2330年日本国、異世界へ   作:水野芽生

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第21話:測れるもの、測れないもの

 

 日本視察、三日目。

 

 ヴァレシア王国の視察団は、この日初めて、少しだけ安心していた。

 

 ◇

 

「今日は」

 

 魔術師代表が確認した。

 

「我々の方が、詳しいのですね」

 

「少なくとも」

 

 日本側の担当者が答えた。

 

「魔法については、間違いなく」

 

「本当に?」

 

「本当にです」

 

「昨日までは」

 

「はい」

 

「何を見ても、あなた方の方が詳しかった」

 

「今日は、逆です」

 

 魔術師は、ほんの少しだけ胸を張った。アレシナはそれを見て、何も言わなかった。

 

 ◇

 

 訪れた施設は、大学と国立の研究機関が共同で使っている、魔法現象の研究区画だった。

 

 その名称自体が、まだ新しい。転移前には存在しなかった研究分野だからだ。日本人に魔法が発現してから、まだそれほど日は経っていない。

 

 廊下の案内表示にも、「暫定」という文字が目立った。「暫定魔力計測室」「暫定生体影響評価室」「暫定魔法現象安全基準」「暫定術式分類」──。

 

「暫定ばかりですね」

 

 アレシナが言った。

 

「まだ、分からないことばかりなので」

 

 研究員が答えた。

 

「分からないまま名前を決めてしまうと、あとで困るんです」

 

「それでも、名前はつけるの?」

 

「名前がないと、会話ができませんので」

 

「大変ね」

 

「ものすごく」

 

 ◇

 

 最初の部屋の中央には、一台の机が置かれていた。その上に、透明な箱と球、そして各種のセンサーが並んでいる。壁には、何本もの線が表示されていた。

 

「これは」

 

 アレシナが気づいた。

 

「日本人が初めて動かしたという、あの球?」

 

「同じ型のものです」

 

 転移から六日目。二十九歳の藤井真帆が、管理された環境の中で、一・七グラムほどのガラス球を、ごくわずかに動かした。日本政府が魔法の存在を公式に認めるきっかけとなった、あの実験である。

 

 ◇

 

「では」

 

 研究主任が言った。

 

「ファルネさん」

 

「はい」

 

 リヴァーノから視察団に同行してきた航海魔術師のファルネが、前に進み出た。彼は昨日、新幹線に乗ってから、ずっと機嫌が良かった。

 

「何をすれば?」

 

「まず」

 

 主任は言った。

 

「何もしないでください」

 

「……」

 

「五分間」

 

「魔法を?」

 

「使わずに、です」

 

「それが、実験なのですか?」

 

「実験です」

 

 ファルネは、何とも言えない顔をした。

 

 ◇

 

 五分間。呼吸、心拍、皮膚の温度、脳の活動、筋肉の活動、血流、そして周囲の空間に生じる微弱な変動。さらに、日本側がまだ名称すら確定できていない、魔法が発現するときにだけ現れる複数の物理量。研究者たちは、それらすべてを同時に記録していった。

 

 ◇

 

「では」

 

 主任が言った。

 

「簡単な灯火を、お願いします」

 

「火を?」

 

「はい」

 

「どのくらいの?」

 

「できるだけ、小さく」

 

 ファルネが人差し指を立てると、その先に、小さな火が灯った。

 

 表示が、一斉に動いた。

 

「おお」

 

 日本の研究者たちから、声が上がった。ファルネは、少し得意そうな顔をした。

 

「これくらいなら──」

 

「待ってください」

 

 研究員の一人が言った。

 

「何です?」

 

「もう一度、お願いできますか」

 

「火を?」

 

「同じ大きさで」

 

「分かりました」

 

 ◇

 

 二回目の火が灯った。

 

「違う」

 

「何がです?」

 

 ファルネが聞いた。

 

「同じ魔法なのに、波形が違うんです」

 

「当然でしょう」

 

 部屋の空気が、止まった。

 

「当然、ですか?」

 

 主任が聞き返した。

 

「はい」

 

「同じ灯火ですよね」

 

「灯火です」

 

「同じ大きさで」

 

「だいたい」

 

「それなのに?」

 

 ファルネは逆に、なぜ分からないのかという顔をした。

 

「一回目は」

 

 彼は、自分の指を示した。

 

「火を作りました」

 

「はい」

 

「二回目は」

 

「はい」

 

「周りの熱を集めて、火を保ちました」

 

