2330年日本国、異世界へ   作:水野芽生

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間章:畑を変える前に

 

 日本政府の、ヴァレシア農業協力検討班。彼らが最初にヴァレシア王国に求めたものは、農業機械の設置場所でも、新しい農法を試すための土地でもなかった。

 

「本、ですか」

 

 王都から派遣されてきたヴァレシア側の官吏は、少し拍子抜けしたような顔をした。

 

「はい。本です」

 

「どのような本を?」

 

「農業に関係がありそうなものを、できる限り」

 

 その答えに、官吏は手元の紙に目を落とした。日本側が作成した、収集を希望する資料の一覧である。

 

 農書、作物の栽培書、家畜の飼育書、獣医術の書、薬草書、植物誌、動物誌、昆虫について記した書物。水利工事の記録、地方誌、領地経営の記録、租税台帳、収穫高の記録、市場価格の記録、飢饉の記録、種子の売買記録、農具職人の帳簿。修道院や寺院にあたる宗教施設が残してきた、天候の記録。

 

 さらに――。

 

「農村の、昔話?」

 

 官吏が顔を上げた。

 

「可能であれば」

 

「昔話まで、農業の資料になるのですか」

 

「なるかもしれません」

 

 日本側の農学研究者は答えた。

 

「ならないかもしれません。それを調べるために、集めるのです」

 

          ◇

 

 ヴァレシアの農業の生産性が低いこと自体は、日本側でもすでにおおよそ分かっていた。

 

 王国側から提出された人口、農地、収穫量、租税、農村人口などの記録を大まかに突き合わせれば、農業に従事する者一人が支えている人口は、おおむね一・二五から一・三人程度になる。

 

 数字だけを見れば、非常に低い。日本の感覚からすれば、信じがたいほど多くの人間が、食料の生産に縛りつけられている。

 

 だが、その数字を見て、すぐに「効率が悪い」と口にした研究者はいなかった。少なくとも、正式な会議の席では。

 

「原因が、分かっていません」

 

 最初の会議で、農業協力検討班の責任者はそう言った。

 

「農具が悪いのか」

 

「その可能性はあります」

 

「種が悪いのか」

 

「それもあります」

 

「肥料が足りないのか」

 

「それも」

 

「水利の問題か」

 

「可能性があります」

 

「病害虫は」

 

「当然、あるでしょう」

 

「土地の制度は」

 

「それも、生産性に影響します」

 

 ヴァレシア側の官吏は、困った顔をした。

 

「では、何が原因なのです」

 

「分かりません」

 

 あっさりとした答えだった。

 

「それを、これから調べるのです」

 

          ◇

 

 日本には、農学があった。

 

 作物生理学、土壌学、微生物学、遺伝学、植物病理学、昆虫学、畜産学、農業工学、気象学、水文学、経済学。何世紀にもわたる蓄積がある。

 

 だが、その知識の大部分は、地球の生物と、地球の土壌と、地球の生態系を対象に築かれたものだった。

 

 ここは、地球ではない。

 

 見た目が小麦に似た穀物が、小麦と同じ生理を持っている保証はない。豆に似た植物が、大気中の窒素を固定する微生物と共生している保証もない。地球では無害だった微生物に似たものが、この世界でも無害だとは限らない。

 

 それどころか、この世界には、魔法がある。

 

          ◇

 

「これを見てくれ」

 

 研究室で、日本側の植物学者が一冊の古い農書を指さした。ヴァレシア王国の北部で、百八十年ほど前に書かれたものだった。翻訳支援システムが、原文の横に日本語を重ねて表示している。

 

『冬麦を播く前に、白根草を畑へ入れ、浅く鋤き込むべし。翌春、穂の実入りよし。ただし、二年続けてはならぬ』

 

「白根草?」

 

 隣の農学者が言った。

 

「標本は?」

 

「取り寄せ中だ」

 

「マメ科っぽいのか?」

 

「見た目だけならな。ただ、この世界で同じ分類が成り立つのかは分からない」

 

「二年続けるな、か」

 

「病気のせいかもしれないし、養分の偏りのせいかもしれない」

 

