真夏の妖怪の山。

いつもと変わらない一日のはずだった。

後輩である犬走椛をからかう射命丸文と、それに振り回される椛。
しかし、うだるような暑さの中で積み重なった些細な違和感は、やがて二人の関係を静かに変えていく。

「文さん。少し、黙っていてください」

それは、いつもの椛から出る言葉ではなかった。

絶対的だったはずの主従関係が、少しずつその形を失っていく。

真夏の妖怪の山を舞台に描く、射命丸文と犬走椛の一日。

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本作を開いていただき、誠にありがとうございます。

うだるような真夏の妖怪の山。
いつも通り後輩をからかう烏天狗と、限界を迎えた白狼天狗。
日常の地続きにある濃厚な熱気が、二人の絶対的な主従関係を静かに狂わせていく――そんな中編小説です。

本作は、私自身の文学的な表現実験・文章表現の実験としても執筆しています。
特に、地の文による空気感や人物の心理、感覚の描写をどこまで濃密にできるか、また、普段の「二次創作らしい物語」とは少し異なる筆致で、既存のキャラクターを描くことができるかを試みています。

そのため、物語の展開だけでなく、文章そのものの表現にも目を向けていただければ幸いです。

※本作は「射命丸文×犬走椛」の百合二次創作です。
※物語の中盤以降、R-15程度の濃密な性愛描写、甘噛み・引っ掻きによる軽微な流血描写、および精神的な主従逆転(攻守逆転)の要素を含みます。苦手な方はご注意ください。
※地の文、心理描写、官能描写をかなり分厚く、文学的な筆致を目指して執筆しております。じっくりとお楽しみいただければ幸いです。


烏と白狼

天を衝く妖怪の山が、まるごと一つの巨大な鋳型に変じ果てたかのような、酷烈極まる盛夏の正午であった。

大気を満たすのは、濃密な湿気と、網膜をじりじりと灼くような白光の暴力。草木は生気を失ってダラリと項を垂れ、遠くの尾根は、沸き立つ陽炎の向こう側で泥のように歪んでいる。耳を劈くほどの蝉時雨は、もはや個々の虫の鳴き声ではなく、山の皮膚そのものが立てる悲鳴のようであった。

「……はぁ、っ、……ふぅ……」

大樹の騒がしい木陰に身を潜め、犬走椛は白直垂の襟元を不作法に押し広げていた。

朝方からの山邏——侵入者を警戒する果てなき巡回は、この猛暑によって、文字通りの肉体的拷問へと変貌していた。普段であれば鏡のように端正な彼女の横顔は、今は朱を流したように火照り、額から顎のラインへと、絶え間なく大粒の汗が伝い落ちていく。

妖怪とはいえ、その本質に狼の血を引く身だ。体温調節のために小さく開かれた唇からは、熱い呼気が断続的に漏れ、頭上の白い獣耳が、不快な熱風を避けるように力なく伏せられている。

「冷たい、水……。いや、今は、木陰の泥にでも、潜り込みたい……」

生真面目な彼女にしては珍しく、独り言に弱音が混じった。佩いた刀の重みすら、今は肉体を地面へと引き摺り込む呪いの重石に思える。

その時、死に絶えた大気の中で、不自然なほど涼やかな、そして明確に「悪意」を孕んだ風が、椛の鼻腔をくすぐった。濡れた髪を揺らす、どこか墨と紙の匂いが混じった風。

「あやや?これは見事な茹で犬が一匹。山の治安を守る白狼天狗ともあろうお方が、このような日陰で舌を出してへばっているとは、文々。新聞の格好のネタになりそうですねぇ?」

樹上から降ってきたのは、鈴を転がすような、しかし同時に神経を逆撫でする軽妙な声だった。

椛が 仰ぎ見るより早く、黒い羽を羽ばたかせ、一人の烏天狗がふわりと地面に着地した。射命丸文である。

彼女は、この酷暑の中にあっても、まるで涼風そのものを身にまとっているかのように涼しげだった。手にした葉団扇を優雅に揺らし、切れ長の瞳を悪戯っぽく細めている。その佇まいは、汗まみれの椛とは対照的に、どこか憎らしいほど完璧だった。

「あ……文様……」

椛は慌てて乱れた襟元を正し、膝をつこうとしたが、容赦ない立ちくらみが彼女の視界を暗転させた。ぐらり、と傾いた身体。

「おっと。危ないですね」

文が素早く足を踏み出し、椛の肩を支えた。

その瞬間、文の指先から伝わる驚くほどの冷たさに、椛は小さく息を呑んだ。同時に、文の鼻腔には、普段の凛とした佇まいからは想像もつかない、汗ばんだ椛の「生命の匂い」が飛び込んできた。熱を帯びた若い獣の、生々しい匂い。文の胸の奥で、サディスティックな歓喜が小さく鎌首をもたげた。

「……申し訳、ありません。取り乱しました、文様。山邏の途中で、少々、暑さにやられ……」

この時の彼女は、まだ自分が自分でなくなりつつあることに気づいていなかった。

暑さそのものが、彼女を狂わせたわけではない。

ただ、普段ならば無意識のうちに働いている「ここまでは許す」「これ以上は駄目だ」という幾重もの抑制が、疲労によって少しずつ緩んでいた。

それでも、まだ大丈夫だった。

文の前では、いつもの椛でいられる。

――少なくとも、彼女自身はそう思っていた。

「分かっていますよ。いくら頑健な椛とて、この日差しでは毛皮が焦げてしまいます。どうです?私の書斎へ来ませんか。あそこなら日差しも遮られますし、何より、井戸水で冷やした最高の麦茶がありますよ」

文は、まるで迷える子羊を導く聖者のような微笑を浮かべていた。だが、その瞳の奥には、獲物を罠に誘い込む猟師の狡知がギラりと光っている。

文の頭の中にあるのは、純粋な慈悲などでは断じてない。締切に追われ、足の踏み場もなくなったあの呪わしい書斎。そこへ、この真面目で扱いやすい部下を連れ込み、涼を餌にして書類整理を押し付けてやろうという、完璧な計算であった。

しかし、それ以上に。

暑さで思考能力を失い、完全に無防備になっている椛を、自分のテリトリーで好きなだけ「からかい、弄んでみたい」という、自覚的な悪ふざけの欲求が勝っていた。

「書斎、ですか……?ですが、私はまだ、持ち場の巡回が……」

「堅いことを言わないの。上司である私が、これは必要な休息であると許可しているのです。さあ、行きましょう。このままここにいたら、本当に干物になってしまいますよ?」

文はそう言うと、拒絶の隙を与えぬまま、椛の細い手首を掴んだ。

その手のひらの冷たさが心地よくて、椛はつい、抵抗する力を失ってしまう。

「は、はい……。では、お言葉に、甘えさせていただきます……」

規律を重んじる白狼の理性が、真夏の熱気と、文の差し出した甘い誘惑の前に、最初の一歩を踏み外した瞬間であった。

文の書斎は、山の斜面に半ば埋め込まれるように建てられた、古い木造の私邸の奥にあった。

確かに直射日光は遮られていた。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、椛は別の意味で息を詰まらせることになった。