 数秒のあいだ、研究者たちは誰も動かなかった。

 

「待ってください」

 

 主任が、ゆっくりと言った。

 

「同じ術ではない、と?」

 

「同じ灯火の術ですよ」

 

「方法が違うのに?」

 

「灯火は、灯火でしょう」

 

 日本側は、沈黙した。ヴァレシア側は、少し嬉しそうだった。

 

 ◇

 

「こちらでは」

 

 魔術師代表が、口を挟んだ。

 

「術の分類と、力の通し方とは、別のものなのです」

 

「詳しく、お願いします」

 

「例えば」

 

 魔術師は、少し考えた。

 

「剣を振るう、と言いますね」

 

「はい」

 

「上から斬っても、横から斬っても、剣で斬ることに変わりはない」

 

「なるほど」

 

「ただし、身体の使い方は違う」

 

 主任は、表示を見直した。

 

「……分類の軸を、一つ増やそう」

 

「術式の目的と、発現の経路を、分けますか?」

 

 隣の研究者が言った。

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「今は、まだ決めるな」

 

「了解です」

 

 ◇

 

 アレシナは、少し笑った。

 

 昨日、日本人は何もかも完成しているように見えた。それが今日は、目の前で分類表を書き直している。

 

「こういうところも」

 

 学者代表が、小声で言った。

 

「普通なのですね」

 

「何が?」

 

「間違えるところが」

 

 ◇

 

 次は、魔力の話だった。

 

「魔力というものを」

 

 日本側の研究員が言った。

 

「ヴァレシアでは、どのように定義していますか?」

 

 魔術師代表は、困った顔をした。

 

「魔力は、魔力です」

 

「ですよね」

 

「魔力では、駄目なのですか」

 

「困っているんです」

 

「なぜです?」

 

「測ってみると」

 

 画面が切り替わった。

 

「一つのものではないように、見えるからです」

 

 ◇

 

 日本側の暫定的な仮説では、魔法を使う際の現象は、少なくとも「魔力量」という一つの単純な値だけでは説明できなかった。

 

 身体の内側に、魔法現象へと変換できる状態がどれほどあるのか。それをどれほど速く動かせるのか。どれほど効率良く外の世界と結びつけられるのか。どれほど精密に形を与えられるのか。そして、どれほど長く安定させておけるのか。

 

 ◇

 

「例えば」

 

 研究員が説明した。

 

「大きな魔法を一度だけ使える人と、小さな魔法を長時間使える人がいるとします」

 

「違う人ですね」

 

「ですよね」

 

「もちろんです」

 

「でも、どちらの人についても、“魔力が強い”と言うことがありますか?」

 

「あります」

 

「そこなんです」

 

 ◇

 

 日本側では便宜上、魔力をいくつかの要素に分けて考え始めていた。「保有能力」「瞬間出力」「持続出力」「変換効率」「制御精度」「外界結合性」。ただし、そのすべてが暫定的なものだった。

 

 ◇

 

「あなた方は、魔力を」

 

 ファルネが聞いた。

 

「水のようなものだと考えているのですか?」

 

「最初は、そうでした」

 

 主任が答えた。

 

「貯水池があって、そこから水を流すようなモデルを考えていたんです」

 

「違います」

 

「やっぱり、そうですか?」

 

「少なくとも」

 

 ファルネは、自分の胸に手を当てた。

 

「私は、違うと思います」

 

「どう違うのです?」

 

「水なら」

 

 彼は、少し考えた。

 

「使ったら、減るだけでしょう」

 

「はい」

 

「でも魔力は、使い方が悪いと、まだ残っているのに使えなくなってしまうのです」

 

 主任の顔色が変わった。

 

「それです」

 

「何が?」

 

「詳しく、聞かせてください」

 

 ファルネは、少し怖くなった。

 

 ◇

 

「例えば」

 

 ファルネは説明した。

 

 若い魔術師が、力任せに術を使ったとする。魔力そのものは、まだ残っている。だが、流れが乱れ、呼吸が乱れ、集中が途切れる。すると、同じ術が、急に安定しなくなるのだ。

 

「休めば?」

 

「戻ります」

 

「どのくらいで?」

 

「人によります」

 

「食事は?」

 

「関係あります」

 

「睡眠は」

 

「あります」

 

「脱水は」

 

「何です、それは?」

 

「水が足りない状態です」

 

「それは、かなり悪い」

 

「低酸素は」

 

