海を見に行きたい、と彼女は言った。てっきり、美味しい食べ物を思う存分食べたい、だとかそんなことを言われるのかと思っていたから、イルーガは拍子抜けした。
時刻は、もうすぐで昼になる頃だ。お腹が空いているだろうに、全くそんなことも言わない。
イルーガは、仕事を休みたくなんてなかったが、休暇届を出した。彼女が、変だったからだ。
昨日、死体を見た時から、彼女は変だった。自分の正体に勘づいてしまったのだと分かったが、彼女は気づいていないふりをしていた。
どうして教えてくれなかったのだ、とイルーガを責めることなく、まるで何も見ていないかのように。
「昼食は食べないんですか?」
「……イルーガは、もうご飯食べた?」
「はい。さっき作ったスープが残っていますが、メイラもどうですか?」
「せっかくだから、貰おうかな」
ギメイラは、大人しく口角だけを上げて笑った。
元気のないその姿に、イルーガまでも口数が減る。メイラを家へと案内し、スープを温め直していればふとギメイラが呟いた。
「俺、イルーガの作るスープ飲んで泣いた時、あっただろ」
「そんなこともありましたね」
スープを器によそいながら、思い出に耽る。
ギメイラにスープを手渡せば、ゆっくりとギメイラはスプーンを口に運んで、味わうように飲み干した。
「俺あの時、生きてんだなって思った。人間として、生きてんだなって。これまで食べたこともないくらい、美味くて、あったかくて、それで気づいたら、泣いてた」
ありがと、とギメイラは言った。
イルーガは、何かに縫い付けられたかのように、何も言えなくなった。懐かしむように目元を和らげて、ゆっくりとスープを飲む彼女の姿から、目を離せなくなった。
なんだろう、と思う。わからない。なんだろう。
彼女は珍しく時間をかけてスープを一杯飲んだ。そして最初の彼女の要望通り、海に行くことにした。
とはいえ、ナドクライは海に囲まれた地域だ。海なんてそう珍しいものではないが、だからこそわざわざ見に行く機会なんてない。
「海に行って、何がしたいんですか?」
「……内緒」
へへ、といつも通りに悪戯っぽく笑って来た。ようやくいつもの彼女が戻ってきた気がして、イルーガは安堵した。
ナドクライでは少ない、砂浜がある海にやってきた。
海に着き次第、彼女は海に向かって走り出す。岩に足を取られないかハラハラとしたが、なんとか海岸まで辿り着いたようだ。
イルーガは彼女を追って、波のすぐそばまで近づいた。
波の音に耳を澄ませ、穏やかな波風を浴びる。体の力が緩んでいく。そういえば最近、ずっと張り詰めたままだった。夜の間も、彼女が暴れていないか心配で、深くは眠りにつけなかった。
地平線を眺めていたイルーガに、ふと悲鳴が届いた。
「ぎぇっ」
可愛げのない叫び声を上げている。
地平線から目を離せば、ギメイラが靴を脱いで浅瀬で水に浸かっていた。
「冷たい!」
「風邪引きますよ!?」
「足だけだし、大丈夫だって……うわっ!」
つるっ、とギメイラが足を滑らせて転倒した。
ばしゃーん、と水飛沫が立つ。イルーガは慌てて海に飛び込んで、ギメイラを引っ張った。
幸い、浅いところでこけたお陰で溺れてはいなかった。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫だけど、ごめん。イルーガまで濡れたな」
「僕のことなんていいですよ」
ギメイラは、またごめん、としおらしく呟いた。珍しく反省している、とイルーガが油断をしていたらギメイラはニヤリと笑った。
「くらえっ、ハイドロポンプ!」
「わっ」
水をかけられる。すでに濡れているからこれ以上濡れても問題ないな、とか思ってるな、とイルーガは思った。あとハイドロポンプってなんだ。ギメイラは時々わけがわからないことを言う。
イルーガも、その辺の水を掬って軽く彼女にかけた。ぴゃっ、とよくわからない悲鳴を上げられた。
「よくもやったな! くらえ! 今度はみずしゅりけんだ!」
何がさっきのと違うのかわからないが、また水をかけてくる。それにイルーガはやり返していれば、しばらく経ってしまった。
