最初の一時間、会話は会話と呼ぶにはあまりにも不格好なものだった。
「ニホン」
三浦が胸元の国章を指した。
『日本。国。われわれ』
翻訳AIが、覚えたばかりのヴァレシア語を慎重に並べる。ガルディオは頷き、今度は自分の胸ではなく西を指した。
「ヴァレシア。王国」
「ヴァレシア王国。リヴァーノ」
ネリオがそう補足して、さらに西を指し示す。
『語彙候補更新:ヴァレシア=国家名、王国=政治制度、リヴァーノ=地方名または都市名』
壁面表示の隅で、文字が次々と増えていく。三浦たち日本人には読めるが、ガルディオにはその意味が分からない。ただ、一つだけ分かったことがあった。
この白い船は、会話をするたびに何かを覚えている。
「……さっきより早くないか?」
ガルディオがネリオに囁いた。
「何がです?」
「返事だ」
ネリオも気づいていた。
最初のうちは、彼らが一語話すたびに、白い船の人間たちは数秒から十数秒のあいだ、奇妙な板や空中に浮かぶ表示を見ていた。だが今は違う。短い言葉なら、ほとんど間を置かずに返ってくる。
ネリオは試すように言った。
「海」
『海』
「空」
『空』
「船」
『船』
「王」
ほんのわずかに、間が空いた。
『王。統治者。君主』
ネリオの眉が上がった。
「……三つ返ってきた」
「どれも似たようなもんだろ」
「違います」
「俺には同じだ」
「だから船長は政治の話をしないでください」
「港の役人みたいなこと言うな」
三浦には内容までは完全に分からなかったが、翻訳AIは推定を表示していた。
『軽度の冗談、または皮肉を含む会話と推定』
高瀬が小さく笑った。
「向こうも普通に仲が悪そうで、安心しますねぇ」
「仲が悪いんですか?」
神谷が訊いた。
「仲が良いから、ああいう言い方ができるんですよ」
「高瀬さんの人間関係論、信用していいんです?」
「失礼ですねぇ」
三浦は二人を放っておいた。
◇
接触開始から一時間十二分。言語解析の進捗は、当初の予測を大きく上回っていた。
理由は二つあった。
一つは、日本側の翻訳AIだ。
このAIは、人間の音声だけを解析しているわけではない。発話時の視線、指先の動き、表情、周囲の物体、直前の会話、そして相手同士の反応──それらすべてを同時に照合している。
たとえば「船」という単語を学ぶときも、単に日本語の「船」と現地語の音を結びつけるだけではない。ガルディオが自分の船を指したこと。ネリオも同じ語を使ったこと。別の会話では、「船」が複数形らしい形に変化したこと。「船長」という言葉に同じ語幹が含まれていたこと。そのすべてを材料にして、意味と文法を組み立てていくのである。
そしてもう一つが、ファルネの翻訳魔法だった。
「もう一度お願いします」
ファルネが三浦に言った。もちろん、その文章はまだ日本側には通じない。ネリオが身振りを添えると、三浦は意図を理解し、ゆっくりと言った。
「私たちは、あなたたちと戦うために来たのではありません」
ファルネが目を閉じる。指先から淡い光が広がった。
その魔法は、言葉そのものを読み取るものではない。発話者の意図と音、文脈、そしてすでに覚えた対応関係を手がかりに、最も近い概念を探り当てるものだ。
数秒の後、ファルネが口を開いた。
「……我々は……お前たちに、刃を……持って来ていない?」
「違う」
ネリオが即座に言った。
「戦いを望んでいない、じゃないですか?」
「分かってますよ! 術式がそう出すんです!」
AIは、そのやり取りまで記録していた。
『対訳候補修正。“刃を持つ”=敵対・戦争に関する慣用表現の可能性』
日本側の言語担当官が声を上げた。
「面白いですね」
「何がです?」
神谷が訊いた。
「あの人の魔法、直訳器じゃありません。意味空間の対応を取ってるんです」
「……日本語でお願いします」
「向こうも、翻訳に失敗してるんですよ」
「ああ」
「でも、その失敗の仕方がものすごく有用なんです」
AIにとって、それは宝の山だった。日本語の原文、ファルネの魔法が吐き出した不完全な現地語、ネリオによる訂正、そしてガルディオの反応。それらが次々と対訳資料になっていく。
