ヴァレシア王国、王都ヴァレシアス。
日本視察団から届いた第三次の中間報告は、最初、財務官の机の上で止まった。
◇
「……計算を、やり直せ」
「三度目です」
「四度目をやれ」
「同じ結果です」
「なら、五度目だ」
「閣下」
若い官吏が、疲れた顔で言った。
「計算の回数を増やしても、答えは変わりません」
◇
机の上には、日本国に関する数字が並んでいた。
人口、八千三百万人。一人当たりの経済規模は、二〇二五年を基準とした購買力換算で、約二十万米ドル相当。
それだけでは、意味が分からない。米ドルという貨幣を、ヴァレシア人は使っていないからだ。
そこで、日本側から提供された生活物価──食料、住宅、衣服、労働、各種のサービス──を、ヴァレシア側で分かっている商品の価格と比べていくことになった。
もちろん、完全な比較などできはしない。日本には水道があり、電気があり、自動の機械がある。医療制度も教育制度も違えば、住宅の質も違う。
それでも、おおまかな経済規模なら推計できる。
ヴァレシア王国の人口は、百九十万人。国全体の経済規模は、同じく二〇二五年基準の購買力換算で、約一兆五千億円相当。一人当たりでは、約七十九万円相当になる。
日本側の数字を、無理やり同じ物差しに引き直してみる。その結果は──。
◇
「千……数百倍、か」
財務官が、紙を見つめた。
「はい」
「人口の差は、四十四倍程度だろう」
「はい」
「では」
「日本人一人当たりの生産力そのものが」
若い官吏は、言いにくそうにした。
「我が国より数十倍大きい、と考えなければ、説明がつきません」
財務官は、椅子に座り込んだ。
「国庫の話ではないのだな」
「違います」
「王室の財産でもない」
「違います」
「日本政府の収入でもない」
「はい」
「国全体が」
「はい」
「一年間に生み出している富、か」
「概念としては、そうなります」
財務官は、天井を見上げた。
「意味が分からん」
「私もです」
それが、最初の、正直な結論だった。
◇
数日後、その数字は王宮へ届けられた。
「千数百倍」
国王アルヴェリオ三世が言った。
「試算です」
財務官が答えた。
「誤差は」
「かなりあります」
「実際は、その半分だとしたら?」
「それでも、途方もなく大きいです」
「十分の一だとしたら」
「それでも」
財務官は、少し笑いそうになった。
「我が国とは、比べものになりません」
王太子ルヴェリオが、資料を読んだ。
「八千三百万人もいるから大きいのだと、思っていた」
「我々も、そう思っておりました」
「違ったのか」
「はい」
「人口が多く」
アルヴェリオが言った。一拍、置く。
「その一人一人も、豊かなのだな」
「はい」
それが、一番厄介なことだった。
◇
巨大な帝国なら、知っている。ヴァルガニアだ。人口、土地、兵士、税──どれも大きい。
だが、あの国では、農民一人一人が王侯のように暮らしているわけではない。
日本は、違った。
王女から届いた報告には、庶民の住宅のことが書かれていた。温かい水、清潔な便所、冷暖房、自動車、病院、学校、食事、そして百歳近い老人たち。そのすべてが、王侯向けのものではない。「普通」なのだ。
「陛下」
財務官が言った。
「日本の富裕な商人が来るだけでも、危険です」
「分かっている」
「違うのです」
「何がだ」
「日本では」
財務官は、資料を叩いた。
「普通の勤労者であっても」
一度、言葉を区切る。
「我が国では、富豪に見える可能性があるのです」
沈黙が落ちた。
それは、十万の兵士よりも、ある意味で扱いに困る問題だった。
◇
同じころ、王都の商人組合。
「日本人が来るらしい」
「らしいな」
「金持ちだそうだ」
「どのくらいの」
「とんでもなく」
「だから、どのくらいだ」
「普通の職人が、こっちの大商人くらいだと」
「馬鹿を言え」
「もっと上かもしれん」
噂は、数字よりも速かった。
「日本では、庶民でも毎日肉を食うらしい」
「嘘だ」
「魚もだ」
「海の国なら、まあ」
