ベルカディア商王国の使節団がリヴァーノに到着したのは、早朝のことだった。
船は三隻。王国旗を掲げた使節船を中心に、護衛と荷物を積んだ船が左右に付き従っている。
ヴァレシア側の港湾官吏は、入港の予定表を確認しながら、少しだけ感心していた。
「時間通りですね」
「ベルカディアですから」
隣にいたリヴァーノの役人が答えた。
「何です、それは」
「商人の国は、遅刻にも値段をつけるんですよ」
「本当ですか」
「今、考えました」
◇
船が接岸し、綱が取られ、舷梯が下ろされた。
最初に降りてきたのは、外交官だった。その後に、商人、金融関係者、海運業者、保険業者、魔術師、海軍の士官、通訳、書記が続く。使節団としては、妙に商売人が多い。
その中に、ミレイア・コルヴァンがいた。
彼女が最初にしたのは、港の建物を眺めることではなかった。沖を見たのだ。
「日本の船は?」
「まだ来ていません」
ヴァレシア側の案内官が答えた。
「何時ごろに?」
「第六刻半ごろです」
ミレイアは、隣の書記に言った。
「記録して」
「はい」
「何を、です?」
案内官が尋ねた。
「到着の予定時刻を」
「それだけですか?」
「遅れたら、その理由も」
案内官は、苦笑した。
「厳しいですね」
「船は、遅れるものです」
「なら──」
「なぜ遅れたのか分からない船が、一番困るのです」
◇
日本側の船は、予定よりほんのわずかに早くやって来た。
白い船体。「いわみ」だ。
ベルカディア側のほとんどの者にとって、その実物を見るのは初めてだった。当然、一行は静まり返った。
「……鉄、か」
誰かが言った。
「鉄でしょうね」
ミレイアが答えた。
「大きいな」
「見れば分かります」
「帆がない」
「報告にありました」
「いわみ」は、風向きなどまるで関係ないかのように、港へと近づいてくる。帆もなく、櫂もない。それでも動き、そして接岸した。
ベルカディアの使節の何人かは、まだその船を見つめていた。ミレイアも、十数秒のあいだ、じっと見ていた。
「これは、軍艦ですか」
それが、最初の質問だった。
「違います」
日本側の担当官が答えた。
「では」
「海の上の治安維持、救難、法の執行などを担う組織の船です」
「軍艦ではない」
「はい」
「分かりました」
ミレイアは、続けて言った。
「では、商船を見せてください」
日本側が、一瞬止まった。
「商船、ですか?」
「はい」
「軍艦ではなく?」
「軍艦は、どうせ詳しく見せてはくださらないでしょう」
「……そうですね」
「なら、見せていただける船を見た方が早い」
その隣では、ベルカディアの海運業者が、すでに質問を始めていた。
「この船の乗員数は?」
「詳細は、後ほど」
「燃料を補給する間隔は」
「後ほど」
「修理の周期は」
「後ほど」
「最大速力は」
「後ほど」
「建造費は」
「それは、公開できる範囲を確認いたします」
ミレイアが、それを止めた。
「一度に聞かないの」
「しかし」
「答えが、追いつかないでしょう」
日本側の担当官は、少し安心した顔をした。
◇
午前中に、最初の公式協議が開かれた。場所は、リヴァーノの行政館である。
日本側からは、外交、商務、財務、海運、検疫、法務の担当者。ベルカディア側からは、外交、商業、銀行、保険、海運、法務の担当者が出席した。ヴァレシア側は、開催国として少人数が参加した。
会議は、日本側の挨拶と、ベルカディア側の返礼から始まった。
その後、ミレイアが、分厚い冊子を机の上に置いた。
「こちらが」
「はい」
「ベルカディア商王国と、我が国の商人たちが、現時点で日本への輸出候補として検討している品目です」
日本側が、それを受け取って開いた。
葡萄酒、蒸留酒、香辛料、染料、高級な織物、一般の織物、革製品、乾燥果実、保存肉、水産加工品、蜂蜜、薬草、香料、木材、樹脂。鉄鉱石、銅鉱石、錫、鉛、銀、金、宝石。そして、魔法の鉱物と、術具の材料。
