ヴァルガニア帝国の首都グラディオルには、海がない。
巨大な河川はある。運河もある。何百隻もの河船が行き交い、穀物や石材、鉄、木材、そして人間を運んでいる。だが、水平線はない。潮の匂いもない。港町の人間が持っている、海の向こうへの感覚も薄い。
だから、東の果ての港町で起きた出来事も、最初のうちは、グラディオルでは遠い海の噂にすぎなかった。
◇
「人口、八千三百万」
皇帝レオグラード五世は言った。
「一桁、多くないか」
ヴァルガニア帝国の帝都グラディオル、皇宮内の小会議室。午前八時四十分。
机の上には、ヴァレシア方面から届いた報告書が並んでいた。
第一報は、東方の海域に未知の船が出現したこと。第二報は、その船員との接触に成功したこと。第三報は、国号が「日本」、人口が八千三百万であること。そして第四報は、ヴァレシアの王女アレシナが、日本政府の代表と、友好と連絡に関する文書に署名したこと。
しかもその日本は、別の世界から国土ごと現れた可能性がある、と主張しているという。
「私も、最初にそこを疑いました」
宰相のセルヴァン・デオラスが答えた。五十七歳。官僚として、二十年以上にわたり帝国を支えてきた男である。
「八百三十万なら?」
「まだ大国ではありますが、理解はできます」
「八十三万なら?」
「より自然です」
「八千三百万では」
「ヴァレシアの全人口の、四十倍以上になります」
「我が帝国の、五倍を超える」
「はい」
皇帝は、紙に目を落とした。
「それだけの人口が」
「はい」
「昨日まで、誰にも知られていなかった」
「報告を、文字通りに信じるならば」
「馬鹿な」
その言い方は、静かだった。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。ただ、成り立たない数字を見たときの、官僚の顔だった。
「翻訳の問題だろう」
レオグラードは言った。
「可能性はあります」
セルヴァンも、否定はしなかった。
「現地の言葉と日本語とで数詞の体系が異なっていれば、桁を取り違えることは十分に考えられます」
「それでいい」
皇帝は、次の紙を手に取った。
「次だ」
◇
「帆なし」
軍務総監のグラウス・ヴァルヘイン元帥が、報告を読み上げた。六十歳。帝国軍の最高実務責任者である。
「櫂もなし」
「はい」
「外輪もなし」
「はい」
「煙もなし」
「はい」
「百歩級」
「現地の報告では」
「乗員は、三十数名」
「同様です」
グラウスは、鼻を鳴らした。
「ベルカディアだな」
皇帝が顔を上げた。
「理由は」
「船だからです」
「雑だな」
「東海で、ヴァレシア人の知らない新型船を作れる国といえば」
元帥は、指を一本立てた。
「ベルカディア」
二本目。
「ヴァレシア自身の、秘密の計画」
三本目。
「さらに東にある、未知の海洋国」
「日本という名の?」
「その可能性も含めてです」
「魔法を使っていない、とあるが」
皇帝が言った。
「それについては」
会議室の端で、宮廷魔術顧問のエルゼオ・カルディスが口を開いた。六十八歳。帝国でも最高位に数えられる魔術研究者である。
「誤認でしょう」
「断定するのか」
「ほぼ、断定します」
皇帝の眉が、わずかに動いた。
「説明を」
エルゼオは、報告書を開いた。
「百歩級の船体を、帆も櫂も使わずに推進する」
「そうだ」
「風と潮流に逆らって、停止する」
「そうある」
「内部の照明」
「ある」
「冷却」
「ある」
「自動で動く扉」
「ある」
「高速の小艇」
「ある」
「言語を解析する自動の機械」
「あるらしい」
エルゼオは、紙を置いた。
「これらを魔力なしで実現することは、既知の自然理論では説明できません」
「ならば?」
「魔力を使っているのです」
答えは、単純だった。
「ただし」
老魔術師は続けた。
「我々の知る術式とは、異なるものでしょう」
「古代文明か?」
「可能性はあります」
「ベルカディアの新しい体系か」
「それも」
「魔力の隠蔽は?」
「それが、最も現実的です」
レオグラードは頷いた。
筋は通っている。少なくとも、帝国の中では、非常によく。
