日本視察、三日目。
ヴァレシア王国の視察団は、この日初めて、少しだけ安心していた。
◇
「今日は」
魔術師代表が確認した。
「我々の方が、詳しいのですね」
「少なくとも」
日本側の担当者が答えた。
「魔法については、間違いなく」
「本当に?」
「本当にです」
「昨日までは」
「はい」
「何を見ても、あなた方の方が詳しかった」
「今日は、逆です」
魔術師は、ほんの少しだけ胸を張った。アレシナはそれを見て、何も言わなかった。
◇
訪れた施設は、大学と国立の研究機関が共同で使っている、魔法現象の研究区画だった。
その名称自体が、まだ新しい。転移前には存在しなかった研究分野だからだ。日本人に魔法が発現してから、まだそれほど日は経っていない。
廊下の案内表示にも、「暫定」という文字が目立った。「暫定魔力計測室」「暫定生体影響評価室」「暫定魔法現象安全基準」「暫定術式分類」──。
「暫定ばかりですね」
アレシナが言った。
「まだ、分からないことばかりなので」
研究員が答えた。
「分からないまま名前を決めてしまうと、あとで困るんです」
「それでも、名前はつけるの?」
「名前がないと、会話ができませんので」
「大変ね」
「ものすごく」
◇
最初の部屋の中央には、一台の机が置かれていた。その上に、透明な箱と球、そして各種のセンサーが並んでいる。壁には、何本もの線が表示されていた。
「これは」
アレシナが気づいた。
「日本人が初めて動かしたという、あの球?」
「同じ型のものです」
転移から六日目。二十九歳の藤井真帆が、管理された環境の中で、一・七グラムほどのガラス球を、ごくわずかに動かした。日本政府が魔法の存在を公式に認めるきっかけとなった、あの実験である。
◇
「では」
研究主任が言った。
「ファルネさん」
「はい」
リヴァーノから視察団に同行してきた航海魔術師のファルネが、前に進み出た。彼は昨日、新幹線に乗ってから、ずっと機嫌が良かった。
「何をすれば?」
「まず」
主任は言った。
「何もしないでください」
「……」
「五分間」
「魔法を?」
「使わずに、です」
「それが、実験なのですか?」
「実験です」
ファルネは、何とも言えない顔をした。
◇
五分間。呼吸、心拍、皮膚の温度、脳の活動、筋肉の活動、血流、そして周囲の空間に生じる微弱な変動。さらに、日本側がまだ名称すら確定できていない、魔法が発現するときにだけ現れる複数の物理量。研究者たちは、それらすべてを同時に記録していった。
◇
「では」
主任が言った。
「簡単な灯火を、お願いします」
「火を?」
「はい」
「どのくらいの?」
「できるだけ、小さく」
ファルネが人差し指を立てると、その先に、小さな火が灯った。
表示が、一斉に動いた。
「おお」
日本の研究者たちから、声が上がった。ファルネは、少し得意そうな顔をした。
「これくらいなら──」
「待ってください」
研究員の一人が言った。
「何です?」
「もう一度、お願いできますか」
「火を?」
「同じ大きさで」
「分かりました」
◇
二回目の火が灯った。
「違う」
「何がです?」
ファルネが聞いた。
「同じ魔法なのに、波形が違うんです」
「当然でしょう」
部屋の空気が、止まった。
「当然、ですか?」
主任が聞き返した。
「はい」
「同じ灯火ですよね」
「灯火です」
「同じ大きさで」
「だいたい」
「それなのに?」
ファルネは逆に、なぜ分からないのかという顔をした。
「一回目は」
彼は、自分の指を示した。
「火を作りました」
「はい」
「二回目は」
「はい」
「周りの熱を集めて、火を保ちました」
数秒のあいだ、研究者たちは誰も動かなかった。
「待ってください」
主任が、ゆっくりと言った。
「同じ術ではない、と?」
「同じ灯火の術ですよ」
「方法が違うのに?」
「灯火は、灯火でしょう」
日本側は、沈黙した。ヴァレシア側は、少し嬉しそうだった。
◇
「こちらでは」
魔術師代表が、口を挟んだ。
「術の分類と、力の通し方とは、別のものなのです」
「詳しく、お願いします」
「例えば」
魔術師は、少し考えた。
「剣を振るう、と言いますね」
「はい」
「上から斬っても、横から斬っても、剣で斬ることに変わりはない」
「なるほど」
「ただし、身体の使い方は違う」
主任は、表示を見直した。
「……分類の軸を、一つ増やそう」
「術式の目的と、発現の経路を、分けますか?」
