調べる。測る。そこまで終えて、日本側はようやく畑を変えることにした。
ただし、変えるのは王国の全土でも、一つの村でもない。
最初に選ばれたのは、リヴァーノ近郊にある王領の農地の一角だった。広すぎず、狭すぎず、長年の収穫の記録が比較的よく残っている。近くには水路があり、土質の違う畑もある。何より、普段そこを耕している農民たちが、試験への参加を受け入れてくれたのだ。
「それで、日本式の畑ってのはどこだ?」
初日の朝、農民の一人が尋ねた。日本側の農学者は、地面に打ち込まれた杭を指さした。
「ここから、ここまでです」
「小さいな」
「試験ですから」
畑には縄が張られ、いくつもの区画に分けられていた。
何もしない区画。種の選別だけを行う区画。播く量を変える区画。排水溝を追加する区画。堆肥の量と熟成の方法を変える区画。農民たちがこれまで使ってきた方法を、そのまま再現する区画。そして、古い農書に記されていた方法を試す区画。
畑を見た農民は、しばらく黙り込んだ。
「全部、違うやり方で作るのか」
「そうです」
「どれが一番いいのか、分かってるんじゃないのか」
「分かっていたら、こんな面倒なことはしませんよ」
農民は少し考えてから、隣に立っていたヴァレシア人の農学者に顔を向けた。
「こいつら、本当に分かってないのか」
「たぶんな」
「大丈夫なのか」
「分からないことを分からないと言うところだけは、かなり信用していいらしい」
日本側の研究者は、聞こえないふりをした。
◇
最初に試したのは、種だった。
これまでの調査で、ヴァレシアの農家の種の選び方には、かなり大きな差があることが分かっていた。大きな粒だけを残す村。穂の形で選ぶ村。前の年によく実った畑からだけ種を取る村。ほとんど選ばずに、収穫物の一部を翌年の分として残しておく村。さらに古い農書には、塩水を使って種を選ぶ方法まで書かれていた。
「では、まずはこれを再現してみます」
桶に水を張り、塩を溶かす。
ただし、「卵が少し浮く程度」という二百年前の記述を、そのまま使うわけではない。塩の濃度を少しずつ変えながら、種の沈み方を記録していく。沈んだ種、浮いた種、その中間の種。それぞれを分けて、発芽させるのだ。
「こんなことまで、分けるのか」
ヴァレシアの農学者が聞いた。
「分けないと、塩水での選別が本当に効くのか、ただ昔からそうしているだけなのかが、分かりませんから」
「効くと思うがな」
「私も、そう思います」
「なら」
「思うことと、確かめることは、別のことです」
数日後、結果が出た。沈んだ種の方が、明らかに発芽がそろっていた。育ち始めの弱い株も少ない。
ヴァレシア側の農学者は、少し誇らしげに腕を組んだ。
「ほらな」
「はい。農書は正しかった」
「二百年前から、知っていたんだ」
「正確には、二百年前から“使える方法”を知っていた、ですね」
「同じことだろう?」
「少し、違います」
日本側の研究者は、記録を示した。
「どの濃度が最も良いのかまでは、書かれていませんでした。条件をそろえれば、もっと安定させられます」
昔からの経験則が、測定によって技術へと変わっていく。それが、最初の成果だった。
◇
播く種の量を変える試験では、農民たちの方が不安そうだった。
「少なすぎる」
一人が、畑を見て言った。
「ここは、いつもの量の八割です」
「地面が見えてるじゃないか」
「最初のうちは、そうです」
「麦ってのは、たくさん播くから麦畑になるんだ」
隣の農民も頷いた。日本側の研究者は、反論しなかった。
「ですから、いつもの量で播いた区画も残してあります」
「少ない方が駄目だったら?」
「来年から、やめればいいんです」
「全部駄目だったら?」
「全部、やめます」
それなら、と農民たちは納得した。
日本人は、正しい方法を教えに来たのではない。一緒に失敗できる場所を作ったのだ。その方が、彼らにとっては受け入れやすかった。