『翻訳品質推定:初歩的日常会話領域、七九パーセント』
「一時間で?」
「単純な会話だけですけどね」
言語担当官は、少し興奮していた。
「これ、魔法の側が教師役になってるんですよ」
◇
一方のガルディオは、別の意味で興奮していた。
「じゃあ、これは?」
彼はテーブルを叩いた。
『机』
「これは?」
椅子を指す。
『椅子』
「これは?」
壁を叩く。
『壁』
「これは?」
最後に、高瀬を指差した。一瞬、室内が静まり返る。
『女性。人。船員』
高瀬が吹き出した。ガルディオは目を丸くする。
「分かるようになってるぞ!」
今度は、その言葉がそのまま訳された。
『理解できるようになってきた』
ほとんど自然な訳だった。ガルディオの顔から、笑みが消えた。
「……今のは、ちゃんとしてたな」
『現在の発話は、高い確率で正しく翻訳されています』
ネリオが椅子から半分腰を浮かせた。
「しゃべった!」
「ずっとしゃべってただろ」
「そうじゃなくて!」
ファルネは青ざめていた。
「術式を使ってない……」
彼は日本側の端末を凝視した。
「誰も魔力を流していない。魔石もない。なのに……」
高瀬が三浦に囁いた。
「向こうの魔法使いさん、機械を見る目が怖いですねぇ」
「こっちの研究者があの魔法を見る目も、たぶん同じだ」
「それはそうですね」
◇
二時間目に入るころには、会話は単語の交換から質問へと変わっていた。まだ遅く、まだ間違う。だが、意味は通る。
「この船」
ガルディオが床を指した。
「何人?」
『質問:乗員数』
「通常は三十数名です。今は追加の要員も乗っています」
三浦の答えが、ヴァレシア語へ変換される。
『この船は、普段三十より少し多い人が働く。今は、特別な仕事の人もいる』
ガルディオが固まった。
「……三十?」
「ええ」
「この船を?」
「はい」
「三十人で?」
「はい」
ガルディオはネリオを見たが、ネリオも言葉を失っていた。
自分たちの《セルカ》でさえ、三十六人が乗っている。帆を操り、舵を取り、砲を扱い、荷を動かすためだ。目の前の白い巨船は、その何倍もの大きさがある。
「奴隷や漕ぎ手は?」
翻訳AIが、一瞬止まった。
『“奴隷”の概念を認識。慎重な応答を推奨』
三浦の表情が、少しだけ変わった。
「いません」
『いない』
「下の方にも?」
「いません」
「機関部とかいう場所には?」
「いません」
ガルディオは腕を組んだ。
「じゃあ、誰が動かしてる」
三浦は少し考えてから答えた。
「機械です」
『人ではない仕組みが、多くの仕事をする』
ガルディオは天井を見上げた。
「……魔法じゃなく?」
「我々の知る限り、魔法ではありません」
今度はファルネが身を乗り出した。
「本当に?」
訳を聞いて、三浦は頷いた。
「少なくとも昨日まで、我々は魔法が実在するとは考えていませんでした」
翻訳AIの動作が止まり、警告が表示された。
『“魔法”に相当する現地概念との定義差が大きい可能性』
言語担当官が、すかさず言い換えた。
「我々の世界では、あなたが先ほど行ったような現象を、人間が起こすことはできませんでした」
今度は、きちんと通じた。
ファルネは口を半開きにし、ネリオも呆然としている。ガルディオだけが、三浦の顔をじっと見つめていた。
「……では」
彼はゆっくりと尋ねた。
「この船も?」
「魔法ではありません」
「光も?」
「魔法ではありません」
「さっきの、勝手に動く小舟も?」
「魔法ではありません」
「言葉を覚える板も?」
「魔法ではありません」
「お前たち、本当に何なんだ?」
翻訳AIは、数秒考えた。
『あなた方は、一体何者なのか』
三浦は苦笑した。
「それを説明するために、言葉を覚えているところです」
今度の訳は、九割方正しかった。
◇
さらに一時間後、日本側は一枚の画像を表示した。
日本列島の地図だった。ガルディオが画面に顔を近づける。
「島?」
「はい」
「全部、ニホン?」
「はい」
縮尺が示され、比較用として、海上で確認されたリヴァーノ周辺の海岸線が横に並べられた。ガルディオは地図を睨んだ。