「果物もだ」
「王族か」
「庶民だ」
「嘘だ」
「九十歳でも働くらしい」
「それは、罰なのか?」
「元気だからだそうだ」
「もっと嘘だ」
「人の形をした鉄の人形を、農民が借りて使うらしい」
「それは、絶対に嘘だ」
だが商人たちは、噂を笑い飛ばしながらも、自分たちの倉庫を確かめていた。
葡萄酒、香辛料、蜂蜜、保存肉、干した果物、木材、薬草。
「日本人は、甘いものを食うのか」
「知らん」
「調べろ」
「酒は」
「飲むらしい」
「強い酒は」
「知らん」
「調べろ」
八千三百万人という、日本の市場。
まだ、日本人は一人も王都に来ていない。それなのに、商人たちの頭の中では、もう売り買いが始まっていた。
◇
ただし、誰もが歓迎していたわけではない。
王都の、鍛冶職人の組合。
「日本製の農具?」
「まだ、売ると決まったわけじゃない」
「売られたら、どうなる?」
「知らん」
「鉄が、いいらしい」
「知っている」
「錆びにくい」
「知っている」
「軽い」
「知っている」
親方が、若い職人を睨んだ。
「どこで、そんなことを知った」
「港から戻ってきた商人が──」
「余計なことばかり、早く伝わる」
親方は、自分の工房を見渡した。炉、金床、槌、そして弟子たち。
三十年、鉄を叩いてきた。腕には自信がある。
だが日本という国では、人が手で叩かなくても、同じ形の金属を千も万も作れるらしい。
「親方」
「何だ」
「日本の道具」
弟子が、恐る恐る聞いた。
「見てみたいですか」
親方は、しばらく答えなかった。
「見たい」
正直な答えだった。
「だが」
「はい」
「それと同じ物を作れと言われたら」
親方は、炉の火を見つめた。
「腹が立つだろうな」
◇
農村では、日本の話は、また違う形になった。
「日本が、麦を買うんだとさ」
村人たちが笑った。
「何でだ」
「食うからだろう」
「八千三百万人もいるんだろ」
「だから、買うんだ」
「自分で作ればいい」
「作ってるらしい」
「じゃあ、買うな」
理屈は、もっともだった。
だが、領主の代官は笑わなかった。
「もし」
代官は、村の有力な農民たちに向かって言った。
「日本人が、今の倍の値段で麦を買うと言ったら?」
全員が、黙り込んだ。
「売る」
一人が言った。
「私も」
「全部か?」
沈黙が落ちた。代官は続けた。
「それで、村のパンの値段は、どうなる」
今度は、誰も答えなかった。
王宮が自由な取引に慎重になっている理由を、農民たちは一袋の麦で理解したのだった。
◇
貴族たちには、また別の恐怖があった。
「土地を、買わせるな」
ある伯爵が言った。
「なぜだ」
別の男が問う。
「買われてしまう」
「農地を?」
「農地もだ」
「城も?」
「城もだ」
「日本人が?」
「金があるからな」
話は、どんどん大きくなっていった。
「そのうち、領地まで買われるぞ」
「領地は、売れん」
「法の上では、な」
笑いが起きた。だが、その笑いは乾いていた。
日本に征服の意思がなくても、金だけで社会は変えられてしまう。それを理解できる程度には、ヴァレシアの貴族たちも愚かではなかった。
◇
そして聖職者たちは、また別のことを心配していた。
「百歳?」
「平均で、だそうです」
「神の定めた寿命を──」
「違う」
年老いた司祭が、若い修道士を制した。
「長く生きること自体を、神への反逆と呼ぶのなら」
司祭は、窓の外を見た。
「病人を治している我々は、全員が反逆者ということになる」
「では、問題はないのですか?」
「そうは言っていない」
日本、死、病、生命。人間の身体を、どこまで変えてよいのか。日本の医療とともに、新しい問いが入り込んでくる。
「それよりも」
司祭は言った。
「私が気になっているのは」
「何でしょう」
「百歳まで生きる人間が」
一拍、置いて。
「何歳まで、自分のことを若者だと思っているのか、だ」
若い修道士は、少し考えた。
「それは、かなり重要なことでしょうか」
「説教を聞く側の年齢が、倍になる」
「なるほど」