隣の研究者が言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「今は、まだ決めるな」
「了解です」
◇
アレシナは、少し笑った。
昨日、日本人は何もかも完成しているように見えた。それが今日は、目の前で分類表を書き直している。
「こういうところも」
学者代表が、小声で言った。
「普通なのですね」
「何が?」
「間違えるところが」
◇
次は、魔力の話だった。
「魔力というものを」
日本側の研究員が言った。
「ヴァレシアでは、どのように定義していますか?」
魔術師代表は、困った顔をした。
「魔力は、魔力です」
「ですよね」
「魔力では、駄目なのですか」
「困っているんです」
「なぜです?」
「測ってみると」
画面が切り替わった。
「一つのものではないように、見えるからです」
◇
日本側の暫定的な仮説では、魔法を使う際の現象は、少なくとも「魔力量」という一つの単純な値だけでは説明できなかった。
身体の内側に、魔法現象へと変換できる状態がどれほどあるのか。それをどれほど速く動かせるのか。どれほど効率良く外の世界と結びつけられるのか。どれほど精密に形を与えられるのか。そして、どれほど長く安定させておけるのか。
◇
「例えば」
研究員が説明した。
「大きな魔法を一度だけ使える人と、小さな魔法を長時間使える人がいるとします」
「違う人ですね」
「ですよね」
「もちろんです」
「でも、どちらの人についても、“魔力が強い”と言うことがありますか?」
「あります」
「そこなんです」
◇
日本側では便宜上、魔力をいくつかの要素に分けて考え始めていた。「保有能力」「瞬間出力」「持続出力」「変換効率」「制御精度」「外界結合性」。ただし、そのすべてが暫定的なものだった。
◇
「あなた方は、魔力を」
ファルネが聞いた。
「水のようなものだと考えているのですか?」
「最初は、そうでした」
主任が答えた。
「貯水池があって、そこから水を流すようなモデルを考えていたんです」
「違います」
「やっぱり、そうですか?」
「少なくとも」
ファルネは、自分の胸に手を当てた。
「私は、違うと思います」
「どう違うのです?」
「水なら」
彼は、少し考えた。
「使ったら、減るだけでしょう」
「はい」
「でも魔力は、使い方が悪いと、まだ残っているのに使えなくなってしまうのです」
主任の顔色が変わった。
「それです」
「何が?」
「詳しく、聞かせてください」
ファルネは、少し怖くなった。
◇
「例えば」
ファルネは説明した。
若い魔術師が、力任せに術を使ったとする。魔力そのものは、まだ残っている。だが、流れが乱れ、呼吸が乱れ、集中が途切れる。すると、同じ術が、急に安定しなくなるのだ。
「休めば?」
「戻ります」
「どのくらいで?」
「人によります」
「食事は?」
「関係あります」
「睡眠は」
「あります」
「脱水は」
「何です、それは?」
「水が足りない状態です」
「それは、かなり悪い」
「低酸素は」
「高い山なら、悪くなります」
「体温は」
「熱を出したときも、駄目ですね」
質問は、止まらなかった。
魔術師代表が、アレシナに囁いた。
「捕まえた獲物を調べるときの目ですね」
「あなたが言うと、怖いわ」
◇
研究主任は、一つの仮説を消した。
『魔力=体内に蓄積された、単純なエネルギー』
その横に、新しい文字が書き加えられた。
『生体の状態との結びつきが強い。単純な蓄積量のモデルでは不足』
◇
「では、今度は」
次の被験者は、日本人だった。転移の後、比較的早い時期に魔法の発現が確認された、二十代の女性である。
「初歩的な移動の操作を行います」
机の上に、軽い球が置かれた。
「お願いします」
女性は球を見つめ、集中した。球が、わずかに動いた。
ファルネが、眉を寄せた。
「もう一度」
今度は、数ミリ動いた。
「……」
「どうですか?」
主任が聞いた。
「上手です」
ファルネが答えた。
「本当に?」
「はい」
「ヴァレシアの基準では?」
「初心者です」
「やっぱり」
「でも」
「でも?」
「変なのです」
日本側の空気が変わった。
「何が、です?」
「力が、細い」
「はい」
「弱い」
「はい」
「でも」
ファルネは、球を見つめた。
「まっすぐなんです」
「……まっすぐ?」
「初心者は」
ファルネは、自分の手で何かを掴むような仕草をした。
「もっと、揺れるものなのです」
「球が、ですか?」
「魔力が」
「見えるのですか?」
「感じるのです」
