最初の試験の結果がまとまったとき、ヴァレシア王国の農政官たちは喜んだ。
大成功、と呼べるほどのものではない。収量が突然三倍になったわけでもなければ、日本の巨大な農業機械を持ち込んだわけでもない。
それでも、種を選ぶ。播く量を調整する。排水を改善する。堆肥の作り方を変える。穀物をきちんと乾燥させる。倉を少し改良する。それだけで、いくつかの試験区では、はっきりとした改善が見えたのだ。
「では」
王都で開かれた農業協力会議で、ヴァレシア側の農政官が言った。
「来年から、これを各地に広げましょう」
日本側は、答えなかった。
「何か、問題でも?」
「あります」
「試験は、成功したのでしょう」
「農業の試験としては、です」
「なら」
日本側の農業経済の担当者が、資料を一枚差し出した。
「これを、見てください」
◇
人口は、百九十万人。現在、農業に従事する者一人が支えている人口は、おおよそ一・二五から一・三人。
「仮に」
担当者は言った。
「王国全体の平均が、一・五まで上がったとします」
「かなり良いですね」
「はい」
「食料に、余裕ができる」
「できます」
「凶作にも、強くなる」
「その可能性は高いでしょう」
ヴァレシア側の官吏たちが、頷いた。
「では」
日本人は、次の数字を示した。
「同じ人口を支えるのに必要な、農業の労働力も減ります」
これまでは、百数十万人規模。それが一・五になれば、単純計算で、約百二十七万人になる。
室内が、少し静かになった。
「その差は?」
農政官が尋ねた。
「前提にもよりますが」
日本側は答えた。
「数十万人です」
「数十万人……」
「はい」
数字だけで見れば、それは余った労働力だった。
しかし実際には、それは人だった。父親、母親、息子、娘。畑を耕すことで食べている、人間たちだった。
「一・五でも、ですか?」
「一・五でも、です」
「日本側は以前」
農政官は言った。
「将来的には、もっと高くできる可能性がある、とおっしゃっていましたね」
「あります」
「二には?」
「十分に、可能性があります」
「三には?」
「長期的には」
「五には?」
日本側は、少し間を置いた。
「農学、家畜の力、農具、水利、貯蔵、物流まで整えば、地域によっては」
「では」
農政官は言った。
「豊かになる」
「なります」
「何が問題なのです」
日本側の担当者は、別の資料を出した。
「それが五まで上がったとき」
「はい」
「これまで農業に必要だった人の大部分が」
一度、言葉を区切る。
「畑には、必要なくなります」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「必要なくなる、と」
農政官が、言い直した。
「農業には、です」
日本側は答えた。
「では、その人々は」
一拍、置いて。
「何をして、暮らしていくのでしょう」
会議は、そこで、農業の話ではなくなった。
◇
最初に出たのは、「都市へ行けばいい」という意見だった。日本側は、すぐに問い返した。
「都市に、仕事はありますか」
沈黙が落ちた。
「作ればよい」
「誰が、作るのです」
「商人や、職人が」
「年に、十万人単位で?」
また、沈黙。
「では、軍に」
別の官吏がそう言うと、軍務の関係者が即座に首を振った。
「その者たちを食わせる金は、誰が出すんだ」
「道路の工事は」
「一時的には、働き口になります」
「鉱山は」
「場所が限られます」
「職人にすれば」
「修業に、何年かかりますか」
一つ答えを出すたびに、次の問題が出てきた。
日本側の社会政策の担当者が言った。
「農業の人口が減ること自体は、悪いことではありません」
「では」
「問題は、減っていく速さなのです」
農村から、十年、二十年、五十年とかけて、少しずつ人が移っていく。そのあいだに町が大きくなり、仕事が増え、学校が増え、道路ができ、家が建ち、工場ができ、制度が変わっていく。それなら、社会は対応できる。