◇
排水の試験は、もっと単純だった。
以前調べた、丘の上なのに春先に根腐れを起こしやすい畑。そこに、浅い排水溝を何本か追加する。深さ、間隔、傾きを、それぞれ変えていく。
「こんな溝で、何か変わるのか」
農民は、半信半疑だった。
「分かりません」
「またそれか」
「ただ、水が抜ける速さは、変わっています」
日本側は、土壌水分計の表示を見せた。だが農民たちには、数字そのものにはまだ馴染みがない。そこで日本側は、それを棒状の簡単な目盛りに置き換えた。「湿りすぎ」「適正」「乾燥」。それだけなら、一目で分かる。
「こっちは、まだ濡れているな」
「はい」
「溝を掘った方は、もう下がってる」
「はい」
農民はしゃがみ込み、土を握った。
「確かに、違うな」
機械の数字を見た後で、最後に確かめたのは、自分の手だった。日本側の研究者は、それで十分だと思った。
◇
堆肥では、少し問題が起きた。
日本側は、家畜の糞尿と藁を適切に混ぜ、水分と温度を管理しながら発酵させる方法を試していた。ヴァレシアにも、堆肥づくりはある。ただし、そのやり方は地域によって大きく違っていた。
「熱いぞ」
農民が、堆肥の山から手を引っ込めた。
「腐ってるじゃないか」
「発酵しているんです」
「同じだろう」
「似ていますが、少し違うんです」
内部の温度を測る。高い温度になることで、一部の病原体や雑草の種を減らせる可能性がある。
だが、この世界の微生物の顔ぶれについて、日本側はまだ十分に理解していない。だから、地球で確立された温度管理を、そのまま正解とはしなかった。
温度を変えて、いくつもの堆肥を作る。発酵の期間も変える。混ぜる材料も記録する。出来上がったものを分析し、さらに小さな区画に施して、作物の反応を見る。
「肥料一つ作るのに、ずいぶん時間をかけるんだな」
ヴァレシア人の農学者が言った。
「妙な病気を畑中にばら撒くよりは、安くつきますから」
「それは、そうだ」
◇
そして、研究者たちが最も集まったのは、魔法の試験だった。あの農書の一節である。
『春播きの豆は、種を播く三日前に弱き水術を施せば、芽の揃いよし』
これを、試してみるのだ。
まず、豆を六つの群に分けた。何もしないもの。普通の水に一定時間浸すもの。水分の量だけを同じになるよう調整したもの。農書に近い、弱い水の魔法を使うもの。強めの水の魔法を使うもの。そして、魔法使い本人にも、どの区画なのかを知らせずに処理してもらうもの。
「最後のは、何のためです?」
参加したヴァレシア人の魔術師が尋ねた。
「使う人が『効くはずだ』と思うことで、無意識のうちに術を変えていないかを、確認するためです」
「そこまで疑うのですか」
「あなたを疑っているのではありません。実験を疑っているのです」
「よく分かりませんね」
「こちらでは、褒め言葉なんですよ」
数日後、豆が芽を出した。さらに数日後、結果が出た。わずかではあるが、差があった。
「……出ていますね」
日本側の研究者が、画面を見つめた。
普通の水に浸しただけでも、発芽率は少し改善している。だが、弱い水の魔法を使った群は、それよりもさらに、芽の出る時期がそろっていた。
「水分の量は?」
「そろえてあります」
「温度は?」
「差はありません」
「魔法で処理した後の組織は」
「一部の代謝の指標に、差があります」
魔術師が、得意そうな顔をした。
「だから、言ったでしょう」
「まだ、一回だけです」
「効いたでしょう」
「一回です」
「日本人は、疑い深い」
「三回、やります」
「三回?」
「最低でも」
魔術師は、天井を仰いだ。
「農書を書いた人間は、こんな苦労はしていないと思いますがね」
日本人の研究者は、笑った。
「だから、二百年経っても『効くらしい』のままだったんですよ」
◇
青石も、試してみた。
『畑の四隅へ青石を埋めれば、虫害を避ける』
