ベルカディア商王国の使節団と日本側との協議は、商品、契約、輸出管理と進み、四日目になってようやく海の話に戻ってきた。
もっとも、ベルカディア人にとって、海は最初からすべての話の土台にあった。酒を売るにも、香辛料を運ぶにも、魔法の鉱石を送るにも、日本から機械を買うにも、船が必要なのだ。
そして船というものは、港を出れば必ず目的地に着く、というものではない。
◇
会議室の中央には、大きな海図が広げられていた。
ヴァレシアの東岸、リヴァーノ、ベルカディア方面へと延びる既存の航路。そこからさらに東には、日本側から提供された暫定的な海域の情報が書き込まれている。海流、風、水深、危険な海域、気象。まだ調査の途中にある部分も多かった。
ヴァルド・セレク提督は、腕を組んで、しばらく海図を見つめていた。
「日本から見れば」
彼は言った。
「近いのですか」
「距離だけで言えば、極端に遠いわけではありません」
日本側の海運担当官が答えた。
「日本の船なら?」
「種類にもよりますが、問題にはなりにくいでしょう」
「我々の船なら」
「そこが、問題なのです」
ヴァルドは頷いた。
「同感です」
日本の大型船にとっては、比較的短い海域でも、ベルカディアの帆船にとっては話が違う。風向き、潮の流れ、補給、嵐、船体の強度、水、食料、そして病気。そのすべてが問題になるのだ。
「日本の船に、全部運んでもらうという方法もあります」
日本側の海運担当がそう言うと、ベルカディア側が妙に静かになった。
◇
「それは」
ミレイア・コルヴァンが言った。
「一番簡単で」
「はい」
「一番困る方法ですね」
「なぜでしょう」
「日本の船しか日本へ行けないのなら」
ミレイアは、海図を指した。
「運賃も」
「はい」
「出航の時期も」
「はい」
「輸送の量も」
「はい」
「全部、日本側の都合で決まってしまう」
日本側の担当官は、少し考えた。
「独占されてしまう、ということですか」
「あなた方に、そのつもりがなくても」
ミレイアは言った。
「結果として、そうなります」
ベルカディアは、自分たちの商売を、他人の船だけに預けるつもりはなかった。
「では」
日本側が言った。
「ベルカディアの船が、日本へ直接航海できるようにしたい、と」
「最終的には」
「最初から、ですか?」
「それは、無理でしょう」
即答だった。
「ですから」
ミレイアは言った。
「段階を作ります」
まずは、日本の船による試験的な輸送。そこにベルカディア人の船員を同乗させ、海の状態を記録し、日本側の海図と照らし合わせる。寄港、救難、補給の手順も確かめる。
次に、ベルカディアの船と日本の船による、共同での航海。
そして、その先に、ベルカディアの船だけでの航海がある。
「急がないのですね」
日本側の担当官が言った。
「急いで沈んだら」
ミレイアは答えた。
「次の船が、出なくなりますから」
ヴァルド提督が、少し笑った。
「珍しく、海軍と商人の意見が一致したな」
「珍しく、ですか?」
「普段は、商人が船を出したがり、海軍がそれを止めるものだ」
「沈まない程度に船を出すのが、商売です」
「沈む可能性を考えるのが、海軍だ」
◇
そこから、話は救難のことに移った。
「日本側は」
ベルカディアの海運業者が言った。
「船が遭難した場合」
「はい」
「どこまで救助できるのです」
日本側が説明を始めた。海上保安、航空による救難、遠隔での監視、気象の予測、通信、捜索。
説明が進むにつれて、ベルカディア側の保険担当者の顔色が変わっていった。
「待ってください」
「はい」
「遭難した位置が、分かるのですか?」
「通信が生きていれば」
「夜でも?」
「はい」
「嵐の中でも?」
「条件次第ですが」
「空から、探すのですか?」
「はい」
「救助の船も出る?」
「必要であれば」
保険担当者は、海図に目を落とした。