◇
魔術師たちの思いは、もっと複雑だった。
「日本人は、魔力が弱いそうだ」
「聞いた」
「安心した」
「早いな」
「何がだ」
「安心するのが、だ」
王都の魔術師組合には、視察団から初期の報告が共有されていた。
日本人の、生まれつきの魔法への適性は、低い。ただし、訓練の効率は、高い可能性がある。
「数日で?」
「初心者の制御が、改善したそうだ」
「数日で?」
「記録を取っているらしい」
「魔法を?」
「全部だ」
「何を、全部」
「呼吸、姿勢、睡眠、食事、術の成功率、魔力の乱れ──」
「そんなもの」
老魔術師が、顔をしかめた。
「師匠が見れば、分かることだ」
「その師匠の感覚を」
若い魔術師が言った。
「機械で調べようとしているんです」
老魔術師の動きが、止まった。
「何のために」
「誰でも教えられるように、でしょうか?」
今度は、誰も笑わなかった。
もし、達人の感覚や秘伝、勘といったものが、言葉になり、数字になり、教本になるのだとしたら──それは、日本人だけの問題ではない。
「殿下は」
魔術師組合の長が、報告書に目をやった。
「日本と、共同研究をなさるおつもりか」
「おそらく」
「ならば」
一度、言葉を区切る。
「こちらからも、人を出せ」
「監視のためですか?」
組合長は、少し考えた。
「違う」
「では」
「学ぶためにだ」
◇
夜、王都の酒場。ここでは、話はもっと単純だった。
「日本人は、全員が金持ちなんだとよ」
「嘘だ」
「百歳まで生きるらしい」
「嘘だ」
「空を飛ぶらしい」
「それは、本当らしいな」
「月まで行くとか」
「それも?」
「魔法は、下手らしい」
「それは本当だ」
笑いが起きた。
「なら、勝てるな」
「何にだ」
「魔法勝負だよ」
「お前がか?」
「俺じゃない」
「じゃあ、誰がだよ」
また、笑いが起きた。
その隣で、一人の男が静かに酒を飲んでいた。港で働く、荷運びの人夫だった。
「なあ」
彼は、突然口を開いた。
「日本の船が」
「何だ」
「荷物を全部、自分で降ろせるとしたら」
笑いが、少し止まった。
「俺たちは」
男は、自分の手を見つめた。
「何をすればいいんだ」
誰も、すぐには答えなかった。
◇
日本との接触が、まだ王宮の話だったころ。人々は、好き勝手に驚いていることができた。
巨大な船、空飛ぶ機械、八千三百万人、月、百歳。どれも遠い、物語の中の話だった。
だが、交易が始まる。日本人がやって来る。ヴァレシア人が日本へ行く。日本の金が王国に入り、日本の商品が店に並ぶかもしれない。
そのとき、日本はもう物語ではなくなる。
自分の麦、仕事、土地、店、息子や娘、そして将来。そのすぐ隣に、日本がやって来るのだ。
◇
王宮では、アルヴェリオ三世が、夜遅くに娘からの最新の報告を読み終えていた。
その最後に、アレシナはこう書いていた。
──日本との交易には、莫大な利益が見込まれる。
──同時に、無制限な交易は、我が国の経済と社会を短期間で大きく変えてしまう危険がある。
そして、その下に。
──日本政府も、同じ危険を認識している。
アルヴェリオは、その一文を二度読んだ。
「陛下」
宰相が言った。
「日本が、怖いですか」
王は、少し考えた。
「ああ」
「では」
「だが」
王は、報告書を閉じた。
「少し、安心もした」
「なぜです」
「自分たちが強すぎるということを」
一拍、置いて。
「向こうも、分かっているからだ」
宰相は、何も言わなかった。
アルヴェリオは、別の紙を手に取った。日本国との正式な外交関係を結ぶための、王国側の基本方針の案である。
「準備を、進めろ」
「国交の樹立を、ですか?」
「ああ」
王は、東の方角を見た。
日本は、大きすぎる。豊かすぎる。強すぎる。だからといって、遠ざけておけば安全──そんな相手ではない。海の向こうに、もう、いるのだ。
「避けられない隣人ならば」
アルヴェリオ三世は言った。
「知らないままにしておく方が」
わずかに笑って、王は続けた。
「よほど、危険だ」