◇
ただ一人だけ、何も言わない者がいた。
帝国情報院長、リゼル・オルダン。四十六歳。平民の出身で、帝国中から集めた情報を疑い、分解し、比べ合わせて、その中から使えるものだけを残す仕事をしている。
「リゼル」
皇帝が呼んだ。
「はい」
「反対か」
「何に対して、でしょう」
「全部だ」
「全部に反対しているわけではありません」
「では」
リゼルは、資料に目をやった。
「八千三百万は、誤訳かもしれません」
「そうだろう」
「帆のない船は、ベルカディア製かもしれません」
「うむ」
「魔力を隠蔽している可能性もあります」
エルゼオが頷いた。
「異世界という説明は、ヴァレシア側による外交上の演出かもしれません」
グラウスが腕を組んだ。
「なら、問題はないではないか」
「はい」
リゼルは答えた。
「一つずつであれば」
会議室が、少しだけ静かになった。
◇
「一つずつ、とは?」
セルヴァンが聞いた。
「はい」
リゼルは、紙を並べ始めた。
「一枚目。八千三百万──誤訳」
「二枚目。帆のない船──ベルカディアの試作船」
「三枚目。魔力反応なし──高度な隠蔽術」
「四枚目。日本という未知の国──遠洋の国家」
「五枚目。別の世界から来た──ヴァレシアによる外交的な演出」
「六枚目。月へ行ける──宗教的な比喩か、誇張か、あるいは航海の伝説」
そこまで並べてから、リゼルは皇帝を見た。
「陛下」
「何だ」
「一つの嘘を説明するために」
彼は、指先で六枚の紙を示した。
「我々はもう、六つもの別々の仮説を必要としています」
誰も、すぐには答えなかった。
◇
最初に口を開いたのは、エルゼオだった。
「だからといって、荒唐無稽な説明を採用する理由にはならん」
「同意します」
リゼルが言った。
「では」
「私は、“異世界”を信じているとは申し上げていません」
「なら、何が言いたい」
「説明できない部分を」
情報院長は答えた。
「説明できたことにしない方がよい、と申し上げているのです」
グラウスが笑った。
「情報屋らしい答えだ」
「軍人より長生きするためです」
「言うようになったな」
「元帥が長生きしておられるので、参考にしております」
グラウスの口元が、少しだけ動いた。だが、皇帝は笑わなかった。
「結論を言え」
「日本という政治勢力が存在すること自体は、かなり高い確度で事実です」
リゼルは答えた。
「根拠は」
「独立した情報源が、多すぎます」
◇
帝国情報院が把握している情報源は、十二を超えていた。
ヴァレシアに駐在する使節。帝国系の商人。リヴァーノに入港した商船。東海の漁師。ヴァレシア国内の街道を行く商人。ルメリア教の関係者。魔術師ギルドの関係者。ベルカディア系の商会の動き。そして、ヴァレシア王室の公文書。
「それらがすべて、同じ嘘をついている可能性は」
皇帝が尋ねた。
「あります」
「あるのか」
「ヴァレシアとベルカディアが共同で、大規模な情報工作を行っている場合です」
「目的は」
「帝国に圧力をかけることでしょう」
「十分にあり得る」
グラウスが言った。
「その場合」
リゼルは続けた。
「彼らは、数千人規模の商人、漁師、船員、港湾労働者、聖職者に同じ虚偽を共有させ、存在しない船を見たことにさせ」
一拍、間を置く。
「さらに、王女本人に公文書へ署名させたことになります」
「難しいか」
セルヴァンが言った。
「不可能ではありません」
「またそれか」
「情報の仕事では、“不可能”と言うのを嫌いますので」
皇帝が、初めて少しだけ笑った。
「お前は、便利な男だな」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
◇
その日の午後、新しい報告が届いた。
それは、帝国の誤解を正すための情報ではなかった。むしろ、その逆だった。
◇
リヴァーノの湾内。
ヴァルガニア帝国情報院の協力者の男は、倉庫の二階から東の海を見ていた。表向きは鉱物商。だが実際には、十年以上にわたって帝国へ港湾の情報を流してきた男だ。
望遠鏡の向こうには、白い「いわみ」が浮かんでいる。
