翌朝の協議は、前日より三十分早く始まった。
理由は単純だった。ベルカディア側が早く来たからである。
日本側が会議室に入ったときには、ミレイア・コルヴァンをはじめとする使節団の主要な顔ぶれがすでに席に着いており、机の上には前日の議事録と、新たに作られた購入希望品の一覧が並べられていた。
「おはようございます」
日本側の商務担当官が挨拶すると、ミレイアは立ち上がって一礼した。
「おはようございます。昨日のお話を受けて、こちらでも購入を希望する品を整理してまいりました」
「一晩で、ですか?」
「一晩ありましたから」
日本側の担当官は、資料の厚さを見て、それ以上は聞かなかった。
ベルカディア側が提出した一覧は、単に欲しい物を並べただけのものではなかった。用途、想定する購入量、購入の主体、希望する納期、支払いの方法、利用を予定している地域、再販売の予定の有無。それに、ベルカディア側が考える必要性まで添えられている。
前日、日本側が自分たちの商品目録を高く評価したことから、彼らはすでに学んでいたのだ。
「では」
ミレイアが言った。
「今日は、我々が何を買えるのかを、教えていただきましょう」
「分かりました」
日本側の担当官が、資料の端末を開いた。
「その前に、一点だけ確認させてください」
「何でしょう」
「本日の協議では、価格の交渉より先に、輸出が可能かどうかを確認させていただきます」
ミレイアの眉が、わずかに動いた。
「値段を決める前に、売るかどうかを決める、と?」
「はい」
「普通は、逆では?」
「日本では、商品によってはそうなるのです」
「なるほど」
ミレイアは、少しだけ背もたれに身を預けた。
「では、昨日おっしゃっていた、『売れるものと、売ってよいものは違う』というお話ですね」
「そうです」
「お聞きしましょう」
◇
最初に取り上げられたのは、農業用の機械だった。
ベルカディア側の希望品には、小型の動力耕耘機、揚水設備、収穫の補助機、乾燥設備、農産物の保冷装置などが並んでいた。
「これは」
ミレイアが尋ねた。
「買えますか」
「一部については、可能性があります」
「一部?」
「例えば、機械そのものではなく、より単純な構造の機種を、新たに設計することも検討しています」
「日本で使っているものでは、駄目なのですか」
「駄目とは申しません。ただ、現在の日本向けの機械は、皆さんの環境には合わない場合が多いのです」
「環境、とは?」
「電力の規格、部品の供給、整備の設備、燃料、使う人の教育。それに、機械を導入した後の、雇用への影響です」
ベルカディア側の農業関係者が、顔を上げた。
「人手が減るのなら、良いことでしょう」
「人手が足りない地域なら、そうです」
「では」
「人手が余っている地域で、一台の機械が百人分の仕事を突然肩代わりしてしまったら?」
室内が、少し静かになった。
「その百人は」
日本側の担当官は続けた。
「翌日から、何をするのでしょう」
「別の仕事を」
「その仕事は、ありますか」
すぐには、返事がなかった。ミレイアは、少し考えた。
「つまり、機械そのものが危険なのではなく」
「はい」
「導入する速さが、危険だということですか?」
「そう考えています」
ミレイアは、頷いた。
「それなら、理解できます。賛成するかどうかは、また別ですが」
「それで、十分です」
◇
次は、医薬品だった。
感染症の治療薬、鎮痛薬、麻酔薬、外傷の治療用品、消毒剤、診断機器。さらに、ベルカディア側が噂で聞きつけた、再生医療用の製剤まで一覧に入っていた。
日本側の医療担当者が、最後の項目を見て苦笑した。
「情報が早いですね」
「商人の耳を、甘く見ないでください」
「ただ、これは輸出できません」
「値段の問題ですか?」
「値段の問題ではありません」
「製造量が少ない?」
「それも一部ありますが、運用ができないのです」
「薬を使うだけでは?」
