日本国とヴァレシア王国が正式な外交関係を樹立したという知らせが、ベルカディア商王国の王都へ届いたのは、その日の夕刻だった。
知らせそのものは、短かった。日本国の内閣総理大臣がヴァレシアの王都を訪問し、国王アルヴェリオ三世との間で、友好及び基本関係に関する条約に署名した。両国は互いを主権国家として正式に承認し、外交使節の交換、通商の協議、検疫、海難救助、学術と魔法研究における交流を、段階的に開始する。
文字にすれば、それだけのことだった。
しかし、その紙一枚がベルカディアの王宮に運び込まれてから一刻も経たないうちに、予定されていた夕食会が一つ取りやめになり、商務関係者が三人呼び戻され、海軍本部から使者が走り、王都の主要な商会へ非公式の照会が送られた。
そしてその夜には、国王フェルディオ四世の前に、十数人が集まっていた。
「つまり」
フェルディオ四世は、机に置かれた報告書を指で軽く叩いた。
「我々は、負けたのか」
誰も、すぐには答えなかった。
軍事会議なら、答えは簡単だっただろう。戦っていないのだから、負けてもいない。だが、ここに集まった者の多くは、軍人ではなかった。
オルシア・ヴァレンティが、少しだけ眉を上げた。
「何をもって勝敗とするかによります」
「日本と最初に国交を結んだ国になる競争なら?」
「完全に負けました」
「ずいぶん、はっきり言うな」
「陛下がお尋ねになりましたので」
フェルディオは、鼻から息を吐いた。
「では、次だ。我々は何を失った」
今度は、ミレイア・コルヴァンが答えた。
「今のところは、何も」
王の目が、彼女に向いた。
「何も?」
「ヴァレシアが日本と国交を結んだからといって、日本がベルカディアとの接触を拒んだわけではありません。日本の市場も、日本の港も、日本の需要も、消えてはいない。こちらが失ったのは、一番乗りという立場だけです」
「一番乗りには、価値がないと?」
「あります。ですが、二番目になったら商売が終わるというのなら、ベルカディアの商人はとっくに全員廃業しています」
部屋の端で、何人かが小さく笑った。フェルディオも、口元だけで笑った。
「続けろ」
「問題は、我々が遅れたことではありません」
ミレイアは、机の上の別の資料に手を伸ばした。
「遅れていると分かった今になっても、まだ動かないことです」
◇
ベルカディアが日本の存在を知ったとき、最初に王宮へ上がってきた情報の多くは、ヴァレシアを経由したものだった。
東の海に突然現れた巨大な国家。人口八千三百万人。鋼鉄の船に、帆も風も必要としない航行。空を飛ぶ機械。月へ行ったことがあるという話。百歳を超える平均寿命。魔法を知らなかった文明と、その魔法を転移の後に使い始めた人々。
どれも、一つだけなら、誇張された航海譚として片付けることができた。
だが、ヴァレシア王家は自ら使節を送り、その王女は日本へ渡り、ついには国王と日本の最高政治責任者が条約に署名したのだ。
もはや、日本が存在するかどうかを論じる段階ではない。問題は、日本が何者なのか、だった。
「まずは、軍事的な評価から聞こう」
国王が言った。
海軍を代表して出席していたヴァルド・セレク提督が、手元の紙を閉じた。
「情報不足です」
「それだけか」
「それだけです。日本の海上治安機関の船については断片的な情報がありますが、海軍の主力については、信頼できる資料がありません。航空戦力についても同様です。宇宙の戦力に至っては、我々の既存の分類を当てはめる意味があるのかどうかすら、分かりません」
「では、脅威なのか」
「潜在的には」
ヴァルドは、迷わなかった。
「ただし現時点で、我が国に敵対的な意図を示したという情報はありません。むしろヴァレシアとの条約の内容を見る限り、領土の要求も、軍事的な従属の要求も行っていません」
「信用できるのか?」
「海軍の軍人に、外交上の信用を尋ねないでいただきたい」
「逃げるな」
「では、行動を見る限りでは、今のところ」
ヴァルドは、少し考えた。
「少なくとも、自分たちの力を使って、急いで地域の秩序を作り替えようとはしていません」
フェルディオは頷いた。
「それは、私もそう思う」
「軍事的な危険よりも」
そこで、オルシアが言った。
「私は、経済的な危険の方を警戒しています」
「日本の製品か」
「それもあります。ただ、それだけではありません」
◇