その姿にも、もう見慣れ始めていた。見慣れたといっても、理解したわけではない。ただ、何日も同じ場所に浮かんでいれば、人間は怪異にさえ慣れてしまうものだ。
問題は、その朝、別の船がやって来たことだった。
「……帆?」
男は、望遠鏡の焦点を合わせ直した。
帆だった。間違いない。三本の帆柱に帆が張られ、船首が波を切っている。そして船体は、少なくとも外から見る限り、完全な木造の帆船だった。
◇
日本籍の帆走実習船「あさなぎ」。
四九九総トン、三檣バーケンティン型で、全長は六十メートル弱。二十四世紀の日本では珍しい船だ──というより、意図的に珍しく作られた船だった。
主船体は、木でできている。外板も、骨格も、主要な甲板も木材だ。
ただし、そこに使われている木材は、十六世紀の船大工が知っている木とは、同じ植物に由来するという点を除けば、かなり違う。
細胞構造を調整した、高耐久の人工育林材。含水率を長期間安定させる処理に、菌類や虫害、腐朽への耐性加工。樹脂の含浸と積層。内部の応力を制御した曲げ材。接合部には耐食性の複合材が使われ、表面には火災対策の処理が施され、船底には海洋生物の付着を防ぐ透明な皮膜が張られている。
それでも、木は木だった。
日本が海洋文化を保存し、伝統的な造船技術を実際に教えるために、二十四世紀の技術を使って本気で木造帆船を作った──その結果が、この船なのである。
帆索の操作は高度に自動化され、危険な索具の作業は補助機械が支援する。風向、船体の姿勢、帆にかかる荷重は常に計測され、操帆AIが最適な値を提案する。
だが、帆は人が張るし、人の手で扱う。舵もある。帆走の実習船なのだから、帆で走らなければ意味がない。
◇
「日本の船か?」
帝国の協力者は、船尾の旗を見た。白地に、赤い丸。「いわみ」と同じ旗だった。
「……帆船じゃないか」
隣にいた港湾労働者が言った。
「そうだな」
「普通の、帆船だ」
「普通?」
「少なくとも、ちゃんと船の形をしてる」
確かに、それは安心できる形だった。
帆がある。風を受けて傾き、波に上下し、帆を縮め、索具が動く。港に入る前には、水先案内の艇と合流する。
理解できるのだ。
そのことがどれほど強い安心を生むのか、日本人自身は考えてもいなかった。
◇
「あさなぎ」がリヴァーノへ来た理由に、秘密など何もなかった。
ヴァレシアとの暫定覚書が成立した後、日本側は、現地の港での航行、水先案内、帆走の慣習、海図の情報、救難の手順、そして現地の船員たちとの交流を始めることにした。
いきなり巨大な動力船を何隻も入れるより、帆船の方が、互いに分かりやすいだろう──そう考えた。ただ、それだけのことだった。
実際、この船はリヴァーノの船乗りたちに大人気だった。
「木だ!」
「木だな!」
「本当に木だぞ!」
日本人からすれば、かなり失礼な喜ばれ方だった。
◇
だが、ヴァルガニアの協力者にとって、この船の意味は違っていた。
帆のない、巨大で、未知の動力を持つ、理解不能な白い船。その日本が、普通の木造帆船も持っているのだ。
「なるほど」
男は呟いた。頭の中で、世界が少しだけ元に戻っていく。
「やっぱり、そういうことか」
◇
その理解が崩れたのは、一時間後のことだった。
「東に、大型帆船!」
監視塔の鐘が鳴り、港の人々が、また海に目を向けた。今度の船は、「あさなぎ」よりも遥かに大きかった。
◇
四本の帆柱に、白い帆。黒に近い濃紺の船体。船首には、金色の装飾が施されている。
そしてその船体は──鋼でできていた。
◇
「……ベルカディアの船か?」
帝国の協力者の隣で、港湾労働者が呟いた。
「違う」
「なら、A国の?」
「違う」
「じゃあ──」
船尾に、旗が見えた。白地に、赤い丸。
二人とも、黙り込んだ。
◇
日本国の大型帆走練習船、「海王丸七世」。
二十世紀に建造された初代から、その名と役割を受け継いできた七代目の船である。
大型の四檣バーク型で、鋼製の船体の全長は百二十メートルを超える。その帆装の面積は、リヴァーノの船乗りなら見上げただけで首を痛めるほど広い。