「これは……」

「いやぁ、少々、資料の整理が滞っていましてね。まあ、適当に座ってくださいな」

適当に、と言われても不可能な話だった。

十畳ほどの室内には、文字通り天井に届かんばかりの古い新聞、取材ノート、出所不明の古文書、そして書き損じの原稿用紙が、無秩序な山となって乱立していた。夏の湿気を吸った紙の匂いが、埃っぽく部屋に籠もっている。中央にある大きな文机も、インク瓶と乱雑な書類で埋め尽くされ、壁際の寝台だけが、辛うじてその形を保っている状態だった。

文は約束通り、井戸水で満たされたガラスの器に、濃い茶色の麦茶を注いで椛に手渡した。

「さあ、遠慮せずに」

「あ……ありがとうございます」

 椛は器を受け取ると、我慢できずに一気に喉を鳴らして飲み干した。冷気へ。五臓六腑に染み渡る感覚に、ふぅ、と長い吐息が漏れる。喉元を流れる液体の動きに合わせて、白い首筋が艶やかに上下する。

文は机の端に腰掛け、細い足を組みながら、その様子をじっと眺めていた。

「生き返りましたか?」

「はい……文様。本当に、助かりました」

「それは良かった。さて、冷たいもので喉を潤し、体力も回復したところで、椛」

文の口調から、先ほどまでの「優しい先輩」の響きが消え、食えない記者のそれに切り替わった。彼女は机の上の書類の山を、愛用の葉団扇でトントンと叩く。

「人間という生き物は『ただより高いものはない』と言うそうですよ。分かっていますね?その素晴らしい麦茶の代償として……この右側の、東の麓の取材資料の年代別整理、手伝ってくださいな」

「……え?」

椛の耳が、ぴくりと跳ね上がった。騙された、という落胆が、彼女の大きな瞳に露骨に浮かぶ。

「文様、やはりこれが目的だったのですか……?」

「目的だなんて人聞きが悪い。私は親切心で涼しい部屋と麦茶を提供し、貴女はそれに労働で報いる。天狗の社会における、極めて健全な等価交換、あるいは美しい主従の助け合いです。さあ、時間はたっぷりあります。今日中に終わらせましょうね」

文は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうに笑って、椛の前にドサリと分厚い紙の束を置いた。

椛は深くため息をついた。文がこういう時の交渉において、絶対に折れないことを知っている。それに、一度部屋に入ってしまった以上、いまさら外の地獄のような熱気に戻る勇気もなかった。

「……分かりました。整理すれば良いのですね」

「よろしい。さすがは私の優秀な後輩です」

二人は文机の前に並んで座り、作業を開始した。

閉め切られた室内は、陽の光こそ遮られているものの、風が通らないために、別の種類の濃厚な熱がじわじわと蓄積されていく。紙を捲るたびに、かすかな衣擦れの音と、カサカサという乾いた音が響く。

はじめのうちは、静かに作業が進んでいた。椛は生真面目な性格そのままに、文字が書き殴られた原稿を日付順に、寸分の狂いもなく揃えていく。

それから、どれほどの時間が経っただろう。

気づけば、先ほどまで頭上から降り注いでいた真昼の光は、障子越しにも分かるほど柔らかなものへと変わっていた。蝉の声も、いつの間にか遠くなっている。

麦茶を飲んだ直後には確かに引いていた汗も、再び額に浮かび始めていた。涼しいと思って入ったはずの書斎が、今では外とは別の意味で息苦しい。

椛は小さく息を吐いた。

それでも、まだ仕事は終わっていなかった。

そして文は、その様子を、先ほどからちらちらと横目で観察していた。

至近距離で見る椛は、やはりどこか、いつもと違っていた。

冷たい麦茶を飲んだとはいえ、室内の熱気で、再び彼女の肌には薄い汗の膜が張り始めている。直垂の白い生地が、汗を吸って微かに透け、その下にある健康的な、しかし確実に女性のそれである柔らかな肩のラインを仄めかしていた。

そして何より、真面目に書類を見つめるその横顔、小さく結ばれた唇が、文の悪戯心を激しく刺激した。

少し、突ついてみましょうか……。

文は静かに葉団扇を持ち上げると、言葉をかける代わりに、椛の白く尖った獣耳のすぐ後ろへと、優しく、しかし執拗に風を送った。

「っ……!?」

椛の身体が、電流が走ったかのように撥ねた。耳が激しく前後に震え、手にした書類が指先から滑り落ちる。

「あ、文様!?今、何を……」

「おや、どうかしましたか? 暑そうでしたから、私の特別な風で、涼ませてあげようと思ったのですよ」

文はわざとらしく小首を傾げ、至近距離から椛の顔を覗き込んだ。その距離、互いの睫毛が触れ合わんばかり。文の瞳には、明らかな愉悦の光が灯っている。

「ひ、必要ありません!風を当てられると、手元が狂います」

「冷たいですねぇ。せっかくの先輩の好意を無下にするなんて。それとも……ここ、弱いのですか?」

文はさらに距離を詰めると、今度は風ではなく、自身の冷たい指先を、椛のうなじの、髪の生え際へとそっと滑らせた。

「ひゃ……っ、あ、ん……!」

椛の口から、自身でも驚くような、情けない甘い悲鳴が漏れた。

冷たい指先が触れた場所が、まるで火をつけられたかのように熱く、激しく拍動を始める。椛は両手で自身の首元を隠すようにして、椅子ごと文から飛び退いた。その顔は、先ほどの暑さによる赤みとは全く違う、鮮烈な羞恥の赤に染まっている。

「な、何を、なさるのですか!不躾です!」

「ふふ、やっぱり。椛は本当に、分かりやすいですねぇ」

文は声を立てて笑った。

怒りと恥ずかしさで胸を激しく上下させ、涙目で自分を睨みつけてくる部下の姿。それが可愛くて、愛おしくて、たまらない。文は机の上に肘をつき、手顎を乗せて、さらに挑発的な笑みを深める。

「そんなに真っ赤になって怒らなくてもいいでしょう? ほんのスキンシップですよ、ス・キ・ン・シ・ッ・プ。それとも何ですか?白狼天狗の警備部隊は、上司にちょっと触られただけで、そんなに淫らな声を出すよう教育されているのですか?」

「なっ......!み、淫らなどと……っ!」

椛の言葉が詰まった。

規律正しく、生真面目であることを誇りとして生きてきた彼女にとって、文のその言葉は、プライドの根幹を揺るがすような侮辱に近い。だが、実際に自分が、触れられただけで妙な声を上げてしまったのは事実だった。その事実が、さらに彼女の羞恥心を加速させ、逃げ場のない怒りへと変わっていく。