しかも、ベルカディア国内で産するものだけではなかった。北部の国々、西方、内陸、南方の交易圏──ベルカディアの商人が、すでに集めることのできる品々だった。
日本側の担当者が、頁をめくっていく。
「かなり、多いですね」
「まだ、あります」
「まだ?」
「これは」
ミレイアは言った。
「短い期間で確認できた分だけです」
日本側の表情が、少し変わった。
「価格は?」
「暫定のものですが」
ミレイアは、別の冊子を差し出した。品質の等級、生産地、季節による変動、一般的な取引価格、大量に購入した場合の価格、輸送費、保険料、港湾の費用──。
「……」
今度は、日本側が少し驚く番だった。
「ここまで、ですか?」
「商談でしょう?」
ミレイアは、少し笑った。
「商品の名前だけを持ってきても、商売にはなりませんから」
日本側の商務担当が、笑った。
「おっしゃる通りです」
◇
そこから、話が一気に速くなった。
「食料品については」
「はい」
「検疫と、安全性の確認が必要です」
「必要な期間は?」
「品目によります」
「平均では?」
「前例が少なすぎて、まだ出せません」
「では、最短で」
「それも、まだ」
「最長では」
「未知数です」
ベルカディア側は、少し困った。
「分からない、と?」
「分かりません」
即答だった。
「日本は」
ベルカディアの商人が言った。
「分からない、とおっしゃるのですね」
「分からないので」
「普通、役人というものは」
「はい」
「もう少し、分かったような顔で話すものです」
日本側の法務担当が、小さく笑った。
「日本にも、そういう人はいますよ」
◇
次は、日本が欲しいものの話だった。ここで、ベルカディア側はさらに身を乗り出した。
「穀物は」
「関心があります」
「どの程度の」
「当面は、限定的に」
「なぜです」
「価格と検疫の問題、それに現地の市場への影響があるからです」
「日本が買えば、価格が上がる?」
「その可能性があります」
「我々としては」
ベルカディアの商人が言った。
「上がった方が──」
「国民が困るでしょう」
隣から、ミレイアが言った。
「……はい」
「続けて」
「酒類は」
「強い関心があります」
日本側がそう答えると、ベルカディア側の何人かが、同時に顔を上げた。
「強い、と?」
「嗜好品として、です」
「日本にも、酒はあるでしょう」
「あります」
「なら──」
日本側の商務担当は、少し笑った。
「外国の酒だから、ですよ」
ミレイアは、一度頷いた。
「それは、分かります」
「分かっていただけますか」
「商売人ですから」
香辛料にも、高級な木材にも、関心がある。薬草は、成分の調査が必要。宝石は、市場の状況次第。そして魔法の素材は、研究の需要が、かなり高い。
「つまり」
ミレイアが、途中で言った。
「日本は」
「はい」
「何でも作れる国ではない、ということですね」
日本側が、止まった。
「もちろんです」
「自国で作れるものでも」
「はい」
「外国から買う」
「価格、品質、嗜好、供給の安定、その他さまざまな理由で」
ミレイアは、少し深く、背もたれに身を預けた。
これまで彼女は、日本という国を、巨大な閉じた箱のように考えていた。中で何でも生産し、外からは何も必要としない国だと。
だが、違った。豊かだからこそ、買うのだ。
「これは」
ベルカディア側の商人が、小さく言った。
「市場になりますね」
「最初から、そう言っているでしょう」
ミレイアはそう答えた。だが彼女自身、ようやく今、そのことを確信したのだった。
◇
午後になると、話題は商品から契約へと移った。
「取引の契約書について」
日本側の法務担当が言った。
「ベルカディア側の標準的な書式を、確認させていただきたいのです」
「もちろんです」
次々と書類が出てきた。売買契約、海上運送、傭船、保険、信用取引、代理、共同事業、債務不履行、仲裁。