「どのように?」
「……」
ファルネは、困ってしまった。
◇
そこで、最初の壁にぶつかった。日本側は説明を求めるが、ヴァレシア側には、それを説明することができないのだ。
「音ですか?」
「違います」
「熱?」
「違います」
「圧力?」
「違います」
「触覚?」
「少し、近いかも」
「色?」
「違います」
「流れ?」
「それは、近い」
「方向は?」
「あります」
「強さは?」
「あります」
「質は?」
「あります」
「質、とは?」
「質です」
「……」
研究員が、額を押さえた。
「日本語でも」
主任が言った。
「職人の感覚を、全部言葉にするのは難しいですからね」
「職人?」
「刃物を研ぐ人が、指で触って“まだ駄目だ”と分かる。でも、それを数値で説明するのは難しいんです」
「なるほど」
ファルネは、少し安心した。
「それです」
◇
日本側は、そこで方法を変えた。
「では」
主任が言った。
「説明は、しなくていいです」
「いいのですか?」
「被験者が魔法を使うたびに、“良い”“悪い”“強い”“弱い”“乱れている”“滑らか”──あなたの感覚で、答えてください」
「それだけ、ですか?」
「それだけです」
◇
実験が始まった。一回、二回、三回。呼吸を変え、姿勢を変え、集中の仕方を変え、力を強めたり弱めたりする。
そのたびにファルネが評価し、研究者たちが、それを測定結果と照らし合わせていく。
十数回目。
「出ました」
研究員が言った。
「何が?」
「相関の候補です」
ファルネには、その意味が分からなかった。
だが画面には、彼が「乱れている」と言ったときにだけ、共通して変化するいくつかの測定値が、浮かび上がり始めていた。
「これは」
ファルネが言った。
「私が、教えているのですか?」
主任は笑った。
「はい」
「機械に?」
「正確には」
研究員が言った。
「私たちに、です」
ファルネは、しばらく画面を見つめていた。
「変な国ですね」
「最近、よく言われるようになりました」
◇
午後は、訓練の時間だった。ここで、ヴァレシア側が本格的に教師役を務めることになった。
「肩に、力を入れないで」
「はい」
「違います」
「入れてません」
「入っています」
「筋電図では──」
「魔力の話です」
「……はい」
「呼吸を、止めないで」
「はい」
「止まりました」
「止めてないですよ」
「魔力の方が、止まったのです」
「何ですか、それ」
「だから──」
ファルネは、だんだんと教師の顔になっていった。
◇
数名の日本人の被験者が、同じ初歩の術を試した。全員の出力が、訓練経験のあるヴァレシア人より低かった。明らかに、低い。
「やはり」
結果を見た魔術師代表が言った。
「はい」
「あなた方は」
一度、言葉を選んでから、彼は言った。
「魔力には、向いていないのですね」
日本側は、妙に納得していた。
「想定通りです」
「怒らないのですか?」
「なぜです?」
「……」
「生物学的な適性の差があるのなら、それが分かった方が助かりますから」
◇
日本側の研究では、人間だけでなく、犬や猫、家畜、植物、微生物など、日本に由来する生物全般で、魔法現象への反応が確認され始めていた。
つまり、その能力は、転移の後に突然、無から生まれたわけではない可能性が高い。地球の生命にも、もともと、この世界の法則につながる性質が潜んでいた。ただ地球では、それを使うことができなかったのだ。
「皆さんの世界には」
主任が説明した。
「この現象を発現させる環境の条件そのものが、なかったのではないかと考えています」
「魔力が、存在しなかったと?」
「それすら、まだ」
「分からない?」
「はい」
「では」
魔術師代表が言った。
「なぜ、あなた方は我々より弱いのです?」
主任は、少し考えた。
「これは仮説ですが」
◇
こちらの世界の生命は、非常に長い進化の過程で、魔法現象が存在することを前提としてきた。代謝、神経、筋肉、循環、感覚、組織の修復──それらが、何らかの形で魔力の利用と結びついているのかもしれない。
「魔力の臓器が、あるのですか?」
アレシナが尋ねた。
「探しました」
「ありましたか?」
「今のところは」
主任は、首を横に振った。
「そんなに簡単な話では、なさそうです」
◇
日本側が最初に疑ったのは、特殊な器官だった。新しい腺、未知の組織、魔力を生み出す臓器。だが少なくとも現時点では、一つの器官だけに説明を押し込めることはできなかった。
「全身、ですか?」
