翌朝。リヴァーノの東方監視塔が最初に「いわみ」を発見したころ、日本側はまだ上陸するつもりなどなかった。
巡視船「いわみ」は、港から十分に離れた沖合で速力を落としていた。朝日を受けて、白い船体が輝いている。昨日ガルディオたちと接触した海域よりは西へ進んでいるが、リヴァーノ湾に入るにはまだ遠い位置だ。
「沿岸まで、距離八・四海里」
艦橋で神谷玲司が報告した。
「予定位置です」
船長の三浦直哉が頷いた。
「停止。対地速力ゼロ近傍で維持しろ」
「了解」
推進出力が落ち、百メートル近い巡視船が、ゆっくりと海上で足を止めた。
これ以上は進まない。理由は単純だった。
――まだ、招かれていないからである。
◇
「昨日の三人は、領主に報告すると言っていたな」
三浦が確認した。
「はい」
言語担当官が答える。
「最後の会話では、“リヴァーノの領主に報告する”“再び話したい”というところまでは、かなり高い確度で取れています」
「正式な入港許可については?」
「ありません」
「なら、待つ」
神谷が海岸方向の映像を見た。
「向こうは、こちらを把握しています」
「そりゃあ、これだけ目立つ船だからな」
望遠映像の中には、港の塔や城壁、建ち並ぶ屋根、そして海岸沿いを走り回る人々が映っていた。高倍率の光学系なら、岸壁でこちらを指差している群衆の姿まで見て取れる。
だが、「いわみ」は動かない。
三浦は、昨日の接触で得た情報を思い返していた。ヴァレシア王国、リヴァーノ、領主、国王、貴族、魔術師――そして、複数の知的種族。
理解できる言葉は増えた。それでも、社会そのものについては、まだほとんど何も分かっていない。
「こっちの感覚で港に入ると、危ないな」
三浦が言った。
「軍事的に、ですか?」
「外交的に、だ」
神谷の問いに三浦が答えると、高瀬千尋が柔らかく続けた。
「向こうからすれば、昨日会ったばかりの正体不明の巨大船が、翌朝いきなり港まで突っ込んでくるわけですからねぇ」
「巨大ってほどでは」
「向こうの船と比べてみなさい」
「……巨大ですね」
「いわみ」は、二十四世紀の日本では標準的な大型巡視船にすぎない。しかし、リヴァーノの港に出入りする船から見れば、十分すぎるほど巨大だった。まして、帆もなく沖合で静止しているのだ。その事実だけでも、向こうには理解不能だろう。
◇
実際、理解不能だった。
「止まっています」
東方監視塔の上で、監視員が報告した。港務官は望遠鏡を覗き込む。
「本当にか?」
「先ほどから、位置がほとんど変わっていません」
「錨を下ろしたのか?」
「見えません」
「風は?」
「南東から、弱く」
「潮は?」
「北寄りです」
港務官は、再び望遠鏡を構えた。
白い船は動かない。少なくとも、帆船のように風に流されている様子はなかった。
「昨日の報告通りか」
「はい」
「帆がなくても進める」
「はい」
「そして、帆がなくても止まれる」
「……はい」
港務官は黙り込んだ。考えてみれば当然のことなのだが、実際に目の前でやられると気味が悪い。
そのころ、領主館では別の攻防が続いていた。
◇
「見に行くだけだ」
「なりません」
「塔までなら」
「なりません」
「港務所は?」
「まだです」
「昨日は、港務所ならいいと言っただろう」
「安全を確認した“後”なら、です」
忠臣の騎士は、今日も領主の前に立ちはだかっていた。領主は腕を組む。
「相手は沖で待っている」
「だからこそです」
「攻めてくる様子もない」
「それも確認中です」
「礼儀正しいではないか」
「その点については、同意します」
横から娘が言った。領主が嬉しそうに振り向く。
「だろう?」
「だからといって、お父様が港へ走ってよい理由にはなりません」
「走らない。馬車で行く」
「言葉の問題ではありません」
机の上には、朝一番に監視塔から届いた報告が置かれていた。白い大型船が湾外で停止。武器の使用なし。小舟の発進なし。信号らしき灯火あり――明らかに、こちらの反応を待っている。
騎士は、その報告書を指で叩いた。
「相手は、待ってくれているのです」
「うむ」
