2330年日本国、異世界へ   作:水野芽生

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第27話:海路の値段

 

 ベルカディア商王国の使節団と日本側との協議は、商品、契約、輸出管理と進み、四日目になってようやく海の話に戻ってきた。

 

 もっとも、ベルカディア人にとって、海は最初からすべての話の土台にあった。酒を売るにも、香辛料を運ぶにも、魔法の鉱石を送るにも、日本から機械を買うにも、船が必要なのだ。

 

 そして船というものは、港を出れば必ず目的地に着く、というものではない。

 

 ◇

 

 会議室の中央には、大きな海図が広げられていた。

 

 ヴァレシアの東岸、リヴァーノ、ベルカディア方面へと延びる既存の航路。そこからさらに東には、日本側から提供された暫定的な海域の情報が書き込まれている。海流、風、水深、危険な海域、気象。まだ調査の途中にある部分も多かった。

 

 ヴァルド・セレク提督は、腕を組んで、しばらく海図を見つめていた。

 

「日本から見れば」

 

 彼は言った。

 

「近いのですか」

 

「距離だけで言えば、極端に遠いわけではありません」

 

 日本側の海運担当官が答えた。

 

「日本の船なら?」

 

「種類にもよりますが、問題にはなりにくいでしょう」

 

「我々の船なら」

 

「そこが、問題なのです」

 

 ヴァルドは頷いた。

 

「同感です」

 

 日本の大型船にとっては、比較的短い海域でも、ベルカディアの帆船にとっては話が違う。風向き、潮の流れ、補給、嵐、船体の強度、水、食料、そして病気。そのすべてが問題になるのだ。

 

「日本の船に、全部運んでもらうという方法もあります」

 

 日本側の海運担当がそう言うと、ベルカディア側が妙に静かになった。

 

 ◇

 

「それは」

 

 ミレイア・コルヴァンが言った。

 

「一番簡単で」

 

「はい」

 

「一番困る方法ですね」

 

「なぜでしょう」

 

「日本の船しか日本へ行けないのなら」

 

 ミレイアは、海図を指した。

 

「運賃も」

 

「はい」

 

「出航の時期も」

 

「はい」

 

「輸送の量も」

 

「はい」

 

「全部、日本側の都合で決まってしまう」

 

 日本側の担当官は、少し考えた。

 

「独占されてしまう、ということですか」

 

「あなた方に、そのつもりがなくても」

 

 ミレイアは言った。

 

「結果として、そうなります」

 

 ベルカディアは、自分たちの商売を、他人の船だけに預けるつもりはなかった。

 

「では」

 

 日本側が言った。

 

「ベルカディアの船が、日本へ直接航海できるようにしたい、と」

 

「最終的には」

 

「最初から、ですか?」

 

「それは、無理でしょう」

 

 即答だった。

 

「ですから」

 

 ミレイアは言った。

 

「段階を作ります」

 

 まずは、日本の船による試験的な輸送。そこにベルカディア人の船員を同乗させ、海の状態を記録し、日本側の海図と照らし合わせる。寄港、救難、補給の手順も確かめる。

 

 次に、ベルカディアの船と日本の船による、共同での航海。

 

 そして、その先に、ベルカディアの船だけでの航海がある。

 

「急がないのですね」

 

 日本側の担当官が言った。

 

「急いで沈んだら」

 

 ミレイアは答えた。

 

「次の船が、出なくなりますから」

 

 ヴァルド提督が、少し笑った。

 

「珍しく、海軍と商人の意見が一致したな」

 

「珍しく、ですか?」

 

「普段は、商人が船を出したがり、海軍がそれを止めるものだ」

 

「沈まない程度に船を出すのが、商売です」

 

「沈む可能性を考えるのが、海軍だ」

 

 ◇

 

 そこから、話は救難のことに移った。

 

「日本側は」

 

 ベルカディアの海運業者が言った。

 

「船が遭難した場合」

 

「はい」

 

「どこまで救助できるのです」

 

 日本側が説明を始めた。海上保安、航空による救難、遠隔での監視、気象の予測、通信、捜索。

 

 説明が進むにつれて、ベルカディア側の保険担当者の顔色が変わっていった。

 

「待ってください」

 

「はい」

 

「遭難した位置が、分かるのですか?」

 

「通信が生きていれば」

 

「夜でも?」

 

「はい」

 

「嵐の中でも?」

 

「条件次第ですが」

 

「空から、探すのですか?」

 

「はい」

 

「救助の船も出る?」

 

「必要であれば」

 

 保険担当者は、海図に目を落とした。

 

「……下がる」

 

「何が、です?」

 