「高い山なら、悪くなります」

 

「体温は」

 

「熱を出したときも、駄目ですね」

 

 質問は、止まらなかった。

 

 魔術師代表が、アレシナに囁いた。

 

「捕まえた獲物を調べるときの目ですね」

 

「あなたが言うと、怖いわ」

 

 ◇

 

 研究主任は、一つの仮説を消した。

 

『魔力=体内に蓄積された、単純なエネルギー』

 

 その横に、新しい文字が書き加えられた。

 

『生体の状態との結びつきが強い。単純な蓄積量のモデルでは不足』

 

 ◇

 

「では、今度は」

 

 次の被験者は、日本人だった。転移の後、比較的早い時期に魔法の発現が確認された、二十代の女性である。

 

「初歩的な移動の操作を行います」

 

 机の上に、軽い球が置かれた。

 

「お願いします」

 

 女性は球を見つめ、集中した。球が、わずかに動いた。

 

 ファルネが、眉を寄せた。

 

「もう一度」

 

 今度は、数ミリ動いた。

 

「……」

 

「どうですか?」

 

 主任が聞いた。

 

「上手です」

 

 ファルネが答えた。

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「ヴァレシアの基準では?」

 

「初心者です」

 

「やっぱり」

 

「でも」

 

「でも?」

 

「変なのです」

 

 日本側の空気が変わった。

 

「何が、です?」

 

「力が、細い」

 

「はい」

 

「弱い」

 

「はい」

 

「でも」

 

 ファルネは、球を見つめた。

 

「まっすぐなんです」

 

「……まっすぐ?」

 

「初心者は」

 

 ファルネは、自分の手で何かを掴むような仕草をした。

 

「もっと、揺れるものなのです」

 

「球が、ですか?」

 

「魔力が」

 

「見えるのですか?」

 

「感じるのです」

 

「どのように?」

 

「……」

 

 ファルネは、困ってしまった。

 

 ◇

 

 そこで、最初の壁にぶつかった。日本側は説明を求めるが、ヴァレシア側には、それを説明することができないのだ。

 

「音ですか?」

 

「違います」

 

「熱?」

 

「違います」

 

「圧力?」

 

「違います」

 

「触覚?」

 

「少し、近いかも」

 

「色?」

 

「違います」

 

「流れ?」

 

「それは、近い」

 

「方向は?」

 

「あります」

 

「強さは?」

 

「あります」

 

「質は?」

 

「あります」

 

「質、とは?」

 

「質です」

 

「……」

 

 研究員が、額を押さえた。

 

「日本語でも」

 

 主任が言った。

 

「職人の感覚を、全部言葉にするのは難しいですからね」

 

「職人?」

 

「刃物を研ぐ人が、指で触って“まだ駄目だ”と分かる。でも、それを数値で説明するのは難しいんです」

 

「なるほど」

 

 ファルネは、少し安心した。

 

「それです」

 

 ◇

 

 日本側は、そこで方法を変えた。

 

「では」

 

 主任が言った。

 

「説明は、しなくていいです」

 

「いいのですか?」

 

「被験者が魔法を使うたびに、“良い”“悪い”“強い”“弱い”“乱れている”“滑らか”──あなたの感覚で、答えてください」

 

「それだけ、ですか?」

 

「それだけです」

 

 ◇

 

 実験が始まった。一回、二回、三回。呼吸を変え、姿勢を変え、集中の仕方を変え、力を強めたり弱めたりする。

 

 そのたびにファルネが評価し、研究者たちが、それを測定結果と照らし合わせていく。

 

 十数回目。

 

「出ました」

 

 研究員が言った。

 

「何が?」

 

「相関の候補です」

 

 ファルネには、その意味が分からなかった。

 

 だが画面には、彼が「乱れている」と言ったときにだけ、共通して変化するいくつかの測定値が、浮かび上がり始めていた。

 

「これは」

 

 ファルネが言った。

 

「私が、教えているのですか?」

 

 主任は笑った。

 

「はい」

 

「機械に?」

 

「正確には」

 

 研究員が言った。

 

「私たちに、です」

 

 ファルネは、しばらく画面を見つめていた。

 

「変な国ですね」

 

「最近、よく言われるようになりました」

 

 ◇

 

 午後は、訓練の時間だった。ここで、ヴァレシア側が本格的に教師役を務めることになった。

 

「肩に、力を入れないで」

 

「はい」

 

「違います」

 

「入れてません」

 

