2330年日本国、異世界へ   作:水野芽生

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第19話:普通の国

 

 日本へ行く。

 

 その言葉を聞いたとき、ヴァレシア王国の視察団の多くが最初に思い浮かべたのは、あの白い船だった。

 

「いわみ」。帆もなく、櫂もなく、風も使わずに海を走る船。鋼でできていて、火を吐く小さな砲を備え、遠くを見通す目を持ち、夜の海でも周囲の様子が分かるという。

 

 そして、あれが軍艦ではないという事実を、ヴァレシア側はまだ完全には飲み込めていなかった。

 

 だから、日本へ行けば、もっと凄いものを見ることになるのだろう──誰もが、そう覚悟していた。巨大な軍艦、空飛ぶ機械、途方もない建物、魔法なしで動く奇妙な装置。おそらく、そういうものに驚かされるのだろう、と。

 

 王女アレシナも、そう思っていた。

 

 ◇

 

 それは、間違いだった。

 

 ◇

 

「……あれは」

 

 ヴァレシアの商人代表が、窓の外を見たまま言った。

 

「全部、港なのですか」

 

「はい」

 

 日本側の案内官が答えた。

 

「全部?」

 

「見えている範囲については」

 

「……」

 

 船は、日本の港へと近づいていた。まだ、岸壁に着いてすらいない。それなのに、商人はもう質問をやめていた。

 

 アレシナも、何から聞けばいいのか分からなかった。

 

 港が大きい、という言葉では足りなかった。

 

 リヴァーノも港町だ。ヴァルカッサもそうだし、ベルカディアの大きな港についても、アレシナは知識として知っている。何十隻もの船が停泊し、倉庫が並び、荷車が絶え間なく行き交う。それが、大きな港というものだ。

 

 だが、日本の港は違った。

 

 海岸そのものが、港湾の設備になっているのだ。岸壁、倉庫、塔、巨大な箱のような施設、水平に延びる構造物。何本もの道路、線路、高架。そして、大小の船。あまりにも数が多い。遠くにあるものは、建物なのか船なのか、すぐには見分けがつかなかった。

 

「殿下」

 

 海運に関わる者として同行した男が、珍しく小声で言った。

 

「何?」

 

「私には」

 

 男は、一度息を呑んだ。

 

「船の大きさが、分かりません」

 

「あなたが?」

 

「比べるものが、ないのです」

 

 ◇

 

 港の中には、人が少なかった。そのことも、ヴァレシア人たちを混乱させた。

 

 これほどの港なら、何万人もの人が働いているのだろう、とアレシナは考えていた。荷役の人夫、綱を取る者、監督、荷車に馬、倉庫番、税吏、船員。怒鳴り声、鐘、笛の音──そういうものが、ほとんどない。

 

 代わりに、機械が動いていた。巨大な荷物が、ひとりでに運ばれていく。車両が、人にも馬にも引かれずに道を進んでいく。しかも、運転している人間の姿が見えないものまである。

 

「人は、どこに?」

 

 農業代表が聞いた。

 

「いますよ」

 

 日本人が答えた。

 

「どこにです」

 

「管制室や整備区画にもいますし、現場にもいます」

 

「少なすぎませんか」

 

「昔に比べれば、かなり少なくなりました」

 

「これだけの荷を?」

 

「はい」

 

「この人数で?」

 

「はい」

 

「……」

 

 農業代表は、畑を見るときのような目で、港を見つめた。

 

 人間が働いていないわけではない。一人の人間が、昔なら何十人も必要だった仕事を、機械と一緒に動かしているのだ。

 

「だから」

 

 彼は呟いた。

 

「八千三百万人を──」

 

「何?」

 

 アレシナが聞いた。

 

「いえ」

 

 男は首を振った。

 

「少しだけ、分かった気がしたのです」

 

 ◇

 

 入国の手続きは、さらに奇妙なものだった。

 

 待たされた。それも、かなり長く、厳しく。健康状態、持ち物、接触歴、食べ物、植物、動物に由来する品、魔法用品──細かく確認された。

 

 だが、役人が紙の山を積み上げているわけではなかった。

 

「もう、終わりですか?」

 

 商人代表が聞いた。

 

「入国の手続きについては」

 

「書類は?」

 

「処理済みです」

 

「いつ?」

 

「今です」

 

「……」

 

 日本側の通訳が、少し困った顔をした。

 

「皆さんの提出情報は、事前に登録されていますので」

 

「誰が、書き写したのです?」

 

「書き写してはいません」

 

「では、どうやって」

 

 説明が始まった。機械、情報、登録、照合、自動化。言葉そのものは分かる。文章としても翻訳される。だが、その意味が、どうしても頭に入ってこない。

 

