ネオン父に転生したのでふんわりした未来知識で成り上がる   作:パラレル・ゲーマー

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第20話 ネオンの父、三十年続く匿名客の注文履歴を並べる

 1980年、二月下旬。

 窓の外ではまだ冷たい風が吹いているものの、日差しの角度にはわずかに春の気配が混じり始めていた。

 

 ノストラード本部の小会議室には、古い紙と埃が混じり合った独特の匂いが立ち込めている。

 長机の上から、先週まで並んでいた港の入出港記録や船舶の改修明細はほとんど片付けられていた。代わりに積まれているのは、背表紙の擦り切れた古い台帳、黄ばんだ買付希望票の束、地方競売の古い目録、そして古物商組合の回覧資料だった。一番新しい紙束でも十年以上前の日付が印字されており、ページをめくるたびに乾いた音が立つ。

 

 ライトがコーヒーカップを片手に会議室へ入ると、すでに一人の若い社員が長机の端に座り、資料を年代ごとに仕分けていた。

 先週の会議で、不審船の動向や古い買付票について素朴な疑問を口にした経理・企業調査担当の男だ。ノストラードの表事業が急拡大し始めた頃に採用された一般社員で、裏社会の空気よりも帳簿と会社資料の扱いに慣れている。

 

 ライトは机の上を埋める紙の束へ目を落とした。

「もうこんなに集まったのか?」

 

 若い社員は手元の紙束を揃えながら顔を上げた。

「エドガーさんが古物商組合の書庫から追加で借り出してくださいました。こちら側にあるのは、うちの経理と企業調査で引き直したベルカント関連の控えです」

 

「早いな」

 ライトが机の中央に置かれた大判の用紙を手に取る。

 そこには、集められた雑多な古資料の中から抜粋された情報が、定規で引いたような細かい罫線の中に整然と書き込まれていた。

 左から順に、年代、品物、出所、買付条件、ベルカント側の担当者名、『H―17』の記載の有無、取引金額、そして備考欄。バラバラだった数十年分の記録が、一枚の横並びの表に収まっている。

 

 ライトは視線を紙面から上げずに尋ねた。

「これ作ったの誰?」

「私です」

 ライトはそこで初めて、目の前の若い社員の顔をまじまじと見た。

「……マーティンだったな」

「はい。マーティン=ケインです」

「見やすいよ、これ」

「ありがとうございます」

 

 マーティンはそれ以上言葉を足さず、次の資料の束から付箋の貼られたページを開いて待機した。

 程なくしてヴィクターとエドガーも会議室へ入り、四人で長机を囲む形になった。

 

 机の中央には、前回の会議で浮き彫りになった二つの記録が置かれている。

 一つは1952年、ベレノス東部海域で漁網に引っかかった『黒灰色金属製湾曲板』を、ベルカント古美術商会が落札した記録。

 もう一つはその翌年、1953年にベルカント名義で業者間へ回された買付希望票だ。そこには黒灰色金属や未知の記号だけでなく、当時まだ市場に一度も出た記録のない『円環状、円弧状、柱状、その他大型部材』という具体的な形状が、破損状態を問わず求める条件として明記されていた。

 そして一部の古い台帳に残されていた『依頼番号 H―17』という匿名顧客のコード。

 

「今日は、その『H―17』の注文が前後でどう変わっているかの確認からだな」

 ライトは1953年の買付希望票の写しを指先で軽く叩いた。

「俺としては、53年の時点でこれだけ具体的な形を指定している以上、それより前の段階から同じような大型部材を探していたんじゃないかと思ってたんだけど」

 

 最初から海底にある物の形を知っている誰かが、何十年も同じ条件で網を張り続けていた。そう考えるのが一番わかりやすい。

 

 だが、マーティンは手元のファイルから一枚の古い複写を取り出し、机の中央へ滑らせた。

「それが、少し違うみたいなんです」

 

 ライトは眉を寄せてその紙を覗き込んだ。

「いつの記録だ?」

「現時点で確認できた、『H―17』に関する一番古い記載です。1947年のベルカントの内部顧客台帳ですね」

 

 エドガーが、古い帳面のコピーを指し示した。

「当時の希望品目の欄をご覧ください」

 

 そこには、万年筆の硬い筆跡で短い条件が二行だけ記されていた。

『海洋引揚品・来歴不明品』

『未知文字または未分類記号を伴うもの優先』

 