「あるいは」

 

 向かいに座っていたヴァレシア人の農学者が、口を挟んだ。

 

「地力を吸いすぎる、と昔から言われています」

 

 日本人の二人が、同時に彼を見た。

 

「どういう意味です?」

 

「白根草を入れた翌年は、麦がよく育ちます。しかし、それを続けると、その次の年からは畑が疲れてしまうのです」

 

「それは、どこかに記録がありますか?」

 

「記録?」

 

「はい」

 

「農民なら、誰でも知っていますよ」

 

          ◇

 

 その日の午後、収集を希望する資料の一覧に、新しい項目が加わった。

 

 「農民」である。

 

          ◇

 

「人を、集めるのですか」

 

「話を、聞くのです」

 

「王立農学院の者では、足りませんか」

 

「足りません」

 

 日本側の研究者は、即答した。

 

「農学院の方々にも来ていただきます。ただ、実際に畑を耕している人にも、話を聞きたいのです」

 

「どのような者を?」

 

「できれば、同じ地域で長く農業を続けている人を」

 

「長く、とは」

 

「三十年以上」

 

 官吏が、それを記録した。

 

「他には?」

 

「種を保存している人」

 

「はい」

 

「家畜を育てている人」

 

「はい」

 

「灌漑の水路を管理している人」

 

「はい」

 

「果樹を育てている農家」

 

「はい」

 

「養蜂をしている人」

 

「はい」

 

「病気や虫に詳しい人」

 

「それは、農学者のことでは?」

 

「農民の中にも、いるでしょう」

 

「まあ……いますね」

 

「それから、飢饉を経験した人」

 

 官吏の筆が、止まった。

 

「飢饉、ですか?」

 

「はい」

 

「なぜです」

 

「何が最後まで育ったのかを、知っているかもしれませんから」

 

          ◇

 

 最初の聞き取り調査は、リヴァーノ周辺の農村で行われた。

 

 日本側からは、農学者、植物病理の研究者、土壌の研究者、獣医師、文化人類学者、そして記録の担当者。ヴァレシア側からは、農政官、地元の農学者、魔術師が参加した。

 

 集められた農民は、十二人。最年少は三十一歳、最年長は七十八歳だった。

 

 最初、日本人たちはかなり警戒された。

 

「何を聞くつもりだね」

 

 七十八歳の農民が尋ねた。

 

「畑について、です」

 

「畑の、何を」

 

「全部です」

 

「全部?」

 

「全部です」

 

 老人は、隣の農民を見た。

 

「日本人は、暇なのか」

 

 通訳がそれを訳すと、日本側の研究者は笑った。

 

「かなり忙しいので、全部聞くんですよ」

 

 老人も、笑った。

 

          ◇

 

 話は、最初こそゆっくりと進んだ。

 

 何を植えるのか。いつ種を播き、いつ刈り取るのか。どの土地に何を植えるのか。どの畑を休ませるのか。肥料には何を使うのか。家畜の糞はどうするのか。種はどう選ぶのか。雨の多い年は。少ない年は。虫が出たら。病気が出たら。種が腐ったら。冬が長かったら。春が早かったら。

 

 質問が、次々と続いた。

 

「この丘の上ではな」

 

 一人の農民が言った。

 

「麦を、早く播かない方がいい」

 

「なぜです?」

 

「腐るんだ」

 

「雨で、ですか?」

 

「いや」

 

「水はけが悪い?」

 

「悪くはない」

 

「では、なぜ?」

 

 農民は、困った顔をした。

 

「腐るものは、腐るんだよ」

 

 日本側の研究者は、それを否定しなかった。

 

「どのくらい早いと、駄目なのですか?」

 

「実りの祭りから十日以内は、駄目だ」

 

「十一日目なら?」

 

「そういう話じゃない」

 

 周囲から、笑いが漏れた。

 

「では、だいたいで結構です」

 

「二週間は、空けろ」

 

「何年くらい、そうしているのですか?」

 

「俺の爺さんも、そう言っていた」

 

「少なくとも、三世代ですね」

 

「そうだな」

 

 その言葉が、記録されていく。

 

