日本政府の、ヴァレシア農業協力検討班。彼らが最初にヴァレシア王国に求めたものは、農業機械の設置場所でも、新しい農法を試すための土地でもなかった。
「本、ですか」
王都から派遣されてきたヴァレシア側の官吏は、少し拍子抜けしたような顔をした。
「はい。本です」
「どのような本を?」
「農業に関係がありそうなものを、できる限り」
その答えに、官吏は手元の紙に目を落とした。日本側が作成した、収集を希望する資料の一覧である。
農書、作物の栽培書、家畜の飼育書、獣医術の書、薬草書、植物誌、動物誌、昆虫について記した書物。水利工事の記録、地方誌、領地経営の記録、租税台帳、収穫高の記録、市場価格の記録、飢饉の記録、種子の売買記録、農具職人の帳簿。修道院や寺院にあたる宗教施設が残してきた、天候の記録。
さらに――。
「農村の、昔話?」
官吏が顔を上げた。
「可能であれば」
「昔話まで、農業の資料になるのですか」
「なるかもしれません」
日本側の農学研究者は答えた。
「ならないかもしれません。それを調べるために、集めるのです」
◇
ヴァレシアの農業の生産性が低いこと自体は、日本側でもすでにおおよそ分かっていた。
王国側から提出された人口、農地、収穫量、租税、農村人口などの記録を大まかに突き合わせれば、農業に従事する者一人が支えている人口は、おおむね一・二五から一・三人程度になる。
数字だけを見れば、非常に低い。日本の感覚からすれば、信じがたいほど多くの人間が、食料の生産に縛りつけられている。
だが、その数字を見て、すぐに「効率が悪い」と口にした研究者はいなかった。少なくとも、正式な会議の席では。
「原因が、分かっていません」
最初の会議で、農業協力検討班の責任者はそう言った。
「農具が悪いのか」
「その可能性はあります」
「種が悪いのか」
「それもあります」
「肥料が足りないのか」
「それも」
「水利の問題か」
「可能性があります」
「病害虫は」
「当然、あるでしょう」
「土地の制度は」
「それも、生産性に影響します」
ヴァレシア側の官吏は、困った顔をした。
「では、何が原因なのです」
「分かりません」
あっさりとした答えだった。
「それを、これから調べるのです」
◇
日本には、農学があった。
作物生理学、土壌学、微生物学、遺伝学、植物病理学、昆虫学、畜産学、農業工学、気象学、水文学、経済学。何世紀にもわたる蓄積がある。
だが、その知識の大部分は、地球の生物と、地球の土壌と、地球の生態系を対象に築かれたものだった。
ここは、地球ではない。
見た目が小麦に似た穀物が、小麦と同じ生理を持っている保証はない。豆に似た植物が、大気中の窒素を固定する微生物と共生している保証もない。地球では無害だった微生物に似たものが、この世界でも無害だとは限らない。
それどころか、この世界には、魔法がある。
◇
「これを見てくれ」
研究室で、日本側の植物学者が一冊の古い農書を指さした。ヴァレシア王国の北部で、百八十年ほど前に書かれたものだった。翻訳支援システムが、原文の横に日本語を重ねて表示している。
『冬麦を播く前に、白根草を畑へ入れ、浅く鋤き込むべし。翌春、穂の実入りよし。ただし、二年続けてはならぬ』
「白根草?」
隣の農学者が言った。
「標本は?」
「取り寄せ中だ」
「マメ科っぽいのか?」
「見た目だけならな。ただ、この世界で同じ分類が成り立つのかは分からない」
「二年続けるな、か」
「病気のせいかもしれないし、養分の偏りのせいかもしれない」
「あるいは」
向かいに座っていたヴァレシア人の農学者が、口を挟んだ。
「地力を吸いすぎる、と昔から言われています」
日本人の二人が、同時に彼を見た。
「どういう意味です?」
「白根草を入れた翌年は、麦がよく育ちます。しかし、それを続けると、その次の年からは畑が疲れてしまうのです」
「それは、どこかに記録がありますか?」
「記録?」
「はい」
「農民なら、誰でも知っていますよ」
◇
その日の午後、収集を希望する資料の一覧に、新しい項目が加わった。
「農民」である。
◇
「人を、集めるのですか」
「話を、聞くのです」
「王立農学院の者では、足りませんか」
「足りません」
日本側の研究者は、即答した。
「農学院の方々にも来ていただきます。ただ、実際に畑を耕している人にも、話を聞きたいのです」
「どのような者を?」
「できれば、同じ地域で長く農業を続けている人を」
「長く、とは」
「三十年以上」
官吏が、それを記録した。
「他には?」
「種を保存している人」
「はい」
「家畜を育てている人」
「はい」
「灌漑の水路を管理している人」