「入っています」

 

「筋電図では──」

 

「魔力の話です」

 

「……はい」

 

「呼吸を、止めないで」

 

「はい」

 

「止まりました」

 

「止めてないですよ」

 

「魔力の方が、止まったのです」

 

「何ですか、それ」

 

「だから──」

 

 ファルネは、だんだんと教師の顔になっていった。

 

 ◇

 

 数名の日本人の被験者が、同じ初歩の術を試した。全員の出力が、訓練経験のあるヴァレシア人より低かった。明らかに、低い。

 

「やはり」

 

 結果を見た魔術師代表が言った。

 

「はい」

 

「あなた方は」

 

 一度、言葉を選んでから、彼は言った。

 

「魔力には、向いていないのですね」

 

 日本側は、妙に納得していた。

 

「想定通りです」

 

「怒らないのですか?」

 

「なぜです?」

 

「……」

 

「生物学的な適性の差があるのなら、それが分かった方が助かりますから」

 

 ◇

 

 日本側の研究では、人間だけでなく、犬や猫、家畜、植物、微生物など、日本に由来する生物全般で、魔法現象への反応が確認され始めていた。

 

 つまり、その能力は、転移の後に突然、無から生まれたわけではない可能性が高い。地球の生命にも、もともと、この世界の法則につながる性質が潜んでいた。ただ地球では、それを使うことができなかったのだ。

 

「皆さんの世界には」

 

 主任が説明した。

 

「この現象を発現させる環境の条件そのものが、なかったのではないかと考えています」

 

「魔力が、存在しなかったと?」

 

「それすら、まだ」

 

「分からない?」

 

「はい」

 

「では」

 

 魔術師代表が言った。

 

「なぜ、あなた方は我々より弱いのです?」

 

 主任は、少し考えた。

 

「これは仮説ですが」

 

 ◇

 

 こちらの世界の生命は、非常に長い進化の過程で、魔法現象が存在することを前提としてきた。代謝、神経、筋肉、循環、感覚、組織の修復──それらが、何らかの形で魔力の利用と結びついているのかもしれない。

 

「魔力の臓器が、あるのですか?」

 

 アレシナが尋ねた。

 

「探しました」

 

「ありましたか?」

 

「今のところは」

 

 主任は、首を横に振った。

 

「そんなに簡単な話では、なさそうです」

 

 ◇

 

 日本側が最初に疑ったのは、特殊な器官だった。新しい腺、未知の組織、魔力を生み出す臓器。だが少なくとも現時点では、一つの器官だけに説明を押し込めることはできなかった。

 

「全身、ですか?」

 

「その可能性があります」

 

「神経は?」

 

「関係しています」

 

「血は?」

 

「関係している可能性があります」

 

「呼吸は」

 

「関係します」

 

「筋肉は」

 

「それもです」

 

「つまり?」

 

「全部、調べています」

 

 魔術師代表が、笑った。

 

「それなら、昔の我々の学者と同じですね」

 

「昔の?」

 

「魔力は心臓に宿る。いや、脳だ。血に宿る。骨に宿る。魂に宿る──」

 

 主任も、少し笑った。

 

「全部、ありましたか?」

 

「全部です」

 

「結論は?」

 

「簡単な場所には、ない」

 

 ◇

 

 数百年、あるいはもっと長い時間をかけて、ヴァレシアの人々が経験によって辿り着いた結論。日本人は巨大な装置を並べて、それと同じ入口に立っていたのだ。

 

 ◇

 

 しかし、差もあった。

 

 視察は続き、日本人の被験者たちへの指導も、日を追って重ねられていった。訓練を始めて三日目のことだ。

 

「昨日より」

 

 ファルネが言った。

 

「良くなっていますね」

 

「どのくらいです?」

 

「かなり」

 

「数値では」

 

 研究員が言った。

 

「制御の誤差が、昨日と比べて三割ほど縮小しています」

 

 ファルネは、画面を見た。

 

「三割?」

 

「はい」

 

「一日で?」

 

「はい」

 

 ヴァレシア側が、沈黙した。

 

「もう一人は」

 

 こちらも、改善していた。さらにもう一人も、改善していた。

 

「おかしい」

 

 魔術師代表が言った。今度は、ヴァレシア側が困る番だった。

 

「何がです?」

 

「速い」

 

「何がです?」

 

「覚えるのが」

 

 ◇

 

