八月三十一日、午後八時十二分。
クジラ島を出発したゴンとキルアは、ヨークシンシティへ向かう途中、小さな港町に立ち寄っていた。
九月一日からヨークシンで始まる世界最大級のオークション。二人の目的は、そこへ出品されるという幻のゲーム――『グリードアイランド』だ。
「明日の朝一番の船に乗れば、予定通りヨークシンに着けるね」
宿を探しながらゴンが言った。
「そうだな。今日はメシ食って、適当に泊まれる場所探して終わり」
キルアが欠伸をする。
「腹減ったなー」
「船降りる前に食っただろ」
「でも歩いたから」
「まだ二十分しか歩いてねーよ」
二人がくだらない話をしながら歩いていると、ゴンがふと空を見上げた。
「今日、月ないね」
「あ?」
キルアも空を仰ぐ。雲は少ない。星も見えている。それでも月だけがどこにも見当たらなかった。
「新月なんじゃね?」
「そっか」
「別に珍しくもないだろ」
「うん。でも真っ暗だなって」
確かに、街灯の少ない港町は普段以上に暗がりが深かった。
二人が再び歩き出そうとした、その時だった。
「……すみません。本当に、勘弁してください……っ」
湿った、情けない細い声。
ゴンが足を止める。キルアも一拍遅れて視線を向けた。
大通りから一本外れた薄暗い路地。その奥に、数人の影が見えた。
「今の聞こえた?」
「ああ」
ゴンは既に路地へ向かって足を向けていた。
「やっぱ行くよな、お前」
キルアもため息をつきながら後を追う。
路地の奥には五人の男がいた。派手な髪色、革ジャン、ジャラジャラ鳴るチェーン。いかにもガラの悪そうな不良たちだ。
そして、その中心。
一人の男が壁際に追い詰められていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
長く伸びたボサボサの黒髪。分厚い眼鏡。猫背。少し太った冴えない体型。よれよれのシャツの背中には、身体に不釣り合いなほど巨大なリュックサックを背負っている。
強そうな要素を探す方が難しい男だった。
「だからよォ」
ヤンキーの一人が男の胸ぐらを強引に掴み上げる。
「金ねェなら、そのバカでかいリュック置いてけって言ってんの!」
「いや……これは、本当に困るんですよ」
「あ?」
「大事な……資料が入ってまして……」
「知るかよバカが!」
ドカッと鈍い音が響き、男の腹に拳がめり込んだ。
「ぐぇっ!?」
男は蛙がつぶれたような情けない声を出し、地べたに転がった。衝撃で分厚い眼鏡が飛んでいく。
ゴンの表情から冗談の色が消えた。
「ねえ」
五人が一斉に振り返る。
「その人、嫌がってるよ」
「……何だ、このガキ」
ゴンはまっすぐ男たちを見据えていた。
「もうやめなよ」
「ガキは引っ込んでろ!」
血気盛んな一人がゴンへ飛びかかる。後ろで見守っていたキルアがだるそうに肩をすくめた。
「明日の船、早いんだからさ。手短にしろよ」
「うん」
「何ゴチャゴチャ言って――」
殴りかかってきた男の拳は空を切り、次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
「なっ――」
残る四人が動くより早く、キルアの姿がブレる。
一人。二人。三人。
何が起きたのか理解する間もなく、路地に重い倒地音が連続して響いた。
最後の一人だけが腰を抜かして残された。ゴンがニコッと笑う。
「まだやる?」
男は顔を青ざめさせ、悲鳴を上げながら仲間を引きずって逃げ去っていった。
「大丈夫?」
ゴンが倒れている男へ手を差し出す。
だが、男は地面を四つん這いになって探っていた。
「眼鏡……僕の眼鏡……どこですか……」
「あ、これ?」
「それです!」
ゴンが拾って渡すと、男は慌てて眼鏡をかけ、ようやくゴンの顔を捉えた。
「…………」
突然、男はゴンの手を両手で激しく握りしめた。
「た、助かったぁぁぁ……!」
「わっ!」