船体の材料は、二十四世紀型の耐食高靱性鋼。索具の一部には高分子の複合繊維が使われている。帆は見た目こそ伝統的な帆に近いが、耐候性、形状の保持、荷重の分散性能のいずれをとっても、過去の帆布とは比べものにならない。
船体の内部には、発電と蓄電の設備、自動消火装置、海水の淡水化装置、気象解析装置、医療設備、操帆の補助機構、船体の状態を監視するAI、そして港内で使う補助推進器まで、何もかもが備えられている。
だが海の上では、風があるなら、普通に帆で走る。それが「海王丸七世」という船だった。
◇
その日、リヴァーノ沖の風は良かった。だから「海王丸七世」は、ほぼ全帆に近い姿で現れた。
「……でかい」
港のどこかで、誰かが言った。
それは、「いわみ」を初めて見た日と同じ言葉だった。だが、その意味はまったく違っていた。
「いわみ」は、理解できないから怖い。「海王丸七世」は、理解できる形のまま大きいから怖いのだ。
◇
ヴァレシア海軍の士官たちは、すぐに船乗りの目になった。
「四檣だ」
「鋼の船だぞ」
「大型だな」
「千トンか?」
「もっとある」
「砲門は?」
「見えない」
「商船か?」
「練習船だそうだ」
「……何だと?」
日本側の連絡員が、困った顔で説明した。
「船員を育てるための船です」
周囲が、黙り込んだ。
「これで?」
「はい」
「戦闘用ではないのか?」
「違います」
「貨物船でも?」
「主な目的は、違います」
「では、何のための船だ」
「教育です」
ヴァレシア海軍の士官は、しばらく「海王丸七世」を見つめていた。
「日本人は」
一拍、間を置いて、彼は言った。
「教育に、どれだけ金をかけているんだ」
それは、かなり正しい疑問だった。
◇
だが、ヴァルガニアの協力者が帝都へ送った報告では、その話は少し形を変えていた。
『日本、大型の鋼製帆船を保有』
『四檣、百歩超』
『武装は確認されず』
『用途は、自称“訓練”』
『同日、小型の木造帆船も入港』
協力者は、最後に自分の分析を一文付け加えた。
『日本の船の体系は、帆走船を基盤とし、一部に特殊な動力船を併用するものと推定』
その報告は、驚くほどの速さで、帝都へと向かっていった。
◇
「ほら見ろ」
二日後、再び皇宮。グラウス元帥が言った。
「帆船を持っている」
机の上には、新しい報告が置かれていた。四九九総トンの木造帆船と、大型の鋼製四檣帆船。どちらにも、日本の旗が掲げられていたという。
皇帝レオグラードは、報告を二度読んだ。
「二隻とも、日本の船か?」
「はい」
「あの白い船と、同じ旗か」
「確認されています」
「ならば」
皇帝は、少しだけ安堵した。本人は、そのことに気づいていなかった。
「やはり、ただの海洋国家ではないか」
◇
セルヴァン宰相も、今回はかなり納得した顔をしていた。
「少なくとも」
「何だ」
「彼らの海運技術のすべてが、あの白い船のようなものではない、ということです」
「そうだ」
「木造の船まで保有している」
「そうだ」
「大型の船では、鋼材を使う」
「我々より優れた冶金技術を持っている可能性はある」
「しかし、帆走を利用している」
「つまり」
皇帝が言った。
「世界の法則から外れた国ではない、ということだ」
リゼルが、無言で皇帝を見た。
◇
宮廷魔術顧問のエルゼオは、さらに強気になっていた。
「これで、説明がつきます」
「聞こう」
「日本には、通常の船があるのです」
彼は、木造帆船の報告を指した。
「こちらは、一般の船」
次に、鋼製帆船の報告を指す。
「こちらは、大型の遠洋船」
そして最後に、「いわみ」の図を示した。
「そして、これは特殊な試験船」
「魔導の船か?」
「おそらく」
「しかし、魔力がないのだろう」
「隠蔽です」
「またそこへ戻るのか」
「陛下」
エルゼオは、真剣だった。
「三種類の船が存在するのなら、なおさらです」
「どういうことだ」
「通常の船に帆を使っている国家が」
彼は、「いわみ」の図を指した。
「この一隻だけ、まったく異なる原理を突然使っている」
「うむ」
「ならば、これは特殊な技術なのです」
理屈は、通っていた。実に綺麗に。
◇
「軍事的には、むしろ安心材料です」