「この種の治療は、薬を渡して終わり、というものではありません。診断、投与の管理、検査、経過の観察、副作用への対応。場合によっては、特殊な保存の設備も必要になります」
「では、日本人の医師も一緒に雇えば?」
ミレイアが、即座に返した。日本側が、一瞬黙った。
「その場合は、医療協力として、別の枠組みになります」
「商品としては、売らない」
「はい」
「治療そのものなら、協議できる」
「その可能性はあります」
ミレイアは、書記に目を向けた。
「分けて、記録して」
「はい」
日本側の医師が、思わず笑った。
「切り替えが、早いですね」
「買えない商品について怒っても、患者は治りませんから」
◇
だが、通信設備の項目に入ったところで、雰囲気が変わった。
「長距離の通信装置」
ベルカディア側の通信担当者が言った。
「これは、非常に重要です。首都から主要な港まで、今より速く情報を送れるのなら、商業にも行政にも大きな利益があります」
「分かります」
「購入できますか」
日本側の担当官は、首を横に振った。
「現行の日本国内向けのシステムは、原則として輸出の対象外です」
「なぜです」
「理由は、いくつかあります。暗号の技術、位置の情報、通信網の制御、軍事に利用される可能性」
「我々は、商業用として欲しいのです」
「それでも、です」
「用途を契約書に書けば?」
「用途だけでは、足りません」
ミレイアが、少し身を乗り出した。
「では、何が足りないのです」
「誰が使うのか。誰が管理するのか。誰が修理するのか。誰が情報にアクセスできるのか。第三国へ渡ってしまう可能性。軍に転用される可能性」
「ずいぶんと、疑っていらっしゃるのですね」
「疑っています」
あまりにも率直な返事だった。ベルカディア側の何人かが、顔を見合わせた。
「我々を、信用していないと?」
ミレイアが尋ねた。
「まだ、信用できるほど、皆さんのことを知りません」
空気が、少し冷えた。ヴァレシア側の陪席官が、ちらりと視線を動かす。
だが、ミレイアは怒らなかった。むしろ、少しだけ笑った。
「なるほど」
そして言った。
「ようやく、本題ですね」
◇
「では、確認させてください」
ミレイアは、一枚の紙を机の中央に置いた。
「日本が見ているのは、支払いの能力ではない」
「それだけではありません」
「購入者の身元」
「はい」
「最終的な使用者」
「はい」
「用途」
「はい」
「管理の体制」
「はい」
「転売の可能性」
「はい」
「第三国への再輸出」
「はい」
「軍事への転用」
「はい」
「そして、我々が約束を守るかどうか」
「それが、重要です」
ミレイアは、数秒黙った。
「つまり」
「はい」
「値段より、信用」
日本側の担当官は、頷いた。
「かなり大雑把に言えば、そうです」
「なら」
ミレイアは、椅子に深く座り直した。
「話が早い」
今度は、日本側が不思議そうな顔をした。
「怒られるかと思いました」
「なぜです?」
「お金を払えるのに売らない、と申し上げているのですから」
「商人というものは」
ミレイアは言った。
「金を持っている人間なら誰にでも金を貸す、とお思いですか」
日本側の担当官が、止まった。
「貸しませんね」
「でしょう」
「確かに」
「返せるかどうかを調べる。財産を見る。商売を見る。過去を見る。保証人を見る。相手が嘘をついていないかを調べる」
「金額が大きいほど、厳しくなります」
ベルカディアの銀行家が続けた。
「はい」
「なら、日本も同じことをしているだけです」
日本側の法務担当が、わずかに笑った。
「かなり近いですね」
「違うのは」
ミレイアは、通信装置の項目を指さした。
「あなた方が貸すのは、金ではなく、力だということ」
その言い方に、日本側の何人かが顔を上げた。
「良い表現ですね」
「では、その信用は、どうやって作ればいいのです?」
◇
そこから、協議の性質が変わった。
「ベルカディア商王国の政府が購入者なら、どうです?」