「ならば、こちらも手順を踏みます」
「手順は大事だ」
「閣下がそれをおっしゃいますか」
◇
結局、先に出港したのは領主ではなく、港務所の小型公用船だった。
三十トンほどの二檣帆船で、船首にはリヴァーノ領の旗と交渉旗が掲げられている。乗っているのは港務所の次席官と書記、魔術師二名、護衛兵八名、それに昨日「いわみ」に乗ったネリオだった。
「なぜ私が」
出港しながら、ネリオは呟いた。
「昨日、日本人と話したからだ」
次席官が答えた。
「私以外にも、ファルネが」
「魔術師ギルドに連れていかれた」
「ああ……」
ファルネは帰港直後から、ほとんど拘束に近い勢いで魔術師たちの質問攻めにあっている。
「ガルディオ船長は?」
「寝ている」
「……あの人」
「夜明けまで酒場で話していたらしい」
「領主閣下に先に報告するって言ってたのに!」
「報告した後だから問題ない、と本人は主張している」
ネリオは頭を抱えた。
船尾では、航海魔術師が《風走り》を使っていた。帆の周囲に空気が集められ、自然の風より一段強い風を受けて、公用船は沖へ向かって速度を上げていった。
◇
「小型船一隻、出港」
「いわみ」のOICに、自動で表示が出た。
「こちらへ向かっています」
神谷が映像を拡大する。帆船で、旗を掲げ、乗員は十数名だ。
「武装は?」
「小火器らしきものあり。長物が八。刀剣複数。砲は確認できません」
高瀬が画面を眺めた。
「儀礼的な護衛でしょうかねぇ」
「油断はできませんよ」
「してませんよ」
「高瀬さん、いつもそう見えるんですよ」
「損な顔なんです」
「昨日の人物はいるか」
三浦が割って入ると、AIが顔貌照合を開始した。
『一致候補あり。昨日同船した書記官と推定。信頼度九九・二パーセント』
「ネリオか」
昨日一日で覚えた名前だった。
「なら、話は早そうだ」
「高速艇を出しますか?」
「いや」
神谷の問いに、三浦は首を振った。
「向こうをこちらへ来させよう。船上へ招くかどうかは、先方の意思を確認してからだ」
「了解」
◇
公用船は、「いわみ」から二百メートルほどのところで帆を落とした。ネリオは白い船を見上げた。
「昨日より、大きく見えるな」
「昨日も来たのか?」
次席官が訊いた。
「乗りました」
「……よく乗ったな」
「私もそう思います」
通信魔術師が、共鳴器を取り出した。
「これを使いますか?」
「通じるのか?」
「日本語には通じません」
「では、何のためだ」
「音を大きくします」
「なるほど」
魔術師が術式を起動すると、ネリオの声が海上に大きく広がった。
「日本船『イワミ』!」
日本側の外部マイクがその声を拾い、AIが即座に処理する。
『呼びかけ:日本船“いわみ”』
艦橋に、少しだけ安堵の空気が流れた。
「もう、船名まで発音できるようになりましたねぇ」
「昨日、何度も言ったからな」
高瀬にそう返して、三浦は外部スピーカーへ接続し、翻訳AIを介して答えた。
『こちらは、日本国の船、いわみです。あなた方の話を聞きます』
現地語はまだ少し硬い。だが、昨日とはまるで別物だった。公用船の上で、次席官が目を見開く。
「……普通に喋ったぞ」
「昨日の夕方より、さらに上手くなってます」
ネリオが呟いた。
「何だ、それは」
「だから、私にも分からないんです」
◇
ネリオが巻物を開いた。領主府と港務所の印章が押された書状だ。
「リヴァーノ領主より、日本の者たちへ」
彼はゆっくりと読み上げていく。
「昨日の海上での平和的な接触を、喜ばしく思う」
『昨日の平和的接触を歓迎する』
「いわみ」のAIが、リアルタイムで翻訳していく。
「日本の代表者と、リヴァーノにて話し合いを行うことを希望する」
『日本側代表との会談を希望』
神谷が三浦を見たが、三浦はまだ答えなかった。
「ただし、初めての訪問であるため、訪問の人数は小規模とすること」
『少人数での上陸を要請』
「武器は、護衛に必要なものを除き、持ち込まないこと」
『護衛用以外の武器を制限』
「案内なしに、港の区域の外へ出ないこと」
『行動区域の制限』
「互いの安全のため、病および毒その他の危険について、確認を行うこと」