グラウスも頷いた。リゼルが、顔を上げる。
「安心、ですか?」
「少しだけだ」
「理由は」
「あの白い船が、日本の船の標準ではない可能性が高い」
「帆船があるから、ですか?」
「そうだ」
「帝国陸軍にも、馬車がありますね」
グラウスの眉が動いた。
「何が言いたい」
「だからといって」
リゼルは答えた。
「帝国軍の最先端の輸送手段が馬車だとは、限りません」
沈黙が落ちた。セルヴァンが、少しだけ笑いそうになる。
「院長」
グラウスの声が、低くなった。
「日本の帆船と、帝国軍の馬車が同じだと?」
「同じだとは、申し上げていません」
「なら」
「古い方式を残していることは、新しい方式を持っていない証拠にはならない、と申し上げているのです」
リゼルは、木造帆船の報告を指した。
「むしろ」
「何だ」
「四九九トンの木造船を、彼らがなぜわざわざ建造しているのか」
誰も、答えなかった。
「大型の鋼製帆船を、なぜ“教育”に使っているのか」
「技術の過渡期なのだろう」
エルゼオが言った。
「かもしれません」
「またそれか」
「はい」
◇
リゼルには、一つ気になる部分があった。
「乗員の数は?」
情報官が答えた。
「木造船については、二十名前後を確認しています。ただし、実習者を含む可能性があります」
「鋼製帆船は」
「百名を超える人影がありました」
「普通ではないか」
グラウスが言った。
「船体の規模からすれば」
リゼルは言った。
「ベルカディアの大型艦より、少ない可能性があります」
「帆を操る機構に、魔法を使っているのだろう」
エルゼオが言った。
「魔力の反応は?」
「遠距離からの観測では、不明です」
「なら、分からん」
「はい」
リゼルは、もう一枚の報告に目を落とした。
「海王丸、七世」
彼は呟いた。
「七世?」
セルヴァンが反応した。
「何だ」
「船の名前です」
「それが、どうした」
「“七世”とあります」
「七代目、ということだろう」
「船を、七代も」
「長い歴史があれば、珍しくはない」
「はい」
それは、その通りだった。だからリゼルも、そこで話を止めた。情報が、足りない。
◇
そして、その日の午後、もっと大きな情報が届いた。ベルカディアが動いたのだ。
「正式なものか?」
皇帝が尋ねた。
「はい」
セルヴァンが答えた。
「ベルカディア商王国政府が、ヴァレシアへ正式な文書を送付しました」
「内容は」
「日本国政府との外交接触を希望する、と」
グラウスの顔色が変わった。
「速いな」
「ベルカディアですから」
「勝手に、リヴァーノへ船を送ったのか?」
「いいえ」
「では」
「ヴァレシア政府に、事前の協議を申し入れています」
皇帝は、少し黙り込んだ。
「礼儀正しいな」
「非常に」
「気持ちが悪い」
「陛下」
「褒めているのだ」
◇
問題は、そこだった。
ベルカディアは、嘘の匂いに敏感な国である。金が動くからだ。そして海運国家でもある。船の噂を、ヴァルガニアよりも正確に評価できる。
そのベルカディアが、日本との正式な接触を求めたのだ。
「ベルカディアは、日本の存在を事実と判断したということか?」
皇帝が言った。
「少なくとも」
リゼルが答えた。
「“存在しない可能性に賭けるのは危険だ”と判断したのでしょう」
「ヴァレシアの情報工作に乗った可能性は」
「あります」
「ベルカディア自身が関与している可能性は」
「あります」
「日本を利用して、我が国を牽制する可能性は」
「あります」
「では」
「ただ」
また、その言葉だった。皇帝が、リゼルを見る。
「何だ」
「ベルカディアが関与しているのなら」
「うむ」
「なぜ日本の船は、ベルカディアの船ではないのでしょう」
皇帝の指が、止まった。
◇
「船の形を隠しているのだ」
グラウスが言った。
「では、旗は?」
「偽の旗だ」
「日本語は?」
「作られた言語だ」
「八千三百万は」
「誇張だ」
「王女との文書は」
「ヴァレシアとの共同工作だ」
「木造帆船は」
「偽装だ」
「大型の鋼製帆船は」
「同じことだ」
リゼルは、静かに、六枚の紙をもう一度並べてみせた。
