ペンを握りしめる。
怪しく思われないよう、手が震えないよう、イルーガはいつも通りの文字を意識して、報告書を書いていく。ヒルチャールの容姿は素直に、その真実は虚実に。
全てを書き終えた後、イルーガはじっとりと背に脂汗をかいていた。怪しい部分がないかを何度も念入りに確認して、そして安堵の息を吐き出す。
「え? イルーガ、ヒルチャール見たのかよ! だからわざわざ朝から報告書を書いてたのか!?」
「はい」
報告書につらつらと書いた嘘を見て、ギメイラはむすっと拗ねた顔で頰を膨らませた。イルーガが何も言わなかったことに怒っているが、素直に言えない。そう顔にまるで書いてあった。
イルーガは念入りに、ギメイラを観察していた。昨夜確かに心臓を負傷したはずなのに、死んでいない。流石にイルーガが確認することなどできないが、ギメイラはまだ傷跡は残っているが、動ける範囲だと言っていた。
ギメイラが人間でない可能性はいよいよ高まってきたが、彼女にはやはり夜に何をしているのか自覚がないのだということも、イルーガはこの短時間で分かっていた。
となれば、イルーガがやりたいことは大きく三つ。
まず、一つ。ギメイラの正体を誰にも勘付かれないようにすること。特にギメイラ本人には気をつけなければならない。
そして、二つ。ギメイラが夜に暴れるのを止めて、犠牲者を出さないようにすること。そのために、まずはギメイラの家の扉に細工をして、夜の間は閉じ込める。家から出られないようにすれば、流石にヒルチャールも家を壊してまでして、外へは出ないだろう。
最後に三つ。ギメイラが、ヒルチャールに変身しないようにすること。これが何かの呪いならば、解呪する方法を探さなければならない。
イルーガにとって一番苦しいのは、一つ目だった。ギメイラを殺したくないばかりに、仲間に嘘をつかなければならない。もし露見すれば、ライトキーパーから追放される可能性まであった。
「じゃ、今日はヒルチャールを追う絶好のチャンスだな。気を引き締めて偵察しようっと」
「そう、ですね」
本来、偵察などしたくない。ここで偵察を止めるのは、自らを怪しくさせるのみだ。イルーガは肯定することしかできなかった。
前まで、正義感に後押しされ、どこか達成感まで感じていたこの偵察が、イルーガはどうしようもなく嫌に感じた。
ギメイラは、無能ではない。
本人は、まるで戦えない能無しのように語っているが、その実勘が鋭く、気配を追うのが異様に上手い。
そして、その能力は不幸なことに、ギメイラにとって不利に働いていた。
「なんか変だな」
ギメイラはヒルチャールの足跡を見て、首を傾げた。
「この足跡、途中で消えてるんだよ。しかも、足跡を消したような不自然な跡もない。まるで忽然と消えたみたいなんだ」
「……」
いつもなら、なんと言っていただろう、と思い返す。言葉が出てこなかった。
もしそのままの報告をギメイラがしたとしても、ギメイラが疑われる可能性は低いだろう。特異なヒルチャールなのだと警戒されるのみだ。
しかし、警戒されればされるほど、事実が露見した際、何をされるかが分からない。
「途中から人間の足跡に変わってる? ……なんでだ?」
「それは、僕の靴の跡だと思います。ヒルチャールと交戦していたので」
「あ、ほんとじゃん。なんだ」
ギメイラが鋭い勘違いをするところだったので、イルーガは慌てて訂正した。それを報告書に書かれてはたまったものではない。
「じゃあ、情報は結局全然手に入んなかったのか。厄介だなー、このヒルチャール」
イルーガは、眉を下げて微笑むことしかできなかった。
ギメイラの黒色のリボンが、視界のやや下の方でぴょこぴょこと揺れる。
みんな、だいすきだ。
それがギメイラが、死を覚悟した瞬間に最後に発した言葉だった。リボンをイルーガにつけて欲しいと照れながら、渡してきた。それから、ありがと、と嬉しそうに笑って……。
イルーガは、顔を横に振った。
「まだ近くに手がかり残ってるかもしれないし、探すか」
そうですね、とイルーガが煮え切らない返事を返そうとしたところで、ギメイラが何もないところでふらりとよろけた。ギメイラはしょっちゅう転けるので、慣れたものだった。イルーガはギメイラを受け止める。
しかし、受け止めた時に触れた彼女の肌が、妙に熱い。気のせいかと思ったが、顔も赤いし目も潤んでいる上、いつもどこか青白い印象の頬までも、赤らんでいる。イルーガはなんとなく僅かに目を逸らしてから、言い放った。
「メイラ、本当は体調悪いですよね」
「な、なんのことだ?」
そっぽを向いたギメイラは、口笛を吹いて聞いたことのない曲を演奏し始めた。イルーガはギメイラに詰め寄る。
心臓の傷は、てっきり塞がっているのだと思っていた。痛みを感じている様子は全くなかったからだ。