「本当に殺されるかと思いましたよ! 財布を渡したのにリュックまで寄越せって言うんですよ!? 酷くないですか!? そもそも五人で一人を囲むってどういう教育受けてるんですかね!?」
「……元気じゃん」
キルアが冷ややかな視線を向ける。男がハッと振り返った。
「いやいや、元気じゃないですよ!」
立ち上がろうとするが、
「うっ……!」
腹を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
キルアが呆れたように鼻を鳴らす。
「やっぱ弱ぇ」
「面と向かって言います!?」
ゴンが心配そうに覗き込む。
「怪我してるよ。宿で冷やした方がいいんじゃない?」
「……この程度なら大丈夫です。慣れてますから」
「さっき立てなかったじゃん」
「…………」
「一緒に来る?」
男がゴンを見る。あまりにも疑いを知らない澄んだ瞳だった。
「……いいんですか?」
「うん!」
即答だった。男は少しだけ言葉を失い、ぽつりと呟いた。
「……変わった子ですね」
「そう?」
「かなり」
「お前が言うなよ」
キルアがつっこむと、男は「それもそうですね」と苦笑した。
その足元。
街灯の光に引き引き伸ばされた男の影が、ほんの僅かに、まるで生き物のように蠢いたような気がした。
だが、気にする者は誰もいなかった。
◇
午後八時五十六分。
三人は港近くの賑やかな食堂にいた。
「つまり、君たちはヨークシンへ?」
「うん!」
ゴンが大きな肉を頬張りながら答える。
「明日の朝一番の船で行くんだ」
「奇遇ですね。僕もですよ」
「本当!?」
「ええ」
キルアは向かいに座る男をじっと観察していた。
男の名前はレオン。
本人によれば『ハンター』らしい。
その言葉を聞いた時、キルアは思わず自分の耳を疑った。
(ハンター……? こいつが?)
「弱すぎるだろ」
キルアが直球で言うと、レオンはむっとした顔をした。
「ハンター全員が武闘派だと思わないでください。世の中には学術系や発掘専門のハンターだってたくさんいるんです」
「じゃあ何ハンターなんだよ?」
「……秘密です」
「怪しい」
「ハンターには守秘義務が多いんですよ」
レオンはそう言って、運ばれてきた料理へ手を伸ばした。巨大なステーキに焼き立てのパン、スープ。どれもかなりのボリュームだが、レオンの胃袋へ吸い込まれていく。
ゴンの目が輝いた。
「すごい食べるね!」
「こう見えて燃費が悪いんですよ。エネルギーを食う体質でして」
「俺も追加しよ!」
「張り合うなよ」
キルアは呆れながら、もう一度レオンの全身に視線を走らせた。
(……おかしい)
キルアの頭の中に小さな違和感が芽生える。
どう見ても弱い。それは間違いない。
念能力者特有の『纏』の気配すらまともに感じられない。それどころか、生命力そのもの――オーラの総量が、一般人と比べても異常なほど小さい。まるで体内のオーラがスカスカに抜け落ちているかのような違和感。
ハンター試験という過酷な門を突破した人間には到底見えなかった。
「ライセンス見せて」
「え?」
「ハンターなんだろ? ライセンス見せてよ」
「信用ないですねぇ」
レオンは困ったように笑いながら、ポケットからカードを取り出した。
キルアがひったくるように受け取り、指先で感触を確かめる。偽造防止の特殊加工。質感。
(……マジで本物じゃん)
「ね? 本物でしょう」
「……盗んだ?」
「何でそうなるんですか! ちゃんと自力で合格しましたよ!」
ゴンが身を乗り出す。
「レオンもハンター試験受けたんだ! どんな試験だった!?」
「長くなりますよ。語り明かすことになります」
「聞きたい!」
楽しそうに会話する二人を見ながら、キルアの観察眼はレオンの背元にある巨大なリュックサックに向けられていた。
さっきヤンキーに殴られていた時。
レオンは自分の身体がボコボコにされても、あのリュックだけは必死に抱え込み、決して手放そうとしなかった。
(……何が入ってんだ?)
