2330年日本国、異世界へ   作:水野芽生

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第16話:値札のついた噂

 

 ベルカディア商王国の首都ルヴェナでは、情報にも値札が付く。

 

 穀物の相場、海上保険、港湾の封鎖、疫病、王位の継承、海賊、戦争──誰よりも早く知れば、それだけで金になる。

 

 そして、金になる情報ほど、最初はたいてい噂の姿をしてやって来るものだった。

 

 ◇

 

「また、リヴァーノです」

 

 コルヴァン商会ルヴェナ本店、海運情報室。午前六時三十二分。

 

 若い書記官が、細長い通信紙を一枚持って駆け込んできた。

 

「何が?」

 

 ミレイア・コルヴァンは、朝食代わりの固いパンをかじりながら答えた。

 

 三十四歳、平民。大商会コルヴァン商会で、海運と情報の調整を担う責任者だ。若いころは自分でも商船に乗っていた。今では船より机に向かっている時間の方が長いが、船乗りの癖だけは抜けていない。食事が速く、眠れるときに眠る。そして、怪しい話ほど、一度では捨てない。

 

「東海の白船です」

 

「まだ続いてるの?」

 

「はい」

 

「今度は何?」

 

 書記官が読み上げた。

 

「帆なし。櫂なし。煙なし。推定百歩級。三十人ほどで運用」

 

「前にも聞いた」

 

「魔法を使わずに動く」

 

「それも聞いた」

 

「風がない状態で、停止位置を維持」

 

 ミレイアの顎が止まった。

 

「そこ」

 

「はい?」

 

「もう一度」

 

「風がない状態で、海上の一定の位置を、長時間維持した、と」

 

「錨は?」

 

「不明です」

 

「潮の流れは」

 

「ありました」

 

「誰が見たの」

 

 書記官は、別の紙に目をやった。

 

「リヴァーノ港務所の職員。コルヴァン商会リヴァーノ支店の店員が二名。現地の船主が三名」

 

「全員、同じ場所から?」

 

「別々です」

 

「時間は?」

 

「二日にまたがっています」

 

 ミレイアは、パンを置いた。

 

「白船の存在は、“確実”に引き上げる」

 

 書記官が記録を取る。

 

「これまでは“高確率”でしたね」

 

「今ので十分よ」

 

「“魔法なし”の方も?」

 

「そっちは、まだ“高確率”」

 

「なぜです?」

 

「魔法を使っていないかどうかを、素人がどうやって見分けるの?」

 

「なるほど」

 

「魔術師の証言は?」

 

「あります」

 

 書記官は、別の紙を差し出した。

 

「リヴァーノ魔術師ギルド所属の航海魔術師、ファルネ。船内の主要な機構から、既知の魔力反応を確認できず」

 

「誰?」

 

「最初に白船へ乗った現地人の一人です」

 

 ミレイアは数秒、黙り込んだ。

 

「……“魔法なし”も、確度を上げる」

 

 ◇

 

 ベルカディアの商人は、噂を信じない。だが、噂を無視するわけでもない。

 

 証言が一つなら、酒場の話。二つなら、偶然。三つなら、確認に値する。そして、五つの独立した情報源が同じことを言うのなら、それはもう、商売の上では事実として扱う価値があるのだ。

 

 ◇

 

「人口、八千三百万」

 

 次の情報に、ミレイアは眉をしかめた。

 

「そこは、まだ信用しない」

 

「でも、複数の報告で──」

 

「複数の報告が、同じ日本人の発言を聞いただけなら、情報源は一つよ」

 

「日本側、ということですか?」

 

「そう」

 

「嘘の可能性が?」

 

「ある」

 

「誤訳は?」

 

「ある」

 

「数字の体系が違う可能性は?」

 

「ある」

 

「全部、本当だったら?」

 

 ミレイアは、書記官を見た。

 

「だから、調べるのよ」

 