「私は、真面目に仕事を……っ」

「はいはい、真面目真面目。でもね、椛。その真面目すぎるお顔を見ていると、どうしても、もっと困らせてみたくなるのが……私の悪い癖なんですよ」

文はそう囁くと、ゆったりとした動作で椅子から立ち上がった。

その足取りは、まるで追い詰めた獲物の周囲を回る黒い捕食者のよう。室内のじっとりとした熱気が、文の動くたびに揺れ、紙の匂いと共に、二人の距離を確実に狂わせていく。

部屋の四隅に淀む熱気は、時間の経過とともに重油のような粘度を帯び、二人の皮膚を執拗に這い回った。

遠くで鳴り響く蝉時雨は、もはや単なる昆虫の求愛の合唱ではなく、大気そのものが高熱にうなされて発する地響きのごとき連続音となって、鼓膜の奥へと絶え間なく楔を打ち込んでくる。外光を遮る障子の白い紙は、ただひたすらに昼の凶暴な熱を吸い込み、巨大な行灯のように室内をじっとりと炙り続けていた。

カサ、と乾いた和紙の擦れる音が、沈黙の底で不気味なほど大きく響く。

犬走椛の手元は、先ほどから完全にその正確性を失っていた。文字の羅列が網膜の上で陽炎のように揺らぎ、意味を持たない黒い染みへと霧散していく。脳髄の奥が、沸騰した泥のように重く熱い。

……私は、何を、しているのだろう……。

手にした古びた取材ノートの端が、自身の指先から滲み出た汗によって、じわりと不名誉な形に変色していくのを見つめながら、椛は胸の奥で渦巻く、名状しがたい苦悶に身を焦がしていた。

それは単なる暑さによる疲弊ではなかった。規律、忠誠、実直——これまで自身を形作ってきた堅牢な白狼天狗としての倫理の骨組みが、この閉ざされた空間の熱と、隣に座る上司の存在によって、内側からみしり、みしりと音を立てて軋み、歪んでいくのを感じていたからである。

首筋を伝う一滴の汗が、鎖骨の窪みへと滑り落ちる。そのかすかな不快感さえ、今の椛にとっては、肉体の奥底に眠るおぞましい「獣の情動」を呼び覚ます呼び水でしかなかった。

「……文様」

掠れた声を絞り出す。それは上司への呼びかけというよりも、今にも決壊しそうな己の理性を繋ぎ止めるための、悲痛な祈りに近かった。

「おや、どうしました、椛?もう手が止まっていますよ。まさかその程度の作業で、白狼の精鋭が音を上げるわけでは決していりませんよねぇ?」

 文は、手にした筆の先を唇に当て、くすくすと意地悪く笑った。

彼女の白い小袖の襟元からは、汗一滴すら覗いていない。その白磁のような肌は、むしろ夏の陽光を撥ね退ける冷徹な障壁のようであり、その完璧な美しさが、椛の胸のなかに「劣等感」と「独占欲」の入り混じった、毒々しい感情の澱を沈殿させていく。

文にとって、この時間は極上の娯楽に過ぎなかった。

締め切りという現実の忘却、そして何より、普段は自分に対して鉄の規律をもって接してくる堅物な後輩が、自分の言葉一つ、仕草一つで、言葉を失い、頬を染め、戸惑う。その主従の境界線を指先でなぞるような危うい遊戯が、文の退屈な日常に鮮烈な色彩を与えていた。

「……いいえ。ただ、少々、空気が、重く……」

「そうですね。風が通りませんから。では」

文はそう言うと、静かに立ち上がり、椛の背後へと回り込んだ。

文の衣擦れの音が、畳の上に小さな陰影を描く。椛の背中に、目に見えない巨大な網が被せられたかのような、圧倒的な圧迫感が押し寄せた。

「私の風を、もう一度、差し上げましょう」

耳元で囁かれた声は、冷たい氷片のようでありながら、椛の鼓膜を狂おしいほどに愛撫した。

次の瞬間、文の手にする葉団扇が、緩やかに、しかし確実に、椛の項に向けて一陣の風を送り込んだ。

ひゅう、と細い風の音が部屋の静寂を切り裂く。

風は、汗に濡れて肌に張り付いていた直垂の隙間へと、滑り込むように侵入した。それは涼しさをもたらすためのものでは断じてなく、皮膚の感度を極限まで跳ね上げるための、執拗な暴力であった。

「っ……、あ……」

椛の背筋が、意思に反して弓なりに強張った。

頭上の白い獣耳が、激しく不規則に痙攣する。衣服の繊維が、汗ばんだ肌と擦れ合うその微細な摩擦音が、頭髄のなかで爆音となって鳴り響いた。

「ふふ、本当に良い反応をしますね。風が気持ちいいですか?それとも……」

文は、椛の苦悩など露ほども知らず、ただ自身の嗜虐心を満足させるために、さらにその細い指先を動かした。

文の冷ややかな人差し指が、椛の右の獣耳の根元、柔らかい産毛が密集する境界へと、そっと触れた。

それは、言葉という理性の衣服を剥ぎ取るための、決定的な一撃だった。

「ひゃ……っ! や、やめて……っ、文、様……っ!」

椛は机に両手を突き、崩れ落ちるようにして身を震わせた。

敬語を維持しようとする理性の糸が、ブツリと音を立てて千切れていく。荒くなった呼吸のせいで、胸元が大きく波打ち、直垂の隙間から、これまで隠されていた未成熟ながらも肉感的な胸の膨らみが、文の視界に無防備に晒された。

「おや、おや?『やめて』ですか?上司に向かって随分な口の利き方ですねぇ、椛」

文は、獲物が罠の深部へと足を踏み入れたことを確信し、その艶やかな唇を、椛の震える耳元へとさらに近づけた。

文から漂う、微かな、しかし抗いがたい清潔な墨の香りが、椛の理性を完全に麻痺させていく。

「でも、貴女の身体は、そんなに嫌がっているようには見えませんよ?ほら、ここ、こんなに熱くなって、ビクビクと震えて……。本当は、もっと触ってほしいのでしょう?」

文の言葉は、冷徹な刃となって椛の精神の最も柔らかい部分を抉った。

文はただの「悪ふざけ」として、いつものようにからかっているだけなのだ。自分がどれほど、その指先一つに狂わされ、どれほど不敬で、淫らで、いけない想いを胸の奥で肥大化させているかなど、この傲慢な烏天狗は何も知らないのだ。

知らない……。文様は、何も分かっていない……。

椛の喉の奥から、言葉にならない、しかし確実に「獣」のそれである、低く濁った唸り声が漏れ始めた。

視界が、自身の流す汗と、急激に沸き上がった情念の熱によって、真っ赤に染まっていく。

真面目であることの代償として、心の檻に閉じ込めていた白狼の野生が、文の終わりのない挑発によって、ついにその檻の鉄格子を噛み砕こうとしていた。

迫り来る決壊の足音が、遠くの蝉時雨と重なり合って、室内の空気を致命的なまでに沸騰させていく。

文は、未だその破滅的な変化に気づかぬまま、満足げな笑みを浮かべて、しなやかな指先が、白直垂の硬い麻の繊維を微かに擦り、椛の細い肩へと触れた。

その瞬間、文は自身の掌に伝わってきた、異様なまでの「重さ」に僅かな違和感を覚えた。いつもならば、このように触れれば、椛は従順な子犬のように身を縮めるか、あるいは生真面目な抗議の声を上げて椅子ごと退くはずだった。しかし、今の椛の肩は、まるで山の岩盤そのものがそこに居座っているかのように、微動だにしない。それどころか、触れた皮膚の向こう側で、強靭な筋肉の束が、爆発を待つ火薬のように張り詰めているのが分かった。