「その可能性があります」
「神経は?」
「関係しています」
「血は?」
「関係している可能性があります」
「呼吸は」
「関係します」
「筋肉は」
「それもです」
「つまり?」
「全部、調べています」
魔術師代表が、笑った。
「それなら、昔の我々の学者と同じですね」
「昔の?」
「魔力は心臓に宿る。いや、脳だ。血に宿る。骨に宿る。魂に宿る──」
主任も、少し笑った。
「全部、ありましたか?」
「全部です」
「結論は?」
「簡単な場所には、ない」
◇
数百年、あるいはもっと長い時間をかけて、ヴァレシアの人々が経験によって辿り着いた結論。日本人は巨大な装置を並べて、それと同じ入口に立っていたのだ。
◇
しかし、差もあった。
視察は続き、日本人の被験者たちへの指導も、日を追って重ねられていった。訓練を始めて三日目のことだ。
「昨日より」
ファルネが言った。
「良くなっていますね」
「どのくらいです?」
「かなり」
「数値では」
研究員が言った。
「制御の誤差が、昨日と比べて三割ほど縮小しています」
ファルネは、画面を見た。
「三割?」
「はい」
「一日で?」
「はい」
ヴァレシア側が、沈黙した。
「もう一人は」
こちらも、改善していた。さらにもう一人も、改善していた。
「おかしい」
魔術師代表が言った。今度は、ヴァレシア側が困る番だった。
「何がです?」
「速い」
「何がです?」
「覚えるのが」
◇
日本人の魔力への適性は、低い。出力も弱い。同じ期間だけ訓練すれば、ヴァレシア人の方が強い魔法を使える可能性が高い。
だが、日本人には、別のものがあった。
記録、測定、映像、反復、個人差の比較。呼吸、睡眠、食事、姿勢、集中の仕方、休憩の時間。それらを一つずつ試し、効いたものだけを残していくのだ。
◇
「昨日」
ファルネが、被験者の女性に言った。
「力を押し出すな、と言いましたね」
「はい」
「今日は、もうやっていない」
「昨日の映像を見ましたから」
「映像?」
「失敗したときと成功したときの、身体の状態を比べて」
「……」
「寝る前には、練習用のシミュレーションもやりました」
「寝る前に?」
「はい」
「休みなさい」
研究者たちが、笑った。
だが、ファルネは笑わなかった。
「本当に」
彼は言った。
「休みなさい」
空気が、少し変わった。
「魔力は」
ファルネは続けた。
「使えば使うほど上手くなる、とは限らないのです」
「はい」
「無理をすると」
彼は、自分の胸を指した。
「変な癖がつく」
「癖、ですか?」
「流れの、です」
「矯正はできますか」
「できます」
「その方法は」
「だから」
ファルネは、少し怒った顔をした。
「今は、休むことです」
◇
主任が、すぐに記録係に言った。
「訓練の手順に、休息の項目を追加」
「はい」
「ファルネさん」
「何です?」
「休息の期間についての考え方を、あとで教えてください」
「……」
ファルネは、頭を抱えた。
「あなた方は」
「はい」
「本当に、何でも調べるのですね」
「仕事ですので」
◇
その日の夕方、視察団は、別の部屋の前を通りかかった。
そこには、歴史の資料が並んでいた。技術史、農業史、公衆衛生史、製鉄史、窯業、製紙、測量、水利、建築、機械、化学。紙の本だけではない。膨大な資料が検索され、比較されていた。
「これは」
アレシナが聞いた。
「魔法の研究ですか?」
「別の班です」
「何をしているのです?」
日本側の担当者は、少し迷ってから答えた。
「ヴァレシアでも作れる技術を、探しているんです」
視察団の足が、止まった。
「日本の機械を」
商人代表が言った。
「売るためですか?」
「逆です」
「逆?」
「日本製の装置を渡して」
担当者は言った。
「故障したら日本に直してもらうしかない、という状態を、避けたいんです」
◇
そこにあったのは、数百年前──あるいはさらに昔の、日本自身が今よりはるかに貧しかったころの資料だった。人々が、どんな材料で、何を作っていたのか。
「現地で、材料が取れるか」
担当者は言った。
「はい」
「現地の職人に、作れるか」
「はい」
「修理ができるか」
「はい」
「燃料や交換部品を、継続して用意できるか」
「……」
「それから」
「何です?」
「導入した結果」
少し、間があった。
「仕事や社会を、壊しすぎないか」
◇
アレシナは、資料を見つめた。
最新の技術を、そのまま持ち込むのではない。日本人は、自分たちの歴史を、さかのぼって調べていたのだ。
