日本視察、四日目。
ヴァレシア王国の視察団は、会議室に入った。
◇
昨日までとは、少し様子が違っていた。
病院では、見る側だった。学校でも、農場でも同じだった。魔法の研究所では、途中から教える側にも回った。だが今日は、そのどちらでもない。
「今日は」
日本側の担当者が言った。
「交易について、お話しします」
最も早く席に着いたのは、商人代表だった。
「ようやく、か」
小声だった。アレシナが聞く。
「何が?」
「私の仕事です」
◇
机の上には、翻訳済みの資料が置かれていた。ヴァレシア語版と日本語版、図、品目、分類。その最初の頁には、こう記されていた。
『日本側の輸入関心品目』
商人代表は頁をめくり、もう一度めくり、それから最初の頁に戻った。
「何か?」
日本側の担当者が尋ねた。
「いえ」
商人は、少し困った顔をした。
「思っていたより」
「はい」
「多いのです」
◇
そこには、食料が並んでいた。穀物、豆類、油脂の原料、果実、香辛料、茶に似た飲料の原料、酒類、保存食品、畜産物、水産物。
木材、繊維、染料、樹脂、薬用植物。
鉱石、金属資源、非金属の鉱物、工業原料。
そして、別枠にもう一項目。
『魔法関連物質』
◇
「日本は」
商人が尋ねた。
「本当に、これを買うのですか」
「条件が合えば」
「小麦も?」
「はい」
「木材も?」
「はい」
「果物も?」
「はい」
「酒も?」
「それは、需要があると思います」
「日本にも、酒はあるでしょう」
「あります」
「では、なぜ」
日本側の担当者は、一瞬考えた。
「ベルカディアの商人にも、同じ質問をされそうですね」
「答えは?」
「外国に、酒があるからです」
商人が止まった。
「……それだけ?」
「それだけです」
アレシナが、少し笑った。
「日本人は」
担当者は続けた。
「自国で作れないから輸入する、というだけではないんです。味が違うから欲しい。珍しいから欲しい。好きだから欲しい。外国に旅行へ行けないのなら、せめて外国のものを食べてみたい」
商人の顔が、少しずつ変わっていった。
「つまり」
「はい」
「贅沢品も」
「市場になります」
商人は、ゆっくりと椅子に深く座り直した。
「殿下」
「何?」
「あります」
「何が?」
「売るものが、です」
◇
初日に日本の住宅を見て、彼は自信を失っていた。
日本人は、すでに便利なものをたくさん持っている。それなら、ヴァレシアは何を売ればいいのか。
答えは、意外なほど単純だった。日本にないもの。そして、日本人が欲しいと思うもの。
「では」
商人が、身を乗り出した。
「例えば、南部の赤葡萄酒は」
「成分の検査と検疫は必要ですが」
「売れますか?」
「売れる可能性はあります」
「北部の燻製魚」
「可能性はあります」
「香草酒」
「あります」
「青胡椒」
「むしろ、興味があります」
「山羊乳の硬いチーズ」
「検疫の条件次第です」
「王領西部の蜂蜜」
「調査しましょう」
質問が止まらない。アレシナが、途中で止めた。
「あなた」
「何でしょう」
「初日の夜、何を売ればいいのか分からない、と言っていなかった?」
「あの日の私は」
商人は言った。
「あの日の私です」
日本側から、少し笑いが漏れた。
◇
「ただし」
担当者がそう言うと、空気が変わった。
「輸入できるということと、すぐに大量に輸入するということは、別の話です」
検疫の問題があった。未知の細菌、未知の菌類、寄生虫、毒素、アレルゲン。それらが地球の生命にどのような影響を与えるのか。
逆もある。日本からヴァレシアへ、微生物や種子、昆虫、病原体が渡っていく可能性。これは、単純な売り買いの話ではないのだ。
「最初は」
日本側が言った。
「品目も量も、かなり限定することになります」
「面倒ですね」
商人が言った。
「はい」
「時間もかかる」
「はい」
「儲けも減る」
「たぶん」
商人は、腕を組んだ。
「それでも、ですか?」
「やります」
即答だった。
「なぜです?」
日本側の担当者の表情が、少しだけ変わった。
「食べ物だけの話では、ないからです」
◇