「川向こうの畑では、その話は逆だぞ」

 

 別の農民が言った。

 

「逆?」

 

「遅く播くと、穂が小さくなる」

 

「ここから、どのくらいの距離です?」

 

「歩いて、半刻ほどだ」

 

 日本側の土壌研究者が、顔を上げた。

 

「土が、違うのでしょうか」

 

「見れば、違うのが分かるぞ」

 

「採取させていただいても、いいですか」

 

「土をか?」

 

「はい」

 

「持って帰るのか」

 

「少しだけ」

 

「好きにしろ」

 

 その日の帰り、日本側の調査車両には、袋に詰められた土が大量に積まれていた。

 

          ◇

 

 数日後、ヴァレシアの王都から、最初のまとまった文献が届いた。箱、箱、また箱。

 

「何冊あるんです?」

 

「現在、八百二十七冊です」

 

「現在?」

 

「王立書庫の分だけで、です」

 

「地方の分は?」

 

「問い合わせ中です」

 

「農学院の分は」

 

「別便で届きます」

 

 農学研究者の一人が、積み上がった箱を見上げた。

 

「思っていたより、あるな」

 

「何を想像していたのです」

 

 ヴァレシア側の農学者が、少し不満そうに言った。

 

「失礼しました」

 

「我々も、何百年と農業を続けてきたのですよ」

 

「その通りです」

 

          ◇

 

 日本側は、すぐに考え方を改めた。

 

 ヴァレシアには、近代科学としての農学はない。だが、農業の知識がないわけではない。むしろ、大量にある。体系が違い、記録の仕方が違い、理由の説明の仕方が違う。ただ、それだけのことだった。

 

 ある農書には、十二種類の土が記載されていた。色、手触り、水を含んだときの粘り、乾いたときの割れ方、そしてどの作物に向いているのか。

 

 別の書物には、家畜の糞をそのまま撒くのではなく、藁と混ぜて一定期間置いてから使う方法が記されていた。

 

 また別の地方誌には、十七年前の大雨で、どの村が不作になり、どの村が平年並みだったのかが残されていた。理由までは書かれていないが、記録は残っていたのだ。

 

「これを見れば」

 

 日本側の研究者が言った。

 

「排水の能力の差を、追えるかもしれない」

 

「こっちは?」

 

「家畜の疫病の記録だ」

 

「何年分ある」

 

「百十四年分」

 

「すごいな」

 

 さらに、別の本が開かれた。

 

「種を、塩水に浸ける?」

 

「そう書いてある」

 

「濃度は?」

 

「濃い塩水、だそうだ」

 

「それじゃ、分からん」

 

「卵が少し浮く程度、と別の本には書いてあります」

 

 ヴァレシア側の農学者が言うと、日本側の研究者は止まった。

 

「それは」

 

「何です?」

 

「比重を、経験で合わせているんだ」

 

 古い農書の、別の頁には、こうあった。

 

『病み穂の多き年の種を、翌年に用いるな』

 

「種子伝染のことを、知っているのか?」

 

「病気が種から移る、とは書いていない」

 

「でも、結果的には、それを避けている」

 

 読めば読むほど、日本の研究者たちは、軽々しく「遅れている」とは言えなくなっていった。

 

 理論の体系はない。測定器もない。微生物も、元素も、遺伝子も知らない。

 

 だが、これは何世代もの人々が、失敗し、死に、飢え、それでも次の年に少しでも多く収穫するために、書き残してきた知識だったのだ。

 

          ◇

 

 そして、日本人をさらに困らせる記録が出てきた。

 

『春播きの豆は、種を播く三日前に弱き水術を施せば、芽の揃いよし』

 

 研究室が、静まり返った。

 

「水分を与える、という意味ですか?」

 

「違います」

 

 ヴァレシア側の農学者が答えた。

 

「では」

 

「水の魔法です」

 

「本当に?」

 

「古い農法です」

 

「今でも?」

 

「一部の地域では」

 

 日本側の研究者は、頁を見つめた。

 

「効果は」

 

「あると言われています」

 

「測ったことは?」

 

「ありません」

 