「増えましたね」
グラウスの顔が、硬くなった。
「何がだ」
「仮説が、です」
◇
皇帝レオグラード五世は、長いあいだ何も言わなかった。
彼は、愚かな男ではない。三十一年にわたって帝国を治めてきた。二度の戦争、三度の大飢饉、王位継承の危機、地方の反乱、疫病、ベルカディアとの海上紛争、ヴァレシアへの外交圧力──あらゆる問題を、現実的に処理してきたのだ。
その経験が、彼に一つの確信を与えていた。
世界は複雑だ。だが、人間が動かしている以上、そこには必ず利害がある。国が動くのなら、その裏には金か、土地か、権力か、恐怖か、安全保障か──何かがあるはずだ。
「仮に、日本が」
皇帝は言った。
「本当に八千三百万人の国家だとしよう」
全員が、皇帝を見た。
「陛下?」
セルヴァンが言った。
「仮定の話だ」
「はい」
「本当に、突然現れた」
「はい」
「本当に、ヴァレシアより遥かに強い」
「はい」
「ならば」
皇帝は、指を組んだ。
「なぜ、ヴァレシアに従う」
「従ってはいません」
リゼルが言った。
「港に入る許可を求めた」
「主権の尊重でしょう」
「軍事行動を控えた」
「同じことです」
「領土を要求しない」
「日本側の外交方針かと」
皇帝は、そこに疑問を抱いた。
「そんな国があるか?」
部屋が、静まり返った。
◇
ヴァルガニアの常識では、強い国は、その強さを使うものだ。
使い方の程度は違う。征服、条約、関税、港湾の権利、貢納、軍の通行権、婚姻、保護国化。だが、力があるのなら、その力は外交上の利益へと変換される。それが国家というものだった。
「八千三百万の人口」
皇帝は言った。
「未知の技術を持つ白い船。巨大な鋼の帆船。それだけの力を持ちながら」
彼は、机を指で叩いた。
「人口百九十万のヴァレシアに、“入ってもよろしいですか”と聞く」
「はい」
「何も欲しがらない」
「少なくとも、今のところは」
「それが」
皇帝は、少し笑った。
「一番、信じがたい」
◇
リゼルは、反論しなかった。
実のところ、彼にも理解できなかったからだ。
日本の制度。日本の倫理。国際法。主権の平等。植民地主義を経験した歴史。技術移転への警戒。そうしたものを、ヴァルガニアはまだ何も知らない。知らない以上、日本の行動は、ヴァルガニア自身の国家観で解釈するしかない。
そして、その国家観の中では、強い国が何の見返りもなく小国の主権を尊重する、という説明の方が、異世界からの転移よりも、ある意味では理解しづらかったのだ。
◇
「裏がある」
グラウスが言った。
「当然です」
セルヴァンも同意した。
「ベルカディアか?」
皇帝が言った。
「可能性はあります」
グラウスが答える。
「ヴァレシアの王家か?」
「可能性はあります」
「東方にある、別の大国か?」
「可能性はあります」
「日本の内部に、複数の勢力がある可能性は?」
そこで、リゼルが少し顔をしかめた。
「それは、あり得ます」
皇帝が、リゼルを見た。
「ほう」
「八千三百万という人口が事実なら、単一の意思で動く集団とは考えにくいでしょう」
「王がいない、という話もあったな」
「はい」
「ならば」
皇帝はようやく、自分に理解できる道を見つけた。
「日本を、動かしている者がいる」
リゼルは、返事をしなかった。
◇
「情報院に命ずる」
皇帝の声が変わった。全員が、姿勢を正す。
「日本という存在を、否定するな」
リゼルの目が、わずかに動いた。
「はい」
「しかし、報告を文字通りに信じるな」
「はい」
「リヴァーノの帝国系商人を使え」
「すでに使っております」
「ヴァレシアに駐在する使節は」
「照会中です」
「ベルカディアの商会は」
「監視しています」
「船は」
「観測を継続しています」
「日本語は」
「資料の入手を試みます」
「日本人とは」
「接触いたしますか?」
皇帝は、少し考えた。
「まだ早い」
「承知いたしました」
「まず」
皇帝は、机に指を置いた。
「日本が何者なのかを──」
そこで、一瞬、言葉が止まった。
「いや」
皇帝は、言い直した。
「誰が日本を動かしているのかを、調べろ」