 ◇

 

 午前八時。さらに一報が届いた。

 

 今度は、リヴァーノのコルヴァン商会支店から、優先符号付きの通信だった。その内容を読んだミレイアは、椅子から立ち上がった。

 

「誰が署名したの?」

 

「支店長です」

 

「原本の確認は」

 

「済んでいます」

 

「現地の王室筋は?」

 

「一致しています」

 

「辺境伯府は?」

 

「一致しています」

 

「日本側は?」

 

「直接の確認はできていません」

 

「十分よ」

 

 紙には、こう記されていた。

 

『ヴァレシア王国国王特使アレシナ王女、日本国政府特別代表と暫定友好・連絡文書に署名』

 

 ミレイアは、その一文を三度読み返した。

 

 帆のない船。魔法なし。八千三百万。空を飛ぶ。百歳まで生きる。月へ行く──そのすべてが、昨日まではまだ、巨大な噂の塊にすぎなかった。

 

 だが、王女が国王の名代として、公文書に署名したとなれば、話は別だ。

 

「政府に売るわ」

 

 書記官が顔を上げた。

 

「もうですか?」

 

「今すぐ」

 

「価格は?」

 

 ミレイアは笑った。

 

「高く」

 

 ◇

 

「国家に売りつけるんですか」

 

「国家だから、高く売るのよ」

 

「愛国心は?」

 

「あるわよ」

 

「なら、安く」

 

「国は払えるもの」

 

「……理屈が、商人ですね」

 

「商人だもの」

 

 ◇

 

 ルヴェナは、人口二十五万の都市である。

 

 巨大な天然の湾の奥に河口があり、内港と外港が広がっている。倉庫、商館、造船所、王宮、そして無数の帆柱。朝から数百隻の船が出入りし、埠頭では荷役夫が叫び、商館では為替表が書き換えられ、保険業者たちが昨日沈んだ船をめぐって争っていた。

 

 ヴァレシアスが王国を統べる首都だとすれば、ルヴェナは、世界そのものを値段に変える都市だった。

 

 ◇

 

 その都市の中央、王宮と商会館の中間に、王冠評議会の庁舎がある。午前十時十三分。

 

「高いな」

 

 フェルディオ四世は言った。

 

 五十八歳。ベルカディア商王国の国王である。その目の前には、コルヴァン商会から提出された情報の価格が置かれていた。

 

「陛下」

 

 ミレイアが答えた。

 

「内容をお読みになってから、おっしゃってください」

 

「読む前だから、言えるのだ」

 

「お読みになった後は、もっと高いとお感じになるかもしれません」

 

「それは困るな」

 

 隣では、宰相兼首席商務卿のオルシア・ヴァレンティが、冷ややかな目で二人を見ていた。

 

「国家の緊急情報の値切り交渉を、私の前で始めないでいただけます?」

 

「余は、買う側だ」

 

「私は、売る側です」

 

「お二人とも、黙ってください」

 

 オルシアは四十九歳。ベルカディア最大級の金融・海運一族の出身で、数字を見ると機嫌が良くなり、根拠のない形容詞を見ると機嫌が悪くなる。

 

 今の彼女は、機嫌が良くなかった。

 

「まずは、情報を」

 

 ◇

 

 ミレイアが資料を開いた。

 

「リヴァーノ東方の海域に未知の船が存在することは、確実と判断します」

 

「根拠は」

 

「独立した十七の情報源です」

 

「同じ噂を書き写しただけのものでは?」

 

「除外済みです」

 

「船の形は」

 

「百歩前後。白色。帆、櫂、外輪はなし」

 

「乗員は」

 

「三十名前後との現地報告があります」

 

「大きさの割に、少なすぎる」

 

 フェルディオが言った。

 

「はい」

 

「魔法は」

 

「既知の魔力による駆動は、確認されていません」

 

 オルシアが眉を寄せた。

 