「はい」
「果樹を育てている農家」
「はい」
「養蜂をしている人」
「はい」
「病気や虫に詳しい人」
「それは、農学者のことでは?」
「農民の中にも、いるでしょう」
「まあ……いますね」
「それから、飢饉を経験した人」
官吏の筆が、止まった。
「飢饉、ですか?」
「はい」
「なぜです」
「何が最後まで育ったのかを、知っているかもしれませんから」
◇
最初の聞き取り調査は、リヴァーノ周辺の農村で行われた。
日本側からは、農学者、植物病理の研究者、土壌の研究者、獣医師、文化人類学者、そして記録の担当者。ヴァレシア側からは、農政官、地元の農学者、魔術師が参加した。
集められた農民は、十二人。最年少は三十一歳、最年長は七十八歳だった。
最初、日本人たちはかなり警戒された。
「何を聞くつもりだね」
七十八歳の農民が尋ねた。
「畑について、です」
「畑の、何を」
「全部です」
「全部?」
「全部です」
老人は、隣の農民を見た。
「日本人は、暇なのか」
通訳がそれを訳すと、日本側の研究者は笑った。
「かなり忙しいので、全部聞くんですよ」
老人も、笑った。
◇
話は、最初こそゆっくりと進んだ。
何を植えるのか。いつ種を播き、いつ刈り取るのか。どの土地に何を植えるのか。どの畑を休ませるのか。肥料には何を使うのか。家畜の糞はどうするのか。種はどう選ぶのか。雨の多い年は。少ない年は。虫が出たら。病気が出たら。種が腐ったら。冬が長かったら。春が早かったら。
質問が、次々と続いた。
「この丘の上ではな」
一人の農民が言った。
「麦を、早く播かない方がいい」
「なぜです?」
「腐るんだ」
「雨で、ですか?」
「いや」
「水はけが悪い?」
「悪くはない」
「では、なぜ?」
農民は、困った顔をした。
「腐るものは、腐るんだよ」
日本側の研究者は、それを否定しなかった。
「どのくらい早いと、駄目なのですか?」
「実りの祭りから十日以内は、駄目だ」
「十一日目なら?」
「そういう話じゃない」
周囲から、笑いが漏れた。
「では、だいたいで結構です」
「二週間は、空けろ」
「何年くらい、そうしているのですか?」
「俺の爺さんも、そう言っていた」
「少なくとも、三世代ですね」
「そうだな」
その言葉が、記録されていく。
「川向こうの畑では、その話は逆だぞ」
別の農民が言った。
「逆?」
「遅く播くと、穂が小さくなる」
「ここから、どのくらいの距離です?」
「歩いて、半刻ほどだ」
日本側の土壌研究者が、顔を上げた。
「土が、違うのでしょうか」
「見れば、違うのが分かるぞ」
「採取させていただいても、いいですか」
「土をか?」
「はい」
「持って帰るのか」
「少しだけ」
「好きにしろ」
その日の帰り、日本側の調査車両には、袋に詰められた土が大量に積まれていた。
◇
数日後、ヴァレシアの王都から、最初のまとまった文献が届いた。箱、箱、また箱。
「何冊あるんです?」
「現在、八百二十七冊です」
「現在?」
「王立書庫の分だけで、です」
「地方の分は?」
「問い合わせ中です」
「農学院の分は」
「別便で届きます」
農学研究者の一人が、積み上がった箱を見上げた。
「思っていたより、あるな」
「何を想像していたのです」
ヴァレシア側の農学者が、少し不満そうに言った。
「失礼しました」
「我々も、何百年と農業を続けてきたのですよ」
「その通りです」
◇
日本側は、すぐに考え方を改めた。
ヴァレシアには、近代科学としての農学はない。だが、農業の知識がないわけではない。むしろ、大量にある。体系が違い、記録の仕方が違い、理由の説明の仕方が違う。ただ、それだけのことだった。
ある農書には、十二種類の土が記載されていた。色、手触り、水を含んだときの粘り、乾いたときの割れ方、そしてどの作物に向いているのか。
別の書物には、家畜の糞をそのまま撒くのではなく、藁と混ぜて一定期間置いてから使う方法が記されていた。
また別の地方誌には、十七年前の大雨で、どの村が不作になり、どの村が平年並みだったのかが残されていた。理由までは書かれていないが、記録は残っていたのだ。
「これを見れば」
日本側の研究者が言った。
「排水の能力の差を、追えるかもしれない」
「こっちは?」
「家畜の疫病の記録だ」
「何年分ある」
「百十四年分」
「すごいな」
さらに、別の本が開かれた。
「種を、塩水に浸ける?」
「そう書いてある」
「濃度は?」
「濃い塩水、だそうだ」
「それじゃ、分からん」
「卵が少し浮く程度、と別の本には書いてあります」
ヴァレシア側の農学者が言うと、日本側の研究者は止まった。
「それは」