「面白い」
学者代表が言った。
「何が?」
「あなた方は」
彼は、日本側を見た。
「未来から来たのに、過去を探している」
担当者は笑った。
「未来のものが、いつでも一番役に立つとは限りませんから」
その話は、そこで終わった。詳しい説明は、また後日ということになった。だが、アレシナはそのことを覚えておいた。
◇
夜、視察団の会議が開かれた。
「今日の感想を」
アレシナが言った。
「怖いです」
魔術師代表が答えた。
「昨日も、誰かがそう言っていたわね」
「種類が、違うのです」
「何が怖いの?」
「日本人の魔力は、弱い」
「ええ」
「少なくとも、今は」
「ええ」
「でも」
魔術師は、しばらく考えた。
「弱いからこそ、全部を調べる」
ファルネも、頷いた。
「我々なら、子供が火を出せたら、“出せた”と考えます」
「日本は?」
「なぜ出たのか。なぜ今日は、昨日よりよく出たのか。なぜ疲れるのか。なぜ人によって違うのか──全部、聞くのです」
「それは」
学者代表が言った。
「悪いことなのですか」
「分かりません」
ファルネは、本気で分からないという顔をした。
「だから、怖いのです」
◇
アレシナは、昼間の研究室を思い出していた。
日本は、魔法を知らなかった。本当に、知らなかったのだ。だからこそ、ヴァレシア人の言葉を、子供のように聞いた。
そして、一度聞いたことを測り、測ったことを比べ、比べたものを訓練に戻していった。
「たぶん」
アレシナが言った。
「日本人は」
「はい」
「魔法が、得意になるわ」
魔術師代表が、首を振った。
「我々より、ですか?」
「そこまでは言っていないわ」
「では」
「弱いままかもしれない」
生まれつき、こちらの世界の生命の方が、魔力に適している。それは今日の研究で、むしろはっきりしたことだった。
「でも」
アレシナは、一度考えてから言った。
「弱いものを、上手に使うようになる」
部屋が、静かになった。
「それは」
ファルネが言った。
「強い、というのとは違うのですか?」
誰も、すぐには答えなかった。
◇
日本人に、大きな魔力はない。少なくとも、今は。
だが日本は、一・七グラムの球を数ミリ動かしただけの現象を、国家として研究の対象にした。犬が水を弾けば、それを記録した。稲が少しだけ異常な耐性を示せば、それを調べた。人が昨日より少し上手くなれば、その理由を探した。
ヴァレシアでは、魔法は何千年も前から世界にあった。日本では、まだ一月にも満たない。その差は、途方もなく大きい。
だからこそ、ファルネは最後にもう一度、口を開いた。
「殿下」
「何?」
「やっぱり」
彼は、窓の向こうの研究棟を見た。
「少し、怖いです」
◇
そのころ研究室では、日本側の主任も、似たようなことを言っていた。
「どうでした?」
若い研究員が聞いた。
「ヴァレシアの魔術師は」
主任は、今日の記録に目を通した。灯火、魔力の循環、休息、感覚、術式。どれも、数値ではまだ説明できない。
ファルネが一瞬で気づいた乱れを、最新のセンサー群は、後になってようやく候補として拾い上げたのだ。
「すごいよ」
主任は言った。
「日本人より、ですか?」
「比べものにならない」
「魔力の量で?」
「それもある」
「では」
「経験だよ」
何世代も、何百年も、何千年もかけて、試し、失敗し、命を落とし、教え、残してきたもの。日本には、それがない。
「機械で」
若い研究員が言った。
「追いつけますかね」
主任は、首を横に振った。
「そう考えない方がいい」
「では」
「教えてもらうんだ」
短い答えだった。
「その上で」
主任は、表示を見つめた。
「測れるところを、測る」
「測れないところは?」
主任は、少し笑った。
「測れるようになるまで──」
主任は、そこで少し言葉を止めた。
「まずは、ちゃんと聞くことだ」
◇
この日、日本とヴァレシアの間で、初めて一つの関係がはっきりと形になった。
日本が教える国で、ヴァレシアが教わる国──ではない。少なくとも魔法については、その逆だった。
そして、その逆転を、どちらもそれほど嫌がらなかった。
◇
後に、日本とヴァレシアの共同魔法研究の歴史を記した者は、この時期をこう評している。
日本は、魔法を発見したのではない。すでに魔法を知っていた人々と、出会ったのだ──と。
そしてヴァレシアもまた、この日初めて、自分たちが何千年も当たり前に使ってきたものを、それを知らない人間の目で見ることになったのである。