「……下がる」
「何が、です?」
ミレイアの方が、先に理解した。
「保険料ね」
「はい」
男の目が、輝いた。
「かなり、下がります」
日本側は、少し困った顔をした。
「まだ、事故率も分かっていないのに?」
「救助の能力が高いというだけでも」
保険担当者は言った。
「全損の率は、下がる可能性があります」
「全損?」
「船も、荷物も、人も、全部失うことです」
「それは、分かります」
「なら、話が早い」
ベルカディア人は、日本の救難能力を、人道の面からだけ見ていたわけではなかった。事故が起きたときの損失率として見ていたのだ。
日本側の高精度な気象予測、航路の監視、通信、そして救難。それらは、船を速くする技術であるだけではない。船が沈んだときの損失を、小さくする技術でもあるのだ。
「それなら」
ミレイアが言った。
「日本との交易は、思っていたより安くなるかもしれませんね」
「運賃が、ですか?」
日本側の担当官が尋ねた。
「違います」
彼女は笑った。
「危険が、です」
◇
午後になると、ベルカディア側は、実際に数字を作り始めた。
船の価格、積荷、航海の日数、乗組員、食料、港湾の費用、事故率。そして、海賊、嵐、座礁、戦争。
「最後の」
日本側の若い担当官が聞いた。
「戦争も、計算に入れるのですか」
ベルカディア側の全員が、不思議そうに彼を見た。
「入れないのですか」
「いえ、入れますが」
「では」
ベルカディアの保険担当者は言った。
「同じことです」
戦争、海賊、封鎖、拿捕、臨検、港の閉鎖、商船の徴用、航路の変更。保険業者にとって、政治とは数字だった。
「ヴァレシアと日本が、今の関係を保つ場合」
ミレイアがそう言うと、書記が数字を書き記した。
「両国の間で、緊張が高まる場合」
別の数字が書かれる。
「ヴァルガニアが、東部の海域へ軍を出す場合」
数字が、さらに上がった。
「実際に、戦争になった場合」
数字は、もっと上がった。
「海上封鎖が行われた場合」
保険担当者は、首を振った。
「引き受け停止ですね」
「保険を、売らないのですか?」
日本側が聞いた。
「売れないのです」
「値段を上げれば?」
「値段を上げても」
男は言った。
「沈むと分かっている船に、金は貸せません」
日本側は、少し感心した。
「先日のお話と、同じですね」
「信用、ですか?」
「はい」
「戦争をする国は」
ミレイアが言った。
「信用が下がるのです」
短い言葉だった。だが、ベルカディアにとっては、かなり重い言葉だった。
軍事的に勝てるかどうか、ではない。戦争を始めるかもしれない、というだけで、船主は航路を変え、銀行は金利を上げ、保険業者は保険料を上げ、商人は倉庫を移す。
つまり戦争は、始まる前から、金がかかるのだ。
「面白い国ですね」
日本側の担当官が言った。
「何がです?」
「安全保障の話を」
彼は、少し笑った。
「保険料で、なさっている」
ミレイアも笑った。
「海軍が勝つか負けるかは」
「はい」
「海軍に任せています」
「では、ベルカディアは?」
「その戦争で」
一拍、置いて。
「いくら損をするのかを、計算するのです」
「嫌な言い方だな」
ヴァルド提督が言った。
「でも、海軍の予算も、そこから出ているのですよ」
「だから、嫌なんだ」
笑いが起きた。
◇
だが、その日の協議で最も重要だったのは、笑い話ではなかった。
ベルカディア側は、日本との交易路について、一つの基本的な原則に辿り着いたのだ。
『東部海域の安定は、それ自体が経済的な資産である』
海が平和なら、船が出る。保険がつく。金が貸せる。商品が動く。
戦争になれば、そのすべてが高くつく。あるいは、止まってしまう。
「つまり」
日本側が言った。
「ベルカディア政府としては」
「はい」
「日本とヴァレシアの関係が安定している方が、望ましい」
「当然です」