「おや……?」

文は首を傾げ、指先の力を抜かぬまま、自らの内に湧き上がる奇妙な愛着の情を噛み締めていた。

実際のところ、文にとって犬走椛という存在は、単なる「扱いやすい部下」という枠に収まるものではなかった。

この妖怪の山という、権謀術数と我欲が渦巻く社会において、椛ほど濁りのない、鏡のように澄んだ実直さを持つ者は他にいない。自分がどれほど無理難題を押し付けても、どれほど悪質な嘘でからかっても、椛は最終的には自らの職務を全うし、自分を「上司」として立ててくれる。その絶対的な安心感があるからこそ、文は彼女の前でだけ、新聞記者としての重い仮面を外し、子供のような悪ふざけに興じることができるのだ。

本当に、貴女は飽きない。私の退屈な日々に、いつも一番に新鮮な色を添えてくれる。

文は、椛の困惑した横顔を見つめながら、その従順さに甘え、寄りかかっていた。椛が自分を拒絶することなど、あり得ないと信じ切っているがゆえの、傲慢なまでの全幅の信頼。それが文の側にある「甘え」の本質だった。

「椛、そんなに身を固くして。まさか、本当に私に触られるのが嫌なのですか?少し冷やしてあげようという、先輩の心尽くしですよ」

文は、その信頼の重みの分だけ、さらに残酷に響く甘い声を重ねた。

しかし、その言葉を受け止める椛の脳髄では、全く別の、暗い情念の炎が爆発寸前まで膨れ上がっていた。

「……心尽くし、ですか」

椛の口から漏れた声は、先ほどまでの震えるような喘ぎではなく、地底から響くような、低く、冷ややかな響きを帯びていた。

「文様は、いつもそうです。そうやって、私の領域に土足で踏み込んで、私の心がどれほど乱れるか、どれほど……貴女の一挙手一投足に縛られているか、まるでご存知ないのです」

「……椛?」

文の眉が、微かに跳ね上がった。

いつもなら決して使わない「貴女」という二人称。その響きに含まれる、剥き出しの熱量に、文の優れた直感がようやく微かな危険を察知する。

だが、文のなかの記者としての習性が、その「いつもと違う面白さ」をさらに観察したいという欲望にすり替わってしまった。

「随分な言い草ですね。私が貴女の心を乱していると?それは新聞記者として、他人の秘密を暴くのが仕事の私に対する、最高の褒め言葉として受け取っておきましょうか。それとも、そんなに私の触り方が不満でしたか?」

文はわざとらしく指先を這わせ、椛の鎖骨の窪みを、爪の先で軽く突ついた。

カチリ、と。

室内の濃厚な熱気の中で、何かが完全に壊れる音がした。蝉の声が、一瞬だけ、完全に遠のいたように思えた。

椛はゆっくりと首を巡らせ、背後にいる文を真っ向から見据えた。その大きな瞳は、汗と情熱の熱によって異様なほど潤んでおり、しかしその奥にある瞳孔は、獲物を限界まで追い詰めた獣のように、細く、鋭く、ギラギラとした光を放っている。

「……不満、などでは、ありません」

椛の唇が、微かに歪んだ。それは笑みのようであり、同時に、牙を剥き出しにする前の威嚇のようでもあった。

「ただ、文様がそうやって、私をただの『面白い玩具』としてしか見ていらっしゃらないのなら……。私も、天狗の規律や、主従の分など、すべてこの夏の暑さの中に捨て去ってしまっても、文様は文句を仰いませんよね?」

「なっ――」

 文の喉から、短い驚愕の声が漏れた。

その瞬間、文の視界が、信じられないほどの速度で歪んだ。

椛の手が、凄まじい力と正確さで文の手首を掴み、その肉体の質量を以て、文の身体を畳の上へと引き摺り下ろしたのである。

バサバサと、周囲の書類の山が崩れ落ちる音が、二人の身体の衝突とともに部屋中に鳴り響いた。

視界が激しく、暴力的に反転した。

背中に加わった硬く、しかしどこか弾力のある衝撃。それが、我が身の下に敷き詰められた未整理の取材資料や、古い新聞紙の束であると文の脳髄が理解するまでに、数秒の遅滞を要した。

バサバサと、乾いた紙葉が部屋中に舞い散り、まるで引き裂かれた白い羽のように二人の周囲を頼りなく踊る。文机の上から滑り落ちたインク瓶が畳の上をごろごろと転がり、濃紺の液体が古い原稿用紙をじわじわと侵食していく。そのカサカサという紙の擦れる音だけが、劇的に変じてしまった室内で、奇妙なほど鮮明に鼓膜を叩いた。

「っ……あ……」

文の喉から、空気の抜けるような短い呻きが漏れた。

背中を打った衝撃よりも、何より「自分が犬走椛に組み敷かれている」という現実そのものが、彼女の思考回路を完全に焼き切っていた。いつも流暢に言葉を紡ぐはずの舌が、嘘のように硬直して動かない。

見上げる視界のすべてを、一人の白狼天狗が塞いでいた。

文の両手首は、畳の上に一文字に縫い付けられている。それを押さえつける椛の掌は、真夏の陽気よりもなお熱く、鉄の万力のように容赦がない。文がいくら烏天狗の剛力をもってしても、完全に骨組みを固定された肉体は、指先一つまともに動かすことすら叶わなかった。

二人の距離は、互いの前髪が触れ合うほどに近かった。

だからこそ、文の切れ長の瞳には、上から見下ろしてくる椛の貌が、恐ろしいほどの解像度で焼き付けられることになった。

椛の額から、一滴の大きな汗が滲み出て、彼女の端正な眉の輪郭をなぞるようにして滑り落ちる。それは白狼の頬の朱を拾いながら、顎の鋭いラインへと伝い——そして、重力に従って、下にいる文の鎖骨の窪みへと、ぽつりと冷ややかに滴り落ちた。

肌に触れたその一滴の熱に、文の身体がびくりと震える。

椛の瞳孔は、やはり完全に細く尖っていた。それは知性によって飼い慣らされた部下の目ではなく、獲物を巣穴の奥へ追い詰め、あとは喉笛を噛み切る瞬間を待つだけの、純粋な狩人の眼光だった。しかし、その獰猛な輝きの奥には、自らの激情に搦め捕られ、苦悩の果てに引き返せなくなった少女の、狂おしいほどの熱が揺らめいている。

