ヴァレシアの農業についての文献の収集と聞き取りが始まってから、一か月が経った。
日本側の農業協力検討班が次に欲しがったものは、さらに奇妙なものだった。
「秤、ですか」
「はい」
「それなら、ありますが」
「できれば、たくさん」
ヴァレシア側の農政官は、首を傾げた。
「何を量るのです?」
日本側の研究者は答えた。
「まずは、全部です」
農政官は、しばらく黙り込んだ。
「以前にも、同じことを聞いた気がします」
「たぶん、同じ人間がお答えしました」
◇
第一段階で、日本側はヴァレシアの農業について、大量の情報を集めていた。
どの土地で、何を育てるのか。いつ種を播き、いつ刈り取るのか。何年おきに土地を休ませるのか。どの草を鋤き込むのか。家畜の糞をどう扱うのか。害虫が出たら何をするのか。雨の多い年には何を諦め、雨の少ない年には何を残すのか。
そうした知識は、農書にも、地方誌にも、農民たちの記憶にも残っていた。
だが、日本側が欲しいのは、その先だった。
「“よく採れる”ではなく」
農学班の責任者は言った。
「“どれだけ採れるのか”。“虫が多い”ではなく、“どれだけ減るのか”。“大変な仕事だ”ではなく、“何人で何時間かかるのか”」
その違いは、小さいようでいて、大きかった。
◇
最初の実測の場所に選ばれたのは、リヴァーノから内陸へ半日ほど進んだところにある農村だった。
丘陵と平地の境目にあり、麦、豆、根菜、牧草、それにわずかな果樹を育て、牛と馬を飼っている。ヴァレシアでは、珍しくもない農村だった。
日本側は、そこでいきなり農法を変えることはしなかった。農民たちにも、最初にそう説明した。
「今年は、いつも通りに作ってください」
村長が、眉を寄せた。
「日本式にはしないのか」
「まだ、しません」
「では、何をするんだ」
「見ます」
「見る?」
「それと、量ります」
◇
最初に量ったのは、種だった。
「これが、畑一枚分だ」
農民が、袋を置いた。
「重さを量っても、いいですか?」
「好きにしろ」
秤に載せ、記録する。畑の面積を記録する。種を播いた日を記録する。何人で作業したのかを記録する。何時間かかったのかを記録する。
「まだ、あるのか」
「あります」
「何だ」
「去年、同じ畑でどれだけ採れたか」
「正確には、知らん」
「おおよそでも構いません」
「袋で、二十七か二十八だな」
「その袋の大きさは?」
「これだ」
日本側は、また量った。袋そのものの重さまで、量ったのだ。
「袋の重さまで、必要なのか」
「必要です」
「なぜだ」
「麦の重さと、袋の重さを分けたいので」
「そんなもの、見れば分かるだろう」
「何十もの村の分を、比べますので」
農民は、少し呆れた。
「日本人は、麦一粒にまで帳簿をつけるのか」
「必要とあらば」
「怖い国だな」
◇
種播き、発芽、間引き、除草、追肥、水の管理、収穫、乾燥、運搬、脱穀、選別、貯蔵、そして消費、販売、飼料、種の保存。
日本側は、作物が畑に入る前から、人の口に入るまでを、できる限り追いかけた。
同時に、農民たちの時間も測った。
「今日は、何をなさいました」
「草取りだ」
「何人で?」
「俺と、息子と、嫁と、隣の家から二人」
「何時間ほど?」
「朝から、昼過ぎまでだ」
「休憩は?」
「当然、取った」
「どれくらい」
「そんなもの、覚えてない」
「次からは、時計を持っていただけますか」
「畑仕事に、時計?」
「お嫌ですか」
「嫌ではないが」
農民は、奇妙な顔をした。
「空を見れば、時間くらい分かる」
「日本でも、昔はそうでした」
◇
数週間もすると、村人たちも、日本人が何をしているのかを少しずつ理解し始めた。
「また来たぞ」
「今日は、何を量るんだ」
「牛だろう」
「牛は、昨日量ったぞ」
「昨日は、餌だった」
「牛が食った草まで量って、何になるんだ」
「さあな」
実際、牛も測定の対象だった。体重、年齢、餌、働いた時間、妊娠率、出産率、乳量、病気、死亡、蹄の状態、使っている馬具や牛具、そして怪我。
日本の獣医師が、一頭の馬の肩を見ていた。
「ここです」
「傷か」
ヴァレシア人の馬飼いが言った。
「古い傷ですね」
「毎年できるんだ」
「毎年?」
「耕す時期には、な」
日本人の獣医師は、馬具に目をやった。木と革でできていて、丈夫だ。だが、荷重が特定の場所に集中している。
「これは、痛いと思いますよ」
「馬がか?」
「はい」
「だが、ちゃんと働くぞ」
「働けることと、効率が良いこととは、別のことです」
馬飼いは、馬を見つめた。
「馬具を変えるのか」
「まだです」
「まだ?」
「まずは、どれくらい損をしているのかを調べます」
◇
調べたのは、畑だけではなかった。納屋、穀倉、市場、粉挽き小屋、家畜小屋、水路、農道。何もかもを、測った。
そして、最初に日本側を驚かせた数字は、収量ではなかった。
◇
「十三・六パーセント」
会議室で、若い研究員が言った。