転移によって、日本は国外との交易をほぼすべて失った。食料、資源、原料──それだけではない。外国の商品、外国の文化、外国の人々。旅行、留学、仕事。ついこの前まで、当たり前に存在していた、世界とのつながり。
「外国から、何かがやって来る」
担当者は言った。
「ということ自体が」
一度、言葉を止める。
「今の日本にとっては、かなり大きな意味を持っているんです」
商人は、それ以上、値段の話をしなかった。
◇
次は、資源の話だった。ここでは、日本側がより真剣だった。
「鉱山の位置は」
「すぐには、お伝えできません」
ヴァレシア側が答えた。
「分かる範囲で構いません」
「鉄は」
「関心があります」
「銅は」
「あります」
「鉛は」
「あります」
「銀は」
「用途によります」
「金は」
「あります」
「魔銀は」
日本側が止まった。
「それは」
「はい」
「昨日いただいた試料と、同じ種類のものですか?」
「そうです」
研究者が資料に目を落とした。
「非常に、興味があります」
商人代表は、それを聞き逃さなかった。
「非常に?」
「はい」
「どの程度です?」
「価格を決められる程度には、まだ分かっていません」
商人が、目を細めた。
「価値がない、と?」
「逆です」
「では」
「価値を測る基準が、ないんです」
◇
室内が静かになった。
日本側にとって、鉄や銅、木材や穀物には、値段をつける方法がある。需要と供給、精製の費用、輸送費、品質。
だが、魔法の素材は、地球には存在しなかったのだ。
「例えば」
研究者が言った。
「この鉱物が、魔法の装置にしか使えないのか。電子機器にも影響するのか。生体に作用するのか。触媒になるのか。長く使えるのか。それとも、消耗するのか」
「種類によります」
ヴァレシア側が答えた。
日本側の研究者は、ものすごい勢いで記録を取り始めた。
「種類?」
「あります」
「何種類です」
「正式な分類だけで、ですか?」
「はい」
魔術師代表は、少し考えた。
「王国で流通しているものだけなら──」
続く数字を聞いて、日本側の研究員たちは、何人も同時に資料へ手を伸ばした。
アレシナは、ファルネが研究者たちに囲まれていた姿を思い出した。
「皆さん」
「はい?」
「少し、落ち着いてください」
「……失礼しました」
◇
次は、日本からヴァレシアへ、の話だった。
商人代表が、姿勢を正した。ここからが、本番だ。
「では」
彼は言った。
「日本は、何を売ってくださるのです?」
日本側に、少し間があった。
「それを、現在検討しています」
商人代表は、固まった。
「まだ?」
「まだです」
「日本には」
「はい」
「商品が」
「あります」
「大量に」
「あります」
「それなのに?」
「何を輸出してよいかは」
一度、言葉を区切る。
「また、別の問題なのです」
「なぜです?」
日本側の担当者は、資料を開いた。そこには、三つの言葉が並んでいた。
『安全性』
『社会的影響』
『継続性』
◇
「まず」
「はい」
「軍事技術は、提供しません」
王太子ルヴェリオがここにいれば、嫌な顔をしただろう。アレシナは、少しだけ兄の顔を思い浮かべた。
「武器そのもの、だけですか?」
ヴァレシア側の外交官が尋ねた。
「違います」
「では」
「明確に軍事利用を目的とする技術や、軍事能力を大幅に高めるものも含みます」
「例えば」
「それを、どこまで含めるか」
担当者は苦笑した。
「今、日本国内でも議論しているところなんです」
通信、測量、航空、材料、工作機械、薬品。民間にも軍事にも使える技術は多い。その境界は、簡単には引けなかった。
「では」
商人が聞いた。
「農具は?」
「候補です」
「薬は」
「候補です」
「照明は」
「候補です」
「水を汲み上げる機械は」
「候補です」
「印刷機は」
日本側に、少し間があった。
「それも、検討の対象です」
学者代表が、反応した。
「印刷が、問題になるのですか?」
「技術的な問題ではありません」
「では、何が?」
「社会への影響です」
◇
印刷が普及すれば、本が安くなる。文書が増える。新聞、法令、宗教書、政治文書、教育。知識が、広がっていく。