日本側が、それを読み始める。ベルカディア側は、少し誇らしげだった。ここは、自分たちの世界なのだ。
「これは」
日本側の法務担当が、少し驚いた。
「かなり、整備されていますね」
ベルカディア側の空気が、少し軽くなった。
「当然です」
ミレイアが言った。
「ベルカディアですから」
「遠隔地との取引の、履行の保証まで?」
「相手の顔を見ながら商売ができるのは、近所の相手だけですから」
手形、信用状、保証人、預託、保険、商事仲裁、裁判。技術の水準は違う。しかし、商売で起こる問題は、驚くほど似ていた。
商品を渡したのに、金を払わない。船が沈んだとき、誰が損をかぶるのか。約束した品質と違っていた。どこの裁判所で争うのか──。
日本側の担当者が、少し笑った。
「四百年進んでも、そのあたりは消えないものですね」
ミレイアも笑った。
「安心しました」
◇
「ただし」
日本側は、資料を切り替えた。
「日本側の取引の制度は、少し違います」
ベルカディア側が、また身構えた。
日本の商法、企業法、会計、契約、監査。二〇二〇年代から三百年以上をかけて、少しずつ改正され、統合され、失敗し、設計し直されてきた制度だった。
「まず」
日本側の法務担当が言った。
「取引の主体を確認します」
「当たり前のことです」
ベルカディア側が答えた。
「会社の名前だけではなく」
「では、何を?」
「最終的に、誰が支配しているのかを」
ミレイアが、少し止まった。
「所有者のことですか?」
「所有、議決権、実質的な支配、資金の出どころ」
「そこまで?」
「大口の取引であれば」
「次は」
「契約の履歴です」
「何を記録するのです」
「誰が、いつ、どの条項を提案し」
「……」
「誰が修正し」
「……」
「どの情報を根拠に、承認したのか」
ベルカディア側が、静まり返った。
「それを、全部残すのですか?」
「重要な契約であれば」
「何年も?」
「契約の種類によります」
「改竄は?」
「極めて難しい形で、記録します」
◇
次は、会計の話だった。
「企業というのは」
「はい」
「一年に一度、帳簿を締めるものでしょう?」
日本側の会計担当は、少し首を傾げた。
「年度の決算は、あります」
「では」
「ただ」
「ただ?」
「重要な財務の情報は、もっと短い周期で更新されています」
「月ごと、ですか?」
「多くは、ほぼ常時です」
沈黙が落ちた。
「常時?」
「取引が発生すれば、その都度記録されます」
「全部?」
「基本的には」
「誰が書くのです」
「多くは、自動で」
ベルカディア側の会計官の顔が、止まった。
「帳簿を、自動で?」
「はい」
「では、人間は」
「例外の処理、判断、評価、そして監督です」
「帳簿係は?」
「仕事の内容が、違うんです」
損益、資産、負債、資金、契約、在庫、設備の状態、将来の支払い義務、事故のリスク、環境への負担、製品の回収義務、資源循環の上での責任。それらを、複数同時に見ているのだという。
「環境への負担が」
ベルカディア側が言った。
「会計に入るのですか?」
「一定のものは」
「廃棄物も?」
「将来、処理する義務があるのなら」
「商品を売った後のことまで?」
「場合によります」
ベルカディアの人々は、本気で、理解するのに時間がかかった。
物を売り、金を受け取って、終わり──ではないのだ。壊れたときの回収、再利用、事故、環境。製造者が将来負うことになる責任まで、現在の取引に織り込んでいく。
「商売が」
ベルカディアの商人が言った。
「面倒すぎませんか」
日本側の担当者は、苦笑した。
「かなり、面倒です」
「それで」
「はい」
「商売になるのですか?」
「なっています」
「信じられない」
今度は、日本側が笑った。
「私たちも、昔の制度を見ると、同じことを思いますよ」
◇
監査にも、差があった。