リゼルだけが、ほんの少し、目を伏せた。
「承知いたしました」
◇
次は、外交だった。セルヴァンが、文書の案を開いた。
「ヴァレシアへ、照会いたします」
「内容は」
「東方より来訪した勢力について、地域の安定という観点から、情報の共有を求める、と」
「柔らかいな」
「文面は」
「意味は」
「我々に隠すな、です」
「よろしい」
「日本との覚書についても、写しを要求します」
「当然だ」
「ベルカディアの使節派遣については」
「把握している、と伝えろ」
セルヴァンが、少し止まった。
「牽制いたしますか」
「軽くな」
「どの程度で」
「ヴァレシアが」
皇帝は言った。
「日本というものを得たからといって、既存の問題まで消えたと思わない程度にだ」
グラウスが、頷いた。
◇
それが、この日ヴァルガニアが犯した、二つ目の間違いだった。
以前からヴァレシアに要求していた関税、帝国商人の権利、国境の砦、港湾の利用、通商の条件──それらを、撤回もしなければ、延期もしない。日本が現れたからといって、既存の問題は別だ、というわけである。
国家としては、ごく普通の判断だった。弱みを見せない。新しい駒が盤上に出たからといって、急に態度を変えない。
それは、これまでなら、正しい判断だったのだ。
◇
会議が終わり、人々が退室していった。最後に残ったのは、皇帝と宰相、そしてリゼルだった。
「院長」
「はい」
「まだ、何かあるな」
情報を隠している人間の顔を、レオグラードは三十一年間見てきた。リゼルは、少し迷った。
「陛下」
「言え」
「日本の木造帆船について」
「四九九トンの、あれか?」
「はい」
「それが、どうした」
「港の船大工が見学した、という報告があります」
「ほう」
「その感想が」
リゼルは、紙に目を落とした。
「“木造船として理解できる。しかし、理解できる部分ほど異常だ”と」
皇帝が、眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「木材の継ぎ目が、少ない」
「技術が高いのだろう」
「腐朽が、ほとんどない」
「新造船だからだろう」
「金属部品に、錆がない」
「手入れがいいのだろう」
「索具の太さに対して、強度がおかしい」
「新しい素材だ」
「帆を扱う人数が、少なすぎる」
「魔法だ」
「魔力の反応は、確認されていません」
少し、沈黙が落ちた。
「そして」
リゼルは続けた。
「日本側は」
「何だ」
「この船を、“古い船の作り方を残すために、新しい技術で作った”と説明しているそうです」
皇帝は数秒間、その意味を理解できなかった。
「古い船を」
「はい」
「新しい技術で」
「はい」
「なぜだ」
「文化の保存と、教育のためだそうです」
セルヴァンが、小さく息を吐いた。
「また、教育か」
「はい」
◇
「鋼製の帆船の方は」
皇帝が聞いた。
「海王丸七世ですね」
「それだ」
「日本側の説明では」
リゼルは、紙を見た。
「伝統的な帆船の運航を学ぶための、大型の練習船だと」
「それだけか?」
「それだけです」
「軍艦ではない」
「違う、と」
「商船でもない」
「はい」
「大型の鋼船を」
「はい」
「わざわざ帆で走らせて」
「はい」
「若者を教育する」
「そうです」
皇帝は、椅子の背に身体を預けた。
「日本人は、暇なのか?」
セルヴァンが、初めて声を出して笑った。
◇
リゼルだけは、笑わなかった。
「陛下」
「何だ」
「もし」
「また仮定か」
「はい」
「言え」
「彼らが本当に」
リゼルは、少し言葉を選んだ。
「我々より遥か先の技術を持っているのだとしたら」
「うむ」
「木造帆船を作ることと」
一拍、間を置いて。
「木造帆船しか作れないこととは、別のことです」
そう、彼は言った。
◇
皇帝は、しばらくリゼルを見つめていた。
「覚えておこう」
「ありがとうございます」
「だが」
「はい」
「私はまだ」
机の上には、「あさなぎ」と「海王丸七世」と「いわみ」の報告が並んでいる。三種類の船、三種類の技術。そして、同じ旗。
「国が別の世界から落ちてきた、という話よりも」
皇帝は言った。
