イルーガは、走っていた。
長いこと眠っていたせいで、体が重たい。
まるで全て自分が悪かったかのように言って、裏切ったかのように振る舞っていた。最初に聞いた時は、なぜそんなことを言うのだと、呆気に取られた。だが、今は違う。彼女があんなことを言ったのは、全て自分のためだった。確信があった。
昨日、なぜ海に行きたいのか聞けば、昨日彼女は内緒だと言って笑った。その理由は最後まで明かされなかった。
だが、それが彼女なりの、無意識のSOSだとしたら。
イルーガは全速力で、駆け抜ける。
生きたいと言うくせに、人を見捨てられなくて、人を殺したくないギメイラを助けるために。
✳︎✳︎✳︎
朝になった。ぐるぐると巻きつけたロープを、服の中に入れていたナイフで切り取る。
非常に、複雑な気持ちである。
盗賊時代に時々使用していた煙幕とローブを鞄の中に入れて、大きく深呼吸をした。
「もう、覚悟を決めないとな」
昨日に、覚悟は決めたつもりだ。本当はヤフォダとも話したかったが、覚悟が緩んでしまいそうだから、やめておいた。
解毒剤を飲み、外に干された濡れた服から目を逸らし、外へと出た。
朝早く、偵察せずにピラミダへと向かう。二日も仕事をサボるのは初めてだが、今日は正確にはサボりではない。
もっと大事で、重要なことを話しに来ただけだ。
ピラミダのライトキーパーの本部に行けば、既にイルーガとマスターライトキーパーのニキータさんが話しているようだった。
俺は遠慮なく、中へと入った。
「ニキータさん、おはようございます」
「ギメイラ? どうした、何かあったのか?」
「どうしても話したいことがあって、来たんです」
「ふむ、少し待ってくれ。後で話そう」
いや、後に話す必要などない。ニキータさんは、イルーガが夜と早朝に何をしていたのか、本格的に聞き取りをするつもりなんだろう。
それなら、そんな話をする必要は、もう完全になくなる。
俺は首を横に振った。
「メイラ?」
「どうしても今、話したいんです」
「……分かった。お茶を淹れよう」
「いえ、要りません」
無礼に断って、俺は席に着きもせず、立ったまま語ることにした。座ったら、間に合わないかもしれないし、逃げる時に一秒でも遅れたくないから、というのは半分建前で、半分は──座ってしまえば、この覚悟がふやけて崩れそうな気がしたからだ。
イルーガが不安そうにこちらを見てくる。何かを察してる目だ。やめてくれよ、そんな目。今更、優しくされたら困る。
俺が全てを正直に話すと思っているのだろうか? しかし残念ながら、そんなことはしない。
俺は、「悪い奴」だからな。
「それにしても、本当に面白かったよ」
「面白かった?」
イルーガの声が、僅かに掠れた。俺は、聞こえないふりをした。
「滑稽で、馬鹿馬鹿しかった」
案外スルスルと罵倒の言葉は口から出て来た。思ってもいないのに、達者なことだ。喉の奥が焼けるみたいに痛い。それを飲み込んで、俺は続けた。
「イルーガは、信じ続けてた。騙されてるのに、騙されてることにも気づかずに。何度も笑いかけたが、一度おかしいくらいに笑ってしまったよ。それなのに信じるなんて、本当にいい奴だなぁ」
「何、を」
イルーガの手が、机の端をきつく掴むのが見えた。爪が白い。
止めるな、止めちゃダメだ。分かってる、分かってるけど──ここで止まったら、全部無駄になる。
息を吸い込んだ。
吐き出す勢いのまま、俺は一気に捲し立てた。
「俺がヒルチャールであることに気づかされて、自分を責めて、必死に俺を庇って。俺が楽しんでいることすら知らずに、良いように使われているお前は本当に面白かった」
「なんだと?」
ニキータさんの声が低くなる。空気が変わった。
イルーガは、何も言わなかった。ただ、俺を見ていた。信じたくないものを見るみたいな目で。
──その顔を見た瞬間、心臓が抉られるみたいに痛んで、俺は視線を逸らした。逸らさないと、嫌なフリを続けられなかった。
ニキータさんは眉を顰めて、声を張り上げ、俺の手首を掴もうとした。
その瞬間に、煙幕を地面に投げる。逃げるのだけは、自信があった。
「何も知らないままじゃ可哀想だから、最後に教えてやろうと思ったんだ。
ヒルチャールの正体は俺だ。イルーガ、お前を利用してたんだよ。じゃあな、これまで楽しかったよ」
皮肉な感じで、いかにも嫌な感じで、俺は言った。声が震えなかったのだけは、褒めてやりたい。
白い煙の向こうで、イルーガが一歩、踏み出そうとするのが見えた気がした。その足が、床を蹴る前にそのまま、大きく跳躍する。振り返らなかった。振り返ったら、イルーガの顔をもう一度見てしまうから。見てしまえばきっと、足を止めてしまうから。