そこで、検疫官が反応した。
「向こうから、検疫の概念を出してきましたか?」
「“病気を持ち込まないこと”に近いですね。体系的な検疫制度まで意味しているかは不明です」
言語担当官の答えに、三浦は小さく頷いた。
「十分だ」
ネリオが、最後の一文を読み上げた。
「これらに同意するならば、リヴァーノは日本の使節を客人として迎える」
しばらくのあいだ、海上は静かだった。
◇
「……普通ですね」
神谷が言った。
「何がだ?」
「条件です。思ったよりずっと合理的です」
「人が社会を作っているんだ。合理性くらいあるさ」
「まあ、そうですけど」
高瀬が微笑んだ。
「神谷君、剣と帆船を見て、中身まで昔の人だと思ったでしょう?」
「そこまでは」
「思いましたね?」
「……少しだけ」
三浦は会議回線を開いた。これは「いわみ」だけで決められる話ではない。
昨日の接触の後、日本政府側ではすでに、未知文明との接触に関する臨時方針がまとめられていた。沿岸のリヴァーノへ、少人数の調査・外交要員を送る案も準備されている。
ただし日本側は、リヴァーノの領主館でどのような議論が行われたのかを知らない。誰が日本に好意的で、誰が警戒しているのか。領主がどんな人物なのか。何一つ分からない。分かっているのは、正式な招待が届いたということだけだった。
「本部へ」
三浦が言った。
「リヴァーノ側より、正式な招待。上陸条件付き。内容を送る」
◇
返答が来るまで、四十二分かかった。
そのあいだ、リヴァーノの公用船は海上で待ち、「いわみ」も待った。双方とも、相手が何をしているのかよく分からないままだった。
「ずいぶん時間がかかるな」
次席官が言った。
「上の人と相談してるんでしょう」
「船長が決められないのか?」
「日本では、船長より上の人がいるらしいです」
「海の上なのにか?」
「国の船ですから」
次席官は少し考えた。
「海軍のようなものか」
「本人たちは、海軍ではないと言っていました」
「では何だ?」
「……海の警備をする役所だとか」
「こんな船でか?」
「はい」
「では、軍艦はもっと大きいのか?」
ネリオは答えなかった。知りたくない、と思ったからだ。
◇
「いわみ」の臨時会議室には、先遣使節の候補者たちが集まっていた。
使節団長を務める外務官、政治・地域分析の担当者、言語文化の担当者、そして未知現象――政府文書上はまだ「特異物理・生体現象」と呼ばれている――を扱う科学担当者の四人だ。それとは別に、検疫官が二名と、護衛要員が控えている。
「招待の受諾が決まりました」
三浦が説明した。
「ただし、これは国交樹立の交渉ではありません」
「初期接触と、情報交換ですね」
使節団長が頷いた。
「はい。相手側の主権と慣習を、最大限尊重してください」
「武器については?」
護衛責任者が尋ねた。
「携行は認められます。ただし露出は最低限に。長物は原則として艇内に保管」
「了解」
「接触プロトコルは、昨日より一段緩和できます」
検疫官が口を挟んだ。
「海水、大気、表面試料から、既知の即時的な危険は確認されていません」
「現地の人との直接接触は?」
「まだ避けます」
「握手も?」
「現段階では推奨しません」
「分かりました」
三浦は一同を見渡し、少し間を置いてから続けた。
「そして――魔法らしき現象は、実在するものとして扱ってください」
科学担当の目が輝き、反対に護衛責任者の顔は硬くなった。
「昨日の、帆の加速現象ですね」
「それだけではありません」
三浦は答えた。
「詳細は、移動中に」
◇
午前九時五十八分。海上に、再び日本語から変換された声が響いた。
『リヴァーノ領主からの招待に感謝します』
ネリオは息を呑んだ。昨日よりも、ずっと自然な言葉だった。
『我々は、示された条件を尊重します。少人数の代表者を送りたいと考えます』
次席官が頷き、ネリオが答えた。
「歓迎します」
一瞬の間を置いて、返答が来る。
『歓迎を確認しました』
もはや通訳というより、普通の会話に近づき始めていた。次席官は白い船を見上げた。