石の成分を調べ、微弱な魔法の特性も測る。四隅に埋める区画、中央にも埋める区画、粉にして少量撒く区画、何もしない区画。虫の数を数え、葉が食われた面積を測り、収量を見る。
結果は──。
「差は、ありません」
「本当に?」
ヴァレシア側の農学者が言った。
「今のところは」
「魔法の面でも、差はないのか?」
「検出できません」
「では、迷信だったか」
日本側の研究者は、首を傾げた。
「少なくとも、この条件では効果がなかった、ということです」
「同じことだろう?」
「土が違えば、効果が出るかもしれません。石の種類が違う可能性もあります」
「まだ試すのか」
「少しだけ」
農学者は笑った。
「今度は、あなた方の方が迷信を捨てられなくなっているじゃないか」
「否定するにも、データが要りますから」
◇
試験は、すべてがうまくいったわけではなかった。むしろ、うまくいかないものの方が多かった。
ある種の処理は、かえって発芽率を下げた。ある堆肥は、作物を傷めた。排水溝を増やしすぎた区画では、乾燥する時期に逆に水不足が起きた。地球で効果のあった植物性の防虫液に似た処方は、この世界の害虫の一種にはまったく効かなかった。
その逆に、農民たちが昔から使っていた、灰と植物油を混ぜた処理が、予想以上に効いた。
「理由は?」
「まだ、分かりません」
「でも、効くんだろう」
「はい」
「なら、使えばいい」
「毒性を調べてから、です」
「面倒だな」
「口に入るものですから」
「それは、そうか」
◇
収穫の時期がやって来た。
試験の畑には、農民、研究者、農政官、魔術師たちが集まった。区画ごとに刈り取り、混ぜないように、番号をつけた袋に分けていく。重さを量り、水分を測る。粒の大きさ、病気の割合、倒れた株の数、そして働いた時間。すべてを記録していった。
そして、結果が出た。
◇
最も収量が多かった区画は、日本側が最も手を加えた区画ではなかった。
「こっちなのか?」
農民が聞いた。
「はい」
「いつもの種で、播く量を少し減らして、排水だけ変えたところか?」
「そうです」
「肥料は」
「これまで通りです」
「魔法は」
「使っていません」
「それで、一番?」
「今年は、です」
農民は、しばらく畑を見つめていた。
「地味だな」
日本側の研究者も、笑った。
「農業というのは、だいたいそういうものです」
◇
さらに、別の結果も出た。
種を選別した区画では、収量そのものは大きく変わらなかった。だが、作物の育ち方がそろっていたため、収穫の作業が短く済んだのだ。必要な人手が減り、刈り残しも減った。その結果、畑から倉まで届いた穀物の量では、差が広がっていた。
「収穫量だけを見ていたら」
ヴァレシアの農学者が言った。
「見落としていましたね」
「はい」
「作業の時間も測っていたから、分かったのか」
「そうです」
畑で何俵採れるか。それだけが、農業の生産性ではなかった。
そこに、何人が何日働いたのか。どれだけの種を使ったのか。どれだけ家畜を働かせたのか。どれだけ失ったのか。そのすべてを合わせて、初めて、その農法が良いものかどうかが分かるのだ。
◇
収穫した穀物の一部は、そのまま次の試験に回された。貯蔵の試験である。
従来の倉、床を高くした倉、風通しを良くした倉、密閉性を高めた容器、乾燥の具合を変えたもの、ネズミ対策を施したもの。
「結果は、いつ出るんだ?」
農民が尋ねた。
「数か月後です」
「また、待つのか」
「はい」
「日本の農業は、待ってばかりだな」
研究者は、畑の向こうを見た。
「作物が、急いでくれませんので」
◇
その日の夕方、試験に参加した者たちを集めて、報告会が開かれた。
日本側は、成功した試験だけを見せたりはしなかった。効いたもの、効かなかったもの、かえって悪くなったもの、分からなかったもの。そのすべてを、同じ表に載せた。
ヴァレシア側の農政官が、その表を見て尋ねた。