 アレシナは、途中で理解することを諦めた。

 

「つまり」

 

「はい」

 

「同じことを、何人もの人が書き直さなくていい、ということ?」

 

「そういう理解で大丈夫です」

 

「それは」

 

 アレシナは一瞬、日本の宇宙船よりも、その制度の方が羨ましいと思った。

 

 ◇

 

 港の建物を出たところで、視察団は一度、足を止めた。日本側の案内官も、立ち止まる。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 誰も、答えなかった。

 

 目の前には、道があった。ただ、それだけだった。

 

 広い道路と歩道。街路樹。建物。車。遠くには線路と看板。そして、人々。特別なものは何もない。少なくとも、日本人にとっては。

 

「これは」

 

 ヴァレシアの学者が言った。

 

「首都ですか」

 

「いいえ」

 

「王都ではない?」

 

「違います」

 

「最大の都市?」

 

「いいえ」

 

「では」

 

 学者は、少し怒ったような顔になった。

 

「いったい、何なのです」

 

 案内官は一瞬、その質問の意味が分からなかった。

 

「普通の、都市です」

 

 ◇

 

 沈黙が落ちた。

 

「……普通」

 

 誰かが、繰り返した。

 

 ◇

 

 道には、穴がなかった。

 

 いや、正確に言えば、探せばどこかにあるのかもしれない。だが少なくとも、馬車が跳ね上がるような穴はない。泥もなければ、轍もない。排水溝から汚物の臭いが漂ってくることもない。人と車が、それぞれ別々の場所を移動している。

 

 車は、大量に走っていた。それなのに、ぶつからない。

 

「誰が、指示を出しているのです?」

 

 護衛の騎士が聞いた。

 

「車に、ですか?」

 

「そうです」

 

「基本的には、自動運転です」

 

「……自動?」

 

「行き先を指定すれば、自分で走るんです」

 

 騎士は、道路を見つめた。一台、二台、十台。その向こうにも、数え切れないほど走っている。

 

「全部が?」

 

「ほとんどは」

 

「御者は、いない?」

 

「運転者という意味でしたら、それを必要としない車が一般的です」

 

 騎士の顔が、本気で嫌そうになった。

 

「信用できるのですか」

 

「人間が運転するよりも、事故率は低いですよ」

 

 少しの間があった。

 

「……人間より?」

 

「はい」

 

 騎士はそれ以降、しばらく車に近づこうとしなかった。

 

 ◇

 

 移動には、鉄道が使われた。

 

 日本側としては、特別な選択ではない。視察団を都市の中心部へ運ぶのに便利だった。ただそれだけのことだ。

 

 駅に入ったとき、アレシナは最初、そこを宮殿だと思った。次に、市場だと思った。そして最後に、そのどちらでもないのだと理解した。

 

 人が多い。とにかく多い。だが、混乱してはいない。人々はそれぞれの方向へ歩いていく。階段がひとりでに動き、人が近づくと扉が開き、案内の表示がくるくると文字を変えていく。

 

「殿下」

 

 魔術師の代表が囁いた。

 

「魔力を、感じません」

 

「どれから?」

 

「ほとんど、全部からです」

 

 アレシナは、少し笑った。

 

「でしょうね」

 

「笑い事ではありません」

 

 ◇

 

 音と風とともに、列車が滑り込んできて、止まった。扉の位置が、ぴたりと合っている。

 

 ヴァレシアの船乗りが、ホームと車両の隙間を見て、黙ってしゃがみ込んだ。

 

「何をしているの?」

 

「合わせているのかと思いまして」

 

「何を」

 

「停める位置を、毎回」

 

「そんなわけ──」

 

 アレシナも、一瞬考えた。

 

「……ないと思う」

 

 日本人の案内官が、横で笑いを堪えていた。

 

 ◇

 

 列車は滑るように走り出した。速い。だが、揺れない。

 

 窓の外には、街が続いていた。どこまで行っても、街、街、街。建物、道路、住宅、工場、学校、公園、そしてまた住宅。

 

「どこまでが、都市なのですか」

 

 学者が尋ねた。

 

「どこまで、と言われると」

 

 案内官は答えに困った。

 

「行政上の境界、という意味ですか?」

 

「目で見て分かる境界は、ないのですか」

 

「地方にはありますが、このあたりは市街地がずっと続いていますね」

 

「では」

 

 商人が聞いた。

 

「この建物の全部に、人が住んでいるのですか?」

 

「住宅であれば」

 

「全部に?」

 

「空いている部屋もありますが」

 

「そうではなくて」

 