「“既知の”」

 

「重要な点ですので、残しました」

 

「よろしい」

 

「速度は」

 

「正確な測定はありません。ただし、現地の帆船より著しく高速です」

 

「十ノット?」

 

「それ以上の可能性があります」

 

「二十?」

 

「可能性はあります」

 

「海流と追い風込みでか?」

 

 会議室の奥で、一人の男が初めて口を開いた。

 

 ヴァルド・セレク。五十六歳。ベルカディア王立海軍の総司令で、子爵の位を持つ。もとは平民の船乗りだった男だ。

 

「帆がありません」

 

 ミレイアが答えた。

 

「それは聞いている」

 

「向かい風の中でも進んだ、という報告があります」

 

 セレクは、黙り込んだ。

 

「旋回の性能は」

 

「高いようです」

 

「停船は」

 

「風と潮の流れの中で、長時間、ほぼ同じ位置を維持しています」

 

「錨は」

 

「使用は確認されていません」

 

「なるほど」

 

 セレクは、椅子の背にもたれた。

 

「船だけに関して言えば、本物らしいな」

 

 ◇

 

 フェルディオが、紙をめくった。

 

「日本」

 

「国号とされています」

 

「人口、八千三百万」

 

「未確認です」

 

「ヴァレシアの四十倍以上か」

 

「はい」

 

「我が国の、十倍近い」

 

「はい」

 

 国王は、オルシアを見た。

 

「どう思う」

 

「人口だけなら、意味はありません」

 

「出たな」

 

「何がです?」

 

「お前が、人口の話をしているのに人口を無視するときの顔だ」

 

「無視はしていません」

 

 オルシアは、資料を手元に引き寄せた。

 

「仮に八千三百万人がいるとして、その人間たちが何を食べているのか」

 

「穀物だろう」

 

「どれだけの量を」

 

「余に聞くな」

 

「輸送は?」

 

「知らん」

 

「都市の人口は?」

 

「知らん」

 

「道路網は?」

 

「知らん」

 

「食料の備蓄は?」

 

「知らん」

 

「なら、人口八千三百万というだけでは、何も分かりません」

 

「リヴァーノ側の会談記録によれば」

 

 ミレイアが口を挟んだ。

 

「通常時には、大規模な飢饉はほとんどない、と」

 

 オルシアが止まった。

 

「出典は」

 

「日本側の使節の回答を、リヴァーノ側が記録したものです」

 

「確度は」

 

「中程度」

 

「他には」

 

「国民のほぼ全員が、読み書きできる」

 

「確度」

 

「中程度」

 

「平均寿命、百歳超」

 

「中程度」

 

「大きな都市は、数千万規模の都市圏を持つ」

 

「中程度」

 

「空を飛ぶ機械」

 

「目撃情報はまだで、伝聞が複数あるのみ。低から中程度」

 

「月へ行く」

 

「日本側の申告のみ。低」

 

 オルシアは、しばらく何も言わなかった。

 

「仮に」

 

「はい」

 

「その半分だけが本当だったとしても」

 

「はい」

 

「物流の能力は、我が国とは比べものになりません」

 

 フェルディオの顔から、笑みが消えた。

 

「やはり、そこか」

 

「私は、軍艦を見る前に倉庫を見ます」

 

「お前らしい」

 

「八千三百万もの人間を、平時に飢えさせずに維持できる国なら」

 

 オルシアは言った。

 

「兵士を何人持っているかより、その兵士に何をどれだけ届けられるかの方が、問題です」

 

 ◇

 

「軍事面は」

 

 国王が、セレクを見た。

 

「どう見る」

 

「情報不足です」

 

「それで終わりか?」

 

「終わりません」

 

 提督は、「いわみ」の概略図に目を落とした。

 

「ベルカディアにも、百歩級の船はあります」

 

「そうだな」

 

「だから、船体の寸法はどうでもいい」

 