 ライトは二度読み返し、それから顔を上げた。

「……これだけですか?」

「ええ。これだけです」

 

 黒い金属という指定すらない。ベレノス海という地名もない。まして円環状や柱状といった形状の指定など影も形もなかった。

 ただ、海から引き揚げられた正体不明の品で、見たことのない文字や記号がついているものを広く探している。

 

「随分ざっくりしてるな」

 ライトが率直な感想を漏らすと、エドガーも小さく頷いた。

「古物商への注文としては、かなり広いですね。この条件ですと、難破船の積荷から古い港の遺物まで、あらゆるものが引っかかってしまいます」

 

「次が、三年後の1950年の更新記録です」

 マーティンが整理表の二段目を指差した。あわせて該当する古い回覧の控えを並べる。ファイルには、その前年の1949年に地方業者から届いた売却照会の写しも残っていた。取引自体は成立しなかったが、添付された粗い白黒写真には、未知の記号らしき傷を持つ暗灰色の金属片が写っている。

 そこには、その照会から数か月後に追加された新しい一文があった。

 

『黒色、暗灰色、またはそれに類する金属製品を特に求む』

 

 ライトの視線が、その一行に止まった。

「ここで初めて、色と材質が入るのか」

「はい。前年の照会品が直接の理由だったかまでは分かりませんが、少なくとも条件を追加する前に、そういう品の情報には接触しています。まだ海域の指定はありません」

 

 マーティンは赤鉛筆で整理表の1947年から1950年へ向けた矢印の横をなぞり、すぐ下の1951年の欄へ指を移した。

「そして、その翌年です。これにも直前の記録があります。1950年の終わり、ベレノス東部の港から『似た黒い金属片が漁網に掛かった』という照会がベルカントへ届いています。現物はベルカントが買い付ける前に別へ流れていますが、港と漁場のおおよその記録は残っていました」

 

 1951年の記録には、さらに一行が書き加えられていた。

『ベレノス東部海域および周辺港より持ち込まれた物を優先』

 

 会議室に、紙をめくる音だけが小さく響いた。

 1949年に、未知の記号を持つ暗灰色の金属片の照会。

 1950年末には、ベレノス東部から似た品が上がったという記録。

 その翌年には、『ベレノス東部海域』という場所が条件へ加わっている。

 

 ライトは腕を組み、横並びに整理された表を左から右へと追った。

「最初からベレノスを探してたわけじゃない?」

「記録だけなら、そう見えます」とマーティンが答える。

 エドガーも続けた。

「少なくとも、ここまでの条件変更には、その少し前に対応する情報が残っていますね」

 

「そして、その翌年の1952年です」

 マーティンが、前回も見せた白黒写真付きの競売目録を置いた。

『ベレノス東部海域・漁網引揚品 黒灰色金属製湾曲板』。端に六文字から八文字程度の未知の記号が刻まれた、一メートル前後の板状の金属だ。

 ベルカントがこれを落札し、台帳には『H―17』への代理購入として記録されている。

 

「47年から少しずつ条件を絞っていって、52年にようやく、その条件が全部重なった現物が市場に出たわけか」

 ライトが写真を眺めながら呟いた。

「ここで『当たり』を引いた?」

「買い手側がそう判断した可能性はあります」エドガーが頷く。「少なくとも、それまでの条件には合致しています」

 

「問題は、その次の年なんだよな」

 ライトは表の1952年と1953年の間に引かれた太い線を見た。

 1952年に手に入れたのは、あくまで長さ一メートルほどの湾曲した板にすぎない。

 ところが翌1953年の買付希望票では、突然『円環状、円弧状、柱状、その他大型部材』という具体的な形状指定が飛び出してくる。

 

 1949年の照会から1950年の条件追加へ。

 1950年末のベレノス東部の情報から、1951年の海域指定へ。

 だが、1952年の湾曲板から1953年の大型形状指定へ繋がる間の記録だけが見つからない。

 

 ライトは何も言わず、その境目を指先で一度叩いた。

 ヴィクターも黙ってその行を見つめた。

 

 するとマーティンが、さらに別の紙束を手元へ引き寄せた。

「それで終わりじゃありません。53年以降も、注文の文面は書き換わっています」

 