 商人は、窓に顔を近づけた。

 

「これだけの家を」

 

 そこで、言葉が途切れた。

 

「……いったい、誰が建てたのです」

 

 日本人は、答えに迷った。

 

「……建設会社、ですかね?」

 

「一つの会社が?」

 

「いえ、たくさんあります」

 

 商人は、なぜか、さらに混乱した。

 

 ◇

 

 最初の視察先は、王宮でも、軍事基地でも、政府の庁舎でもなかった。住宅地区だった。

 

「なぜ、ここなのです?」

 

 アレシナが尋ねた。

 

「国王陛下からのご要望です」

 

 日本側の担当者が答えた。

 

「父上から?」

 

「はい。『普通の日本人がどう暮らしているのかを見たい』と」

 

 アレシナは、少しだけ父を見直した。

 

 ◇

 

 一行が案内されたのは、ごく一般的な集合住宅だった。ヴァレシア人たちは、その入口で、また立ち止まった。

 

「宿ですか」

 

「住宅です」

 

「高級な?」

 

「いいえ」

 

「貴族向けの?」

 

「違います」

 

「官吏向けの?」

 

「特に限定されてはいません」

 

「では」

 

「普通の住宅です」

 

 今日、三度目の、その言葉だった。

 

 ◇

 

 中へ入ると、明るかった。温度は一定で、嫌な臭いもしない。

 

 水が、すぐに出る。温かい水も、冷たい水も、飲める水も、大量に、いつでも出てくる。便所は室内にあって、臭わない。汚物を人が運び出す必要もない。部屋の明かりには、油も、蝋燭も、魔石も使われていない。

 

「この家には」

 

 魔術師が聞いた。

 

「使用人は?」

 

「それは、住人によります」

 

「この設備を維持するための、という意味です」

 

「この家専属の人、という意味でしたら、いません」

 

 沈黙が落ちた。

 

「では、どうやって」

 

「都市全体の設備として、管理されているんです」

 

 魔術師は、壁を見て、床を見て、天井を見た。

 

「王宮より──」

 

 そこで、言葉を止めた。

 

「何?」

 

 アレシナが聞いた。

 

「……何でもありません」

 

「言いなさい」

 

「王宮より、暮らしやすそうです」

 

 アレシナは、否定できなかった。

 

 ◇

 

「おいくらなのです?」

 

 そう聞いたのは、商人だった。さすがに、見るところが違う。

 

「購入する場合の価格ですか?」

 

「はい」

 

 説明が始まった。数字、日本の貨幣、所得、ローン、賃貸、税。翻訳と換算を挟みながら、話は進んでいく。やがて、商人の顔色が変わった。

 

「待ってください」

 

「はい」

 

「この家を買う人間というのは」

 

「はい」

 

「大商人ではない、と?」

 

「普通の勤労世帯でも、購入の対象になります」

 

「普通」

 

 また、その言葉だった。

 

 商人は部屋を見回し、それからアレシナのそばへ寄ってきた。

 

「殿下」

 

「何」

 

「まずいです」

 

「何が」

 

「私は」

 

 商人は、声を低くした。

 

「日本の商品がヴァレシアに入ってくることばかり、考えていました」

 

「ええ」

 

「違ったのです」

 

「何が?」

 

「日本人に、こちらの商品を売ることの方が、ずっと難しい」

 

 ◇

 

 アレシナは、その意味を理解するまでに、少し時間がかかった。

 

「彼らは」

 

 商人は続けた。

 

「すでに、持っているのです」

 

 良い衣服、良い家、食器、家具、道具、明かり、暖房、水──。

 

「便利なものを売ろうとしても」

 

 商人は、首を振った。

 

「我々より便利なものを、彼ら自身が作れてしまう」

 

「だから、食料を欲しがるのね」

 

「はい」

 

「木材も」

 

「はい」

 

「香辛料も」

 

「はい」

 

「お酒も」

 

「それもです」

 

「魔法の素材も」

 

「特に、それです」

 

 商人は、少し黙り込んだ。

 

「我々が日本に売れるのは」

 

「何?」

 

「日本に、ないものです」

 

 それを聞いて、アレシナは初めて、少しだけ安心した。

 

 ◇

 

 昼食も、王侯向けの宴席ではなかった。日本側は、わざと一般的な食事を用意していた。

 

「これが、普通ですか?」

 

 農業代表が、今日四度目となる質問をした。

 

「比較的、そうですね」

 

「肉がある」

 

「はい」

 

「魚も」

 

「はい」

 

「野菜も」

 

「はい」

 

「白い米」

 

「はい」

 

「果物まで」

 

「はい」

 