「ほう」

 

「重要なのは、三十人前後という点です」

 

 提督は、図面を指した。

 

「帆を扱う作業がないとしても、少なすぎる」

 

「機械が仕事をする、と言っていたな」

 

「それも重要です」

 

「速度は」

 

「帆走船の発想で、追いかけるべきではありません」

 

「武装は」

 

「前方に、小型の砲らしきものが一門」

 

 国王が、少し笑った。

 

「それなら、我が国の大型軍艦の方が、火力は上だな」

 

「陛下」

 

 セレクは、まったく笑わなかった。

 

「この船は、軍艦ではないそうです」

 

 部屋が静まり返った。

 

「ヴァレシア側の報告では、日本の海上治安組織に所属する船だと」

 

「確認は取れているのか」

 

「日本人自身が、そう説明したそうです」

 

「嘘かもしれん」

 

「はい」

 

「なら──」

 

「嘘でなければ、もっと悪い」

 

 フェルディオは、提督を見た。

 

「なぜだ」

 

「軍艦は、別にあるということだからです」

 

 短い答えだった。

 

「沿岸警備の船が、百歩で、三十人で、帆がなく、高速」

 

 セレクは、紙を置いた。

 

「これを見て“我が海軍の方が大砲が多い”と安心するような者がいたら、そいつは艦隊の指揮から外してください」

 

「余が、安心しているように聞こえたか?」

 

「陛下は、時々わざと馬鹿なことをおっしゃいますので」

 

「私は、それが嫌いです」

 

 オルシアが横から言った。

 

「余もだ」

 

 ◇

 

「それで」

 

 国王が言った。

 

「ヴァレシアは、何をした」

 

 ミレイアが、最後の文書を置いた。

 

「これです」

 

 王女アレシナと、日本政府の特別代表による、暫定友好・連絡覚書。

 

「内容は」

 

「相互の非敵対」

 

「うむ」

 

「統治領域の尊重」

 

「うむ」

 

「使節の安全」

 

「うむ」

 

「海難救助」

 

「うむ」

 

「検疫」

 

「うむ」

 

「無断での武力進入の禁止」

 

「うむ」

 

「交易と技術移転は、継続して協議」

 

「うむ」

 

 フェルディオの指が止まった。

 

「最後は」

 

「恒常的な外交関係の樹立を目的として、協議を継続する」

 

「つまり」

 

 オルシアが言った。

 

「ヴァレシアは、先に席を取ったということです」

 

「そういうことです」

 

 ミレイアが答えた。

 

 ◇

 

 国王は、椅子に深く座り込んだ。

 

「日本が本当に存在するかどうか、という会議は、これで終わりだな」

 

 誰も、反論しなかった。

 

「正確に言えば」

 

 オルシアが言った。

 

「日本側の自己申告がどこまで本当なのかは、まだ検証が必要です」

 

「それは当然だ」

 

「ただし」

 

「日本という政治主体と、高度な未知の船が存在することは?」

 

「事実として扱います」

 

 フェルディオは頷いた。

 

「それでいい」

 

 ◇

 

「問題は、A国です」

 

 王室の外交担当が言った。その一語で、空気が少し変わった。

 

「向こうも、いずれ知ることになる」

 

 フェルディオが言った。

 

「すでに知っている可能性もあります」

 

 オルシアが言う。

 

「日本へ、先に使節を出しますか?」

 

 外交官が尋ねた。

 

「急いで出せば、どう見える?」

 

「接触に意欲的だ、と」

 

「悪く言えば?」

 

「焦っている、と」

 

「それは嫌だな」

 

「ですが、出遅れる方が嫌です」

 

 オルシアが、即座に言った。

 

「お前は、いつもそうだ」

 

「商業国家ですから」

 

 ◇

 

「軍艦は、出さないでください」

 

 セレクが言った。国王が、彼を見る。

 