 研究者は、ペンを置いた。

 

「試験の対象に」

 

「入れておきます」

 

 記録の担当者が答えた。

 

 さらに、こんな記述もあった。

 

『風の通らぬ日に刈った穀物へ微風術を使えば、腐敗を避ける』

 

「これは」

 

「乾燥のためでしょうね」

 

「たぶんな」

 

「魔力そのものの影響かもしれない」

 

「両方、調べよう」

 

 また別の本には、こうあった。

 

『畑の四隅へ青石を埋めれば、虫害を避ける』

 

「これは?」

 

 ヴァレシア側の農学者は、肩をすくめた。

 

「迷信だと思いますよ」

 

 日本側の研究者は、少し考えた。

 

「それも、試験の対象に」

 

「本気ですか」

 

「ここへ来てから」

 

 一拍、置いて。

 

「迷信という言葉を使うのが、怖くなりましてね」

 

 ヴァレシア側は、笑った。

 

「我々だって、全部を信じているわけではありませんよ」

 

「なら」

 

「はい」

 

「一緒に、調べましょう」

 

          ◇

 

 そのころ、ベルカディア商王国にも、少し変わった注文が届いていた。日本側からのものだった。

 

 注文の品は、商品ではなかった。本である。

 

 ベルカディアの商人が扱える範囲で、亜大陸の各地の農書、博物誌、薬草書、家畜書、水利書、地方誌、種子の目録。古くても、新しくても構わない。写本でも構わない。できれば、異なる版も欲しい――。

 

 ベルカディアの商人は、その注文書を三度読み返した。

 

「全部か?」

 

「可能な限り、と」

 

 担当官が答えた。

 

「農業の本を?」

 

「植物や家畜の関係もです」

 

「売れるのか」

 

「日本が、買うと言っている」

 

 商人は、少し考えてから、笑った。

 

「なら、売れる」

 

 数日後、ベルカディアの商業網を通じて、各地の書物を集める動きが始まった。

 

 日本が農業協力を始めるにあたって、最初に輸入したものの一つは、小麦でも、肥料でも、魔法の鉱石でもなかった。知識だったのだ。

 

          ◇

 

 調査の開始から、二週間。日本側の内部会議が開かれた。

 

 壁には、ヴァレシアの農業地図が表示されていた。主要な作物、家畜の分布、降水量、土壌、既知の病害。まだ、空白だらけだった。

 

「改革案は?」

 

 政府の担当者が尋ねた。農学班の責任者は、首を振った。

 

「まだ、作れません」

 

「二週間も調べて?」

 

「二週間しか、調べていません」

 

 責任者は、資料を机に置いた。

 

「ただ」

 

「はい」

 

「一つだけ、分かったことがあります」

 

「何でしょう」

 

「ヴァレシアの農業は」

 

 責任者は、一度言葉を選んだ。

 

「単純に、古い農業ではありません」

 

「では」

 

「この土地に合わせて」

 

 研究者は言った。

 

「何百年ものあいだ、改良され続けてきた農業なのです」

 

「生産性は、低い」

 

「低いです」

 

「なら、改善はできる」

 

「できるでしょう」

 

 そこで責任者は、壁の地図を見つめた。

 

「ですが、その前に」

 

「何を?」

 

「なぜ今の形になったのかを知らなければ」

 

 少し、間を置いて。

 

「改善したつもりで、壊してしまうかもしれません」

 

 誰も、反論しなかった。

 

          ◇

 

 日本には、農学がある。機械がある。計算機がある。何世紀分もの科学がある。

 

 しかし、この世界で、去年どの畑にどの虫が出たのかを、日本人は知らない。百年前にどの川が溢れ、どの村だけが飢えずに済んだのかも知らない。どの草を鋤き込めば、翌年の麦がよく育つのかも、知らない。

 

 それを知っているのは、この土地で何世代にもわたって畑を耕してきた人々だった。

 

 だから、日本がヴァレシアの農業を変えるために最初にしたことは、何かを教えることではなかった。

 

 聞くことだった。読むことだった。集めることだった。

 

 畑を変える前に、まず、畑を知るために。

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