」
「……現在、開発中です」
「では、完成したら」
「検討します」
アレシナが、ため息をついた。
「何を聞いても、“検討します”ね」
榊が笑った。
「覚えておくと、便利な日本語ですよ」
◇
昼を過ぎて、ようやく本文がまとまった。
正式な同盟ではない。国交を樹立する条約でもない。関税も、大使館も、通貨の交換も、犯罪人の引渡しも、外交特権も、まだ何一つ決まっていない。
それでも、七つの柱ができた。平和、統治領域の尊重、使節の安全、海難救助、検疫、無断での武力進入の禁止、そして交易と技術移転に関する協議の継続。
そして最後に、一文が置かれた。
『双方は、恒常的な外交関係の樹立を目的として、協議を継続する』
◇
「これで」
アレシナが尋ねた。
「国交を結んだことになるのですか?」
「まだです」
榊が答えた。
「では、これは何なの?」
「国交を結ぶために、正式に話し続けると約束した、ということです」
「……やはり、外交というのは妙なものですね」
「よく言われます」
◇
署名式は、大げさにしない方針だった。
だがリヴァーノ辺境伯は「歴史的な日ですぞ」と主張し、王室側も「国王特使が署名する以上、最低限の儀礼は必要」と主張した。日本側もまた、「後世に残る公文書なので、記録は必要」と主張した。
その結果、式は十分に大げさなものになった。
◇
午後三時三十分、辺境伯館の大広間。
ヴァレシア王国の国旗、日本国旗、王室旗、そしてリヴァーノ辺境伯の旗が並べられた。
日本側は最初、辺境伯の旗まで並ぶことに少し戸惑った。だが、アレシナが説明した。
「この地で、最初の接触を成立させた領主ですから」
榊は、すぐに頷いた。
「では、並べましょう」
辺境伯は、その場の誰よりも嬉しそうな顔をした。娘が小声で言う。
「顔に出ています」
「何がだ」
「全部です」
◇
机の中央には、日本語とヴァレシア語、二つの正文が置かれていた。その脇には、参考として作られた双方の対訳版もある。
先に、アレシナが席に着いた。その向かいに、榊真綾が座る。現役の王女と、元内親王だ。
「変な縁ですね」
アレシナが小声で言った。
「何がです?」
榊が聞き返した。
「この文書に最初に名前を書くのが、この二人だということが」
「ああ」
榊は微笑んだ。
「確かに」
「歴史家が喜ぶ、のでしたっけ」
「ええ」
「嫌ですね」
「慣れますよ」
「慣れたくありません」
◇
まずは、ヴァレシア式の署名だった。
アレシナは羽根ペンを黒いインクに浸し、国王特使として「アレシナ・ヴァレシア」と署名した。押されたのは王璽ではなく、国王特使の印だ。そして、封蝋が施される。
次は、日本式だった。電子署名は別途記録されるが、この場では、榊は万年筆型の筆記具を手に取り、紙の上にはっきりと「榊真綾」と書いた。
アレシナが、その文字を見つめた。
「美しい文字ですね」
「昔、相当練習させられましたから」
「王族の教育で?」
「その名残です」
二人は、一瞬だけ笑い合った。
◇
最後の署名が終わると、双方の法務確認、時刻の記録、証人の署名、そして文書の交換が行われた。
榊が立ち上がり、アレシナも立ち上がった。
本来なら、ここで握手をするところだ。だが、検疫上の制限は、まだ完全には解除されていない。
一瞬、二人は互いの顔を見た。
「残念ですね」
アレシナが言った。
「何がです?」
「日本式なら、こういうときは手を握るのでしょう?」
「よくご存じですね」
「勉強しましたから」
榊は少し考え、右手を胸の前に添えて、軽く一礼した。アレシナも、ヴァレシア式に右手を胸に当て、頭を下げる。
違う国の、違う礼が、同時に交わされた。
◇
外で、鐘が鳴った。
辺境伯の命令ではない。いや、正確に言えば、辺境伯が「正式な文書が成立したら知らせよ」と言っていたので、半分くらいは彼のせいだった。
街の人々が、顔を上げた。
「決まったのか?」
「日本と?」
「戦争じゃないよな?」
「友好だってさ!」
「何が決まったんだ?」
「知らん!」
まだ誰も、その内容を正確には知らない。だが、話し合いが成功した──その一点だけで、リヴァーノの街には小さな安堵が広がっていった。
◇
同じころ、「いわみ」の艦橋。
「署名、成立しました」
通信担当が言った。三浦が画面を見る。正式な電文だった。
『日本国政府・ヴァレシア王国王政府間、暫定友好及び連絡覚書、現地時刻十五時四十二分成立』
「これで、友好国ですか?」
神谷が言った。
「まだ、そこまで単純じゃない」
三浦が答えた。高瀬が、温かい飲み物を一口すすった。
「でも」
「ん?」
「少なくとも、いきなり撃ち合う相手ではなくなりましたねぇ」
三浦は、窓の外を見た。
「それで、十分だ」
ほんの十日あまり前まで、この海の向こうに誰がいるのかすら知らなかった。
それが今日、互いに勝手に軍を入れないこと、遭難者を助けること、病気の情報を隠さないこと、そして話し合いを続けることを、紙に書き記したのだ。
十分すぎるほどの進歩だった。
◇
だが、王女アレシナは、署名式の後、榊と並んで窓の外を眺めながら、別のことを考えていた。
「真綾」
「はい」
「一つ、確認してもいい?」
「どうぞ」
「この文書は、他の国にも知られることになるのかしら」
「いずれは」
「隠せませんよね」
「隠す理由も、あまりありません」
アレシナは、遠くを見つめた。この海とは逆の方角、西──大陸の内側を。
「A国は」
「はい」
「これを、どう見るでしょう」
榊は、すぐには答えなかった。
「分かりません」
「怖がるかしら」
「その可能性はあります」
「怒るかしら」
「それも」
「ヴァレシアが、日本に近づいた、と」
「そう見る国も、あるでしょう」
アレシナは、少し笑った。
「やっぱり、紙一枚でも、政治は変わるのね」
「紙だからこそ、変わることもあります」
◇
同じころ、リヴァーノ港を離れていく一隻の商船があった。
行き先は北。途中で、B国の商人が多く集まる港に立ち寄る。船倉には、穀物と酒と染料が積まれていた。
そして乗客の一人が、リヴァーノで見聞きしたことを、すでに手紙に書き記していた。
──東海の向こうに、日本なる国あり。
──帆なき白船を持つ。
──人口八千三百万を称す。
──王女殿下、日本国代表と、友好の文書に署名。
噂は、もはや噂だけではなくなった。ヴァレシア王国は、日本という存在を、公的な文書に記したのだ。
それはこの世界にとって、日本が初めて外交上の現実となった瞬間だった。