「これを、毎日?」

 

「組み合わせは変わりますが」

 

 男は、黙って食べ始めた。一口、二口。やがて、箸という道具との戦いを諦め、用意されていたフォークに持ち替えた。

 

「八千三百万人が」

 

 また、彼は呟いた。

 

「これを」

 

「転移の後は、食生活も少し変わるかもしれません」

 

 日本側が、少し訂正を加えた。男が顔を上げる。

 

「不足しているのですか?」

 

「以前は、外国から輸入していた食品も多かったものですから」

 

「では」

 

「現在、供給の体系を組み直しているところです」

 

「飢えるのですか?」

 

「その可能性を避けるために、調整しているんです」

 

 農業代表は、しばらく考え込んだ。

 

「それでも」

 

 彼は、皿に目を落とした。

 

「これが、出せる」

 

 ◇

 

 彼の驚きは、他の者たちとは少し違っていた。港や鉄道や住宅や機械よりも、彼が驚いたのは別のことだった。

 

「余裕が、ある」

 

「何?」

 

 アレシナが聞いた。

 

「この国には」

 

 農業代表は、食卓を見つめた。

 

「余裕があるのです」

 

「食料に?」

 

「違います」

 

 少し考えてから、彼は言った。

 

「何かを失っても、まだ考える時間がある、ということです」

 

 ◇

 

 転移によって、日本は、それまで当たり前に存在していた世界を失った。輸入も、外交も、海外の工場も、国外の資源も。人によっては、家族や友人も。すべてを。

 

 それでも、街は動いている。列車は走り、水は出て、食事は出され、役所は働き、港は動いている。人々は買い物をし、子供が歩き、老人も、ごく普通に街を歩いていた。

 

 ◇

 

「あの方は」

 

 医師の代表が、突然、足を止めた。

 

 一行がその視線の先を見ると、向こうから一人の女性が歩いてくるところだった。白髪で、背筋は伸びている。小さな鞄を手に、ゆっくりと、しかし杖もつかずに歩いていた。

 

「どうかなさいましたか」

 

「あの方は、お幾つなのでしょう」

 

 案内官は、困った顔をした。

 

「ご本人に聞いてみないと」

 

「六十?」

 

「もう少し上かもしれません」

 

「七十?」

 

「そのくらいの方は、普通に」

 

 女性は、視察団を珍しそうに見て、少し会釈をした。アレシナも、反射的に頭を下げた。女性は、そのまま歩いていった。

 

 医師は、その後ろ姿を見送っていた。

 

「日本人は」

 

「はい」

 

「本当に」

 

 一度、言葉を選んでから、彼は言った。

 

「百年も、生きるのですか」

 

「平均寿命は、百歳を超えています」

 

 すでに聞いていた。報告書で、数字として知っていた。だが、数字と、目の前の道を歩いている老人とは、まるで違っていた。

 

 ◇

 

 医師の顔から、血の気が引いていた。

 

「どうなさいました?」

 

「私は」

 

 彼は言った。

 

「今日、港を見ても、鉄道を見ても、驚きました」

 

「はい」

 

「でも」

 

 医師は、遠ざかっていく白髪の女性を見つめた。

 

「一番見たいものが、変わりました」

 

「何をです?」

 

「病院を」

 

 ◇

 

 夕方、一行は宿泊施設に到着した。視察団には、それぞれ部屋が用意されていた。ここでもまた、ひと騒動があった。

 

「全員に?」

 

「はい」

 

「一人に一室?」

 

「基本的には」

 

「使用人は」

 

「必要でしたら、お呼びできます」

 

「浴室も?」

 

「各部屋にあります」

 

「湯が出るのですか?」

 

「出ます」

 

「夜でも?」

 

「出ます」

 

「朝も?」

 

「はい」

 

「何時まで?」

 

「いつでも」

 

「……」

 

 日本人の担当者は、ついに尋ねた。

 

「何か、問題がありますか?」

 

 ヴァレシア人たちは、誰一人として、それをうまく説明できなかった。

 

 ◇

 

 夜。アレシナは、小さな会議室に視察団を集めた。

 

「初日の感想を、聞かせて」

 

 誰も、すぐには話し出さなかった。

 

「何でもいいのよ」

 

 最初に口を開いたのは、海運に関わる男だった。

 

「港を」

 

「ええ」

 

「もう一度、見たいです」

 

「分かったわ」

 

「できれば」

 

「何?」

 

「一週間ほど」

 

「そこまで?」

 

「一週間でも、足りません」

 

 ◇

 

 次は、農業代表だった。

 

「農場を見たいです」

 

「予定に入っているわ」

 