ベルカディアは、商人の国だった。
農民がいないわけではない。兵士もいれば、職人も、魔術師も、聖職者もいる。だが、ベルカディアという国家を他国と区別しているのは、港であり、市場であり、契約であり、信用だった。
船が来れば、保険をかける。遠くの土地との取引には、手形を使う。相手が信用できなければ、信用できる第三者を間に挟む。契約で揉めれば、商事裁判所に持ち込む。戦争でさえ、ベルカディア人は物資の値段と船腹の量と保険料で考える。
だからこそ、日本の出現を前にして彼らが最初に考えたことも、他の国とは少し違っていた。
「人口八千三百万」
オルシアが言った。
「その数字自体は、すでに確認の度合いが高いと見てよいでしょう」
「ヴァレシアの四十倍以上か」
「はい。それだけなら、ただの大きな国です。しかし、視察団から流れてきた情報が正しければ、日本は単に人口が多いだけの国ではありません」
彼女は、紙を一枚置いた。
「一人当たりの生産と消費が、非常に大きいのです」
「どの程度だ」
「正確な換算は、まだできません。ただヴァレシア側の試算では、自国と比べるための物差しそのものを作り直さなければならないほどだ、と」
フェルディオが、眉を寄せた。
「数字で言え」
「数字にすると、誤解を招きます」
「商人が、数字を嫌うのか」
「逆です。数字を大事にするからこそ、意味のない数字は出したくないのです」
王は、黙り込んだ。
「ただ」
オルシアは続けた。
「一つだけ、言えることがあります。日本の市場を、八千三百万人分のヴァレシアの市場だと考えてはいけません」
「一人が買える量も、違うということですね」
ミレイアが頷いた。
「そうです」
◇
机の上には、すでにベルカディア国内で作られた、仮の商品の一覧があった。
葡萄酒、蒸留酒、香辛料、染料、絹織物、毛織物、宝飾品、細工物、高級な木材、乾燥果実、水産加工品、薬草、香料、鉱石、そして魔法の素材。
ベルカディア本国で生産されるものだけではない。北方の国々から入ってくる毛皮、南方から運ばれてくる香辛料、内陸の国々の鉱石、西方の高級な織物。ベルカディアの商人がすでに扱っている商品まで含めれば、その種類は何倍にもなる。
「我々自身が何を作れるのか、ということだけを考える必要はありません」
ミレイアは言った。
「日本人が欲しがるものを、我々が集めればいいのです」
フェルディオが、彼女を見た。
「仲介をする、と?」
「それが、我々の仕事でしょう」
その言い方には、まったく迷いがなかった。
「ヴァレシアは、日本に最も近い国の一つです。最初に接触し、国交も結んだ。そこは認めます」
「だが?」
「港を持っているだけで、商業の中心になれるわけではありません」
いかにもベルカディア人らしい言葉だった。
「商品の集積、信用、保険、契約、金融、商人の網、そして船。日本が亜大陸の各地と交易を始めるのなら、それらが必要になります」
「日本自身が、持っているのでは?」
若い官僚が尋ねた。ミレイアは、彼を見た。
「日本の国内には、我々よりはるかに高度な制度があるでしょう」
「なら」
「では、日本の銀行が、北方の小領主に信用状を発行できますか」
官僚が、言葉に詰まった。
「日本の保険会社は、亜大陸の西岸の港で、どの季節に船が沈みやすいのかを知っていますか」
「……」
「日本の商社は、どの都市の裁判所なら、契約違反を実際に執行できるのかを知っていますか」
「まだ、知らないでしょう」
「そういうことです」
日本は強い。だが、この世界のことは知らない。
ベルカディアは、弱い。少なくとも、日本と比べれば。しかし、この世界での商売を知っている。
「日本の技術と競争する必要は、ありません」
ミレイアは言った。
「日本人が知らない場所で、我々の知識を売ればいいのです」
フェルディオは、しばらく彼女を見つめていた。
「それは、気に入った」
◇
「問題があります」
ヴァルド提督が言った。
「何だ」
「航路です」
海軍の海図が広げられた。
「日本とヴァレシアの間については、すでに一定の航行情報が蓄積されつつあります。ですが、ベルカディアから日本へ直接の航路を開くのであれば、海の状態、水深、危険な海域、寄港地、救難の体制を確認しなければなりません」
「日本の船なら、簡単なのでは?」
「日本の船だけなら、そうかもしれません」
提督は、首を振った。
