木ノ葉の外れには、地図に載らない家がいくつかある。
里抜けを監視するためでも、罪人を閉じ込めるためでもない。外交の途中で身元を伏せる必要がある者や、結界へ直接通すには危険のある術具を一時的に置くための、ただの古い家だ。
自来也がナルトを連れて入ったのは、そのうち最も里から近い一軒だった。
門は見えない。
しかし森の向こうから吹く風に、木ノ葉で使われる炭の匂いが混じる。
「ここ、きのは?」
荷物を下ろしながら聞くナルトへ、自来也は首を振った。
「まだ外じゃ」
「そと?」
「里のすぐ外。約束したろ。いきなり中へは入らん」
「なんで?」
「お前の周りで起きる変な揺れが、木ノ葉の結界と喧嘩するかもしれんからじゃ」
ナルトは腹へ手を当てた。
この一年で、説明の仕方も変わった。
最初なら「危ないから」で終わらせていた。今は、分かる範囲で理由まで言う。
「オレ、わるい?」
「違う」
自来也は即答した。
「お前が悪いんじゃない。分からんものを分からんまま大勢のいる所へ持ち込まん。それだけじゃ」
「ふーん」
完全に理解した顔ではない。
それでいい。
理解できないところを、大人が勝手に「分かったこと」にしない。それも、この一年で覚えたことだった。
ナルトは部屋を見回した。
六畳ほどの座敷。低い卓。奥に二つの布団。小さな台所。
そしていつものように、旅袋を壁際へ置く。
「出さんのか」
「明日いくかも」
「今日はここじゃ」
「でも明日」
「明日のことは明日決める」
ナルトは少し考え、地図帳だけを取り出した。
旅の間、毎晩やったことを始める。
自来也が現在地を指す。
「ここ」
ナルトが丸を描く。
「きのはは?」
「この辺」
その横へ、もう一つ丸。
二つの丸は指一本分しか離れていない。
「近い」
「近いのう」
「歩ける?」
「余裕じゃ」
「じゃあ、なんで行かない?」
「大人には、近いからこそ急がん方がいい時がある」
「へんなの」
「ワシもそう思う」
言ったところで、外から鳥の鳴き声が三度した。
決められた合図。
自来也の表情が変わる。
「来た」
ナルトの背筋も伸びた。
「だれ?」
「まず会うって言った爺さんじゃ」
「じい?」
「お前、人のことはすぐ爺って言うくせに自分が言われると怒るな」
「じらやはじらや」
「はいはい」
自来也は戸へ向かった。
途中で振り返る。
「ここにいてもいい。一緒に出てもいい」
ナルトは一秒だけ迷い、自来也の袂を掴んだ。
「いく」
「分かった」
戸を開けた。
白い煙が先に入ってきた。
「……外で吸え」
「まだ吸っておらんわ」
猿飛ヒルゼンが立っていた。
火影の装束ではない。
地味な着物に羽織。護衛も見える範囲にはいない。
自来也は、ほんの一瞬だけヒルゼンの顔を見た。
一年分の報告を受け取った男の顔だ。
怒っている。
心配している。
そして、その両方より先に何かを確かめたがっている。
「入れ」
自来也が身体をずらした。
ヒルゼンの視線が、その後ろへ動く。
金色の頭。
青い目。
頬の三本線。
ヒルゼンが息を止めた。
ナルトも止まった。
「……」
「……」
自来也は口を挟まなかった。
ナルトの手だけが、袂を強く握る。
やがて。
「じっちゃん」
小さな声がした。
ヒルゼンの喉が動いた。
「……わしを、知っておるのか」
ナルトは答えず、顔をしかめた。
「ちがう」
「何がじゃ」
「ふく」
「服?」
「ほかげの、じゃない」
ヒルゼンは目を閉じた。
自来也が壁へ背を預ける。
報告書で読むのと、本人に言われるのとは違う。
「お前の知っとるわしは、火影か」
「うん」
「今も?」
「いまも」
「……そうか」
ナルトはヒルゼンをじっと見る。
「ひげ、ながい」
「一年で伸びたわけではないぞ」
「オレのじっちゃん、もっと短い」
「そうか」
「声、おんなじ」
「そうか」
三度目の返事だけが、ひどく掠れた。
ヒルゼンはその場へしゃがんだ。
距離は詰めない。
手も伸ばさない。
「ナルト」
名前を呼んだ。
ナルトの目が大きくなる。
「なんで知ってる?」
「自来也から聞いた」
ナルトが横を向く。
「言った?」
「ああ」
「ぜんぶ?」
「今まで分かったことはな」
「ふーん」
責めるでもなく、またヒルゼンを見る。
「じっちゃん、オレのこと知ってる?」
今度はヒルゼンが答えるまで時間がかかった。
「こちらのわしは、今日初めて会う」
「……そっか」
落胆というより、確認だった。
ナルトは一年で「似ているものが同じとは限らない」ことを覚えている。
町の名前が同じでも、店主が違うことがある。
道が同じでも、橋が新しくなっていることがある。
そして今。
顔も声も同じジッチャンが、自分を知らない。
「でも」
ヒルゼンが続けた。
「お前が知っとるわしのことを、聞いてもよいか」