長い沈黙が、蝉時雨の濁流の中に沈んでいた。

文がようやく、その痺れた唇を震わせ、記者としての、あるいは上司としての、崩れかけた仮面を必死に手繰り寄せようと言葉を絞り出す。

「……椛。何、を……。これは、度を越した悪ふざけですよ。すぐに退きなさい。不敬、という言葉では、済まされませんよ……っ」

威嚇を含ませたつもりの声だった。しかし、自らの内に沸き上がる動揺と、手首から伝わる椛の圧倒的な体温のせいで、その声音は情けないほどに掠れ、震えていた。

だが、椛は眉一つ動かさない。

彼女は、ただ淡々と、恐ろしいほど静かに、その薄い唇を開いた。

「不敬、ですか。ええ、重々承知しております、文様」

その声には、先ほどまでの苦悶の響きすら消えていた。規律を重んじる白狼が、自らの手で規律を叩き壊したからこそ得られる、底冷えのするような居直りと、絶対的な覚悟。

「ですが、文様。貴女が今まで私になさってきたのは、まさにこういう事なのですよ」

「……なんですって?」

「分からないのですか?」

椛は、さらに自らの上半身を沈め、文の顔のすぐ横に己の顔を寄せた。白狼の鋭い耳が、文の黒い髪と擦れ合い、じっとりとした熱気が文の首筋を包み込む。

「文様はいつも、上司という絶対の安全圏から、私の心を踏みにじり、からかい、反応を楽しんでいらっしゃいました。私がどれほど困惑し、どれほど貴女の手のひらの上で惨めに踊らされていたか……。今、貴女が感じているその『自由を奪われ、何をされるか分からない恐怖と屈辱』こそが、私がずっと、貴女から与えられ続けていたものそのものです」

淡々とした、しかし刃のように正確な指摘が、文の胸元を深く突き刺す。

「私はただ、それを今、貴女にそのままお返ししているだけに過ぎません。文様がやられているのは、そういう事です。これでもまだ……私が『真面目で扱いやすい玩具』に見えますか?」

その言葉に、文のなかの天狗としてのプライドが、猛然と反発の炎を上げた。

自分が後輩に、それも、いつも一歩後ろを歩いていたはずの椛に、ここまで完璧に論破され、物理的にも精神的にも組み敷かれているという事実が、彼女の顔を猛烈な羞恥の赤で染め上げる。

「っ……、調子に、乗らないでください……っ!」

文は、縫い付けられた手首を強引に引き剥がそうと、畳を蹴って身体をねじった。バサリと古い取材原稿が破れる音が響く。

「私は貴女の上司です!言葉を弄して、私を咎めたつもりですか!?貴女がやっていることは、ただの、野蛮な行為です!白狼の分際で、この私を……烏天狗を格下のように見下ろすなど、絶対に許されることでは――」

「言葉など、今の貴女には何の役にも立ちませんよ、文様。いくら流暢な言葉を並べ立てても、貴女の身体は、こんなに小さく震えている。私の下で、呼吸を荒くして、怯えている。……それが、今の貴女の、唯一の真実です」

椛の放った峻烈な言葉の刃が、文の耳条を劈いた。

その瞬間、文の胸中に湧き上がったのは、恐怖を塗りつぶすほどの猛烈な、そして泥臭いほどの反発心であった。このまま部下の言わんとする「事実」に屈してなるものか。彼女は縫い付けられた手首を支点に、自らの細い両脚を畳の上でジタバタと無様に暴れさせた。

バサバサと、古い新聞紙が彼女の泥縄式な抵抗によって蹴り飛ばされ、障子に当たって頼りない音を立てる。烏天狗としての誇りと意地が、彼女に「上司としての体裁」を取り戻させようと躍起にさせていた。

「っ、放しなさい……放しなさいと言っているでしょう、椛!これ以上私を——」

だが、その不格好な足掻きは、信じられないほど呆気なく、一瞬にして圧殺されることとなる。

文が言葉を言い切るより早く、椛が上体をさらに低く沈め、その鋭い牙を文のむき出しの首筋へと、容赦なく突き立てたからである。

「っ――ひ、ぅ、…………っ!?」

その刹那、文の全身の骨組みから、文字通り一切の力が綺麗に「破綻」して霧散した。ジタバタと畳を叩いていた両脚が、まるで操り糸を同時に切られたマリオネットのように、脱力して、ぴたりと動きを止める。

それは、暴力的な破壊ではない。白狼という肉食獣が持つ、獲物の神経をピンポイントで麻痺させるかのような、計算され尽くした「甘噛み」であった。

噛まれた瞬間、文の脳髄に走ったのは、針で突かれたような鋭い痛覚と、それを一瞬で濁流のように呑み込んだ、おぞましいほどの「熱」だった。骨の髄まで電流が駆け巡り、背骨が粟立つ。それは、自らの肉体の主導権が、完全に自分以外の存在——それも、かつて自分が格下だと侮っていた後輩の牙の間に収まっているという、絶対的な降伏の感覚だった。

椛の牙は、肉を引き裂かない絶妙な加減を保ちながら、文の頸動脈の拍動を直に楽しむように、じわりと、深く圧を加えていく。文はその圧倒的な肉体の格付けの前に、ただ目を見開き、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。

やがて、喉の奥で小さくグルルと満足げな音を鳴らした椛が、ゆっくりと牙を引き抜いた。

一瞬遅れて、噛まれていた瞬間の強烈な圧迫感から解放された文の首筋を、真夏の籠った風が撫でる。その瞬間、文が感じたのは、身を切るような「屈辱」と、それと同時に押し寄せてきた、背徳的な「喪失感」だった。もっとあの牙で、自分の輪郭を壊してほしかったのではないかという、自身の内なる獣の、いけない叫び。

文の白い皮膚には、半月状に並んだ椛の牙の痕が、鮮烈な赤紫色の形となって浮き上がっていた。そしてその痕跡をなぞるように、椛の口内から移された生々しい涎が、じっとりと光りながら、夏の熱い空気の中で淫らに糸を引いて滴り落ちていく。

「は、っ……、あ……、う、そ……」

文の流暢だった舌は、完全にその機能を失っていた。自分の首に他人の唾液が残り、それが体温で温められていく感覚が、彼女の顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げる。

しかし、夏の熱気は、さらに容赦なく二人の肉体を追い詰めていった。

密着し合う二人の体温と、閉ざされた書斎の熱。その限界の暑さの中で、汗ばんだ椛の身体が文の上で僅かに身じろぎした瞬間、二人の濡れた衣服が、じっとりと吸い付くように摩擦を起こした。

椛自身、文を組み敷いているものの、この尋常ならざる暑さの中で意識が朦朧としつつあった。ただでさえ汗で滑りやすくなっていた文の白直垂の襟元に、椛の肩や腕が不意に引っかかり、ずり、と不自然な力が加わる。