「交易は、日本の船だけで行うのですか」
誰も、答えなかった。
「我が国の船も、日本へ行くのでしょう。ならば、我々の船が安全に航海できなければ、意味がありません」
「むしろ、好都合です」
ミレイアが言った。
「何がだ」
「最初から、日本側に調査への協力を提案できますから」
「海図をもらう、と?」
「それだけではありません。共同での測量、救難の協定、港湾の情報の交換。相手と取引をしたいのなら、まずは取引のできる道を作ることです」
ヴァルドが、少し笑った。
「海軍の仕事を、商売にするつもりか」
「海軍の予算が増えるのなら、お嫌ではないでしょう」
「嫌な女だな」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
◇
会議が半ばを過ぎたころ、フェルディオは、それまで黙っていた一人の官吏に尋ねた。
「ヴァレシアとの関係は、どうなる」
「競争は、避けられません」
「敵対は」
「避けるべきです」
「理由は」
「日本との接触をめぐってヴァレシアと争えば、日本側から見て、我々二国とも取引のしにくい相手になるからです」
「つまり」
「日本の市場を取り合うために、日本の市場そのものを壊すような真似はするな、ということです」
「商人らしいな」
「ありがとうございます」
「むしろ」
そこで、オルシアが口を挟んだ。
「ヴァレシアが先に国交を結んだことを、利用できます」
「利用?」
「彼らが、最初に失敗してくれます」
アレシナが聞けば、怒りそうな言葉だった。
「検疫、通訳、通貨、入国の制度、商品の選定、技術の移転、日本側との法的な調整。最初に接触した国は、最初にすべての問題にぶつかるのです」
フェルディオの目に、理解の色が浮かんだ。
「我々は、それを見てから進めればいい」
「はい」
「二番手にも、利点はあるということか」
「非常に」
オルシアは、淡々としていた。
「だからといって、三番手になる必要はありません」
◇
その一言で、部屋の空気が変わった。
ヴァレシアに、先を越された。その事実に苛立っていた者たちが、初めて前を向いたのだ。
「日本政府へ送った、接触希望への返答は」
フェルディオが尋ねた。
「ヴァレシア側を通じて、原則として歓迎する、との回答が来ています」
「直接の連絡経路は」
「暫定的になら、構築できるとのことです」
「ならば」
国王は、机を指で叩いた。
「使節を出す」
すぐに、何人かが資料を開いた。
「誰を送りますか」
「外交官だけでは、足りん」
フェルディオは言った。
「商人を入れろ」
ミレイアが、顔を上げた。
「金融の者も」
「はい」
「海運の者は」
「必要です」
ヴァルドが言った。
「魔術師は」
「日本が魔法の研究を始めた以上、必要かと」
「軍人は」
「少数でよいでしょう」
ヴァルド自身が答えた。
「最初から軍事使節に見えるのは、得策ではありません」
「学者は」
「一人か、二人」
「王族は?」
少し、部屋が静かになった。
ヴァレシアは、王女を送った。それが相手への敬意として大きな意味を持ったことは、ベルカディア側も理解している。だが、同じことをすれば、ただの真似になってしまう。
「いらないでしょう」
そう言ったのは、ミレイアだった。
「理由は」
「日本に伝えたいのは、我々がヴァレシアとは違う国だ、ということです」
「王族を送らない方が、敬意を示せると?」
「敬意の示し方が違う、というだけです。我々は、日本との商売を本気で考えている。だからこそ、最も話の分かる人間を送るのです」
王は、考え込んだ。
「では、誰だ」
ミレイアは、ほんの少しだけ、嫌な予感を覚えた顔をした。
「陛下」
「何だ」
「今、私をご覧になりましたね」
「見た」
「なぜです」
「一番、行きたそうだからだ」
「私は、一言も──」
「顔に書いてある」
オルシアが、横を向いた。笑いを隠しているのだ。
「オルシア」
「何でしょう」
「お前もだ」
「私は、王都で仕事がありますので」
「皆、ある」
フェルディオは、少し楽しそうだった。
「正式な人選は、明日までに出せ。だが、条件は今決めておく」
王は、指を一本立てた。
「日本に驚く者は、構わん」
二本目。
「だが、驚いて仕事を忘れる者は、送るな」
三本目。
「そして、日本に何を売るかだけを考えている者も、いらん」
「では?」
「日本を使って、我が国に何ができるのかを考えられる者を、送れ」