「でかいな」
「国としては、面積はそれほど大きい方ではありません」
『我々の世界では、日本は特別に大きな国ではなかった』
訳を聞いた瞬間、ガルディオの表情が変わった。
「待て」
ネリオもすぐに気づいた。
「“我々の世界では”?」
「はい」
三浦は頷いた。
「さっき言っていた話か」
「はい」
部屋の空気が、静かになった。ガルディオはもう冗談を言わなかった。
「では、本当に」
一語一語を確かめるように、彼は言った。
「お前たちは、昨日まで、この世界にいなかった?」
翻訳AIが日本語へ変換する。信頼度は九四パーセント。三浦も慎重に答えた。
「我々が知っている限りでは、その通りです」
「国ごと?」
「おそらく」
「……国ごと」
ネリオが呟いた。ファルネの顔からは、血の気が引いていた。
「そんな転移魔法、存在しません」
「お前が知らないだけじゃないのか」
ガルディオが言うと、ファルネは睨み返した。
「国土をですよ? 何百万人住んでいると思ってるんです!」
三浦がその言葉を拾った。
「人口について聞かれましたか?」
ネリオが頷く。ガルディオが、何気ない調子で訊いた。
「ニホン。何人?」
「約八千三百万人です」
翻訳AIが数字を変換する。一度、二度と桁を確認してから、訳が流れた。
『約八千三百万人』
静寂が落ちた。ガルディオが眉を寄せる。
「八百三十万?」
「違います」
AIが画面に大きく数字を表示した。83,000,000。それが現地の数字表記へと変換される。
ネリオが桁を数え始めた。一、十、百、千、万、十万、百万、千万──途中で、その指が止まった。
「……八千三百万」
ファルネは椅子に深く座り直した。
ガルディオは三浦を見て、次に白い壁を、それから天井を見た。
「お前の国には」
ゆっくりと言う。
「こういう船が、何隻ある?」
神谷の表情が、わずかに変わった。三浦も気づいていた。
質問の質が変わったのだ。これはもう、ただの好奇心ではない。相手は船乗りだ。八千三百万という人口と、この船の技術とを、結びつけて考え始めている。
「その質問には、今は詳しくお答えできません」
『安全に関わるため、今は詳しい数を話すことができない』
ガルディオは数秒、三浦を見つめ──それから笑った。
「いい返事だ」
『良い回答だ』
「何でも喋る馬鹿じゃないらしい」
そこで、AIが少し迷った。
『あなたは、何でも話す愚か者ではないようだ』
「そこまで正確に訳さなくていい」
三浦が言い、隣で高瀬が笑いを堪えていた。
◇
接触から三時間四十六分。翻訳AIの一般会話における推定精度は、九十パーセントを超え始めていた。
もちろん、あらゆる分野で九十パーセントという意味ではない。政治制度、宗教、法、魔法理論、抽象的な哲学──そうした分野に踏み込めば、まだ危険なほど不正確だった。
しかし、「食べる」「眠る」「船」「国」「町」「王」「海」「敵」「友人」「行く」「戻る」といった程度の言葉なら、ほとんど支障がない。
さらにAIは、会話の最中に自ら質問を返すようになっていた。
『“領主”という語について確認します。土地所有者、軍事指揮官、行政統治者のいずれですか?』
「全部です」
ネリオが答えると、AIが一秒ほど止まった。
『すべて』
「そうです」
『制度理解の再構築を開始します』
「AIが困ってる」
神谷が呟いた。
「そりゃ困るでしょうねぇ」
高瀬が答えた。
日本側にとっても、この数時間は未知の社会制度を学ぶ時間だった。ヴァレシア王国、国王、貴族、リヴァーノ領、都市自治、港務所、魔術師ギルド、ルメリア教──そして。
「エルフ?」
言語担当官が聞き返した。
「エルフ」
ネリオが頷く。AIが周辺の会話を検索した。
『知的種族の名称と推定』
「人間とは違う?」
三浦の問いに、ネリオが首を傾げた。
「人間?」
そこで、双方の会話が止まった。「人間」という概念の境界が、そもそも違っていたのだ。
ネリオは自分を指して「サピエンス」と言い、ファルネを指して、もう一度「サピエンス」と言った。それから紙に別の人影を描き、耳を長く伸ばす。
「エルフ」