「どのくらいで来る?」
『準備に少し時間が必要です。一時間程度を希望します』
「構わない」
やり取りは、それだけだった。
公用船は進路を西に取った。リヴァーノへ戻り、使節を受け入れる準備を整えるために。
◇
「いわみ」では、後部の搭載艇の点検が始まっていた。
機関、通信、医療、非常装備、環境センサー、携行翻訳端末、無人観測機。乗り込むのは使節四名、検疫官二名、護衛六名の、合計十二名だ。
神谷は、甲板でその準備を見守っていた。
「船長」
「何だ」
「本当に、十二人だけで行かせるんですか」
「向こうは、もっと少ないと思ってるかもしれんぞ」
「人口八千三百万の国の代表としては、少なすぎませんか?」
「だから、いいんだ」
三浦は岸の方を見た。
「最初から大勢で行く意味はない」
「もし、何かあれば」
「そのために、君たちがここにいる」
「いわみ」のセンサーは、港を見張り続けている。さらに遠方では、日本側の別の海空戦力も待機していた。だが、それを見せつける必要はない。
「相手が昨日、何を考えたのかは分からん」
三浦は言った。
「日本を歓迎したのか。恐れたのか。利用しようとしているのか。全部かもしれん」
神谷は黙った。
「だから、話しに行くんだ」
◇
同じころ、リヴァーノの港務所では、戻ってきた公用船から次席官が飛び降りていた。
「受諾した!」
その一言で、港務所が一斉に動き出した。
警備兵、港湾労働者、魔術師、書記、教会の関係者が総出で、指定の岸壁から一般の人々を下がらせていく。とはいえ、完全に締め出すことなどできるはずもない。屋根の上、窓辺、運河沿い、橋の上――ありとあらゆる場所に、人が集まり始めていた。
噂は、もう街中を駆け巡っていた。
東の異国人が来る。昨日まで、この世界にいなかった国の人間が来る――。
「どんな顔だ?」
「ガルディオは、普通の人間だって言ってた」
「角は?」
「ないらしい」
「全員?」
「知らん」
「魔法が使えないって本当か?」
「そんな人間がいるか?」
「船は魔法なしで動くそうだぞ」
「だったら余計におかしいだろ!」
港じゅうが、ざわめいていた。
◇
「受諾したそうです」
領主館で、娘が報告した。領主が立ち上がる。
「では――」
「まだです」
騎士が言った。
「私はまだ何も言っていないぞ」
「港へ行こうとなさいました」
「……君は最近、私の心を読みすぎではないか?」
「二十年近くお仕えしておりますので」
「百歩だったな」
「何がです?」
「岸壁からの距離だ」
騎士は、一瞬言葉に詰まった。
「覚えておいででしたか」
「私は約束は守る」
「では、百歩です」
「九十では」
「百です」
領主は不満そうに外套を手に取った。娘も立ち上がる。
「私も参ります」
今度は、領主の方が振り返った。
「危険だぞ?」
娘は無言で父を見つめた。騎士までもが、じっと領主を見ている。
「……何だ、その顔は」
「いいえ」
娘は微笑んだ。
「よくお分かりですね、お父様」
◇
午前十一時七分、「いわみ」後部。
「搭乗完了」
「全員確認」
「通信正常」
「環境モニター正常」
艇長が艦橋へ報告を上げる。三浦は、カメラ越しに十二人の顔を見た。
「無理はするな」
『了解』
「分からないことを、分かったふりするな」
『了解』
「相手の文化を笑うな」
『了解』
最後に、三浦は少し考えてから付け加えた。
「できれば、楽しんでこい」
使節団長が笑った。
『善処します』
搭載艇が海面へと降ろされ、推進装置が静かに起動する。小さな艇は白い「いわみ」から離れ、西へと向きを変えた。
遥か前方には、リヴァーノの街が見える。石造りの建物、塔、帆柱、運河――そして、岸壁を埋め尽くすほどの人影。
十二人の日本人は、まだ知らない。
その街の領主が、昨日から質問を書き溜めていることも。彼を港へ出すかどうかで、家臣団が何度も揉めたことも。岸壁から百歩のところで、本人が待ち構えていることも。
日本側が知っているのは、ただ一つ。
――招待された。
それだけだった。
艇が速度を上げる。
今度こそ、日本人が初めて、異世界の都市へ向かって進み始めた。