「まだ何も言っていないぞ」

 

「先に申し上げておきます」

 

「なぜだ」

 

「向こうの軍事能力が不明だから、というだけではありません」

 

「では」

 

「ヴァレシアの港に我が国の大型艦が突然入れば、日本より先に、ヴァレシアが警戒します」

 

「その通りだ」

 

「さらに、日本の側から見れば」

 

 提督は続けた。

 

「未知の国家の大型武装艦が、自分たちと接触したばかりの国へ、突然近づいてくることになります」

 

「良くないな」

 

「非常に良くありません」

 

「では、何を出す?」

 

「外交使節なら、高速の公船か、ほぼ非武装の大型商船でしょう」

 

「商船?」

 

 ミレイアが、すかさず反応した。

 

「誰の商船です?」

 

 セレクが、彼女を見た。

 

「食いつくな」

 

「商機ですから」

 

「だから、怖いんだ」

 

 ◇

 

 フェルディオが、机を軽く叩いた。

 

「まず、ヴァレシアへ正式に連絡する」

 

「内容は」

 

「日本との接触の成功を、祝う」

 

「はい」

 

「我が国も、日本政府との外交接触を希望する、と」

 

「はい」

 

「そして、ヴァレシア側の主権と、既存の合意を尊重する、と」

 

 オルシアが、ちらりと国王を見た。

 

「そこまで明記なさいますか?」

 

「する」

 

「理由は」

 

「日本に、読まれるからだ」

 

 部屋が静まり返った。

 

「勝手にリヴァーノへ船を送れば」

 

 国王は言った。

 

「ヴァレシアには無礼。日本には横柄。そしてA国には、我々が焦っていると教えることになる」

 

「三方損ですね」

 

「商売なら、やらんだろう」

 

「絶対に」

 

 ミレイアが答えた。

 

「外交でも、同じことだ」

 

 ◇

 

「日本との関係の目的は」

 

 オルシアが尋ねた。

 

「友好ですか?」

 

「当然だ」

 

「交易は?」

 

「当然だ」

 

「軍事協力は?」

 

「まだ早い」

 

「A国への対抗は」

 

「もっと早い」

 

「では」

 

 フェルディオは、少し考えた。

 

「まず」

 

 指を一本、立てる。

 

「日本が、何を欲しがる国なのかを知る」

 

 二本目。

 

「何を恐れる国なのかを知る」

 

 三本目。

 

「何を売る気があるのかを知る」

 

 四本目。

 

「何を絶対に売らないのかを知る」

 

 そして、五本目。

 

「A国に行かれる前に」

 

 国王は笑った。

 

「ベルカディア人の顔くらいは、覚えてもらう」

 

 オルシアが頷いた。

 

「妥当です」

 

 ◇

 

「交易については」

 

 ミレイアが言った。

 

「民間の接触を先に認めていただければ──」

 

「駄目です」

 

 オルシアが即答した。

 

「まだ最後まで言っていません」

 

「言う前から分かります」

 

「日本側が買いたがる商品を、調べるだけです」

 

「お酒でしょう」

 

「お酒も」

 

「香辛料」

 

「それも」

 

「魔法用品」

 

「もちろん」

 

「魔法用品、か」

 

 国王が反応した。

 

「売れると思うか」

 

 ミレイアは、少し笑った。

 

「魔法を知らなかった国なのでしょう?」

 

「そう聞いている」

 

「なら」

 

 その目が、商人の目になった。

 

「我々にとってありふれたものが、向こうでは、世界で初めての商品になるかもしれません」

 

「逆も、成り立ちます」

 

 オルシアが、即座に返した。ミレイアの笑みが、少し消える。

 

「日本人にとってありふれたものが」

 

「はい」

 

「我々の商業を、壊してしまうかもしれない」

 

「その通りです」

 

 オルシアは、淡々と言った。

 

「交易は、宝箱ではありません。洪水にもなり得るのです」

 