「民間の商会よりは審査しやすくなりますが、政府だからといって無条件ではありません」
「購入した設備を、登録する制度を作りましょう」
「有効です」
「所有者が変わったときも、届け出させる」
「有効です」
「国外へ持ち出すときは、王国政府の許可制にする」
「それは、かなり重要です」
「日本側が、定期的に確認する権利というのは?」
日本側が、わずかに驚いた。
「受け入れていただけるのですか」
「何を確認するかによります」
「機器の所在、使用の状況、改造の有無などです」
「商業上の秘密は?」
「保護します」
「王国の機密は?」
「対象外とする範囲を、事前に協議しましょう」
「日本側が、勝手に立ち入るのですか?」
「それは、できません」
「なら、交渉の余地があります」
話は、どんどん具体的になっていった。
「再輸出の禁止については」
「期間は?」
「物によります」
「永久に?」
「技術によっては」
「長すぎます」
「では、何年なら」
「それは、こちらからお聞きしたい」
「違反したときの扱いは」
「取引の停止ですか?」
「重大な場合は」
「一つの商会が破ったら、国全体の取引を止めるのですか?」
「管理の制度に問題があれば」
「それでは、重すぎます」
「なら、企業ごとに責任を分けられる制度があれば」
「あります」
「昨日見せていただいた、商事登録ですか?」
「使えます」
「最終使用者の登録は」
「できます」
「帳簿の保存は」
「できます」
「監査は」
「できます」
「第三者による確認は」
「商事裁判所か、認可を受けた監査人を利用できます」
日本側は、少しずつ、ベルカディアを見る目を変えていた。
◇
輸出を管理する制度というものは、規則を書くだけでは成り立たない。誰が、何を、どこへ、何の目的で渡したのかを、後から確認できなければならない。そして、違反があったときに、責任を取らせる仕組みも必要になる。
ベルカディアには、そのために使える制度の芽が、すでにあった。
「なるほど」
日本側の法務担当が言った。
「何です?」
「ベルカディアとの取引は、ヴァレシアとは違う形になるかもしれません」
ミレイアの目が、わずかに細くなった。
「良い意味で、ですか?」
「少なくとも、輸出の管理を、契約の制度に落とし込みやすい」
「つまり」
「信用を、制度にできるということです」
ミレイアは、その言葉が気に入ったようだった。
「それは、ベルカディア人の大好きな言葉ですよ」
◇
もちろん、だからといって何でも売れるわけではなかった。
「では」
ベルカディアの技術商人が言った。
「工作機械は?」
「種類によります」
「高精度の加工機は」
「難しいですね」
「なぜです」
「武器を製造する能力に、直結するからです」
「蒸気機関より高性能な動力設備は」
「検討の対象ですが、出力や制御の方式によります」
「航空機は」
「現時点では、不可です」
「民間用でも?」
「はい」
「自動車は」
「種類によります」
「人型のロボットは」
「原則として、現時点では不可です」
「なぜです!」
このときだけ、ベルカディア側から本気の声が上がった。
ヴァレシアの視察団から伝わってきた、山間の農地で働く人の形をした機械の話。ベルカディアの商人たちの、その機械への関心は、相当に高かったのだ。
「軍事に転用される可能性があります」
日本側が答えた。
「加えて、社会への影響が大きすぎます」
「労働力の不足を、解決できる」
「同時に、多くの労働を置き換えることもできます」
「だから、便利なのでは」
「その速さを管理できるかどうか、まだ判断できないのです」
「では、一台だけ」
「一台?」
「研究用に」
日本側が、顔を見合わせた。そこへ、ミレイアが横から口を挟んだ。
「それは、面白いですね」
「ミレイア様」
「大量に売るのが駄目なら、試験的に導入すればいい」
彼女は、日本側を見た。
「日本側の監督の下で。転売は禁止。分解は許可制。用途は限定。結果は、双方で共有する」