煙幕には、睡眠作用のある薬が入っている。俺は解毒剤を先に飲んでいたから寝ることはないが、あの場にいたライトキーパーは眠っていることだろう。
スリをしていた時に使っていた、緊急用の道具だ。短時間しか効かないし、夜になる前に起きてしまうだろうが、時間稼ぎにはなる。
まさか、こんなことに使うとは思わなかった。
さぁ、どうしてこんな暴挙に出たのか。理由はただひとつしかない。
イルーガの疑いを晴らすためだ。俺は馬鹿だから、こんな方法しか思いつかなかった。あいつはこれから、隊長とかになれるくらいの実力があるんだ。万が一でも俺のせいでその未来が潰えたら、俺は自分を許せない。
もっと賢い方法とか、あったんだろうけど、俺ではこれが精一杯だ。
昨日イルーガを誘った時から、今日こんなことをする覚悟は決めていた。
俺が向かっている先は、海だ。
昨日急に海に行きたいなんて言い出したのも、ただの思いつきなんかじゃない。
俺は一気に海の深い場所まで飛び込む。
そして体に力を入れて、沈んだ。
水が気道に入り込み、息が出来なくなる。苦しい。空気を求めて勝手に息を吸うものの、酸素はない。死ぬ……死んでしまう。
しばらく、もがき続けて、やっぱり、と思い結局海面から顔を出した。
「ひゅ……はぁ……はぁ……」
死ねなかった。
不死の呪いにかかっているカーンルイア人なんだから、当然か。
……そうだ。俺が海に行きたいと言った理由は、死に場を探していたから。それだけの理由だ。
でも、やっぱダメか。張り付いた髪を退けようとして、なぜかできない。どうしてだろうと思えば、ガタガタと体が震えていた。
寒いもんな、そりゃ震えるわ。……寒いから、だよな? そうだよな。
「でもヒルチャールは泳げないはずだ。夜になれば死ねる可能性がある」
俺が海を選んだ理由は、ヒルチャールが泳げないからだ。夜になった途端に俺を殺すことができる可能性がある。
もし夜の間荒野の呪いにかかっているなら、夜の間限定で死ねる可能性も……なくはない、と思う。それも望み薄だと思うが。
というのも、フリンズさんが俺を殺そうとしなかったのは、無意味だからって理由だと思うのだ。死なない相手を殺そうとしても、意味がない。それなら見張っておいた方がいい。そう考えたんだろう。
もちろんフリンズさんは優しい人だから、俺のことを閉じ込めるつもりはないみたいだった。あのままフリンズさんの提案を受け入れていれば、俺は平穏に生きれていたに違いない。
でも、もしかしたらまた人を襲うかもしれない。イルーガが疑われたままになるかもしれない。
そう思ったら、やっぱり呑気に生きることなんて、俺にはできなかったんだ。
生きるべきでないと、思ってしまったのだ。
俺にとって、殺すことは何より嫌いなことだから。
時間は、あっという間に過ぎていった。
まさか海で自殺をしようと思っているなど、考えつく人などいなかったのだろう。
ライトキーパーは、俺のことを見つけられなかった。
空が黄金色に光る。下は赤。上は紫色。どんどんと、闇が青色を飲み込んでいく。同時に、猛烈な眠気が俺を襲った。いつも通りのことだった。
いつも通り、思っていたよりもずっとずっと穏やかに、呆気なく死が歩み寄ってくる。なんだ、こんなもんか。
どうしてこんなものを恐れていたんだろう。意外に、死ねるもんだ。そんな、難しくないじゃんか。
眠くなるのと同時に、海の深い場所へと歩みを進める。そして眠くなり、勝手に瞼が落ちてくるのと同時に、俺はまた体に力を込めた。
勝手に体が沈み、底知れない苦しみを与えてくる。海の中から、金色が薄まって行くのを眺めていた。
死ぬんだ、俺。なんだ。
目を閉じる。
何度死を覚悟しただろう。もう、考えるのはやめにしよう。いい人生だったとか、嫌な人生だったとか、もう全部、何もかも考えたくない……。
体が沈む。暗闇に包まれる。
とうとう、死んだ。
そう思ったその時だった。
何かに、手を掴まれた。俺は驚いて目を開く。引っ張った人の顔は見えない。でも、なんとなく予想はついてしまった。
呆気なく引っ張り出されて、俺は酸素を吸い込んで呼吸をした。大きく咳き込みながら、何度も息を吸う。吸ってしまった。
「どう……して」
途切れ途切れになりながら、肩を掴む。
「どうして助けた! 俺は裏切ったって言ったよな! イルーガを利用してたんだって!」
「そんなに分かりやすい嘘で、僕を騙せると思ってたんですか?」
「う、うるさいっ! 放っておいてくれ、俺は今から死ぬんだ! 人殺しを殺すんだ! ヤフォダの腕の仇を討つんだよ!」