それは、良いことだ。ただし、社会を変える。
「変わることが」
学者が言った。
「悪いのですか」
「いいえ」
「なら」
「変える権利が」
日本側の担当者は言った。
「日本にあるのか、という問題なのです」
室内が静まり返った。アレシナは、その言葉を胸に刻んだ。
「でも」
彼女は言った。
「欲しいと言っているのは、私たちでしょう」
「はい」
「それでも?」
「欲しいと言われたものを、全部渡してしまうのも」
担当者は、少し考えた。
「責任を放棄することになる場合があるのです」
「例えば?」
日本側の担当者は、水の入った容器を指した。
「仮に、非常に高性能な浄水装置を、一万台お渡ししたとします」
「はい」
「水の問題は、改善します」
「良いことですね」
「ただし」
交換部品、特殊な材料、電子制御、そして整備。
「十年後に、日本から部品が届かなくなったら?」
商人代表が、黙り込んだ。
「あるいは」
「はい」
「その装置があるせいで、ヴァレシア国内で、水利の設備やポンプを作る技術が育たなくなってしまったら?」
◇
アレシナは、研究所で見た、あの部屋を思い出した。技術史の資料、古い本、昔の機械。日本人が、自分たちの過去を調べていた。
「だから」
「はい」
「昔の技術を、調べているのですね?」
「そのためでもあります」
今の日本で当たり前の機械が、ヴァレシアにとって最適だとは限らない。日本国内では、すでに何百年分もの技術史の資料が掘り返されていた。簡単なポンプ、水車、風車、保存の技術、衛生設備、農機具、製紙、窯業、測量、加工機械。
ただし、それをそのまま昔の形に戻すわけでもなかった。
「古い技術を」
学者が聞いた。
「そのまま渡すのですか?」
「いいえ」
「では」
「考え方としては」
担当者は、少し考えた。
「ヴァレシアで手に入る材料と、ヴァレシアで維持できる設備と、今の日本が持っている知識とを」
一度、言葉を区切る。
「組み合わせるんです」
「昔の日本とは、違うものになる?」
「そうなると思います」
アレシナは、面白いと思った。古いとも、新しいとも言えない。そのどちらでもないものだ。
「魔法も?」
魔術師代表が言った。日本側が、一瞬止まった。
「そこなんです」
「何が?」
「私たちも」
担当者は言った。
「それを、考え始めているんです」
◇
例えば、日本の昔の揚水ポンプに、ヴァレシアの流水系の魔法を組み合わせる。あるいは、製鉄炉の温度管理に火の魔法を、乾燥に風の魔法を、病院に治癒の魔法を。
まだ、何も決まってはいない。だが、考えることはできる。
「それでは」
魔術師代表が言った。
「日本の技術でもなく」
「はい」
「ヴァレシアの技術でもない」
「はい」
「いったい、何になるのです?」
日本側の担当者は、少し笑った。
「そこは、これから名前を考えましょう」
◇
午後は、もっと現実的な問題に移った。金である。
「日本円、ですか?」
商人代表が言った。
「はい」
「我々の金貨は?」
「価値はあります」
「日本で使えますか?」
「そのままお店で、という意味でしたら、難しいですね」
貨幣の交換と、その価値。日本円と、ヴァレシアの金貨、銀貨、銅貨。それを、どれくらいの比率で交換するのか。そして、誰がそれを決めるのか。
「金貨なら」
商人が言った。
「金そのものに、価値があります」
「はい」
「なら、簡単でしょう」
「短期的には、そうです」
「長期的には?」
日本側の経済担当者が、資料を示した。
「金属としての価値だけを基準にすると、パン一個の値段も、宿の一泊の値段も、人夫の一日分の賃金も」
「……」
「比べられなくなってしまうんです」
経済の規模、生産性、賃金、物価。あまりにも違いすぎた。
「日本人一人の、一日の賃金で──」
商人は、途中まで言いかけて、止まった。
「ヴァレシアでは」
「はい」
「かなりのものが、買えてしまう?」
「その可能性があります」
商人の顔から、笑みが消えた。
商売なら、好都合だ。だが、国家にとっては危険だった。
日本人が大量の金を持ってヴァレシアへやって来る。食料を買い、土地を買い、家を買い、職人を雇う。物の値段が上がり、地元の人間には手が届かなくなる。