「失敗も、広めるのですか」
「広めます」
「なぜです?」
「同じ失敗を、別の村で繰り返さないためです」
「成功したものだけを教えた方が、見栄えは良いでしょうに」
「見栄えでは、食料は増えませんから」
少し、静かになった。
◇
やがて話題は、次の段階へと移った。
「この方法を」
農政官が言った。
「来年から、王国の中に広げることはできますか」
日本側の研究者は、すぐには答えなかった。
「どの方法を、ですか?」
「効果のあったものを」
「一部であれば、試験を行う地域を増やすことはできます」
「全国では?」
「まだ早いです」
「結果は、出たのでしょう」
「一つの地域の、一年分の結果です」
「でも──」
「雨も違う。土も違う。作物も違う。農民のやり方も違う」
それは、第一段階で学んだことだった。「ヴァレシアの農業」という一つの農業があるわけではない。あるのは、土地ごとの農業なのだ。
「それに」
研究者は続けた。
「もう一つ、理由があります」
「何でしょう」
「効果が大きすぎる技術ほど、急いで広めない方がいい場合があるのです」
農政官が、眉を寄せた。
「なぜです?」
「人が、要らなくなるからです」
農民たちも、静かになった。
◇
試験では、まだ大規模な機械化は行っていない。それでも、種を選ぶ、播く量を変える、作業の時期をそろえる、排水を改善する、貯蔵を改善する──それだけで、一部の作業の時間が減っていた。
「これは」
日本側の農業経済の担当者が言った。
「良いことです」
少し、間を置く。
「ただし、王国全体で同時に起これば、別の問題になります」
農業に従事する者一人が、一・二五人から一・三人しか支えていない社会。もしそれが一・五人になったら、どうなるか。
食料は増える。凶作への備えにも余裕ができる。都市へ送れる食料も増える。
だが同時に、今まで十人必要だった仕事を、八人でこなせる地域も出てくる。残りの二人は、どこへ行けばいいのか。
「ですから」
農業経済の担当者は言った。
「次に考えるべきなのは、畑のことだけではありません」
「では、何を?」
「畑から人が離れても、暮らしていける社会です」
職人、建設、運輸、鉱業、加工業、教育、医療、行政。新しい仕事が増えていく速さと、農業の労働生産性が上がっていく速さとを、なるべく離しすぎないようにすること。
農政官は、苦笑した。
「麦を増やす話だったはずですが」
「農業を変えると」
日本側は答えた。
「農業だけでは、済まないのです」
◇
帰り道、試験に参加していた七十八歳の農民が、日本側の研究者を呼び止めた。
「一つ、聞いてもいいか」
「はい」
「日本では」
「はい」
「こうやって全部を試してから、今の農業になったのか」
研究者は、少し考えた。
「全部ではありません」
「では」
「かなり、失敗しました」
「国ごとか?」
「国どころか、世界中で、です」
老人は、笑った。
「なら、便利だな」
「何がです?」
「お前さんたちは」
老人は、収穫を終えた試験の畑を見渡した。
「自分たちが失敗した分まで、持ってきてくれたんだからな」
研究者は、少し言葉に詰まった。
「……そうですね」
「なら」
老人は言った。
「失敗した話も、教えてくれ」
「もちろんです」
「成功した話だけだと」
老人は続けた。
「同じ失敗を、俺たちがもう一度やることになる」
それは、研究者たちが今日の報告会で口にしたことと、ほとんど同じ言葉だった。
◇
日本が持ち込んだ農業技術の中で、ヴァレシアの畑に最初に本当に根を張り始めたもの。それは、新しい作物でも、巨大な機械でもなかった。
一つを変え、比べ、失敗し、記録し、もう一度試す。その繰り返しだった。
農民たちが何百年も畑で続けてきたことを、少しだけ速く、少しだけ正確に行い、そして遠くの村とも分かち合えるようにする。
それが、日本とヴァレシアが一緒に始めた、最初の農業改革だった。