◇
会議が終わったのは、すでに夜もかなり更けてからだった。
だがベルカディアの王都では、それから仕事を始めた者の方が多かった。
主要な商会では、日本向けの商品候補の洗い直しが始まった。
「珍しいものを、集めろ」
「高級品だけか」
「違う。向こうが大量に欲しがるものもだ」
「何を欲しがるんだ」
「知らん」
「では」
「だから、調べるんだ」
◇
保険組合では、こんな会話が交わされていた。
「日本航路の保険料を決めろ」
「航路も分からないのにか?」
「だから、暫定だ」
「沈没率は」
「分からん」
「海賊は」
「分からん」
「日本の救難能力は」
「相当に高いらしい」
「なら、安くできるか」
「日本の船だけならな」
◇
銀行家たちは、こんな話をしていた。
「日本円というものがあるそうだ」
「金貨ではないのか?」
「ほとんど違うものらしい」
「何を裏付けにしているんだ」
「国だ」
「国を、信用するのか?」
「八千三百万人が使っているのなら、少なくとも八千三百万人は信用しているんだろう」
◇
海運業者たちは、こうだった。
「日本の港へ行ける船を、選んでおけ」
「全部、行けるだろう」
「検疫のことを知ってから言え」
「船員が持ち込む酒は」
「没収されるかもしれん」
「それは困る」
「なぜ、そこだけ真剣なんだ」
◇
魔法の素材を扱う商人は、倉庫の奥から、何年も売れ残っていた鉱石まで引っ張り出していた。
「これは?」
「地方の術具職人しか使わないやつだ」
「日本では?」
「知らん」
「なら、持っていけ」
「価値があるのか」
「価値がないかどうかを決めるのは、日本人だ」
◇
そして、王都の中心部から少し離れた商業街の一室。
ミレイア・コルヴァンは、徹夜になることをほとんど諦めた顔で、机の上に並んだ商品の一覧を眺めていた。向かいには、若い補佐官が座っている。
「本当に、行かれるのですか」
「まだ、決まっていないわ」
「皆、行かれると思っています」
「皆、って」
「この建物の、全員です」
「余計な噂だけは、速いのね」
ミレイアは、紙を一枚めくった。
日本。人口八千三百万人。ベルカディアのおよそ十倍。
だが、問題は人数ではない。その一人一人が、ベルカディア人には想像しにくいほど多くのものを生産し、多くのものを消費している。
もし、ヴァレシアから伝わってくる話の半分でも本当なら──巨大な市場であり、巨大な供給者であり、巨大な技術の源であり、そして、巨大すぎる競争相手だった。
「怖くは、ありませんか」
補佐官が尋ねた。
「何が」
「日本が、です」
ミレイアは、しばらく考えた。
「怖いわよ」
「やはり」
「でも」
彼女は、地図を見た。ベルカディア、ヴァレシア、その東の、これまで空白だった海。そして、日本。
「日本が怖いんじゃないの」
「では」
「日本について、ヴァレシアだけが知っている状態が、怖いのよ」
補佐官は、黙り込んだ。
「知らない相手とは、商売ができない。商売のできない相手が八千三百万人もいるのなら、それは損失でしょう」
「では、調べる、と」
「そう」
「それから?」
ミレイアは、商品の一覧を閉じた。
「売るのよ」
「何を」
「それを決めるために、行くの」
そして、少し笑った。
「ついでに、向こうが何を売りたがらないのかも、調べておきましょう」
◇
翌朝、ベルカディア商王国の政府は、日本政府に正式な通知を送った。
日本国との平和的な外交関係と通商関係を築くことを目的として、ベルカディア商王国政府は、正式な使節団を派遣したい──。
日本側からの回答は、予想より早く届いた。
『歓迎する』
◇
ヴァレシアは、最初に日本を見つけた。最初に日本人と話し、最初に使節を送り、最初に国交を結んだ。
ベルカディアは、そのすべてにおいて遅れた。
だがベルカディア人は、二番目であることを、敗北だとは考えなかった。
市場に最後まで残るのは、一番乗りした者だけではない。相手を見て、価値を測り、失敗から学び、必要とあらば他人が作った道さえ使う。そして、利益がある限り、次の取引を続けていく者こそが、最後まで残るのだ。
その点について、ベルカディア商王国は、かなりの自信を持っていた。
彼らがまだ知らなかったのは、ただ一つ。海の向こうの日本人もまた、契約と数字と損得について、彼らが想像していたよりもはるかに話の通じる相手だった、ということだけだった。