「ヴァルガニアとの緊張も」
「低い方が、望ましい」
「それは」
ミレイアは、少し考えた。
「相手次第ですね」
日本側の担当者が、彼女を見た。
「ただ」
ミレイアは続けた。
「もし日本とヴァルガニアが戦争をすれば」
「はい」
「日本が勝つのか」
一拍、置いて。
「ヴァルガニアが勝つのか」
「はい」
「それより前に」
彼女は、指で海図を叩いた。
「我々の船が、困るのです」
極めて、ベルカディアらしい答えだった。
◇
その夜、ベルカディア使節団だけの、内部の会議が開かれた。議題は、日本との今後の関係だった。
「私は」
ミレイアが言った。
「正式な外交関係を、急ぐべきだと思います」
数日前であれば、その目的は、ヴァレシアに遅れを取らないためだった。だが今は、少し違っていた。
「理由は」
代表の外交官が尋ねた。
「交易です」
「それだけか?」
「それで、十分でしょう」
誰も、反論しなかった。
「日本と正式な外交関係があれば」
ミレイアは続けた。
「商人の保護も、紛争の解決も、検疫も、航路も、救難も、輸出管理も」
一拍、置いて。
「全部、話しやすくなります」
「軍事的にもな」
ヴァルドが言った。
「同盟を結ぶ、と?」
「違う」
提督は答えた。
「相手が何をする国なのかを」
一度、言葉を区切る。
「直接、聞けるようになる」
それは、軍人らしい現実論だった。
「では」
外交官が言った。
「日本との国交樹立を、国王陛下に上申する」
「賛成です」
「異議なし」
「賛成」
話は、決まった。
◇
だが、ミレイアはそこで、もう一枚の地図を広げた。
ベルカディア、ヴァレシア、日本。そして、亜大陸の国々。
「次です」
「まだ、あるのですか」
「あります」
彼女は、地図に線を引いた。内陸からベルカディアへ。ベルカディアから海へ。そして、日本へ。
「日本との交易だけなら」
ミレイアは言った。
「ヴァレシアにも、できます」
「では」
「我々は」
彼女は、さらに線を増やしていった。北方、西方、南方、内陸。
「亜大陸中の商品を」
「はい」
「ベルカディアに集める」
「はい」
「日本からやって来る商品も」
「はい」
「ここから、各国へ流す」
ベルカディアを中心に、線が集まっていった。
「日本への玄関口になる、と?」
外交官が言った。
「違います」
ミレイアは答えた。
「玄関口は、ヴァレシアでも構いません」
「では」
「財布になるのです」
部屋が、静かになった。
「船を出す」
「はい」
「保険をつける」
「はい」
「金を貸す」
「はい」
「契約書を書く」
「はい」
「揉めたら、仲裁する」
「はい」
「商品は」
一拍、置いて。
「誰の国の物でも、構わない」
それが、ベルカディアという国だった。
物を全部、自分で作る必要はない。道を全部、自分の領土にする必要もない。人と金と商品が、自分たちの手を通っていけばいいのだ。
「そのためには」
ミレイアは言った。
「海が、静かな方がいい」
「ずいぶん、簡単に言うな」
ヴァルドが言った。
「簡単なことです」
「戦争をしたがる国に、聞かせてやりたいな」
ミレイアは、ほんの少し笑った。
「戦争をする国にも」
「何だ」
「保険料の請求書を、送ってやればいいのです」
笑いが起きた。
◇
そのときは、まだ誰も知らなかった。
近い将来、東部海域の緊張を、力によって自国に有利な形へ戻そうとする国が現れることを。そしてその圧力が、ベルカディアを日本から遠ざけるどころか、逆に、日本との関係をさらに深める理由になってしまうことを。
このときベルカディア人が知っていたのは、ただ一つのことだけだった。
政治には理念がある。戦争には大義がある。外交には名誉がある。だが、船を出す者にとっては、最後には、そのすべてに値段がつく。
そして平和という商品は、多くの場合、戦争よりもはるかに安かったのである。