さらに、小柄で頑丈そうな者を描いた。
「ドワーフ」
獣の耳を持つ者。
「カルネ人」
そして、爬虫類のような頭部を持つ、また別の種族。
日本側の全員が黙り込んだ。最初に声を出したのは神谷だった。
「……比喩じゃ、ないですよね」
『発言の解釈不能』
翻訳AIが淡々と表示する。高瀬はネリオの絵を眺めていた。
「会ってみたいですねぇ」
三浦は頭を抱えたくなった。
日本が別の惑星へ移動した。魔法らしきものが存在する。そして今度は、複数の知的種族だ。今日一日だけで、人類史の教科書を何冊書き直せば済むのか見当もつかない。
◇
やがて、帰る時間になった。
「船長。初回の接触としては十分です。接触時間も長くなっています」
検疫担当者の進言に、三浦も異論はなかった。ガルディオたちには、最初から帰還を保証している。
「今日は、ありがとうございました」
『今日、我々と話してくれたことに感謝します』
「俺たちもだ」
ガルディオが頷いた。今ではもう、ほとんど遅延なしで訳されるようになっていた。
「領主に話す」
「あなた方の統治者ですか?」
「この土地のな」
ガルディオは西を指した。
「リヴァーノの領主だ。たぶん、俺の百倍は質問してくるぞ」
訳を聞いて、三浦は一瞬黙った。
「……覚悟しておきます」
ガルディオが笑った。今度はAIも、その笑いの意味を理解したらしい。
『友好的な冗談』
そんな補足まで表示された。
◇
《セルカ》へ戻る直前、ガルディオは甲板から、もう一度「いわみ」を見渡した。
白い船体、金属、電灯、自動の扉、無数の理解不能な機械。そして、魔法を知らない人々。
彼がこれまでの人生で見てきた、どんな怪異とも違っていた。
魔物なら、理解する必要はない。嵐なら、耐えればいい。敵船なら、戦うか逃げればいい。
だが、これは違う。話ができる。考える。笑う。おそらく、嘘もつく。そして、八千三百万人の国から来たという。
「ミウラ」
ガルディオは振り返った。そこに三浦が立っていた。
「また、話す」
三浦が口にしたのは、現地の言葉だった。翻訳機を使わずに、自分の声で。発音はひどく、文法も怪しい。だが、意味は通じた。
ガルディオは、にやりと笑った。
「今度は、酒でも飲みながらな」
三浦の端末が、即座に訳した。
『次回は酒を飲みながら話したい』
「検疫が終わったら考えます」
『病気の危険がないと分かった後なら、考える』
ガルディオは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑った。
「よく分からんが、約束だ」
◇
数十分後。帆を広げた《セルカ》は、西へ向かっていた。
ファルネが再び《風走り》を起動し、帆が強く膨らんで船足が増していく。背後では、「いわみ」が白い巨体を海上に浮かべたまま、彼らを見送っていた。
ネリオは机に向かい、すでに報告書を書き始めていた。一枚、二枚、三枚──書いても書いても終わらない。
「船長」
「何だ」
「領主閣下には、どこから説明します?」
ガルディオは少し考えた。
「帆がないところからだ」
「人口八千三百万は?」
「後だ」
「魔法を知らない件は?」
「もっと後だ」
「異世界から国ごと来たという話は?」
ガルディオは、しばらく黙った。
「……最後にしろ」
「なぜです?」
「最初に言ったら、そこから先を信じてもらえん」
ネリオは、妙に納得してしまった。ファルネが横から口を挟む。
「私は、最初から全部信じられませんけどね」
「お前は実際に乗っただろ」
「乗ったから余計にです!」
ガルディオは声を上げて笑った。
遥か西、まだ見えないリヴァーノの港では、領主と家臣たちが報告を待っている。
彼らはまだ知らない。帆のない白い船よりも、魔法を使わずに言葉を学ぶ機械よりも、八千三百万という人口よりも──もっと面倒なものが、海の向こうに現れたことを。
──話のできる、巨大な国家が。
そして、その報告を聞いたリヴァーノ領主が最初に口にする言葉が「すぐ会いたい」であることも。それを止めるために、家臣団が総出になることも。
ガルディオは、まだ知らなかった。