「どこかに、普通の説明があると思っている」
リゼルは頷いた。
「それで、よろしいと思います」
皇帝は、少し意外そうな顔をした。
「止めないのか」
「止めません」
「なぜだ」
「私も、そう思いたいからです」
そのとき初めて、リゼルが少しだけ笑った。
◇
その夜、帝国情報院に、日本関連の情報を集めるための専用の卓が設けられた。
分類名は、『東方未確認海上政治勢力』。その下に、括弧付きで『通称、日本』と記された。
確度の評価は、次のようなものだった。
『存在──高』
『ヴァレシアとの接触──高』
『独自の旗──高』
『木造帆船──高』
『大型鋼製帆船──高』
『白色無帆船──高』
『人口八千三百万──中』
『魔法を使わない技術──低から中』
『国民の高い識字率──低から中』
『平均寿命百歳超──低』
『空を飛ぶ機械──低』
『月への到達──極低』
『異世界からの転移──判定不能』
担当官は、最後に備考欄を書いた。
『複数の情報が、相互に矛盾』
少し考えてから、彼はそれを書き直した。
『複数の情報は、一見、相互に矛盾するように見える』
さらにその下に、情報院長リゼル・オルダンが、自らの筆で一文を書き加えた。
『矛盾しているのは情報ではなく、我々の前提である可能性を、排除するな』
◇
だが、その警告は、帝国の中を上へと進むにつれて、少しずつ薄められていった。
情報院では──『未知の高度技術国家である可能性を排除できない』。
宰相府では──『東方に、新たな海洋政治勢力が出現』。
軍務府では──『ヴァレシアおよびベルカディアと関係を持つ、新興の海洋勢力』。
地方の軍司令部では──『東方の新興国、日本』。
そして、ある貴族の夕食会では──「ベルカディアが、どこかの島国を連れてきたらしい」。
そこまで、縮んでしまった。
◇
同じ夜、リヴァーノ沖。
「海王丸七世」は、夜風の中で静かに錨を下ろしていた。帆は畳まれている。甲板では、日本の実習生たちとヴァレシアの若い船員たちが、索具の名前を互いの言葉で教え合っていた。
「これは?」
「シート」
「シート?」
「帆脚索」
「何だって?」
「……翻訳機」
笑い声が起こった。
少し離れたところでは、「あさなぎ」の木造の船体が、波に揺られて小さく軋んでいる。そのさらに沖には、白い「いわみ」が浮かんでいた。
同じ国旗を掲げた、三隻の船。木造の帆船、鋼製の帆船、そして動力の巡視船。
それを見ていたリヴァーノの人々は、少しずつ理解し始めていた。
日本は、一隻の船ではない。一つの技術でもない。一つの時代でもない。
──巨大な社会、そのものなのだ。
◇
だが、何百里も離れたグラディオルでは、同じ三隻の存在が、まったく逆の結論を生んでいた。
木造帆船がある。ならば、理解できる。鋼製帆船がある。ならば、高度な海洋国家だ。白い船がある。ならば、特殊な試作船なのだろう。
八千三百万は、誇張だ。月へ行くというのは、神話だ。異世界というのは、外交上の演出だ。
そして、ヴァレシアがその日本と手を結んだのなら、そこには誰かの意図があるはずだ──と。
それは、愚かな判断ではなかった。この世界でこれまで生き抜いてきた国家なら、むしろ当然の判断だった。
◇
問題は、今回に限って、最も単純な答えが、一番あり得ない答えだったことだ。
日本は、本当に日本だった。八千三百万人は、本当に八千三百万人だった。白い船は、本当に魔法で動いてはいなかった。木造の帆船も、本当に二十四世紀の船だった。「海王丸七世」も、本当にただの練習船だった。
そして、日本を裏から操っているベルカディアも、ヴァレシアも、古代文明も、秘密結社も──どこにも存在しなかった。
◇
その夜、皇帝レオグラード五世は、最後の報告書に、自ら一行を書き加えた。
『日本の背後関係を、最優先で確認せよ』
それが、帝国の対日政策における、最初の正式な命令となった。
そして後世の歴史家たちは、この一文を何度も引用することになる。
ヴァルガニア帝国が日本を軽視した証拠として、ではない。むしろ──日本を理解しようとして、あまりにも真面目に間違えた、最初の瞬間として。