「何の数字だ?」
「収穫後の損失です。現在までに調査した村の平均です」
農学班の責任者が、資料に目を通した。
「確度は?」
「まだ低いです。ただ、一〇パーセントを下回る村は、少ないですね」
穀物は、収穫したらすべて食べられるわけではない。刈り取りのときに落ち、運ぶ途中でこぼれ、乾燥が足りずに腐り、脱穀で失われる。ネズミに食われ、虫に食われ、湿気で黴び、保管中に芽を出してしまう。
「多い村では?」
「二割を超えています」
政府の担当者が、顔を上げた。
「収穫量の、ですか?」
「はい」
「畑で増やす以前に」
「納屋の中で、消えているんです」
◇
別の資料が示された。
「この村は?」
「収量そのものは、周辺の平均より少し低いです」
「なのに、食料の余剰は大きい?」
「保存が上手なんです」
「理由は」
「穀倉の床が高く、風通しが良い。それに、ネズミ返しにあたる構造があります」
「誰が設計したんだ?」
「分かりません」
「農書には?」
「記載はありません」
「では、誰が」
「村の大工です」
ここでもまた、現地の知識だった。日本側は、その穀倉を三次元で記録した。
◇
別の村の話も出た。
「この村は、収量が高い」
「土壌のせいか?」
「それもあります」
「他には」
「播いている種の量が、少ないんです」
「少ない方が、採れる?」
「適正な密度に近い可能性があります」
ヴァレシアでは、種を多く播けば多く採れる、と考える農民も多い。だが場所によっては、密集しすぎて穂が小さくなってしまう。病気も、広がりやすくなる。
「では、半分に減らせばいいのか?」
政府の担当者が言った。
「まだです」
農学者が答えた。
「半分とは、申し上げていません」
「では、どうする」
「試験をして、最適な値を探します」
日本側は、まだ答えを出さなかった。測り、比べ、また測る。
◇
次に見つかったのは、水の問題だった。
ある地域では、同じ雨の量でも、収量の差が極端に大きかった。
「土地の高さの違いか?」
「一部はそうです」
「土の違いか?」
「一部は」
「では、何が違うんだ」
調査の結果、地面の下に水が滞っていることが分かった。
「根が、酸素不足を起こしている可能性があります」
日本側の土壌研究者が言った。
「水が多いのに、ですか?」
ヴァレシアの農学者が聞き返した。
「多すぎても、駄目なのです。水を入れるより、抜く方が重要なのかもしれません」
かつて、農民がこう言っていた。丘の上なのに、早く種を播くと腐ってしまう畑がある、と。
調べてみると、地表は乾いていた。しかし、そのすぐ下に、水を通しにくい層があった。春先には、そこに水が溜まるのだ。
「三世代か」
日本側の研究者が言った。
「農民の方が、先に知っていたんだな」
「原因は、知らなかった」
ヴァレシア側が言った。
「でも、対処の仕方は知っていた」
「そういうことです」
◇
病害虫の問題は、さらに難しかった。
ヴァレシア側で「灰斑病」と呼ばれている病気がある。葉に、灰色の斑点が出るのだ。
だが、日本側が集めた標本を調べてみると、その原因は一つではなかった。
「少なくとも、三種類あります」
「三種類?」
「症状が、似ているだけなんです」
一つは、菌に似た微生物。一つは、小型の寄生生物。そしてもう一つは、まだ分類ができていない。
しかもその最後の一つは、微弱な魔法の反応を示していた。
「……これは」
研究員が言った。
「生き物が、魔法を使っているのか?」
魔術師が、標本に手をかざした。
「使っている、というのとは少し違いますね」
「では」
「魔力を、食べているように感じます」
日本側が、沈黙した。
「作物から、ですか?」
「おそらく」
研究者は、記録端末に新しい欄を追加した。
『魔法的病害要因』
「農学の教科書を、書き直すことになりそうだな」
誰かが言った。
「もう、何度目だよ」
◇
魔法は、特別な技術として、後から農業に付け加えられたものではなかった。この世界では、最初から生態系の一部だったのだ。
作物も、害虫も、病原体も、土壌の微生物も、おそらくはその影響を受けている。
ならば、日本の農学をそのまま持ち込むことはできない。組み直す必要があった。
◇
調査の開始から、さらに一か月が経った。
仮の数字が、少しずつそろい始めていた。主要な穀物の単位面積当たりの収量、種を播く量、発芽率、収穫率、収穫後の損失、労働の投入時間、家畜の力を使った時間、家畜の死亡率、農具の破損率、灌漑の効率、貯蔵できる期間、凶作の年の変動、市場までの輸送で失われる量。
「見えてきましたね」
政府の担当者が言った。
「少しだけ、ですが」
農学班の責任者が答えた。
「どこが、一番悪いのです?」
「その質問は」
責任者は、首を振った。
「たぶん、間違っています」
「なぜです」
「一番悪いところ、というものがないからです」
責任者は、資料を広げた。