ブツリ、と。

汗を吸って脆くなっていた衣服の紐が、二人の体動の負荷に耐えかねて、静かに弾け飛んだ。

はだけた。

現実的な熱の悪戯によって、文の白直垂の前合わせが、左右へと大きく割り開かれたのである。

「あ――っ!?」

文の表情が、これまでにないほど引き攣ったように一変した。

露わになったのは、汗の膜を纏って真昼の薄光を妖しく反射する、白磁の胸元。天狗としての、あるいは女性としての最も秘められた、柔らかな肉の膨らみが、何の遮りもなく椛の眼前に晒されてしまったのである。

「見な……っ、見ないでください……っ!!」

余裕ぶった大人の仮面は、今ここに、完全に粉砕された。

文は涙目で悲鳴を上げると、椛の制圧の手が一瞬緩んだ隙を突き、死に物狂いで自由になった両手を伸ばした。パニックに陥った野生の生き物のように、床に散らばる取材資料や古新聞の束を、狂ったようにかき集めていく。

ガサガサと激しい紙音を立てながら、文字の書き殴られた古い原稿用紙や新聞紙を胸元へと押し当て、さらに赤面しきった顔の前へと掲げる。

自らがかつて紡いだ「紙の残骸」の中へ、言葉を失った烏が逃げ込んでいく。

かき集めた古い取材原稿を胸元に押し当て、指先が白くなるほど強く握りしめる。文字通り、自分の尊厳のすべてが、この薄い紙切れ一枚の向こう側に隠されているような気がしてならなかった。

激しい呼吸のたびに紙の防壁が小さく上下する。文の喉は、不快な熱を帯びたまま激しく痙攣していた。

「ぁ、い、椛……貴女、わたし、私は……っ、あ、これ、これは、不敬、じゃ、なくて……っ!あ、あした、明日の……しん、新聞、に、書い……っ」

紡ぎ出される言葉のすべてが、意味をなさぬ破片となって唇の端から零れ落ちる。いつもなら山の天狗たちを辛辣に皮肉り、自在に世論を操るはずの流暢な語彙が、どこを探しても見つからない。

思考は完全に混乱し、主語と述語さえまともに繋がらない。上司としての威厳を取り戻そうとするたび、先ほどまでの動揺が蘇り、そのたびに「ひ、ぅ……っ」と情けない呼気が混じって言葉が途切れた。

自分が今、どのような顔をしているのか。それを自覚することが、何よりも恐ろしかった。

耳の裏まで真っ赤に染まり、瞳は涙で潤んでいる。息を吸うたびに、はだけた胸元が紙の隙間で激しく上下していた。

他人を暴くことで生きてきた烏天狗が、今や暴かれる側の恐怖に囚われている。

その姿は、いつもの彼女からは想像もつかないほど無防備だった。それでも文は、必死になって紙の防壁を築き続ける。

その惨めな抵抗の姿を、白狼の澄んだ瞳が、じっと冷然と見下ろしていた。

——そして。

その紙の檻の向こう側から文の醜態を見つめる椛の思考は、驚くほど澄み渡っていた。

冷静で、静かで、そしてどこか狂っていた。

……ああ、美しい。本当に、なんと醜く、愛らしいお姿なのでしょう、文様。

椛の脳裏には、驚くほど冷静な、しかし絶対的に狂暴な独占欲のロジックが構築されていた。

我に返るなどという生易しいブレーキは、この夏の熱気の中に疾うに溶けて消えている。生真面目な白狼天狗として生きてきた彼女にとって、天狗の規律や社会の上下関係は、何よりも遵守すべき「神聖な檻」であった。だが、それを毎日のように笑いながら揺らし、傷つけ、からかい、自分の心の柔らかい部分を侵食してきたのは、他ならぬ目の前の射命丸文なのだ。

ならば、その報いを受けてもらう。

椛の胸を満たしていたのは、かつて感じたことのない全能感だった。

いつも高みから自分を見下ろし、すべてを見通したような不敵な笑みを浮かべていた大人の女性が、今は自分の衣服の擦れる音一つに怯え、自分が紡いだ古い言葉の影に隠れてガタガタと震えている。その事実が、椛のなかの「捕食者」としての本能をこれ以上ないほどに甘美に刺激した。

貴女が私をその流暢な『言葉』で縛り付け、玩具にしてくださったのです。だったら今度は、私がその言葉をすべて奪い、私の『牙』と『体温』だけで、貴女を私の所有物として、この床に縫い付けて差し上げます。……もう、どこへも逃がしません。あのうるさい新聞の世界にも、上司という安全な高みにも、二度と帰しはしない。

文が必死に抱え込む紙の盾。それを見つめる椛の瞳は、憐れみなど微塵も孕んでいなかった。あるのは、その防壁を一枚ずつ、最も残酷な順番で剥ぎ取っていこうという、冷徹な狩人の愉悦だけだった。

椛はゆっくりと、しかし抗いがたい力強さで、文の右手を畳へと再び押し潰した。

文が顔を隠していた原稿用紙の端が、じわりと椛の汗ばんだ指先によって掴まれる。

ビリ、と。

静寂を切り裂いたのは、文が自身の尊厳としてしがみついていた、あの「紙の防壁」が容赦なく引き裂かれる音であった。

「あ、っ……、や……っ!?」

文が悲鳴を上げる間もなく、椛は文の指先から取材原稿を力任せに奪い取り、それを文字通り木端微塵に引きちぎって床へとぶちまけた。書き殴られた文字の破片が、二人の汗ばんだ肌の上に、無価値な紙吹雪となってハラハラと舞い落ちる。

「言ったはずですよ、文様。そんなものは何の盾にもならない、と」

椛の声音には、冷徹なまでのサディズムと、それを裏支えする濁った情熱が満ち満ちていた。

彼女は文の細い両手首をまとめ、自身の片手で床に圧し留めると、文の華奢な身体を容赦なく反転させ、畳の上へと乱暴にうつ伏せに圧しつけた。

「ひぐっ……っ!?」

床に胸と腹を押しつけられ、文の視界は一面の畳の目と、無残に破られた原稿の死屍累々で埋め尽くされた。背後からのしかかる、白狼天狗の圧倒的な質量。逃げ場のない、完全な圧搾。

直垂の紐が弾け飛んだ文の背中は、衣服が左右に大きくはだけ、真昼の薄光の中にその白磁の皮膚を無防備に晒していた。しかし、腰から下は未だ衣服に包まれたままである。その「半分だけ暴かれ、半分だけ閉じ込められている」という不均衡な肉体の状態が、文のなかの恥じらいを狂おしいほどに肥大化させた。

文の脳髄は、すでに正常な思考の形態を保っていなかった。

私は、私は射命丸文だ、妖怪の山の最高速で、すべてを暴く側の天狗で、こんな、こんな、部下に、床に泥のように擦り付けられて――ああ、でも、背中に乗るこいつの体温が、尋常じゃなく熱い、悔しい、死んでしまいたい、なのにどうして、心臓がこんなに破れそうに歓んでいるの――!?