 マーティンが並べたのは、1950年代後半のベルカントの内部連絡票だった。

 そこには、品物の条件とは別に、仕入れ担当者へ向けた注意事項が追加されている。

 

『発見位置を可能な限り記録すること』

 

「港の名前だけでは足りなくなったようです」マーティンが補足欄を読み上げた。「引き揚げた漁船の名前、漁場のおおよその位置、水深、網を上げた時刻や方角まで、聞き取れる範囲で全てメモを取るように指示が出ています」

 

 品物そのものだけでなく、それが海のどこにあったのかという『場所の情報』まで求めるようになっている。

 

 さらに次の束。1960年代前半、62年から64年頃にかけての記録。

『洗浄前に写真を撮ること』

『表面付着物を可能な限り残すこと』

 

 ライトは少し意外そうにエドガーの方を見た。

「骨董品って、普通は泥や貝殻なんかを落として綺麗にしてから客へ見せるものじゃないんですか?」

「ええ。美術品や装飾品として売るなら、見栄えを良くするのが一般的です」

 エドガーは60年代の指示書へ目を落とした。

「ですが、この客は逆を求めている。表面にこびりついた海底の泥や付着生物まで、落とさずにそのまま見たいと」

「……この辺りになると、美術品の買付というより調査資料ですね」

 エドガーの言葉に、ライトも頷いた。

「そう見えますね」

 

 マーティンは手を止めず、1960年代後半の記録をその横に並べた。

『複数片が同時に発見された場合、別々に処分せず一括して報告すること』

『破断面を削らないこと』

 

「破断面を削るな、か」

 ヴィクターが小さく復唱した。漁師や地方の業者が、錆びた断面や尖った縁を危ないと思って削り落としたり、見栄えを整えたりするのを防ぐための指示だろう。どういう形で壊れたのか、あるいは元々どこかと繋がっていたのかを確認しようとしているようにも読める。

 

 そして1970年代前半。

『大型品は運搬のために切断しないこと』

『移動前に寸法と位置を記録すること』

 

 ライトは資料を見比べた。

「最初は物だけ買ってたのに」

「はい。途中から、拾った時の状況まで買うようになってます」

 

 マーティンが最後の束、1976年から78年にかけての記録を置いた。ライトが父親から組を引き継ぐ前後、つい数年前のものだ。

 そこにある文面は、それまでよりも一段踏み込んだものになっていた。

 

『大型部材を確認した場合、公開競売へ出す前に連絡すること』

『可能であれば現場から動かさないこと』

『回収の可否はこちらで判断する』

 

 会議室の空気がわずかに締まった。

 それまでは、漁師や業者が海から引き揚げた物を「どう扱うか」という注文だった。

 だが70年代後半になると、「見つけても勝手に動かすな」「回収するかどうかはこちらが決める」という内容に変わっている。

 

 そして、その翌年の1979年。

 ノース・ケープ海洋調査社が設立され、十数トン級の重量物を海底から引き揚げるためのウインチと補強フレームを備えた船が用意された。

 

 マーティンが作成した大判の整理表には、年代ごとの変化が六つの項目に分類されていた。

『対象物』『地域指定』『形状指定』『位置情報要求』『保存要求』『回収要求』。

 1947年の行では、一番左の『対象物』の欄しか埋まっていない。それが年代を下るにつれて右側の項目が一つずつ埋まり始め、1970年代後半には全ての欄が文字で満たされている。

 

 ライトは表の全体を見渡して、三人に問いかけた。

「これ、最初から答えを知ってた奴の注文に見える?」

 

 ヴィクターが、表の左端から右端へ視線を送った。

「少なくとも、最初の記録と後年の注文では、求めている情報の量がまるで違いますね」

 マーティンも自分の作った表を見下ろした。

「右側の欄は、後の年代になってから埋まっています」

 

 ライトは答えず、表の1952年と1953年の境目へ視線を戻した。

 そこだけは、直前の欄に対応する照会記録がまだ見つかっていない。

 

「エドガーさん。52年に手に入れた湾曲板だけから、翌年に『柱状の大型部材』まで予想できますか?」

 ライトが尋ねると、エドガーは静かに首を振った。

「あの湾曲板の写真と寸法の記録だけからでは……私には難しいでしょうね」

 

 ライトは赤鉛筆を取り、1952年と1953年の間を丸で囲んだ。

 