「何です?」
「比重を、経験で合わせているんだ」
古い農書の、別の頁には、こうあった。
『病み穂の多き年の種を、翌年に用いるな』
「種子伝染のことを、知っているのか?」
「病気が種から移る、とは書いていない」
「でも、結果的には、それを避けている」
読めば読むほど、日本の研究者たちは、軽々しく「遅れている」とは言えなくなっていった。
理論の体系はない。測定器もない。微生物も、元素も、遺伝子も知らない。
だが、これは何世代もの人々が、失敗し、死に、飢え、それでも次の年に少しでも多く収穫するために、書き残してきた知識だったのだ。
◇
そして、日本人をさらに困らせる記録が出てきた。
『春播きの豆は、種を播く三日前に弱き水術を施せば、芽の揃いよし』
研究室が、静まり返った。
「水分を与える、という意味ですか?」
「違います」
ヴァレシア側の農学者が答えた。
「では」
「水の魔法です」
「本当に?」
「古い農法です」
「今でも?」
「一部の地域では」
日本側の研究者は、頁を見つめた。
「効果は」
「あると言われています」
「測ったことは?」
「ありません」
研究者は、ペンを置いた。
「試験の対象に」
「入れておきます」
記録の担当者が答えた。
さらに、こんな記述もあった。
『風の通らぬ日に刈った穀物へ微風術を使えば、腐敗を避ける』
「これは」
「乾燥のためでしょうね」
「たぶんな」
「魔力そのものの影響かもしれない」
「両方、調べよう」
また別の本には、こうあった。
『畑の四隅へ青石を埋めれば、虫害を避ける』
「これは?」
ヴァレシア側の農学者は、肩をすくめた。
「迷信だと思いますよ」
日本側の研究者は、少し考えた。
「それも、試験の対象に」
「本気ですか」
「ここへ来てから」
一拍、置いて。
「迷信という言葉を使うのが、怖くなりましてね」
ヴァレシア側は、笑った。
「我々だって、全部を信じているわけではありませんよ」
「なら」
「はい」
「一緒に、調べましょう」
◇
そのころ、ベルカディア商王国にも、少し変わった注文が届いていた。日本側からのものだった。
注文の品は、商品ではなかった。本である。
ベルカディアの商人が扱える範囲で、亜大陸の各地の農書、博物誌、薬草書、家畜書、水利書、地方誌、種子の目録。古くても、新しくても構わない。写本でも構わない。できれば、異なる版も欲しい――。
ベルカディアの商人は、その注文書を三度読み返した。
「全部か?」
「可能な限り、と」
担当官が答えた。
「農業の本を?」
「植物や家畜の関係もです」
「売れるのか」
「日本が、買うと言っている」
商人は、少し考えてから、笑った。
「なら、売れる」
数日後、ベルカディアの商業網を通じて、各地の書物を集める動きが始まった。
日本が農業協力を始めるにあたって、最初に輸入したものの一つは、小麦でも、肥料でも、魔法の鉱石でもなかった。知識だったのだ。
◇
調査の開始から、二週間。日本側の内部会議が開かれた。
壁には、ヴァレシアの農業地図が表示されていた。主要な作物、家畜の分布、降水量、土壌、既知の病害。まだ、空白だらけだった。
「改革案は?」
政府の担当者が尋ねた。農学班の責任者は、首を振った。
「まだ、作れません」
「二週間も調べて?」
「二週間しか、調べていません」
責任者は、資料を机に置いた。
「ただ」
「はい」
「一つだけ、分かったことがあります」
「何でしょう」
「ヴァレシアの農業は」
責任者は、一度言葉を選んだ。
「単純に、古い農業ではありません」
「では」
「この土地に合わせて」
研究者は言った。
「何百年ものあいだ、改良され続けてきた農業なのです」
「生産性は、低い」
「低いです」
「なら、改善はできる」
「できるでしょう」
そこで責任者は、壁の地図を見つめた。
「ですが、その前に」
「何を?」
「なぜ今の形になったのかを知らなければ」
少し、間を置いて。
「改善したつもりで、壊してしまうかもしれません」
誰も、反論しなかった。
◇
日本には、農学がある。機械がある。計算機がある。何世紀分もの科学がある。
しかし、この世界で、去年どの畑にどの虫が出たのかを、日本人は知らない。百年前にどの川が溢れ、どの村だけが飢えずに済んだのかも知らない。どの草を鋤き込めば、翌年の麦がよく育つのかも、知らない。
それを知っているのは、この土地で何世代にもわたって畑を耕してきた人々だった。
だから、日本がヴァレシアの農業を変えるために最初にしたことは、何かを教えることではなかった。
聞くことだった。読むことだった。集めることだった。
畑を変える前に、まず、畑を知るために。