 ミレイアは、数秒考えた。

 

「だからこそ、最初に見ておく価値がある」

 

「その点は、同意します」

 

 ◇

 

 昼前、会議は一度休憩に入った。

 

 フェルディオ四世は、窓際へ歩いていった。

 

 眼下にはルヴェナの港が広がっている。数百の帆、船、倉庫──ベルカディアの力そのものだ。海を使い、情報を使い、金を使って、この国は大国の隙間で生き延びてきた。

 

 その東、さらに海の向こうに、突然、見たこともない国が現れたのだ。

 

「陛下」

 

 セレクが、隣にやってきた。

 

「何だ」

 

「日本が、本当に月まで行く国なら」

 

「うむ」

 

「我々の海軍は」

 

 少し間を置いて、提督は言った。

 

「おそらく、比べる意味がありません」

 

 フェルディオは、笑わなかった。

 

「怖いか?」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

「それでも、接触すべきか?」

 

「はい」

 

「なぜだ」

 

「海で」

 

 提督は、港を見下ろした。

 

「正体不明の船を見つけたとき、一番危険なのは」

 

「何だ」

 

「見えないふりをすることです」

 

 フェルディオは、頷いた。

 

「同感だ」

 

 ◇

 

 午後、ベルカディア王冠政府から、ヴァレシア王国へ、優先の外交通信が送られた。内容は、簡潔なものだった。

 

『日本国との平和的接触の成立を、祝意をもって受け止める』

『ベルカディア商王国は、ヴァレシア王国と日本国との既存の合意を尊重する』

『我が国もまた、日本国政府との平和的な外交接触を希望する』

『そのための使節派遣について、ヴァレシア王国政府と事前に協議したい』

 

 その文面を確認したオルシアは、一文だけ付け加えた。

 

『本件については急を要するが、礼を失するほどには急がない』

 

 フェルディオが、それを読んだ。

 

「これは、必要か?」

 

「陛下への戒めです」

 

「文書に書くな」

 

「では、削ります」

 

 ◇

 

 同じころ、コルヴァン商会では、ミレイアが部下たちに命令を出していた。

 

「リヴァーノから入る日本関連の情報は、全部優先して」

 

「全部ですか?」

 

「酒場の話までよ」

 

「信頼度が──」

 

「それは、こっちで仕分ける」

 

「日本が欲しがりそうな商品は?」

 

「調べて」

 

「候補は」

 

「魔法用品、薬草、香辛料、染料、美術品、書物、鉱石」

 

「食料は」

 

「当然」

 

「お酒は」

 

「最優先」

 

「やっぱり」

 

「ただし、勝手に売らないこと」

 

 書記官が、驚いた顔をした。

 

「珍しいですね」

 

「珍しい?」

 

「真っ先に売りに行きそうなのに」

 

「相手は、月へ行くかもしれない国よ」

 

「はい」

 

「最初の商談くらい」

 

 ミレイアは笑った。

 

「ちゃんと、相手の財布を見てからにするわ」

 

 ◇

 

 夕方、ルヴェナの港から、一隻の高速商船がリヴァーノ方面へ向けて出港した。

 

 積み荷は、いつも通りだ。布、金属製品、書類、そして商業通信。

 

 だが、船長に渡された指示書には、これまで存在しなかった一語が記されていた。

 

 ──「日本」。

 

 数日前まで、ベルカディアでその名を知る者は、ほとんどいなかった。

 

 今日、王宮が知った。商会が知った。海軍が知った。銀行家たちも、知り始めている。明日には、市場が知ることになるだろう。

 

 そして商業国家というものは、市場が何かを知った瞬間から、もう元には戻れない。

 

 ベルカディア商王国は、日本という存在を、新しい世界の噂としてではなく、新しい取引相手として──そして、国家戦略上の新たな現実として、帳簿に書き込んだのである。

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