ベルカディアでは、帳簿を見て、証人を立て、印を確かめ、金庫と倉庫を開け、現物を確認する。
日本では、取引の履歴、物流の記録、契約、支払い、設備、生産──それぞれの記録を互いに照らし合わせ、不自然な動きを自動で検出するのだという。
「全部の会社を、ですか?」
「規模とリスクに応じて、です」
「人間が?」
「人間と、システムが」
「ごまかせない、と?」
日本側の会計担当は、少し笑った。
「ごまかそうとする人は、いますよ」
ベルカディア側は、少し安心した。
「捕まるのですか?」
「捕まる人もいます」
もっと安心した。
「日本人も」
ミレイアが言った。
「商人なのですね」
「どういう意味です?」
「金が絡めば」
ミレイアは、少し笑った。
「悪知恵を働かせる人間が出てくる」
日本側も笑った。
「そこは、残念ながら、文明が進んでも変わりません」
◇
そこから、協議は妙に順調に進んだ。
日本側は、ベルカディアの商事制度を評価した。もちろん日本と比べれば、情報の処理、監査、透明性、企業の制度、会計──いずれも、何世代もの差がある。
しかし、その原理は通じるのだ。
「信用状に相当する制度がある」
日本側が言った。
「はい」
「海上保険も」
「はい」
「商事仲裁も」
「あります」
「法人に近い共同事業体も」
「あります」
「それなら」
日本側の法務担当は、少し考えた。
「思っていたより早く」
「何がです?」
「民間の取引に、移れるかもしれません」
ベルカディア側は、誰もすぐには答えなかった。
それは、今日初めて、日本人からベルカディアという国の制度を、はっきりと評価された瞬間だった。
ミレイアが、少し笑った。
「ようやく」
「何でしょう」
「こちらにも」
「はい」
「話の通じるところが、ありましたね」
日本側の担当者も、笑った。
「かなり、ありますよ」
◇
会議は、終了予定の時刻を過ぎた。一時間が過ぎ、さらに三十分が過ぎた。誰も、終わろうとはしなかった。
最後に、ヴァレシア側の役人が、恐る恐る口を開いた。
「あの、夕食のお時間が……」
全員が、時計を見た。
「続きは、明日に?」
ミレイアが言った。
「ぜひ」
日本側が答えた。
「では」
ミレイアは、資料を閉じた。
「明日は」
「はい」
「日本から何を買えるのかを」
一拍、置いて。
「本格的に、お話ししましょう」
日本側の表情が、少し変わった。
「それについては──」
ミレイアは、何かを察した。
「何です?」
「少し」
日本側の担当者は、言葉を選んだ。
「皆さんのご期待とは」
一度、言葉を区切る。
「違うお話に、なるかもしれません」
ベルカディア側が、静かになった。
「売らない、と?」
ミレイアが言った。
「売れるものと」
日本側は答えた。
「売ってよいものとを」
「……」
「我々は、分けて考えているのです」
数秒のあいだ、ミレイアは相手を見つめていた。そして、少しだけ笑った。
「なるほど」
「お怒りになりませんか」
「まだ、ね」
彼女は立ち上がった。
「明日、値段を聞いてから決めます」
「値段の問題では──」
「それも」
ミレイアは言った。
「明日、お聞きします」
◇
こうして、日本国とベルカディア商王国との、最初の本格的な商務協議は終わった。
日本側にとっては、この世界にも、信用、保険、契約、金融、仲裁といった、自分たちにも理解できる制度がすでに存在していることを知った日だった。
そしてベルカディア側にとっては、日本の強さが工場や船だけにあるのではなく、売り買いそのものを記録し、追跡し、評価し、何十年も先の責任まで制度の中に組み込む力にもあるのだと、初めて理解した日だった。
だが翌日、ベルカディア人たちは、もっと理解しにくいものに出会うことになる。
金はある。売り手もいる。商品もある。それなのに、売らない。
商人の国ベルカディアにとって、それは日本の宇宙船よりも、ある意味で奇妙な話だった。