文の錯乱に同期するように、屈辱と快感の境界線を失っていく。自意識の骨組みが融解し、記者としての傲慢なプライドが、自らの流す愛液と汗の混ざり合ったヘドロの中にドロドロと沈んでいくのを感じていた。

すぐ耳元で、椛の「獣」のそれである、荒い、飢えた呼気が文の鼓膜を震わせた。

近い。近すぎる。文の五感は、背後から押し寄せる椛の生命の奔流に、完全に蹂躙されていた。

うつ伏せの姿勢のまま、文の鼻腔には、汗をかいた椛の、野生の狼が持つ特有の、どこか甘く、しかし決定的に危険な肉の匂いが充満した。そして、椛の額から滴り落ちた大粒の汗が、文の剥き出しの肩口にぽつりと冷ややかに触れる。

「……文様、そこまで強がるお口なら、これで塞いで差し上げましょう」

椛の掠れた声が響いた直後、文の背筋に、最大級の電撃が奔った。

椛が、はだけた境界——まだ衣服が残っている薄い麻の布地の上から、文の柔らかな背中へと、容赦なくその鋭い牙をガチリと突き立てたからである。

「ひぎぃっ……!?ぁ、あぐ、ん、んん――っ!!」

文の背中が、苦悶と快楽のあまり弓なりに激しく強張った。

布地を貫通して皮膚を圧し切る、痛烈な甘噛み。痛い。しかし、その痛みを追うようにして、脳の芯を直接金槌で殴られたような、猛烈な快楽の電気信号が脊髄を駆け抜ける。椛は布地の上から噛みついたまま、自らのよだれで衣服をじっとりと濡らし、文の肌へとその独占欲の刻印を深く刻みつけていく。

噛み終えた椛の口唇が離れる瞬間、じゅ、と湿った不作法な音が響き、破れた布地の隙間から、文の皮膚にべっとりと残された椛の涎が、真夏の熱気の中で妖しく光った。

文の心は、もはや言葉を失い、ただただ背後から加えられる、女性同士とは思えないほどに執拗で、激しい格付けの快感に身悶えするしかなかった。椛の爪が、まだ衣服に包まれた文の臀部や脇腹を布越しに強く掴み、引っ掻くようにして肉を蹂躙する。

「……文様。まだ、そのお召し物が邪魔ですね。……もっと、奥まで見せてください」

床の上での、容赦のない、そして丁寧な段階を踏んだ剥奪。

二人の流す汗が畳を濡らし、引き裂かれた紙の匂いを吸って、書斎の熱気はさらにその狂気の濃度を増していく。

 

ずり、と、汗を吸った麻の繊維が、床の上の古新聞を巻き込みながら引き摺られる不作法な音が、文の耳元で鳴り響いた。

背中を噛まれて強直したままの文の腰に、椛の強靭な両手が容赦なくかけられる。残されていた袴の紐や帯が、摩擦の熱を帯びながら一本ずつ、しかし手際よく解き進められていく。

「ぁ、……も、もみじ……本当に、本当に、全部……脱がす、つもり……っ!?」

文は床の上で芋虫のように細い身体をよじり、残された布地に縋り付こうとしたが、その必死の足掻きすらも、椛によって無慈悲に踏み潰された。

次の瞬間、視界が乱暴に、激しく回転する。椛は文の肩を掴むと、彼女の身体を畳の上で強引に仰向けへとひっくり返したのである。

「ひ、あぐっ……!?」

仰向けにされた文の視界に飛び込んできたのは、部屋の天井ではなく、自分を見下ろす椛の、汗ばんだ貌そのものだった。

至近距離で正面から見据える白狼の瞳は、一線を超えた者の昏い光で満ちており、その視線の暴力だけで、文の脳髄は二度目の粉砕を被った。はだけた衣服の隙間から、ついに文の全裸の肉体が、真夏の薄光の中に完全なる剥奪をもって投げ出された。

露わになった射命丸文の身体は、妖怪の山の最高速を誇るに相応しい、贅肉を削ぎ落とした、しかし驚くほどに白く、しなやかな女性の曲線を描いていた。汗の薄い膜が、彼女の平坦ながらも形の良い胸元や、引き締まった横腹を濡らし、妖しい光沢を放っている。そして、彼女の背に生える漆黒の羽――烏天狗の象徴であるその翼が、恥ずかしさと恐怖のあまり、畳の上でバタバタと細かく、憐れに震えていた。

だが、椛は床の上だけでは決して満足しなかった。

彼女は文の細い腰を両手でしっかりと掴むと、そのまま彼女の身体を強引に持ち上げ、資料が山積みになった文机の上へと押し上げたのである。

「っ、いや……っ! ここは、私の、つくえ……っ!」

文は、自分がいつも新聞を執筆し、知性を誇っていたその「聖域」の上へ乗せられたことに、本能的な恐怖を覚えた。机の端にしがみつき、細い脚をバタつかせて机から下りようと抵抗を試みる。

しかし、その抵抗はあまりにも虚しかった。文の背中とお尻が滑り込んだ拍子に、机の上にあったインク瓶や書きかけの原稿、大切な取材ノートが、派手な音を立てて床へと押し流され、バラバラと散らばっていく。

「文様。貴女が言葉を紡ぐ場所で、ただの雌として鳴いてください」

椛はそう囁くと、机の端に腰掛けさせられた文の、はだけた太ももを強引に割り開いた。

女性同士の、汗ばんだ内腿と腹が、ぴったりと隙間なく密着する。不快なほどの熱気と、肉と肉が擦れ合うじっとりとした湿度。文が言葉を失ってのけ反った瞬間、椛の長い指先が、文の最も秘められた、熱く濡れた場所へと容赦なく滑り込まされた。

「ひゃうあッ……!?ぁ、ん、や、やだ、指、ゆびは……っ、あぐ、んんっ!!」

容赦のない、執拗な指の愛撫。

文の脳内は、大切な書斎が、自分の言葉が、そして自分自身の肉体によって汚されていくという空間の同時破壊に、ゾクゾクとするような背徳の悦びを感じてしまっていた。

悔しい、悔しい、私の机で、部下の指に、こんなに簡単に壊されて、頭のなかが、真っ白に、溶けていく――!