「心臓の傷、本当はどうなんですか?」
「えーっと、かすり傷だけ残ってるかもしれないな、多分」
「メイラ?」
「ごめんなさい全然治ってないですほんとは安静にしろって言われてます今めちゃくちゃ痛い」
イルーガの圧に押されて、あっけなくギメイラは自白した。とんでもない早口で捲し立てるようだった。早すぎて聞き取れない作戦を狙っているのだろうと、分かってしまう。イルーガは頭を抱えた。
「どうして、そこまでして調査に出たんですか」
「だ、だって、ヤフォダの右腕の仇だし。イルーガにも襲いかかったらしいし」
「ヒルチャールが嫌い、なんですか?」
「うん、嫌い」
いつもは穏やかな目に、苛烈な炎が燃え盛っているように見えた。ギメイラは、ヒルチャールに、自分自身に殺意を向けていた。
イルーガは落ち着くために、深呼吸をした。
「とにかく、報告書は僕が書いておきますから。メイラは休んでいてください」
「ごめん」
「謝る前に、早く休みますよ」
イルーガが屈んで背負おうとすれば、ギメイラは「男としてのプライドが……」とかなんとか言って、そそくさと先へと歩いてしまった。
「メイラ、ドアって壊れてるんですか?」
丁度、ギメイラの家に行けたのにかこつけて、イルーガはドアを指差した。
ボロボロな周りに合っていないベッドで寝転んでいるギメイラは、寝ながら親指を突き出して「実はアイノが直してくれたんだ」と言った。
いつの間に知り合いになったのやら。イルーガは感心しながらも、ドアを開け閉めしてみる。確かに、ドアが閉まるようになっているし、鍵もかけられるようだ。あのギメイラが自らドアを直すなど、おかしなこともあるものだ。
しかし、当然内側からドアは簡単に開けられてしまうので、これではヒルチャールが外に出てしまうだろう。
叩いたら大抵のものは直ると思っているイルーガが、外から出られないようにする細工など、作れるわけがない。
「……帰り際に大きい岩でも置けばいいかな」
当然、脳筋の考えに落ち着く。
しかし、それにも当然穴はある。まず、ギメイラが朝に家から出られなくなる。今は怪我をしているから、そこまで早起きはしないだろうし、イルーガが急いで岩を取り除けばいい話だ。しかし、ライトキーパーの勤務に復帰した時、どうすればいいのか。
「はぁ……」
その時は、その時に考えよう。イルーガは思考放棄した。
「ごめん」
家の中から、ギメイラが謝る声が聞こえた。イルーガのため息が聞こえていたのだろう。イルーガはドアを再び開けて、ギメイラのもとへと駆け寄った。
「ダメってわかってたんだけどさ、イルーガ一人にさせるのって心配で。敵は絶対殺すマンじゃん、イルーガって。……俺が治るまでは、死ぬなよ。無理とか、しちゃダメだからな」
「そんなんじゃありませんよ」
「そんなことあるんだってば。約束破ったら許さないからな」
「すみません」
イルーガは、目を逸らしてから謝った。
ギメイラは人懐っこく目を細めて、安心した顔で笑った。
どうしてだろう、と思う。どうして、こんなにもひどいことをするのか。こんなにも、悪くないのに。悪くないのに、悪い敵にもなってしまう。
唇を噛み締めた。血の味は、余計に感情を強めるのみだった。
イルーガは、しばらく彼女の面倒を見た。
そうして日が沈むころを見越して外に出て、寝ていたはずの彼女が起き上がった気配を感じたのを見計らって、岩を置いた。
しばらく、ドアが鳴らされていた。殴る音、暴れる音、蹴られる音。まるで雷が鳴っているようだった。
耳を塞ぎたくなるような音は、やがて諦めたのか、いきなり止んだ。
小さな窓から覗き込めば、ヒルチャールがドアの前で立ち尽くしているのが見えた。窓からは、窓が小さすぎて出られない。完全に、閉じ込められている。
上手く、いった。
イルーガはそれを見届けて、地面に膝をついた。
今ごろ、自分は何をしているのだろう、とひどい自責の念が襲いかかってきた。それと同時に、ああこれで今晩は人を殺すことはない、という安堵も。
ああ、本当にヒルチャールだったのだ。
部屋の中に居るヒルチャールを見て、思う。僕が、僕が守らなくてはならない。ギメイラも、住民も、みんな、みんな……。自分が隠すと決めたのだから、責任を取らなくてはならない。
やり遂げなければ。もう、仲間が死ぬところなんて見たくない。ギメイラが諦めた顔で死んでいくのを、もう、二度と、二度と見たくない。
イルーガは何度も手を強く握りしめた。
一人に背負わせるには、あまりに重い枷だった。
強敵と戦った後のように荒んだ息を直し、イルーガは槍を手に立ち上がった。彼女の代わりに報告書を出さなくてはならない。それから、明日からはいつもよりも早く起きなくては。それから、それから——。
イルーガは、ギメイラの家から離れた。