「ふふ」
二人とも疲れ果てて地上へと上がったところで、ギメイラは突然笑い出した。
「何やってんだか」
「子供みたいなことしちゃいましたね」
イルーガもなんとなくつられて笑う。本当に、何をしているのだろう。
しばらく二人で笑っていれば、ギメイラは笑い疲れたように、笑うのをやめてしまった。
ギメイラは、しばらく黙って波を見ていた。いつもならすぐに次の話題を探すのに、今日は違った。沈黙が、やけに長く感じられる。イルーガは何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
やがてギメイラは、大きく息を吸い込んだ。
海の匂いを、確かめるみたいに。
そして、濡れたままイルーガへと向き合う。
「ありがと、イルーガ。イルーガのおかげで俺、生きれたよ」
「生きる?」
「ほら、言ってただろ? 俺は死んでるみたいに生きてた、とか。実際、ライトキーパーに入って、イルーガに護衛してもらって、俺初めて楽しかったんだ。今日はこれ、言いたくてさ。それでわざわざ仕事、サボらせちゃったんだ。……ごめん、な」
なんか、変だ。
一見、ただいつも通り素直に、真っ直ぐにイルーガに礼を言っているだけのように見える。ギメイラはそういうところがあるし、最初は驚いたが本人にはなんの気もないことはわかっている。
だが、なんだ? まるで別れを告げるような、言い方をする。
「なぁ、結構お前のこと、好きだよ」
風が海面を巡り、やがて木々を揺らしていく。
ギメイラは、眉を下げながら笑った。
どうしてだ。ギメイラはこれまで、そういうことは言わなかった。それがどういう発言に見えるのか、流石に分かって言っているはずだ。
イルーガは、何も言えなかった。言おうとして、口を開いて、それでも言葉にならなかった。心臓が、痛いくらいに音を立てている。これは、どういう意味だ。どう答えれば、正しいんだ。
考えている間に、間が空きすぎた。
「……冗談だよ。つまんなかった?」
冗談なら、どうしてそんなに泣きそうな顔をしているのだろう。
イルーガが答えを返す前に、ギメイラは、「あ!」と叫んで分かりやすく話を逸らした。仕方なく、話に乗ると、ギメイラが叫んだ理由が分かった。
いつのまにか、陽がかなり落ちている。
彼女が化け物になる時間は、近い。
「俺、そろそろ帰るな」
「家まで送りましょうか?」
「大丈夫、自分でなんとかするから」
何をなんとかするのか。ヒルチャールのことなのは言わなくても分かった。
ギメイラは濡れたまま、歩き出す。惜しみもなく白い足と、腕を曝け出している。
イルーガは、上着を脱いで彼女にかけた。
「冷えちゃいますから」
「やっぱ優しい奴だなぁ」
「……そう、なんですかね」
「そうじゃなかったらなんなんだよ」
自分が馬鹿にされたかのように、ギメイラは唇を尖らせてわかりやすく怒った。全然、怖くない。
やがてしばらく歩き、ギメイラと別れる道まで辿り着く。
「じゃあな」
「はい、また明日。もう仕事をズル休みは、止めてくださいね。報告書もちゃんと書いてくださいよ?」
「……そう、だな」
何処か元気のない、ぎこちない返事を返しながら、ギメイラはいつも通り、軽く手を振って別れを告げた。
そう、思ったのに。ギメイラは道を戻って来て、またイルーガに近寄った。
「あと、さっきの冗談だけどさ」
ギメイラはイルーガに近づいて、微かに耳を赤くさせながら、小声で呟いた。
「やっぱ半分冗談に変更しとく。じゃ、またな」
「え?」
イルーガが返す間も無く、言いたいことだけを言って、ギメイラは去ってしまった。
しばらく、イルーガは道の真ん中でぽかんとしていた。
結構お前のこと、好きだよ。
それが半分冗談だとすれば、半分本気ということでもあり、つまり……。
イルーガは道端でしゃがみ込んだ。
「どうしてそんなことを急に言うんですか……」
初めて、ここまでギメイラが何を考えているのかが、わからなかった。
あと二話くらいで完結予定です。