「それと、ボス」

 エドガーが自分の革鞄から、一冊の薄いノートを取り出した。

「ご指示いただいていた、当時のベルカント側の担当者についても調べました」

 

 ライトが姿勢を正す。

「1952年から53年にかけて、この『H―17』の案件を直接扱っていた仕入れ担当者ですね。名前は分かりましたか?」

「アルバート=ミルズという人物です。当時は四十代後半で、海洋古物や地方競売の買い付けを専門に仕切っていた番頭格でした」

「今は?」

「残念ながら、1960年代の終わりに亡くなっています」

 

 ライトは小さく息を吐いた。三十年近く前の取引だ。当時の中心人物が故人でも不思議はない。

 

「ただ」エドガーはノートを開いた。「当時、そのミルズ氏の下で台帳の整理と連絡業務を手伝っていた事務員が一人、ご存命でした。現在は五十六歳で、ヨークシン郊外で暮らしています。昨日、共通の知人を通じて普通にお会いして話を伺ってきました」

 

 古物業界の古い人脈を使った、無理のない聞き取りだった。

 

「覚えてましたか、H―17のこと」

「ええ、はっきりと」

 エドガーは記録したメモに目を落とした。

「お名前はヘンリー=モリス氏。当時は二十代後半の下働きでしたが、『H―17』のことはよく記憶に残っていたそうです。理由は単純で、『妙な注文ばかり出す上に、金払いだけは異様に良い客だったから』と」

 

 代理購入の手数料を一切値切らない。

 漁網にかかった鉄屑のような品でも、条件に合えば言い値に近い金額で買う。

 目当ての品が何年も見つからなくても、定期的に手数料を払って買付希望票を更新し続ける。

 小さな古物商会の下働きからすれば、忘れようがない上客だったという。

 

「依頼人本人は、どんな人物だったんです?」

 ライトが尋ねると、エドガーは首を横に振った。

「ヘンリー氏は、一度も本人を見ていません」

「一度も?」

「はい。注文や条件の変更は、手紙、電報、あるいは代理人を通じて届いていました。稀に法律事務所を経由して書類が来ることもあったそうですが、依頼主本人が店へ顔を出したことは一度もなく、電話で直接話すこともほとんどなかったとのことです。社内でも最初から最後まで、顧客コードの『H―17』として処理されていました」

 

「徹底してるな。じゃあ、店に来ていた代理人というのは?」

 エドガーはノートのページをめくった。

「そこが少し妙なのです。ヘンリー氏が在籍していた1950年代から60年代前半にかけて、最初にH―17の代理人として店へ現物を受け取りに来ていたのは、四十代くらいの中年男性だったそうです。背広を着た、特に特徴のない事務方のような男だったと」

「その男がずっと窓口を?」

「いいえ。数年後にはその男性は来なくなり、1960年代に入ると、今度は別の女性が代理人として来るようになったそうです」

 

 ライトの眉が動いた。

 さらに横から、マーティンがベルカントの70年代の控えをめくりながら補足した。

「うちの調査で拾った1970年代の受領記録でも、窓口のサインはまた別の名前になっていました。少なくとも三人は入れ替わっています」

 

 50年代の男。60年代の女。70年代の別担当者。

 時代ごとに、ベルカントの店頭へ現れる人間が変わっている。

 

「同じ人じゃないのか」

 ライトが呟くと、エドガーが頷いた。

「少なくとも、店へ来た代理人は複数です。ただ、これだけで依頼主そのものが複数だとは決められません。一人の資産家が、何十年もの間に雇う代理人や法律事務所を変えただけという可能性もありますし、会社や一族、あるいは財団のような枠組みかもしれませんが……現時点では判断がつきませんね」

 

「普通、窓口の人間や担当の事務所がそこまで変わったら、古物商の側では新しい顧客番号を振り直したりしないんですか?」

 マーティンが疑問を口にした。

 エドガーはノートの該当箇所を確認した。

「ヘンリー氏もそこは印象に残っていたようです。通常なら代替わりや窓口変更で別口座にするところを、H―17の案件だけは、代理人が変わってもずっと同じ番号を引き継いで『同一顧客口座』として処理していた、と」

「向こうがそう指定したんでしょうか」ライトが聞く。

「そこまではヘンリー氏の証言にはありません。ただ、ベルカントの台帳上はずっと同じ『H―17』として扱われています」

 