「なんで?」
「わしも知りたいからじゃ」
「オレのこと?」
「お前のことも。向こうのわしのことも」
ナルトは自来也を見た。
「話したくないことは話さんでいい」
そう言われ、ようやく小さく頷く。
◆
話は尋問にならなかった。
それを一番強く守ったのはヒルゼンだった。
「市場の裏に家があった」
「どんな家じゃ」
「二階」
「誰と住んどった」
「オレ」
「一人か」
「たぶん」
「たぶん?」
「大人、来る。いなくなる」
「名前は」
「知らない」
「飯は」
「あるときある」
「ない時は?」
ナルトは少し考えた。
「買う」
ヒルゼンの指が止まった。
自来也は一年の間に何度も聞いた話なので、今度は顔を変えない。
「わしは?」
「たまに来る」
「何をする」
「飯ある? って」
「それだけか」
「みかん」
「みかん?」
「置く」
ヒルゼンが小さく息を吐いた。
「そうか」
ナルトは湯呑みを持つ。
「じっちゃん、忙しい」
「……そうかもしれんな」
「ほかげだから」
「そうじゃな」
それ以上、自分の向こう側を弁護しなかった。
ヒルゼンには、想像できることがいくつもあった。
九尾を宿した孤児。
里人の感情。
秘密を守るための隔離。
火影としての責任。
だが、それは今のナルトが知っている事実ではない。
勝手に補えば、それは証言ではなく大人の都合になる。
「四代目について、何を知っとる」
ナルトは即答した。
「しんだ」
「どうして」
「でっかいきつね」
「誰から聞いた」
「じっちゃん」
ヒルゼンの目が細くなる。
「お前が生まれた日か」
ナルトは分からない顔をした。
そこまでの因果は知らない。
自来也が助け舟を出す。
「誕生日は十月十日だと覚えとる。それ以上は、自分からは繋げとらん」
「そうか」
ヒルゼンは筆を置いた。
「今日はここまでじゃ」
ナルトが拍子抜けした顔をする。
「もう?」
「腹が減っとるじゃろ」
ちょうどその時、腹が鳴った。
自来也が笑う。
「証言能力が高いのう」
「うるさい!」
ヒルゼンも笑った。
それは、向こう側のジッチャンと同じ笑い方だったらしい。
ナルトが少しだけ笑い返した。
◆
ナルトが昼寝を始めてから、話は別室へ移った。
戸が閉まった瞬間。
ヒルゼンの拳が自来也の頭へ落ちた。
「痛っ!」
「一年じゃぞ!」
「分かっとる!」
「分かっとるなら、なぜ名前まで伏せた!」
「最初の一月は本当に何も分からんかった! 口寄せ一回で空間が裂けたんじゃぞ!」
「その後は!」
「……」
「半年後はどうじゃ!」
「……言えんかった」
怒鳴り返す声が消えた。
ヒルゼンも黙る。
「技術的な理由だけではなかったんじゃな」
「ああ」
自来也は畳を見る。
「偽物だった時、あいつらに見せたくなかった」
「ミナトとクシナか」
「それと」
「何じゃ」
「ワシ自身が、違うって言われるのが怖かった」
ヒルゼンの怒りが、少しだけ形を変えた。
「一年一緒にいたからか」
「最初の三日で情は移っとったかもしれん」
「阿呆」
「知っとる」
「それでも、技術判断が間違いだったとは言い切れん」
自来也が顔を上げる。
「お前の旅帳を読んだ。位相反応は最初の半年、強い時空間術に引かれておる。大結界へ直接入れなかった判断自体は妥当じゃ」
「……そうか」
「じゃが、名前を伏せ続けたのは別じゃ」
「分かっとる」
「ミナトには、お前自身で説明せい」
「そのつもりだ」
「クシナには」
ヒルゼンが一度言葉を切る。
「先にミナトから話させる」
自来也は頷いた。
「一度だけじゃ。後から『実は』を増やすな。分かっとることと分からんことを分けて、全部渡せ」
「分かった」
「それと」
「まだあるか」
「今日、ミナトを連れてくる」
自来也の目が細くなる。
「早くないか」
「一年待った男が言うな」
何も返せなかった。
◆
夕方。
ヒルゼンが帰る時、ナルトは玄関までついてきた。
「じっちゃん」
「なんじゃ」
「また来る?」
ヒルゼンは一度だけ自来也を見る。
「来る」
「いつ?」
「明日か明後日。来る前に知らせる」
ナルトは頷いた。
一年の旅で覚えた約束の形だった。
「じゃあ、また」
「うむ」
ヒルゼンは戸を開ける。
外へ出る直前に振り返った。
「ナルト」
「ん?」
「こちらのわしは、お前を今日知った」
「うん」
「じゃが、今日知ったから、明日も知らんままということにはならん」
ナルトは少し難しい顔をした。
「……明日も知ってる?」
「もちろんじゃ」
それなら分かった。
ナルトが笑う。
「じゃあ、いい」
戸が閉まった。
自来也はその横顔を見た。
一年かけて、自分が教えたことがある。
帰ると言ったら帰る。
また会うと言ったら、次がある。
いなくなる前に、言葉にする。
それを今度は、木ノ葉の大人たちが覚える番だった。