黒い闇の中にいた。どこまでもどこまでも闇は続いていて、光ひとつなかった。
俺は怖くて、誰か助けが欲しくて、もがいて、手を伸ばした。
誰か、誰か助けてくれ。ひとりにしないで。息ができない。首がしまって呼吸が止まる。それなのに、死ねない。ああそうだ、俺には死の概念がない。
闇の中を駆ける。何かにぶつかる。
そして暴れ続け、俺を阻んでいたものが歪んで壊れた。無事に外に出て月光を浴びた俺は、闇の中から解放される。
しかし、衝動は止まることなく、人の匂いを嗅ぎつけた。まるで獲物を狙う動物のように、音もなく油断している背後に近づく。
そして気づけばナイフを———。
「メイラっ!」
イルーガの声がする。
なんだ? 幻聴、か? まだ眠いのに。
俺は目を擦りながら、瞬きをする。目を開けば、イルーガの青い目と目が合う。なんか、デジャヴ感じるな。そうだ、昨日フリンズさんと話して、そのまますぐ寝たんだっけ。
イルーガは、見たこともないほどに顔を真っ青にして、唇を震わせている。それで、一気に目が覚めた。
なんだ? なんでこんな顔をしている?
「どうした?」
「すみません」
イルーガは、いきなり頭を下げて謝ってきた。
いきなり謝罪をされても、なぜ謝罪されたのかなんてわからない。俺は困って眉を下げた。
「僕が、僕がもっといい方法を思いついていたら……っ! 僕の、僕のせいでっ」
「方法?」
意味がわからない。
困ってぐるぐると部屋を見回す。綺麗に並べられた薬の瓶は綺麗に整列し、少ない服がしっかりと畳んだまま置いてある。あれ? おかしいな、いつもと違って荒れてない。
……まさか。
俺は、ドアへと目をやった。
ドアが、壊れていた。金具が捻じ曲がり、歪んでいる。慌ててドアを閉めようとしてみたら、閉まらない。どう足掻いても、開きっぱなしになってしまう。
じゃ、じゃあ。昨日、ドアは開いてたって、ことか? 俺はごくりと唾を飲み込んで、わなわなと唇を震わせた。
これでもし、ヒルチャールによって人が死んでいたら。
ヒルチャールの正体は、俺、ということになってしまう。
俺は勢いよく起き上がって、気付けばイルーガを置いて家の外に出ていた。
家のドアの前にヒルチャールの足跡は、ない。だが、少し歩いたところには、ヒルチャールの足跡がついていた。
「……あ」
足跡には血が、付着していた。
血が勢いよく流れていく。頭に血が昇って、顔が赤くなっていくのを強く感じる。
嫌な予感に、肌が粟立っていた。
「メイラ! それ以上先は——!」
「う……」
イルーガに止められたが、既に俺の視界には入ってしまっていた。
無惨に殺された、商人の死体が。
その周りには、ヒルチャールの足跡があって、商人はナイフで切り刻まれた跡があった。
ヒルチャールに殺されてる。殺されてる。まず、喉を突き、声を出せなくさせて、目を潰して視界を奪い、最後に心臓を抉る。さぞかし苦痛にもがいて亡くなっただろう。
「…………は……」
なぜか口角が上がった。
勝手に、上がって止まらない。どうしてか、絶望感と罪悪感に心が埋め尽くされているというのに。
泣きたくて、叫びたくてたまらないのに、俺の口から漏れ出たのは、嗚咽でもなく、悲鳴でもなく。
「はは……ははは」
何が面白いんだろう。全然、楽しいことなんかないのに。
「はは……ははははは!!」
何が笑えるんだ? 何に笑っているんだろう、俺は。
ここまで感情が自分の制御下から離れるのは、初めてだった。
目を覆って、くつくつと笑う。
馬鹿馬鹿しい。何が、犯罪なんてしなくていい、だ。月を見てみたい、だ。人殺しだけは許せない、だ。
俺はとっくに月を見ていたんだ、化け物として! 夢なんてなかった! 仇なんていなかった! 俺だったんだ……悪いのは全部、俺だ!
この、人殺しが!
「正気に戻ってください!」
「もう俺はとっくに正気だ」
「全然、そうじゃないですよね!?」
「ごめん、死体とか慣れてないからさ、怖くて変になりかけた」
空笑いをした。イルーガは俺の嘘に気づいただろうに、指摘することはなかった。
へらへらとさっきの狂ったような笑いを消して、俺はなるべく明るく振る舞った。
「朝から最悪なものを見たなー。よし、偵察、行こう」
「……はい」
まるで二人とも、何もなかったように振る舞った。
「ワイルドハント三体、纏まってるな」
「近づき過ぎたら、見つかりますよ」
「分かってるってば」
いつも通り、当たり前のことのように、偵察をした。そうして報告書には、真実を書き込んだ。
ワイルドハントの数、種類、位置……そして、ヒルチャールによって、人が死んでいたことも。
仕事を終えて、俺たちはしばらく無言だった。食事もせず、家に帰ろうとしたところで、俺は一つ思い出す。そうだ、俺の家は今、ドアが壊れていて使いものにならない。
仕方がない。自分を縛り付けておくしかないか? なんかドMみたいで嫌なんだが、仕方ない。元から、こうすればよかったんだ。でも、イルーガにはできなかった。イルーガは優しい奴だから、そんなこと、できなかったんだ。
イルーガには、本当に迷惑をかけた。申し訳ない。謝りたい。でも謝るわけにはいかないんだ。万が一の時のために。
次の日は、当然のようにやって来た。
いくら来ないでくれと頼んでも、どう願っても、朝はやって来る。
朝目覚めた瞬間から、残念なことに昨日のことを忘れるなんてことはなく、鮮明に、焼き付けられたように覚えていた。
起きたくないと思いつつ、瞼を持ち上げる。
「なんとかなった、のか」
自分の手足を見れば、昨日のまま雑に縛り付けられている。
そして拘束を解こうとして……ん?