「支払いの方はどうなってる?」

 ライトがマーティンへ視線を向けると、マーティンは会計関連の抜き書きを示した。

「古い記録なので全部は追えませんでしたが、確認できた50年代から70年代の数件については、すべて正常に決済されています。現金の時もあれば、銀行の自己宛小切手の時もあります。代理人が変わっても支払いの遅れは一度もありませんし、金額も当時としてはかなり高額で安定しています」

 

 金に詰まって途中で買い付けを止めた形跡はない。長い間、必要な金を払い続けられるだけの資金力はあった。

 

「じゃあ、H―17って何なんでしょうね」

 ライトが背もたれに体重を預けながら言うと、エドガーは静かに答えた。

「ベルカント側から見れば、『誰が窓口に来ようと、同じ一つの顧客として扱え』という長期契約先だったのでしょうね」

 

 その正体が個人の老富豪なのか、代々引き継がれている家なのか、あるいは別の法人なのかまでは、この紙の山からはまだ浮かび上がってこない。

 

「一度、少し休憩を入れようか」

 ライトが声をかけ、張り詰めていた会議室の空気が少し緩んだ。

 ヴィクターが立ち上がって部屋の隅のポットからコーヒーを淹れ直し、エドガーも資料を閉じた。ライトはカップを受け取り、窓際へ歩み寄って外の通りを見下ろした。

 

 だが、長机の端に座るマーティンだけは席を立たなかった。

 彼はコーヒーに手をつけず、今日集めた資料の中で最も古い一枚──1947年のベルカント内部顧客台帳の複写を、もう一度手元に引き寄せてじっと見つめていた。

 

 数分後、マーティンが首を傾げ、隣の席へ戻ってきたエドガーへその用紙を差し出した。

「あの、エドガーさん。すみません、ここなんですが」

「どこです?」

「1947年の台帳の、『H―17』の顧客コードのすぐ横です。かなり古い筆記体で、小さく何か書き込まれているんですが……文字が潰れていて、私にはうまく読めなくて」

 

 エドガーは眼鏡をかけ直し、ルーペを取り出してその小さな注記を覗き込んだ。

 インクが掠れ、複写の段階でさらに薄くなっている古い走り書き。

 数秒間、文字の形を追っていたエドガーの口から、短い言葉が落ちた。

 

「……『旧帳より継続』、と書かれていますね」

 

 カップを口へ運びかけていたライトの手が止まった。

 ヴィクターもポットを置き、長机の方へ振り返る。

 

「旧帳?」

 ライトが机へ戻りながら聞き返した。

 エドガーはルーペを置き、その細い文字を指先で示した。

「ええ。この1947年の顧客台帳よりも前に使われていた古い帳面から、そのまま契約を引き継いだという意味でしょう」

 

 会議室の中が、すっと静かになった。

 今回見つけた中で最も古い1947年の記録。

 それが『H―17』の始まりではなかった。その時点ですでに、前の帳簿から引き継がれた継続客だったのだ。

 

「前の台帳は?」

 ライトがすぐに尋ねると、マーティンが控えの調査報告書をめくった。

「ベルカント側の記録保管状況については、昨日すでに確認を取っています。……残っていません」

「処分されたのか?」

「はい。1940年代前半以前の古い帳簿の一部が、旧倉庫の浸水被害と、その後の店舗移転の際の整理でまとめて廃棄されたそうです。どの年度の何が残り、何が失われたかも曖昧な状態で、H―17の記録だけが特別に抜き取られたわけではなさそうですが……」

 

 古い商店ではよくある話だった。何十年も前の水害と引っ越しで、古い紙束がまとめて捨てられた。それだけのことだ。

 

「ベルカントの創業はいつだっけ」

「1936年です」マーティンが答えた。

 

 1936年に創業し、1947年の台帳には『旧帳より継続』とある。

『H―17』との取引が始まったのは、1936年から1946年までのどこか。少なくとも三十年以上前で、ライトがこの世に生まれるより遥か前だ。

 

 マーティンは、1947年の台帳コピーを見つめたまま、ぽつりと言った。

「これ……最初は何を探してたんでしょう」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 1947年の時点で残っているのは、『海洋引揚品・来歴不明品』『未知文字または未分類記号を伴うもの優先』という条件だけだ。