気になったが、今尋ねても「秘密です」と逃げられるのは目に見えていた。
◇
午後九時三十七分。
食堂を出て、夜風にあたる。ゴンがふと夜空を見上げた。
「やっぱり月、ないね」
歩いていたレオンの足が、ピタリと止まった。
「……ええ」
「新月だって。キルアが言ってた」
「……そうですね」
ほんの少しだけ。
レオンの声に、深く重い響きが混ざった気がした。ゴンが首を傾げる。
「レオンって、月が好きなの?」
「好きですよ」
「なんで?」
レオンは立ち止まったまま、静寂に包まれた夜空を見上げた。
星の瞬き。街の暗闇。どこにも存在しない月。
「昔から、夜は好きなんです。……静かですし」
ぽつりと、溢れるように言葉が漏れる。
「……人と一緒にいても、怖がられませんから」
「え?」
ゴンが聞き返す。レオンはハッとしたように振り返り、いつもの冴えない笑みを浮かべた。
「冗談ですよ」
ゴンは不思議そうにしていたが、キルアだけは眉をひそめた。
(……今の、冗談のトーンじゃなかったぞ)
「それより」とレオンが強引に話題を変える。「お二人はヨークシンで何をするんですか?」
「『グリードアイランド』ってゲームを探してるんだ」
ゴンが答えた瞬間、レオンの目線がわずかに揺れた。
「……グリードアイランド?」
「知ってるの!?」
「あ……いや、名前くらいは。かなり高額で取引されている伝説のソフトだと聞いています」
「オークションに出るんだって! 絶対手に入れるんだ!」
「なるほど……。手に入るといいですね」
レオンはゴンをじっと見つめ、何かを言いかけ——結局、口を閉ざした。
(今、絶対何か知ってたな……)
キルアの警戒心が一歩深まる。
情けない。弱い。怪しい。
そして、時折覗かせる底の知れない違和感。
この男、一体何者だ?
◇
午後十時十一分。
宿屋。あいにく部屋は二つしか空いていなかった。
ゴンとキルアが一室。レオンが隣の部屋に泊まることになる。
「じゃあ明日の朝!」
廊下で、ゴンが元気よく言った。
「一緒に船に乗ろうよ。同じヨークシンに行くんでしょ?」
「え……? いや、僕は足手まといになりますし……」
「いいじゃん! 一緒に行こうよ!」
戸惑うレオンに、キルアが横から冷ややかに言った。
「嫌なら別に断れば?」
「いえ……」
レオンはゴンのまっすぐな瞳を見つめ、やがて降参したように息を吐いた。
「では……お邪魔でなければ、ご一緒させてください」
「うん! おやすみ、レオン!」
◇
午後十一時四十八分。
隣の部屋。レオンはベッドに横たわることもなく、机に向かっていた。
大きなリュックから取り出されたのは、革張りの古い手帳。
ページをめくると、手書きのスケッチや読めない古代文字、奇怪な紋様がびっしりと書き込まれている。
レオンはあるページで手を止めた。
そこには、太陽と月が対になったような古い浮き彫り(レリーフ)のスケッチが描かれていた。
「…………」
窓の外を見やる。月はない。ただ漆黒の闇が広がっている。
レオンは自分の右手をかざし、意識を集中させた。
――パチ……ッ。
掌の上に僅かに現れたオーラ。だがそれは今にも消えそうなほど揺らぎ、弱々しかった。
「……はは、今日は本当に酷いな」
自嘲気味に笑う。
昼間なら。太陽の下なら。
あんなチンピラなど、欠伸混じりに一掃できる。
だが今夜は新月。彼にとって一月の中で最も『存在が希薄になる』時間帯だ。
「子供に助けてもらうなんて……いつ以来だろうな」
疲れたようにベッドへ腰掛ける。
すると。
部屋の隅の影が、ゆらりと立ち上がった。
レオンは驚かない。
暗闇の中からぬっと現れたのは、小さな銀色の狼のような輪郭。実体を持たない念の塊――《月喰み(フェンリル)》だ。