「やべっ」
解けない。ぜんっぜん解けない。
あれー? どんなやり方したんだっけな。適当にやったから自分でもわからないな。
と、とりあえずナイフだ。ナイフを使ってロープの紐を斬ろう。
えーっと、で、そのナイフはどうやって取ればいいんだ?
はぁ。
「おーい、ギメイラ? だったか? ライトキーパーの、エーグルだ。ちょっと用があって来たんだが」
そんなふうに困っていたら誰かがやって来た。知らない声だ。てっきり、イルーガが来たと思ったんだが、声からして知らない人のようだ。
「わ、悪いんだが中に入ってくれないか? ちょっと困ったことがあって……」
すごく、めちゃくちゃ言いにくいが、ライトキーパーの人なら手伝ってくれるだろう。
困惑しながら、エーグルは家の中に入り、そして叫んだ。
「うわぁっ!」
「これ、解いてくれたりしません?」
「なんでこんなことに!? 誰かにやられたのか!?」
「いや、自分でやりました」
「えっ」
「え?」
エーグルは、若干、いいや。すごく引いた顔をして、俺から離れていく。
「もしかしてそういう特殊な趣味を——」
「違う! 違う違う! 誤解だ誤解! 絡まっただけだよ!」
そんな趣味なんてない!
不本意なので、大声で主張した。エーグルは納得していないのか、引いた顔のまま、俺のロープを切っていく。
そうしてようやく解放されて、俺は大きく伸びをした。酷い目に遭った。
「そういえばどんな用でここに?」
「ん? 聞いてないのか? イルーガの代わりに護衛に来たんだ。イルーガは、お前の護衛から外されたからな」
「……何だって? 理由は?」
「俺もよくわかんないんだよな」
イルーガが俺の護衛から外された? このタイミングで?
嫌な予感がした。
「申し訳ないんだが、変な体制で寝てたせいか、今日すごく体調が悪くて。仕事、休んでもいいか?」
「自業自得なような……。でも、分かった。報告しておくよ」
少なくとも、エーグルは俺がヒルチャールであることを知らないようだ。
俺の正体など、直接見るか、フリンズさんのようにここがカーンルイア人の墓であったことを知っている人しか、知ることができない。
昨日の夜、見られた可能性もあるが、それなら俺が休むのは認められないはず。
今疑われているのはたぶん、イルーガだ。
イルーガはこのところ、俺を庇うために不審に見える行動をしていた。フリンズさんからも、イルーガの様子がおかしいと言われていたし、誰から見てもなにかが起きたと分かるだろう。
俺は、エーグルが完全に消えたタイミングで、服を着替えた。いつも通りの服ではなく、ワンピースに身を包み、目隠しを外す。この姿を他人に見せたのは二度。特にライトキーパーで知っているのは、イルーガしかいない。
一見では、わからないだろう。ローブとか羽織るより、こっちの方が逆に目立たないものである。
俺は、ピラミダへと足を進めた。ピラミダは、ライトキーパーの本部があるところだ。イルーガはそこに住んでいる。
かなり距離があるものの、俺は他人よりは体力がある。数時間かけて、たどり着くことができた。
知らない人だな、という視線を浴びながら、俺はイルーガの家へとズカズカと進んでいく。そして、大声で呼び出そうとしたところで、偶然にもイルーガが中から出て来た。
「あ、イルーガ!」
「メイラ!? どうしてここに? 今は、偵察の時間じゃ」
「今日はサボりだ。なぁイルーガ、どうして俺の護衛から外れたんだ?」
「それは……僕にも、分かりません。あと、サボっちゃダメですよ! 僕が居なくても、仕事はしてください!」
イルーガの言葉は一旦無視を決め込む。今日のサボりは、必要なサボりである。
「呼び出しとかはなかったのか?」
「明日、詳しいことを話すと言われました。今日はとりあえず後方部隊に戻れ、と」
「そっか、なるほどな」
明日、か。
そっか。
俺は、イルーガに一歩近づいた。さらに一歩、また一歩。かなり近づいていく。
そして、近距離のまま見上げた。小声で、誰にも聞こえないよう、イルーガに言う。
「お願いがあるんだ」
キョトンとした顔をされた。俺が滅多に真剣な顔をしないからだろう。俺のいつものふざけた雰囲気がないことに、イルーガは気づいたようだった。
「今日、一緒に逃げてくれないか」
「逃げる?」
「うん」
心臓が早鐘を打った。
それでも、声を絞り出す。
「こんなこと言われても困ると思う。でも、今日だけでいい。今日の夜には戻る。もう、他にわがままなんて言わないから、だから、今日からは現実から逃げさせて。仕事、休んで俺と、逃げてくれ」
イルーガは迷っているようだった。
イルーガが仕事をサボるなんて、無理だとわかっている。これはただの、本当に、俺の最後のわがままだ。
別に断られたっていい。
「仕方ないですね」
「え?」
間抜けな顔をしていたのか、笑われてしまった。
「今日だけですからね」