 それ以前の注文がどういう内容だったのかは、失われた旧帳を見つけない限り分からない。

 

「ベルカントの創業時の関係者は残っていないのか?」

 ヴィクターが尋ねると、エドガーが少し考えてから答えた。

「創業者はとうに亡くなっています。そのお子さん世代もすでに高齢で、現在のベルカント自体は親族ではない別の経営者へ引き継がれていますね。ただ、創業家の手元に古い私文書や当時の控えが残っている可能性はゼロではありません」

 

 ライトはマーティンが作った横並びの整理表へ視線を戻した。

 紙面の左側にはまだ空白が多く、右へ行くほど記載項目が増えている。

 

 1949年の照会記録。

 1950年末のベレノス東部からの情報。

 1952年の湾曲板。

 1953年以降に増えていく位置記録や保存条件。

 一つずつ資料が積み重なるにつれて、表の空白が埋まっていく。

 

 マーティンは自分の書いた表を端から端まで眺め、小さく息を吐いた。

「ずっと同じ物を探してるんじゃなくて……調べながら、探し方そのものを変えてますね」

 

「そう見えるな」

 ライトも短く同意した。

 そして、赤鉛筆を手に取り、表の中の『1952年』から『1953年』へ移る箇所を丸で囲んだ。

「だけど、ここで何があった?」

 

 ライトは赤い丸を見たまま、しばらく黙った。

 今ある記録では、その一年だけが繋がっていない。

 

 その時、部屋の隅にある内線電話が鳴った。

 ヴィクターが受話器を取り、短く言葉を交わしてからライトへ振り返る。

「港湾担当からです。ノース・ケープの測量船ですが、先週予定通り出港しています。申告海域はベレノス方面。現在も通常の航行速度で活動中とのことです」

 

「そのまま記録だけ続けてくれ。こっちから手は出すな」

 ライトが指示すると、ヴィクターは電話口へそのまま伝えて受話器を置いた。海の上でも時間は動いているが、今はまだ船を止める段階ではない。

 

 ライトは赤鉛筆を机に置き、三人の顔を見渡した。

「次に調べるのは二つだな」

 指を二本立てる。

「一つは、1952年から53年の間に、H―17の側で何が増えたのか。もう一つは、1947年より前のH―17が、そもそも何を注文していたのかだ」

 

「記録の両端を調べるわけですね」とヴィクターが言う。

「真ん中の三十年分は、今日でだいぶ見えてきたからな」

 

 ライトはまずエドガーへ向き直った。

「エドガーさん。1952年にベルカントが落札したあの湾曲板が、その後どうなったか追えますか?」

 ベルカントが買い付けた後、品物はH―17の代理人へ引き渡されているはずだ。もしその際に、外部の金属学者や研究機関、あるいは職人へ分析や鑑定を依頼した形跡がどこかに残っていれば、53年の突然の条件変更の理由に繋がるかもしれない。

 

「当時の古物商や鑑定人の記録も含めて、当たってみます」エドガーが頷く。「あわせて、ベルカント創業家の古い私文書が残っていないかも探ってみましょう」

「お願いします」

 

 次にライトは、若い社員の方を見た。

「マーティン」

「はい」

「H―17関連の注文条件を全部、年代別に一枚へまとめてくれ。その際、変更された文言は要約せずに、原文のまま残しておいてほしい」

 

 要約してしまえば意味は通るが、細かい言葉遣いや専門用語の混ざり方までは消えてしまう。原文のまま並べておけば、途中で注文書の書き手が変わったかどうかまで見えてくるかもしれない。

「分かりました。今日中に作り直します」

 

「ヴィクターは、記録に残っているH―17の代理人を洗ってくれ。50年代の男、60年代の女性、70年代の別担当者。名前やサインから辿れる範囲でいい。生死、職業、所属、それと全員に共通する法律事務所や銀行がないかだ」

「承知しました」

 

 それぞれの分担が決まり、エドガーとマーティンが資料を抱えて退室していく。

 

 ◇

 その日の夜。

 本部の小会議室には、ライトと、残務を片付けていたヴィクターの二人だけが残っていた。

 昼間あれほど机を埋めていた古い帳簿や競売目録はすべて保管庫へ戻され、今の机の上には、マーティンが帰る前に置いていった一枚の注文推移表と、数枚の複写だけが残されている。