だが、農業の効率だけを先に何倍にも高めてしまえば、社会の側が追いつかない。
「我々の歴史でも」
日本側の担当者は言った。
「農業生産性の向上と人口の移動は、社会を大きく変えました」
都市への人の流入、住宅の不足、低賃金の労働、衛生の悪化、失業、土地の問題、貧困、労働争議、子供たちの労働。
「もちろん」
日本側は続けた。
「ヴァレシアで同じことが起こるとは、限りません」
「しかし」
「起こり得ると分かっていながら」
一度、言葉を区切る。
「農業だけを変えるのは、危険なのです」
◇
その日、農業協力計画に、新しい頁が追加された。その題名は、こうだった。
『農業生産性の向上に伴う、社会基盤の整備』
ヴァレシア側は、最初、かなり驚いた。
「これは、農業の話ですよね」
「はい」
「それなのに」
農政官は、資料に目を落とした。
「学校?」
「必要です」
「職業訓練?」
「必要です」
「道路?」
「必要です」
「銀行?」
「必要です」
「土地台帳?」
「かなり重要です」
「救貧の制度?」
「必要になる可能性があります」
農政官は、頭を抱えた。
「いったい、どこまでが農業なのです」
日本側は、少し考えた。
「食べ物を作るところまでなら、農業です」
「では」
「農業を変えた結果まで考えると」
担当者は、苦笑した。
「ほとんど、国全部になります」
◇
最初に問題になったのは、土地だった。
「その畑は、誰のものなのか」
日本側の法務担当者が言った。
「見れば、分かります」
ヴァレシア側が答えた。
「他の村の人間にも?」
「村に聞けば、分かります」
「相続したら?」
「村が、知っています」
「土地を売ったら?」
「証文があります」
「境界の争いは?」
「あります」
「どのくらい」
「……かなり」
日本側の担当者は、頷いた。
「まずは、記録しましょう」
「また、記録ですか?」
「また、記録です」
土地の所有、耕作の権利、小作、共有地、水利の権利、通行の権利、森林の利用、放牧、相続。
農業の生産性が上がれば、土地の価値も変わる。水路を作れば、それまで安かった土地が高くなる。道路を通せば、市場に近い畑の価値が変わる。改良された農具を誰が買えるかによっても、差が広がっていく。
「農業改革をしたら」
ヴァレシア側の官吏が言った。
「大地主だけが得をする、という可能性もあるのですか?」
「制度によっては」
「小さな農家が、土地を失う?」
「あり得ます」
「それを防ぐには」
「一つの答えは、ありません」
日本側は、自国の法律をそのまま押しつけることはしなかった。代わりに、選択肢を示した。土地の記録制度、契約の標準化、小作契約の最低限の条件、土地を売買するときの手続き、共有地の保護、水利の組合、紛争の処理。
「決めるのは」
日本側の法務担当者は言った。
「ヴァレシアです」
「日本式に、ではなく?」
「日本の土地制度をそのまま持ってきても、うまくいきません」
「なぜです」
「歴史が、違うからです」
◇
次は、金の問題だった。
改良した農具、新しい倉、排水路、家畜、種。そのすべてに、金がかかる。
「豊かな農家だけが」
日本側は言った。
「先にそれを導入できてしまいます」
「当然では?」
「当然です」
「問題が、あるのですか?」
「その差が、大きくなりすぎると」
借金、土地の売却、農村の中での格差。技術を導入できる農家だけが、さらに強くなっていく。
「なら」
農政官が言った。
「国が、配ればいいのでは?」
「全部の農家に、ですか?」
「……無理ですね」
「では、共同での利用は、いかがでしょう」
日本側は、それを提案した。一つの村、あるいは複数の農家で、高価な農具を共有する。購入の費用を、共同で負担する。あるいは、地域の組織がそれを持ち、使った日数に応じて料金を払う。
「日本でも、そうしているのですか?」
「形は違いますが、共同での利用はあります」
「これなら、水車にも使えるな」
ヴァレシア側が言った。
「はい」