「畑で、一割。収穫で、数パーセント。乾燥で、数パーセント。貯蔵で、地域によっては一割近く。家畜が病気で死に、農具が壊れて作業が遅れる。雨が降れば排水ができず、干ばつになれば水を運べない」
「つまり」
「一つの大きな問題があるのではありません」
小さな損失が、何段階にもわたって積み重なっている。それが最後に、農業に従事する者一人で一・二五から一・三人という数字になるのだ。
「逆に言えば」
政府の担当者が言った。
「一つの革命的な技術がなくても」
「はい」
「全部を少しずつ改善していけば」
「かなり、変わります」
◇
その日の午後、ヴァレシア側との中間報告会が開かれた。
王国側は、新しい農法の提案を期待していた。だが、日本側が最初に見せたのは、地図だった。赤、黄、青──地域ごとに、色が違っている。
「これは?」
農政官が尋ねた。
「収穫後の損失の、推定分布です」
「こちらは?」
「単位面積当たりの、農作業の時間です」
「これは?」
「家畜の病気と、死亡です」
「これは?」
「種を播く量と、収量の関係です」
資料が、次々と示された。
ヴァレシア側の農学者たちは、最初は黙ってそれを見ていた。やがて、一人が口を開いた。
「ここは、おかしいですね」
日本側が、顔を上げた。
「どこです?」
「南西部です。この数字では、乾燥での損失が少なすぎる」
「根拠は?」
「この地域は、秋に霧が多いのです」
日本側の研究員が、資料を確認した。
「気象の観測点が、少ないですね」
「では?」
「調査を増やします」
「北部の家畜の死亡率も、おそらく低く出ているはずです」
別のヴァレシアの農学者が言った。
「なぜです」
「病気になった馬を、売ってしまう農家がありますから」
日本側が、止まった。
「売った後で、死んだ場合は」
「元の村の記録には、残りません」
記録の担当者が、すぐにメモを取った。
『家畜の移動の追跡』
日本側の農学者が、笑った。
「やっぱり」
「何がです?」
「数字だけを集めても、駄目なんですね」
ヴァレシア側も、笑った。
「我々だけでも、駄目ですがね」
◇
数字には、理由がある。その理由を知っているのは、現場にいる人間だった。
ただし、現場の人間もまた、自分の村のことしか知らない。数字を並べて初めて、隣の村との違いが見えてくるのだ。
ある地域では、麦を増やすより、倉を直した方がいい。ある地域では、肥料より、排水だ。ある地域では、新しい農具より、馬具だ。ある地域では、畑より、農道だ。そしてある地域では、何も変えない方がいい。
日本側が最初に考えていた「ヴァレシアの農業」というものは、実際には存在しなかった。あるのは、何百、何千という、土地ごとの農業だったのだ。
◇
「では」
王国の農政官が尋ねた。
「日本は、これから何をなさるおつもりなのです」
農学班の責任者は、少し考えた。
「次は」
「はい」
「試します」
「何を?」
「一つずつ」
机の上には、候補が並んでいた。種の選別、播く密度、輪作、排水、堆肥、乾燥、貯蔵、家畜の衛生、そして魔法による処理。
「全部を一度に変えれば」
責任者は言った。
「収穫が増えたとしても」
「はい」
「何が効いたのかが、分からなくなります」
「だから?」
「区画を、分けるのです」
同じ畑で、同じ作物を育てる。片方だけ、一つのことを変える。そして、比べる。翌年も、また比べる。
ヴァレシアの農学者が、少し笑った。
「ずいぶんと、気の長い農業ですね」
「農業というのは」
日本側が答えた。
「一年に一回しか取れない数字が、多いものですから」
誰かが、ため息をついた。
「日本人でも、そこは速くできないのか」
「できません」
即答だった。
「魔法を使っても?」
隣にいた魔法研究者が、首を振った。
「今のところは」
「では、待つしかないと?」
「待つだけでは、ありません」
農学班の責任者は、窓の外を見た。そこに広がる畑は、まだ何一つ変わっていない。
「今年の畑を」
「はい」
「来年のための、記録にするのです」
◇
ヴァレシアの農民たちは、昔から、空を見て、土に触れ、作物を見て、虫を見てきた。そして父から、祖父から、その土地のやり方を受け継いできた。
そこへ日本人が新しく持ち込んだものは、この時点ではまだ、新しい種でも、新しい農具でも、新しい肥料でもなかった。
秤、時計、温度計、水分計、土壌の測定器。そして、記録である。
なぜ、この畑は隣の畑よりよく採れるのか。なぜ、同じだけ作った麦が、冬を越すころには違う量になっているのか。なぜ、同じ一日を働いても、村によって耕せる土地の広さが違うのか。
それまで経験として知られていた違いが、少しずつ、数字になり始めた。
そして、数字になったものは、比べることができる。比べられるものは、試すことができる。試せるものは、少しずつ変えていくことができる。
ヴァレシアの農業を変える、最初の農具。それは、鋤でも、刈取機でも、水車でもなかった。
数字だった。