 

 ライトは椅子に深く腰掛け、一枚に整理された年表を眺めていた。

 左端の1947年から、右端の1979年まで。

 昼間赤い丸を付けた1952年と1953年の間だけが、今も不自然に空いている。

 だが、ライトの視線はやがて、その空白よりさらに左へと移った。

 

 ライトの視線が、一番左の列──1947年の欄へ戻った。

『H―17』

 その横に添えられた、『旧帳より継続』という小さな注記。

 

 ライトは指先でその文字をなぞった。

「1947年が最初じゃない」

 近くで書類を閉じていたヴィクターが顔を上げる。

「ええ」

「でも、それより前の帳簿はない」

「現時点では、そうなりますね」

 

 ライトは推移表の隣に置かれていた、1947年の顧客台帳の拡大コピーを手に取った。

 マーティンが帰る間際に、「念のため一番古いページだけ大きく焼き直しておきました」と置いていったものだ。

 

 顧客番号『H―17』。

 備考欄に『旧帳より継続』。

 そして、希望品目欄には昼間確認した原文のまま、『海洋引揚品・来歴不明品』『未知文字または未分類記号を伴うもの優先』。その罫線の枠外に、小さな定型の略記が残っていた。

 

『従前条件による』

 

 ライトの指が、そこで止まった。

 もう一度、その文字を見る。

 

「……1947年の条件も、その年に決めたものじゃない?」

 ヴィクターもコピーを覗き込んだ。

「そう読むのが自然でしょうね」

 ライトは『旧帳より継続』と『従前条件による』の二つを見比べた。

 

 それより前の帳簿は残っていない。

 

「ヴィクター」

「はい」

 

 ライトは手にしていた1947年の台帳コピーを、ヴィクターの方へ向けた。

 

「俺たち、“最初の注文”を一枚も持ってないぞ」




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再生リストから第1話から通して聞けるので、作業用・睡眠用にもどうぞ!
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今回だけの追加のあとがき!!!

ちなみに、オリジナル作品も色々書いています!

現代ダンジョン、異能バトル、TS、SFなど、ジャンルはかなりバラバラです(笑)

最近更新している10作品を紹介しますので、気になるものがあればぜひ読んでみてください!

【最近のオリジナル作品】

① 元おっさんの吸血姫は引きこもりたい。
【男→女TS/吸血鬼/怪異バトル/男性との恋愛要素あり】※BL・GLタグあり

② 俺の異能が中華ゲーだった
【キャラチェンジ型可変TS/ガチャ/現代異能】ガチャで引いたキャラに変身して異能のお仕事! ※BL・GLタグあり

③ 現代ダンジョン発生初日。
【現代ダンジョン/ゲーム知識チート/最強ビルド/弟子育成】攻略Wikiの知識で世界を攻略!

④ 派遣社員、うっかり極道の跡目に選ばれる
【現代異能/最強主人公/ヤクザ/勘違いコメディ】※残酷描写あり

⑤ ダンジョン・ドリフター
【現代ダンジョン/SSSスキルコピー/ハクスラ/全米横断】※海外向け作品の日本語版

⑥ TCG能力《創世札典》を手に入れた俺
【TCG能力/現代社会/魔法/チート】治療・未来予知・若返りなど、カード魔法で現代社会を攻略!

⑦ 魔法生物飼育員は今日もかわいいに忙しい
【魔法生物/動物かわいい/飼育/日常】小竜や幻獣たちをひたすら愛でるお話。

⑧ TCG未経験の36歳無職、TCG能力《因果祭典》で異能バトル世界を駆け抜ける
【TCG/デッキ構築/召喚/現代異能バトル】カードゲーム初心者のおっさんが異能バトルに挑戦!

⑨ 未来の崩壊世界に転生したら、職業くじでハンターを引いたので旧文明を漁る
【ポストアポカリプス/転生/廃墟探索/パワーアーマー】崩壊した未来地球で旧文明のお宝探し!

⑩ 35歳社畜、女子高生に吸血鬼だと宣告される
【おっさん主人公/吸血鬼/現代異能/俺TUEEE】※こちらはTSではありません。

※紹介した作品はすべてAI本文利用タグありです。

ジャンルも作風も色々なので、お好みに合いそうなものがあればぜひ!

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