イルーガを突き飛ばす。いや、突き飛ばそうとした。イルーガは俺を睨みつけ、手を掴んで離さない。
こんなに怒った顔は、初めて見た。
「本当は、死にたくないくせに! どうして死のうとするんですか!」
ひゅっ、と息が止まった。
ガタガタとまた震え始める手首を、イルーガが強く握る。
「そ、そんなことないよ。今の見てなかったのか?」
「じゃあ、どうしてこんなに震えてるんですか? 死ぬのが怖いんじゃないんですか」
「そんなの、寒いからに決まってんだろ」
「本当に、それだけですかっ!」
イルーガに怒鳴られて、俺は口を結んだ。
音を立てて何度も息を吸い込む。
「それだけだよ! それだけに決まってる!」
イルーガは珍しく、眉を吊り上げた。完全に、怒らせてしまった。罪悪感は感じるが、それ以上の自罰が心の大半を占めていた。
「僕は……」
絞り出すような声で、イルーガは怒った顔のまま、俺の肩を掴んで揺さぶった。
「僕は、君の作った甘すぎるクルムカケのせいで、普通のクルムカケが物足りなくなりました」
「え?」
全く考えていなかったことを言われて、俺は体の力を緩めてしまった。
「すぐに君が値切るせいで、君が値切る前提でモラを使うようになってしまいました」
「……なんで、そんなこと」
「人参が細かくないスープに、違和感を抱くようになってしまったんです。君のせいですよ」
言葉が、もう出なかった。全部反論しようと思っていたのに、そんな、ただの思い出話なんてされるなんて思わなかったんだ。
イルーガは顔を歪めた。俺の肩に加わった力が、痛いくらいだった。
「僕は……僕は、君に死んでほしくない! 生きて欲しいんです。死なないで……どうか、生きてください! 君も、生きたいですよね、本当は!」
縋り付くように、必死な顔で言われた。
こんな顔をしているのは、初めて見た。
「俺、生きてて、人を殺すのに?」
「僕はそんなこと聞いてません。生きたいんですか? それとも本当に、死にたいんですか?」
……そうだよ。
そうだ、俺はずっと変わらない。
俺は結んだ唇を緩めた。これ以上自分に甘くなってはいけないと、硬くさせた唇を。
イルーガの背に手を回す。胸に頭を押し付けた。
「やだ……」
勝手に堰を切ったように、涙が溢れてきた。幼い子供のように、喚く。
そうだ、そうだよ。俺ほんとは、全然全く、少しも。
「やだ、やだやだ……死にたくない。死にたくなんか、ないんだ」
本当はまだまだ、やりたいことがあるんだ。
ヤフォダとバカをやって、ライトキーパーの仕事をして、正しいやり方で金稼いで。イルーガの作ったスープを飲んで、祈月の夜をもっと夜遅くまで楽しんで、それで、月を見てやりたい。他にも、まだまだやりたいことばっかりで。
あぁ、生きたい。生きたいよ。
「俺最初からずっと、死にたくなんかなかった。死ぬのが怖かった。でも今は、みんなとの思い出が消えるのが、怖い。お前と居られなくなるのが、やだ」
勝手に流れてくる涙を流しっぱなしにしているせいで、視界が水中にいるようにゆらめく。
イルーガに、思い切り抱きしめられた。
「悪くたってなんでもいいから、生きてください。死にたくないなら、素直にそう言ってください」
「……ごめん、ごめん——」
謝罪しか、口から出てこなかった。その瞬間。
夕陽が山の下へと落ちていった。
忘れて、た。
俺は絶望のあまり目を閉じる。体が勝手に変化していくのが、自分でもわかった。ヒルチャールになっているのだ。
イルーガを、殺してしまう。ダメだ、ダメだっ!
「離せ! 離せっ! おれは、俺は人殺しなんかになりたくない! 逃げろよ! 早く!」
「嫌です! もう、人殺しなんてさせませんから!」
そう思ったのに、イルーガは俺を離さない。離してなんか、くれなかった。
しばらく暴れ続けるが、俺がイルーガの力に敵うわけがなく、少しみじろぎできたくらいだった。いよいよ辺りは暗くなり、それなのにやはりイルーガは意地でも俺を離さない。
諦めて目を閉じる。
さん、に、いち。カウントダウンをするも、意識は一向に沈まない。
…………。
———…………。
あれ? 俺、寝てない?
ゆっくりと、恐る恐る目を開く。
辺りは一面、真っ暗だった。目を凝らさないと、よく見えないくらいだ。太陽がない。完全に、沈みきっている。
「あ、れ?」
夜だ。
急いで空を眺めた。見計らったかのように、太陽の代わりの光源が顔を出す。太陽よりも控えめに、海を照らした。
「なんだ」
なんなんだよ。
せっかく見えた月は、ずっとずっと見たいと願っていた月は、虹色でも、青でも、赤でもなくて。
「ぜんぜん、普通じゃないか……」
ただの普通の色の、月だった。
次回が、最終話予定です。