 ミレイアの方が、先に理解した。

 

「保険料ね」

 

「はい」

 

 男の目が、輝いた。

 

「かなり、下がります」

 

 日本側は、少し困った顔をした。

 

「まだ、事故率も分かっていないのに?」

 

「救助の能力が高いというだけでも」

 

 保険担当者は言った。

 

「全損の率は、下がる可能性があります」

 

「全損?」

 

「船も、荷物も、人も、全部失うことです」

 

「それは、分かります」

 

「なら、話が早い」

 

 ベルカディア人は、日本の救難能力を、人道の面からだけ見ていたわけではなかった。事故が起きたときの損失率として見ていたのだ。

 

 日本側の高精度な気象予測、航路の監視、通信、そして救難。それらは、船を速くする技術であるだけではない。船が沈んだときの損失を、小さくする技術でもあるのだ。

 

「それなら」

 

 ミレイアが言った。

 

「日本との交易は、思っていたより安くなるかもしれませんね」

 

「運賃が、ですか?」

 

 日本側の担当官が尋ねた。

 

「違います」

 

 彼女は笑った。

 

「危険が、です」

 

 ◇

 

 午後になると、ベルカディア側は、実際に数字を作り始めた。

 

 船の価格、積荷、航海の日数、乗組員、食料、港湾の費用、事故率。そして、海賊、嵐、座礁、戦争。

 

「最後の」

 

 日本側の若い担当官が聞いた。

 

「戦争も、計算に入れるのですか」

 

 ベルカディア側の全員が、不思議そうに彼を見た。

 

「入れないのですか」

 

「いえ、入れますが」

 

「では」

 

 ベルカディアの保険担当者は言った。

 

「同じことです」

 

 戦争、海賊、封鎖、拿捕、臨検、港の閉鎖、商船の徴用、航路の変更。保険業者にとって、政治とは数字だった。

 

「ヴァレシアと日本が、今の関係を保つ場合」

 

 ミレイアがそう言うと、書記が数字を書き記した。

 

「両国の間で、緊張が高まる場合」

 

 別の数字が書かれる。

 

「ヴァルガニアが、東部の海域へ軍を出す場合」

 

 数字が、さらに上がった。

 

「実際に、戦争になった場合」

 

 数字は、もっと上がった。

 

「海上封鎖が行われた場合」

 

 保険担当者は、首を振った。

 

「引き受け停止ですね」

 

「保険を、売らないのですか?」

 

 日本側が聞いた。

 

「売れないのです」

 

「値段を上げれば?」

 

「値段を上げても」

 

 男は言った。

 

「沈むと分かっている船に、金は貸せません」

 

 日本側は、少し感心した。

 

「先日のお話と、同じですね」

 

「信用、ですか?」

 

「はい」

 

「戦争をする国は」

 

 ミレイアが言った。

 

「信用が下がるのです」

 

 短い言葉だった。だが、ベルカディアにとっては、かなり重い言葉だった。

 

 軍事的に勝てるかどうか、ではない。戦争を始めるかもしれない、というだけで、船主は航路を変え、銀行は金利を上げ、保険業者は保険料を上げ、商人は倉庫を移す。

 

 つまり戦争は、始まる前から、金がかかるのだ。

 

「面白い国ですね」

 

 日本側の担当官が言った。

 

「何がです?」

 

「安全保障の話を」

 

 彼は、少し笑った。

 

「保険料で、なさっている」

 

 ミレイアも笑った。

 

「海軍が勝つか負けるかは」

 

「はい」

 

「海軍に任せています」

 

「では、ベルカディアは?」

 

「その戦争で」

 

 一拍、置いて。

 

「いくら損をするのかを、計算するのです」

 

「嫌な言い方だな」

 

 ヴァルド提督が言った。

 

「でも、海軍の予算も、そこから出ているのですよ」

 

「だから、嫌なんだ」

 

 笑いが起きた。

 

 ◇

 

 だが、その日の協議で最も重要だったのは、笑い話ではなかった。

 

 ベルカディア側は、日本との交易路について、一つの基本的な原則に辿り着いたのだ。

 

『東部海域の安定は、それ自体が経済的な資産である』

 

 海が平和なら、船が出る。保険がつく。金が貸せる。商品が動く。

 

 戦争になれば、そのすべてが高くつく。あるいは、止まってしまう。

 

「つまり」

 

 日本側が言った。

 

「ベルカディア政府としては」

 

「はい」

 

「日本とヴァレシアの関係が安定している方が、望ましい」

 

「当然です」

 

「ヴァルガニアとの緊張も」

 

「低い方が、望ましい」

 