 日本人の魔力への適性は、低い。出力も弱い。同じ期間だけ訓練すれば、ヴァレシア人の方が強い魔法を使える可能性が高い。

 

 だが、日本人には、別のものがあった。

 

 記録、測定、映像、反復、個人差の比較。呼吸、睡眠、食事、姿勢、集中の仕方、休憩の時間。それらを一つずつ試し、効いたものだけを残していくのだ。

 

 ◇

 

「昨日」

 

 ファルネが、被験者の女性に言った。

 

「力を押し出すな、と言いましたね」

 

「はい」

 

「今日は、もうやっていない」

 

「昨日の映像を見ましたから」

 

「映像?」

 

「失敗したときと成功したときの、身体の状態を比べて」

 

「……」

 

「寝る前には、練習用のシミュレーションもやりました」

 

「寝る前に?」

 

「はい」

 

「休みなさい」

 

 研究者たちが、笑った。

 

 だが、ファルネは笑わなかった。

 

「本当に」

 

 彼は言った。

 

「休みなさい」

 

 空気が、少し変わった。

 

「魔力は」

 

 ファルネは続けた。

 

「使えば使うほど上手くなる、とは限らないのです」

 

「はい」

 

「無理をすると」

 

 彼は、自分の胸を指した。

 

「変な癖がつく」

 

「癖、ですか?」

 

「流れの、です」

 

「矯正はできますか」

 

「できます」

 

「その方法は」

 

「だから」

 

 ファルネは、少し怒った顔をした。

 

「今は、休むことです」

 

 ◇

 

 主任が、すぐに記録係に言った。

 

「訓練の手順に、休息の項目を追加」

 

「はい」

 

「ファルネさん」

 

「何です?」

 

「休息の期間についての考え方を、あとで教えてください」

 

「……」

 

 ファルネは、頭を抱えた。

 

「あなた方は」

 

「はい」

 

「本当に、何でも調べるのですね」

 

「仕事ですので」

 

 ◇

 

 その日の夕方、視察団は、別の部屋の前を通りかかった。

 

 そこには、歴史の資料が並んでいた。技術史、農業史、公衆衛生史、製鉄史、窯業、製紙、測量、水利、建築、機械、化学。紙の本だけではない。膨大な資料が検索され、比較されていた。

 

「これは」

 

 アレシナが聞いた。

 

「魔法の研究ですか?」

 

「別の班です」

 

「何をしているのです?」

 

 日本側の担当者は、少し迷ってから答えた。

 

「ヴァレシアでも作れる技術を、探しているんです」

 

 視察団の足が、止まった。

 

「日本の機械を」

 

 商人代表が言った。

 

「売るためですか?」

 

「逆です」

 

「逆?」

 

「日本製の装置を渡して」

 

 担当者は言った。

 

「故障したら日本に直してもらうしかない、という状態を、避けたいんです」

 

 ◇

 

 そこにあったのは、数百年前──あるいはさらに昔の、日本自身が今よりはるかに貧しかったころの資料だった。人々が、どんな材料で、何を作っていたのか。

 

「現地で、材料が取れるか」

 

 担当者は言った。

 

「はい」

 

「現地の職人に、作れるか」

 

「はい」

 

「修理ができるか」

 

「はい」

 

「燃料や交換部品を、継続して用意できるか」

 

「……」

 

「それから」

 

「何です?」

 

「導入した結果」

 

 少し、間があった。

 

「仕事や社会を、壊しすぎないか」

 

 ◇

 

 アレシナは、資料を見つめた。

 

 最新の技術を、そのまま持ち込むのではない。日本人は、自分たちの歴史を、さかのぼって調べていたのだ。

 

「面白い」

 

 学者代表が言った。

 

「何が?」

 

「あなた方は」

 

 彼は、日本側を見た。

 

「未来から来たのに、過去を探している」

 

 担当者は笑った。

 

「未来のものが、いつでも一番役に立つとは限りませんから」

 

 その話は、そこで終わった。詳しい説明は、また後日ということになった。だが、アレシナはそのことを覚えておいた。

 

 ◇

 

 夜、視察団の会議が開かれた。

 

「今日の感想を」

 

 アレシナが言った。

 

「怖いです」

 

 魔術師代表が答えた。

 

「昨日も、誰かがそう言っていたわね」

 

「種類が、違うのです」

 

「何が怖いの?」

 

「日本人の魔力は、弱い」

 

「ええ」

 

「少なくとも、今は」

 

「ええ」

 