沈黙が落ちた。
「これなら、いかがです?」
日本側の担当官は、即答しなかった。
「持ち帰って、検討いたします」
ベルカディア側の技術商人は、悔しそうな顔をした。だが、ミレイアは満足そうだった。
「“売らない”が、“検討する”に変わりましたね」
「まだ、売るとは──」
「交渉は、一歩進めば十分です」
◇
午後になって、日本側から、輸出品の暫定的な分類案が示された。
第一の分類は、比較的自由に取引できるもの。文化用品、一般的な生活用品、危険性の低い手工具、一部の衛生用品、書籍や公開されている情報。その他、軍事や産業の構造への影響が小さい商品である。
第二の分類は、条件付きで輸出できるもの。農業設備、一部の医療機器、測量や計測の機器、生産設備、通信関連、高性能な材料。用途、量、購入者、維持の体制、再輸出、社会への影響──それらを審査した上で、判断される。
第三の分類は、原則として輸出できないもの。兵器、兵器を製造する技術、軍事専用の設備、高度な暗号や指揮統制の技術、軍事への転用が容易な一部の技術。その他、日本の安全保障に重大な影響を持つものである。
「この分類は、固定されているのですか?」
ミレイアが尋ねた。
「いいえ」
「変わる、と?」
「相手国との関係や、管理の制度、技術の普及の状況などによって、見直していきます」
「つまり」
彼女は、ゆっくりと笑った。
「信用が増えれば」
「売れるものも、増える可能性があります」
「それを、最初におっしゃってください」
「昨日から、申し上げていたつもりなのですが」
「昨日は」
ミレイアは言った。
「あなた方の“信用”という言葉に、どれほどの値段がついているのか、分かりませんでしたから」
「今日は?」
「かなり、高いですね」
日本側が、笑った。
「値切りますか」
「もちろん」
即答だった。
◇
この日の終わりに、ベルカディア側が提出したのは、新しい商品の一覧ではなかった。
『対日輸入管理制度案』
輸入を行う事業者の登録。最終的な使用者の記録。再輸出の許可制。機器の管理台帳。用途を変えるときの届け出。違反した企業への罰則。商事裁判所による執行。そして、日本側との情報の交換。
昨日の朝、ベルカディアの人々は、金を払えば商品が買えると考えていた。
それが今日の夕方には、商品を買うために、制度を作り始めていたのだ。
「本気ですね」
日本側の担当官が、書類を見ながら言った。ミレイアは、不思議そうに相手を見た。
「当然でしょう」
「なぜです」
「買いたいからです」
あまりにも、単純な答えだった。
「買えないのなら」
ミレイアは続けた。
「買える条件を聞く」
「条件が厳しければ?」
「満たせるかどうかを、計算する」
「満たせなければ?」
「別の商品を買う」
「諦める、ということですか?」
そこで、ベルカディアの人々は少し笑った。
「商人が、一度断られたくらいで?」
日本側の担当官も、笑った。
「確かに」
◇
日本にとって、ベルカディア商王国は、巨大な市場ではなかった。豊かな国でもなかった。技術力を比べれば、大きな差がある。
だが、契約を理解している。信用を理解している。記録を残すことの意味を理解している。そして、違反した者に責任を負わせる仕組みを持っている。
それは、交易の相手として、非常に重要な能力だった。
一方で、ベルカディア側もまた、日本についての認識を一つ改めていた。
日本は、金を嫌っているわけではない。商売を嫌っているわけでもない。むしろ、契約、利益、信用、責任──その意味を、ベルカディア人が少し腹立たしく思うほど、よく知っていた。
ただ、彼らにとっての信用とは、金を返すことだけではなかった。何を買い、何に使い、誰に渡し、約束を守り、問題が起きたときに責任を取れるのか。そのすべてに、値段がついていたのだ。
そして、ベルカディア人にとって幸いなことに、信用という商品は、彼らが昔からかなり得意としてきたものだった。