「それは」

 

 ミレイアは、少し考えた。

 

「相手次第ですね」

 

 日本側の担当者が、彼女を見た。

 

「ただ」

 

 ミレイアは続けた。

 

「もし日本とヴァルガニアが戦争をすれば」

 

「はい」

 

「日本が勝つのか」

 

 一拍、置いて。

 

「ヴァルガニアが勝つのか」

 

「はい」

 

「それより前に」

 

 彼女は、指で海図を叩いた。

 

「我々の船が、困るのです」

 

 極めて、ベルカディアらしい答えだった。

 

 ◇

 

 その夜、ベルカディア使節団だけの、内部の会議が開かれた。議題は、日本との今後の関係だった。

 

「私は」

 

 ミレイアが言った。

 

「正式な外交関係を、急ぐべきだと思います」

 

 数日前であれば、その目的は、ヴァレシアに遅れを取らないためだった。だが今は、少し違っていた。

 

「理由は」

 

 代表の外交官が尋ねた。

 

「交易です」

 

「それだけか?」

 

「それで、十分でしょう」

 

 誰も、反論しなかった。

 

「日本と正式な外交関係があれば」

 

 ミレイアは続けた。

 

「商人の保護も、紛争の解決も、検疫も、航路も、救難も、輸出管理も」

 

 一拍、置いて。

 

「全部、話しやすくなります」

 

「軍事的にもな」

 

 ヴァルドが言った。

 

「同盟を結ぶ、と?」

 

「違う」

 

 提督は答えた。

 

「相手が何をする国なのかを」

 

 一度、言葉を区切る。

 

「直接、聞けるようになる」

 

 それは、軍人らしい現実論だった。

 

「では」

 

 外交官が言った。

 

「日本との国交樹立を、国王陛下に上申する」

 

「賛成です」

 

「異議なし」

 

「賛成」

 

 話は、決まった。

 

 ◇

 

 だが、ミレイアはそこで、もう一枚の地図を広げた。

 

 ベルカディア、ヴァレシア、日本。そして、亜大陸の国々。

 

「次です」

 

「まだ、あるのですか」

 

「あります」

 

 彼女は、地図に線を引いた。内陸からベルカディアへ。ベルカディアから海へ。そして、日本へ。

 

「日本との交易だけなら」

 

 ミレイアは言った。

 

「ヴァレシアにも、できます」

 

「では」

 

「我々は」

 

 彼女は、さらに線を増やしていった。北方、西方、南方、内陸。

 

「亜大陸中の商品を」

 

「はい」

 

「ベルカディアに集める」

 

「はい」

 

「日本からやって来る商品も」

 

「はい」

 

「ここから、各国へ流す」

 

 ベルカディアを中心に、線が集まっていった。

 

「日本への玄関口になる、と?」

 

 外交官が言った。

 

「違います」

 

 ミレイアは答えた。

 

「玄関口は、ヴァレシアでも構いません」

 

「では」

 

「財布になるのです」

 

 部屋が、静かになった。

 

「船を出す」

 

「はい」

 

「保険をつける」

 

「はい」

 

「金を貸す」

 

「はい」

 

「契約書を書く」

 

「はい」

 

「揉めたら、仲裁する」

 

「はい」

 

「商品は」

 

 一拍、置いて。

 

「誰の国の物でも、構わない」

 

 それが、ベルカディアという国だった。

 

 物を全部、自分で作る必要はない。道を全部、自分の領土にする必要もない。人と金と商品が、自分たちの手を通っていけばいいのだ。

 

「そのためには」

 

 ミレイアは言った。

 

「海が、静かな方がいい」

 

「ずいぶん、簡単に言うな」

 

 ヴァルドが言った。

 

「簡単なことです」

 

「戦争をしたがる国に、聞かせてやりたいな」

 

 ミレイアは、ほんの少し笑った。

 

「戦争をする国にも」

 

「何だ」

 

「保険料の請求書を、送ってやればいいのです」

 

 笑いが起きた。

 

 ◇

 

 そのときは、まだ誰も知らなかった。

 

 近い将来、東部海域の緊張を、力によって自国に有利な形へ戻そうとする国が現れることを。そしてその圧力が、ベルカディアを日本から遠ざけるどころか、逆に、日本との関係をさらに深める理由になってしまうことを。

 

 このときベルカディア人が知っていたのは、ただ一つのことだけだった。

 

 政治には理念がある。戦争には大義がある。外交には名誉がある。だが、船を出す者にとっては、最後には、そのすべてに値段がつく。

 

 そして平和という商品は、多くの場合、戦争よりもはるかに安かったのである。

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