「普通の農場を」

 

「普通の?」

 

「王室向けのものではなく」

 

 アレシナは、少し笑った。

 

「分かったわ」

 

 ◇

 

 魔術師が言った。

 

「大学か、研究所を」

 

「魔法の研究を?」

 

「それもあります。ただ」

 

 彼は、少しためらった。

 

「日本人が、自分たちの知らないものをどうやって調べるのかを、見てみたいのです」

 

「なるほどね」

 

 ◇

 

 医師が言った。

 

「病院を」

 

「それは聞いたわ」

 

「できれば」

 

「何?」

 

「老人も」

 

「老人?」

 

「日本では」

 

 医師は言った。

 

「老いることそのものが、我々とは違うのかもしれません」

 

 ◇

 

 商人が言った。

 

「市場を」

 

「商業施設ね?」

 

「何でも構いません」

 

「ずいぶん曖昧ね」

 

「殿下」

 

「何」

 

「私はまだ」

 

 商人は、疲れ切った顔で言った。

 

「日本で何を売ればいいのか、分からないのです」

 

「初日よ」

 

「それが、恐ろしいのです」

 

 ◇

 

 最後は、学者だった。

 

「学校を」

 

「学校?」

 

「はい」

 

「大学ではなく?」

 

「子供の学校です」

 

「なぜ?」

 

 学者は、今日、街で見たものを思い出していた。

 

「この国は」

 

「ええ」

 

「こういうものを」

 

 彼は、机や照明、窓、そして壁の向こうに広がる都市を示した。

 

「誰が作ったのでしょう」

 

「日本人でしょう」

 

「だからこそ」

 

 学者は言った。

 

「その日本人を」

 

 一呼吸、置いて。

 

「どうやって育てているのかを、見てみたいのです」

 

 ◇

 

 アレシナは、父の言葉を思い出していた。どう食べ、どう働き、どう学び、どう病を治し、どうやって国を動かしているのか。

 

 見るべきものは、軍艦ではない。少なくとも、最初のうちは。

 

 ◇

 

「私からも、一つ」

 

 アレシナが言った。

 

「明日からは」

 

 彼女は、全員を見渡した。

 

「“これは特別なものですか”と、必ず聞くようにしましょう」

 

 何人かが笑った。

 

「なぜです?」

 

 アレシナは、窓の外を見た。

 

 夜の街に、無数の明かりが灯っている。ヴァレシアスであれば、王宮と大聖堂、裕福な商館、主要な広場──その程度の場所にしかない明るさが、地平線の果てまで続いていた。

 

「今日、一番怖かった言葉があるから」

 

「何です?」

 

 アレシナは答えた。

 

「“普通です”」

 

 ◇

 

 同じころ、日本側では、視察団の対応チームが簡単な打ち合わせをしていた。

 

「初日は、どうでした」

 

「かなり疲れているようです」

 

「移動させすぎましたか?」

 

「距離的には、大したことはありません」

 

「では」

 

「情報量でしょうね」

 

「明日は?」

 

「予定通りです。病院、教育施設、農業関係」

 

「軍事施設は」

 

「ありません」

 

「政府の施設は」

 

「後半です」

 

「宇宙関係は」

 

「まだです」

 

 担当者は、資料に目を落とした。

 

「王国側から、できるだけ普通の社会を見たい、という要望が出ています」

 

「普通、か」

 

「はい」

 

 担当者たちは、少し笑った。

 

「一番、説明が難しいやつですね」

 

 ◇

 

 その夜、アレシナはなかなか寝つけなかった。

 

 寝具が柔らかすぎたせいではない。室温がちょうど良すぎたせいでもない。

 

 窓の外、夜の日本では、まだ車が走り、列車が走っている。遠くでは、航空機の灯りが動いていた。

 

 どこかで何千万人もの人間が、今日と同じように食べ、働き、家に帰り、眠る。そして明日、また起きる。その当たり前を、この国は、八千三百万人分も支えているのだ。

 

 アレシナは、初めて「いわみ」を見た日のことを思い出した。白い船、鋼、未知の機械。あのとき、日本の力を見たのだと思った。

 

 だが、違った。

 

「あれは」

 

 小さく、呟く。

 

「入口だったのね」

 

 軍艦ですらない船に、驚いた。だが今日、それよりもっと恐ろしいものを見た。

 

 港ではない。鉄道でもない。自動で走る車でもない。水の出る住宅でもない。百年生きる人々でもない。

 

 ──それらすべてを、特別な奇跡としてではなく、普通の暮らしとして維持している国。

 

 それが、日本だった。

 

 そして視察は、まだ一日目だった。

 

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