共同の水車、脱穀の設備、製粉の設備、選別の設備、大型の農具。一つ一つの農家では持てないものを、村で持つのだ。
「つまり」
農政官が言った。
「農村に、小さな会社を作る、と?」
「会社でも、構いません」
「でも?」
「組合でも、構いません」
◇
次は、教育だった。
「農学校を、増やすのですか?」
「それだけでは、足りません」
日本側が提案したのは、農業普及員という仕組みだった。地域を回り、農民に新しい農法を説明する人々だ。ただし、命令するのではない。
「この村では、この方法が有効だった。でも、隣の谷では違うかもしれない。だから、試験をする。その結果を、また集める」
農民から普及員へ。普及員から農政機関へ。農政機関から研究者へ。そして、研究の結果が、また農村へと戻っていく。一方通行ではない、循環する仕組みだった。
「日本が、ずっと教え続けるのですか」
ヴァレシア側の農学者が聞いた。
「いいえ」
「では」
「最終的には」
日本側は答えた。
「ヴァレシアの人が、ヴァレシアの人に教えるのです」
日本人が、全国の農村を回ることなどできない。するべきでもない。
だから、教員を育てる。研究者を育てる。獣医を育てる。水利の技術者を育てる。農具の職人を育てる。そして、次の人間を育てられる人間を、育てるのだ。
「機械よりも」
農政官が言った。
「時間がかかりますね」
「はい」
「もっと速い方法は、ないのですか」
「あります」
「なら」
「日本から、全部持ってくることです」
静かになった。
「機械も、部品も、技術者も、肥料も、種も。それなら、速いです」
「では」
「ですが」
日本側は言った。
「我々が手を止めた瞬間に」
一度、言葉を区切る。
「すべてが止まります」
農政官は、黙り込んだ。
「それは、ヴァレシアの農業ではありません。日本の農業を、ヴァレシアに置いているだけなのです」
農政官は、ゆっくりと頷いた。
◇
さらに、道路の問題もあった。
農業の生産が増えても、それを村から運び出せなければ意味がない。雨季の泥、橋、荷車、市場。
「道を直せば」
日本側は言った。
「農民が作物を売れる範囲が、広がります」
「食料が、町へ届く」
「はい」
「町からも、農具が届く」
「はい」
「人も、移動できるようになる」
「それが、重要なのです」
農業から離れる人間が、仕事のある場所へ移れるようになる。
ただし、人が移れば、住む場所が要る。水が要る。便所が要る。仕事が要る。学校が要る。病院が要る。
「また」
農政官が言った。
「話が、大きくなっていますね」
「はい」
「農道から、町の下水まで来てしまった」
「人間が、移りますから」
日本側の都市政策の担当者が、真顔で答えた。
◇
次は、仕事の問題だった。
農業の人口を減らしたいわけではない。農業以外でも暮らしていける人間を、増やしたいのだ。
食品の加工、製粉、醸造、製油、乳製品、保存食品、農具の製造と修理、馬具、運輸、倉庫、建設、水利、製材、繊維の加工。
「農業が強くなれば」
日本側の担当者は言った。
「農業以外の仕事も、増やせるのです」
作るだけではない。運ぶ、保存する、加工する、売る、直す、金を貸す、保険をかける。農産物が市場に出れば出るほど、その周りの仕事も増えていく。
農民を町へ移すのではなく、農村そのものに、農業以外の仕事を増やす──という考えも出てきた。
日本側が特に注目していたのは、水車と風車だった。
水車は、粉を挽くためだけのものではない。軸、歯車、ベルト。そこから、脱穀、選別、製粉、製油、飼料の粉砕、製材、揚水、排水へと、力を伝えることができる。
「村に」
ヴァレシア側の技術者が言った。
「工房を作るのですか?」
「そうです」
「蒸気機関も、ないのに?」
「水は、流れていますから」
日本側の技術者が、古い地球の水力設備の図面を机の上に広げた。
図面そのものは古い。だが、その横には、新しい計算の結果が並んでいた。軸受、歯車、刃、負荷、摩擦、材料の強度。
「昔の機械ですか?」