「でも」

 

 魔術師は、しばらく考えた。

 

「弱いからこそ、全部を調べる」

 

 ファルネも、頷いた。

 

「我々なら、子供が火を出せたら、“出せた”と考えます」

 

「日本は?」

 

「なぜ出たのか。なぜ今日は、昨日よりよく出たのか。なぜ疲れるのか。なぜ人によって違うのか──全部、聞くのです」

 

「それは」

 

 学者代表が言った。

 

「悪いことなのですか」

 

「分かりません」

 

 ファルネは、本気で分からないという顔をした。

 

「だから、怖いのです」

 

 ◇

 

 アレシナは、昼間の研究室を思い出していた。

 

 日本は、魔法を知らなかった。本当に、知らなかったのだ。だからこそ、ヴァレシア人の言葉を、子供のように聞いた。

 

 そして、一度聞いたことを測り、測ったことを比べ、比べたものを訓練に戻していった。

 

「たぶん」

 

 アレシナが言った。

 

「日本人は」

 

「はい」

 

「魔法が、得意になるわ」

 

 魔術師代表が、首を振った。

 

「我々より、ですか?」

 

「そこまでは言っていないわ」

 

「では」

 

「弱いままかもしれない」

 

 生まれつき、こちらの世界の生命の方が、魔力に適している。それは今日の研究で、むしろはっきりしたことだった。

 

「でも」

 

 アレシナは、一度考えてから言った。

 

「弱いものを、上手に使うようになる」

 

 部屋が、静かになった。

 

「それは」

 

 ファルネが言った。

 

「強い、というのとは違うのですか?」

 

 誰も、すぐには答えなかった。

 

 ◇

 

 日本人に、大きな魔力はない。少なくとも、今は。

 

 だが日本は、一・七グラムの球を数ミリ動かしただけの現象を、国家として研究の対象にした。犬が水を弾けば、それを記録した。稲が少しだけ異常な耐性を示せば、それを調べた。人が昨日より少し上手くなれば、その理由を探した。

 

 ヴァレシアでは、魔法は何千年も前から世界にあった。日本では、まだ一月にも満たない。その差は、途方もなく大きい。

 

 だからこそ、ファルネは最後にもう一度、口を開いた。

 

「殿下」

 

「何?」

 

「やっぱり」

 

 彼は、窓の向こうの研究棟を見た。

 

「少し、怖いです」

 

 ◇

 

 そのころ研究室では、日本側の主任も、似たようなことを言っていた。

 

「どうでした?」

 

 若い研究員が聞いた。

 

「ヴァレシアの魔術師は」

 

 主任は、今日の記録に目を通した。灯火、魔力の循環、休息、感覚、術式。どれも、数値ではまだ説明できない。

 

 ファルネが一瞬で気づいた乱れを、最新のセンサー群は、後になってようやく候補として拾い上げたのだ。

 

「すごいよ」

 

 主任は言った。

 

「日本人より、ですか?」

 

「比べものにならない」

 

「魔力の量で?」

 

「それもある」

 

「では」

 

「経験だよ」

 

 何世代も、何百年も、何千年もかけて、試し、失敗し、命を落とし、教え、残してきたもの。日本には、それがない。

 

「機械で」

 

 若い研究員が言った。

 

「追いつけますかね」

 

 主任は、首を横に振った。

 

「そう考えない方がいい」

 

「では」

 

「教えてもらうんだ」

 

 短い答えだった。

 

「その上で」

 

 主任は、表示を見つめた。

 

「測れるところを、測る」

 

「測れないところは?」

 

 主任は、少し笑った。

 

「測れるようになるまで──」

 

 主任は、そこで少し言葉を止めた。

 

「まずは、ちゃんと聞くことだ」

 

 ◇

 

 この日、日本とヴァレシアの間で、初めて一つの関係がはっきりと形になった。

 

 日本が教える国で、ヴァレシアが教わる国──ではない。少なくとも魔法については、その逆だった。

 

 そして、その逆転を、どちらもそれほど嫌がらなかった。

 

 ◇

 

 後に、日本とヴァレシアの共同魔法研究の歴史を記した者は、この時期をこう評している。

 

 日本は、魔法を発見したのではない。すでに魔法を知っていた人々と、出会ったのだ──と。

 

 そしてヴァレシアもまた、この日初めて、自分たちが何千年も当たり前に使ってきたものを、それを知らない人間の目で見ることになったのである。

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