「それを」
アレシナが言った。
「日本も、心配しているのですか?」
「かなり」
だからこそ、最初から完全な自由貿易にはしない。品目、量、取引業者、決済、入国、土地の取得。すべてを段階的に進めていくのだ。
「不自由ですね」
商人代表が言った。
「はい」
「商人としては、嫌いなやり方です」
「でしょうね」
「でも」
一度、言葉を区切って、彼は言った。
「必要なことです」
日本側の担当者は、少し驚いた顔をした。
「ここへ来る前の私なら」
商人は続けた。
「全部開けろ、と言っていたでしょう」
「今日は?」
「日本を、見ましたから」
住宅、港、農場、人型のロボット。日本人一人が、どれほどのものを生み出すのか。
「八千三百万人が」
商人は言った。
「財布を持って、やって来るのでしょう?」
日本側の経済担当者が、苦笑した。
「そうならないように、します」
「ぜひ、お願いします」
◇
夕方になっても、会議は続いた。
港、検疫、倉庫、保険、事故、契約、盗難、偽物、不良品、言語、度量衡──。
「待ってください」
商人代表が言った。
「重さの単位まで違うのですか?」
「はい」
「長さも?」
「はい」
「容量も?」
「はい」
商人は、机に額をつけた。
「交易というのは」
アレシナが言った。
「こんなに面倒なものなの?」
商人が、顔を上げた。
「殿下」
「何?」
「交易とは」
深いため息をついてから、彼は言った。
「面倒を、金に変える仕事なのです」
日本側の商務担当者が、思わず頷いた。
「名言ですね」
「ただでは、教えませんよ」
初めて、商人同士らしい会話になった。
◇
会議の最後に、アレシナが尋ねた。
「一つだけ、よろしいですか」
「はい」
「日本は」
彼女は、言葉を選んだ。
「ヴァレシアを、豊かにしたいのですか」
日本側の担当者は、すぐには答えなかった。
「それは、日本が決めていいことではないと思っています」
「では」
「ヴァレシアが豊かになりたいと望むのなら」
一拍、置いて。
「その邪魔をしない交易にしたいのです」
アレシナは、じっと相手を見つめた。
「ずいぶんと」
「何でしょう」
「慎重なのですね」
「一度入ってしまった技術や商品は」
担当者は言った。
「なかったことには、できませんから」
その言葉は、魔法の話にも似ていた。
日本人は、知らないものを、すぐには決めつけない。だが、一度使えると分かれば、調べ、比べ、広げていく。だからこそ、広げる前に、立ち止まっているのだ。
「では」
アレシナが言った。
「私たちも、考えます」
「何をです?」
「何を買うか」
日本側は、少しだけ安心した顔をした。
「それから」
「はい」
「何を、買わないか」
今度は、日本側の担当者が笑った。
「ぜひ」
◇
夜、視察団の宿舎。商人代表の部屋の机の上には、紙が何枚も散らばっていた。
赤葡萄酒、香草酒、蜂蜜、塩漬けの肉、燻製の魚、香辛料、薬草、木材、鉱石、魔法の素材。売れる。たぶん、かなり売れるだろう。
その下には、日本から買いたいものが並んでいる。紙、薬、農具、機械、照明、時計、加工設備、通信、印刷。
そして、そのほとんどの横に、「要協議」あるいは「輸出可否未定」と書き込まれていた。
「まったく」
商人は、独り言を言った。
「金を払うと言っているのに」
そのとき、昼間に日本側が言ったことを思い出した。売れることと、売っていいことは、違う。
商人にとっては、かなり嫌いな考え方だった。だが、少しだけ理解できた。
日本には、値段をつけられるものがたくさんある。そして、いくら金を積まれても売らないものもある。
一方でヴァレシアにも、日本人がまだ値段をつけられないものがある。魔法、魔法の鉱物、そして何千年分もの知識。
そこで商人は、初めて少しだけ笑った。
「なら」
彼は、紙に一行を書き加えた。
『こちらにも、交渉の材料はある』
◇
そして翌朝、ヴァレシア王国の視察団は、日本との関係について、初めて本気で考え始めた。
「何をもらえるか」ではなく、「何を交換できるか」を。