「原理は、そうです」
「設計は?」
「今のものです」
ヴァレシア側の技術者は、図面を見つめた。
「妙なものを、作るのですね」
「最新の機械を、あなた方が直せない、というよりは」
日本側は言った。
「古い機械を」
「はい」
「新しく、作り直すのです」
「それなら」
ヴァレシア人の技術者は、少し笑った。
「我々の鍛冶屋にも、仕事が回ってくる」
「そこも、重要なのです」
その一言で、また話がつながった。
農具を、完成品として日本から運ぶのではない。その設計を、ヴァレシアの鍛冶屋に渡す。彼らが作り、直し、改良していく。仕事が、王国の中に残るのだ。
農業の生産性が上がり、農民の一部が農業以外の仕事へ移る。その人々が、農具を作り、道路を作り、倉を作り、食品を加工し、水車を動かす。そしてそれが、次の農業生産性の向上を支えていく。
その循環こそが、日本側が目指し始めたものだった。
◇
最後は、社会保障の問題だった。
この言葉には、ヴァレシア側にそのまま当てはまる概念がなかった。
もちろん、救貧の仕組みはある。教会、村、領主、親族による相互の助け合い。だが、その仕組みは、地域ごとにまちまちだった。
「仕事を失った人に」
日本側の社会政策の担当者が言った。
「一定の期間、生活を支える制度が必要になるかもしれません」
「働かない者に、金を渡すのですか?」
ヴァレシア側は、少し警戒した。
「それだけではありません」
職業訓練、移住の支援、公共工事、失業したときの一時的な扶助。怪我、病気、老い。
「全部、日本と同じ制度にするのですか?」
「いいえ」
「では」
「今ある、村の助け合い。教会。領主の責任。王国の制度。それを、どう組み合わせるか」
日本側は言った。
「それを、一緒に考える必要があるのです」
何もかもを、ゼロから作る必要はない。ヴァレシアにも、人を助ける仕組みはすでにある。
ただ、農業社会が大きく変わるのなら、それまで村の中だけで成り立っていた助け合いでは、手の届かない人が増えるかもしれない。
だから、広げる。つなぐ。補うのだ。
◇
その日の会議は、朝、農業の普及について話し合うところから始まった。それが夕方には、土地制度、金融、教育、道路、都市計画、産業政策、社会保障までが議題になっていた。
ヴァレシア側の農政官は、最後に、疲れ切った顔で言った。
「一つだけ」
「はい」
「お聞きしても、いいですか」
「どうぞ」
「日本では」
一度、言葉を区切って、彼は資料の山を見た。
「農民を少し楽にするだけで、国全部のことを考えなければならないのですか」
日本側の担当者は、少し笑った。
「たぶん」
「たぶん?」
「我々も」
机の上には、何世紀分もの、地球の農業史、産業史、社会政策史が積まれていた。失敗の例も、成功の例も。
「昔は、畑だけを見て、失敗したことがあるのです」
ヴァレシア側が、静かになった。
「だから」
「今回は?」
「畑の外も、見るのです」
◇
そしてヴァレシア王国の農業協力計画には、新しい原則が加えられた。
生産性の向上そのものを、目的にはしない。食料の安全保障、農民の所得、労働の負担、農村の雇用、土地、教育、産業、人の移動。それらを、一緒に見る。
農業技術を普及させる速さは、作れる機械の数では決めない。社会が受け止められる速さで、決める。
その結果、日本がヴァレシアの農業に本格的に協力するために必要だと考えたものは、最新型の農業ロボットでも、巨大な自動農場でもなかった。
農業学校、土地台帳、協同組合、農村の金融、農道、水路、倉庫、加工所、職業訓練、救貧。そして、それらをヴァレシア自身の手で運営できる、人間だった。
畑を豊かにすることは、簡単ではない。
だが、本当に難しいのは、豊かになった畑から生まれた余裕を、人々の次の暮らしへとつなげていくことだった。
畑を変える前に、畑を知った。畑を測った。畑で試した。
そして最後に、彼らが変えようとしたのは、畑だけではなかったのである。