念獣は静かに歩み寄ると、レオンの膝の上にその頭を乗せた。
「……大丈夫ですよ」
レオンは撫でる。その手触りは柔らかく、温かい。
「怪我なんてしていません。……本当に」
狼は何も言わず、ただ静かにレオンの体温を確かめるように寄り添っている。
「……あなたは昔から、心配性ですね」
寂しげな笑みを浮かべながら、レオンは念獣の頭を撫で続けた。
月はない。
けれど、今夜も彼は完全な一人ではなかった。
◇
九月一日。
午前五時三十九分。
水平線の彼方が、薄紫色から黄金色へと染まり始める。
レオンは自然と目を覚ました。目覚ましは鳴っていない。肉体が、細胞が、天の動きを感知して目を覚ますのだ。
「…………」
窓から、朝日の最初のひとすじが差し込む。
その光がレオンの肌に触れた瞬間。
ズ……ッ。
静かな波動が走った。
昨夜のスカスカで弱々しかったオーラが、微かに、だが確実に体内で熱を持ち始める。
レオンは自分の両手を見つめた。
「……また今日も、始まるのか」
嬉しそうでも、嫌そうでもない。
ただ、長年付き合ってきた運命を受け入れる声。
◇
午前六時十三分。
「ゴン、起きろ」
キルアがゴンを揺り動かす。
「んー……? あと五分……」
「レオンがいない」
「え!?」
ゴンが跳ね起きた。隣の部屋を開けると、既に扉は開いており、あの巨大なリュックも消えていた。
「先に港に行ったのかな!?」
「行ってみよう」
二人は急いで支度を済ませ、朝の港へと走った。
朝日に照らされる波止場。出航準備を進める巨大な連絡船の前に、その男は立っていた。
「あ! いた! レオン!」
ゴンが手を振りながら駆け寄る。レオンが振り返った。
「おはようございます、二人とも」
同じ男だ。
ボサボサの長髪。分厚い眼鏡。背中には大きなリュック。
なのに。
「…………」
後ろを走っていたキルアが、突如として足を止めた。
(……なんだ?)
ゾクッと、背筋を走る悪寒。
何かが違う。昨夜と、明確に何かが違う。
レオンは朝日を背に受けて立っていた。
よく見ると、昨夜あれほど酷かった猫背が、ほんの少しだけ伸びている。
「よく眠れましたか?」
「うん! バッチリ! レオンは?」
「まあまあですね」
会話の内容は普通だ。笑顔も昨夜と同じ冴えないおじさんの笑顔だ。
それなのに、キルアの暗殺者としての本能が警鐘を鳴らしていた。
(……オーラだ)
キルアは目を細める。
(増えてる……? いや、気のせいか……? ほんのわずかだ。だけど、昨夜感じたあの『スカスカな感じ』が消えてる……)
キルアは空を見上げた。
昇り始めたばかりの、赤い太陽。
そして再びレオンを見る。
「キルア君? どうかしましたか?」
「……いや。なんでもねーよ」
気のせいかもしれない。体調の差かもしれない。
まだ判断するには情報が少なすぎた。
「船に乗ろう! ヨークシンへ出発だ!」
ゴンが一番乗りでタラップを駆け上がっていく。
「あ、待てよゴン!」
キルアも後を追う。レオンは二人の元気な背中を見送り、ふっと優しく目を細めた。
「元気な子たちだ……」
そう呟き、レオンも歩き出す。
太陽が、少しずつ、確実に空高くへと登っていく。
午前六時十九分。
レオンの体内で渦巻くオーラもまた、太陽の軌跡を追うように――誰にも気づかれないほどゆっくりと、そして確実に膨らみ続けていた。
キルアは船の上から、もう一度だけレオンの背中を振り返った。
この時のキルアは、まだ何も知らなかった。
午前七時。
午前八時。
午前九時。
太陽が天頂へ向かうにつれて、この冴えない男から「弱さ」が剥ぎ取られていくことを。
そして正午。
太陽が最高地点に達した時、人類の領域を超える『怪物』がその姿を現すということを――。