文の抵抗が完全に虚無へ帰したその瞬間、椛は文の細い横腹へと、再びその牙をガチリと突き立てた。

「ひぎぃっ……!?」

皮膚を圧し切る強烈な噛みつき。さらに椛の手が、文の背中の黒い羽の根元へと伸び、その繊細な羽毛を乱暴に、しかし愛おしそうに撫で回した。

烏天狗にとって、羽は飛行を司る敏感な器官である。そこを他人の手で直に触られ、握られるという感覚は、文の脳髄に「完全に支配されている」という決定的な絶望を叩き込んだ。

椛の牙はさらに、文の割り開かれた太ももの内側、最も柔らかい皮膚へと移動し、そこへも痕が残るほど深く、ガチリと二度目の刻印を刻みつける。

「あ、あぐ、ん、んん――っ!!」

文の背筋が机の上で激しくのけ反り、口唇からは、よだれが混ざり合った熱い吐息が溢れ出た。

噛み終えた椛が口唇を離すたびに、じゅ、と湿った不作法な音が響き、文の横腹と太ももには、鮮烈な赤紫色の歯形と、じっとりと光る白狼のよだれが残されていく。

もはや、文には拒絶の言葉を紡ぐ力は残されていなかった。

椛は、完全にぐったりとして涙目を浮かべる文の細い身体を、今度は抱き上げるようにして、部屋の隅にある唯一の逃げ場である寝台へと強引に押し込んだ。

寝台の狭い空間に閉じ込められ、文は椛の首に腕を回さざるを得ないような、完全な対面の体勢へと監禁される。

真夏の閉ざされた書斎、そのさらに奥にある寝台の中で、よだれと汗が混ざり合った二人の荒い息遣いが、逃げ場を失ってワンワンと響き渡っていた。文の内面は、屈辱を通り越して「このままずっと、この白狼の腕の中で壊されていたい」という、自傷的な快感の奴隷へと完全に変貌しつつあった。

 

木造の私邸が、二人の皮膚が孕む高熱によって、まるで内側から炭化していくかのような錯覚さえ覚える寝台の檻であった。

ごちゃついた書斎の最奥、辛うじてその形を保っていた狭隘な寝台の上へと押し込まれた瞬間、文の背中は、汗を吸って重くなった麻のシーツへと深く沈み込んだ。上からのしかかってくる白狼天狗の、逃げ場のない視線を感じる。体位は、お互いの鎖骨、胸元、そして引き締まった腹部が、汗の膜を介して寸分の隙間もなくぴったりと合わさる、完全なる対面であった。

文の両腕は、もはや抵抗の形態を維持することすら叶わず、無意識のうちに椛の汗ばんだ首筋や、強靭な背中へと回さざるを得なくなっていた。視界のすべてを、一人の部下の肉体が塞いでいる。焦焦とした、逃げ場のない真昼の白光が、薄暗い寝台の帳の隙間から二人の全裸を容赦なく炙り出していた。

文は、己の睫毛が椛のそれに触れ合うほどの至近距離で、最後の、しかし無意味極まる言葉の破片を、痺れた唇の端から絞り出した。

「……ここまで、したら……っ、もう、ほん、とうに……っ、後戻りは、できませんよ……犬走……っ」

それは上司としての脅迫では断じてなかった。地の文さえもが文の錯乱に同期するように、主従の境界線を失っていく。その声音は、これまでにないほど細く、震え、屈辱のあまり潤んだ瞳からは、一筋の熱い涙がこめかみへと伝い落ちていた。その「後戻りはできない」という言葉の裏側に隠されていたのは、私を完全に貴女の物にしなさい、私の誇りを、輪郭を、すべて体温で消し去って見せなさいという、自傷的な快感の奴隷へと変貌した天狗の、絶望的な降伏の懇願に他ならなかった。

椛はその言葉を、烏天狗の理性の最後の、哀れな悲鳴として冷然と受け止めた。

彼女の細く尖った瞳孔が、さらに昏く、深く濁る。

「最初から、戻るつもりなどありません、文様」

耳元で囁かれた声は、真夏の酷暑を凍りつかせるほどの冷徹さを孕みながら、同時に文の鼓膜を狂おしいほどに愛撫した。

椛は答える代わりに、文の漆黒の羽を両手で強くベッドの枠へと圧し付け、女性同士だからこそ分かる、最も敏感な肉の境界同士を、ぴったりと、残酷なまでの密着を以て擦り合わせた。そして、文の細い腰を逃がさぬよう万力のように固定し、容赦のない、執拗なまでの肉体の衝突を求めて腰を動かし始めたのである。

「ひ、あぐっ……!?ぁ、ん、んん、や、あ、熱い、熱いっ……!!」

じゅ、じゅ、と、二人の間から溢れ出る汗と、肉体の深部から分泌された愛液が混ざり合い、畳みかけるような不作法な音を寝台の中に響かせる。その水分がシーツをじわじわと侵食し、淫らな黒い染みを大きく広げていく。

文の脳内は、すでに正常な思考の形態を完全に失っていた。

私は部下に抱かれているのではない、私は、山を吹き抜ける狂暴な暴風に、ただ内側から暴かれているのだ、これは真夏の白昼夢だ、そうでなければ、私がこんな小娘に、こんなに簡単に壊されて、狂わされて——ああ、もみじ、もみじ、もみじっ――!

記者としての、烏天狗としての言葉が、完全に死に絶えた瞬間であった。敬語も、からかいの台詞も、冷徹な自意識も、すべてがこの逃げ場のない檻の中で破砕され、ただ一人の少女の名前を呼ぶという、最も原始的な生命の叫びへと還元されていく。文は激しい快感と羞恥のあまり、背中の黒い羽で寝台の四隅を激しく叩き、シーツの繊維を爪で引き裂くようにして、身をよじり続けた。

「あ、あ、っ……、も、みじ……っ、もみじ……っ! や、だ、もう、おかしく、なる……っ!」

上司が、初めて自らの仮面を完全に捨て去り、己の名を剥き出しの熱を込めて乞うた。

その瞬間、文を見下ろす椛の瞳の奥の狂気が、さらに一段階、天井を突き破って跳ね上がった。

「文様。私の名前を、もっとそのお口で呼んでください」

椛は文の濡れた黒髪を強引に掴んで顔を上向かせると、言い訳を許さぬ速さで、よだれで濡れそぼった互いの唇を、窒息するほど深く、激しく重ね合わせた。口づけによる、完全なる呼吸の略奪。

文の口内に滑り込んできた椛の熱い舌は、文の流暢だった口腔のすべてを蹂躙し、拒絶の声さえも「ん、んぅ……っ、ふ……」という、密閉された甘い喘ぎへと変えていく。お互いのよだれが唇の端から溢れ、二人の顎のラインを伝って胸元へと滴り落ち、真昼の薄光の中でギラギラと淫らに光り輝いていた。

 

じゅ、と不作法な音を立てて、ようやく椛の唇が一度、離れた。

ほんの数寸だけ生まれた肉体の隙間に、真夏の籠った熱風が滑り込む。文は、奪われていた空気を求めるように「はぁっ、っ、は……っ」と激しく胸元を上下させたが、その唇の端からは、自身の意志とは無関係に、情ないよだれの糸がベッドのシーツへと引かれていった。

「っ、ぁ……もう、息が……っ」

文が涙目でそう抗議しようとした瞬間、文の言葉は二度目の略奪に遭う。

椛は文の言い訳を塞ぐように、今度はさらに深く、貪るような角度で、二度目の口づけを激しく叩き込んだのである。一度目の口づけで互いの唾液が混ざり合い、すでに滑らかさを増した口腔のなかで、椛の舌は文の歯列をなぞり、逃げる舌を追い詰め、吸い上げた。文の黒い羽が、窒息しそうな快感のあまり、シーツを激しく叩いてバタバタと悶える。

言葉が出ない、息ができない、私が、この私が、後輩の口づけだけで、こんなに簡単に溺れさせられて!

一度離れては、またすぐに吸い付くように重なる、狂おしいまでの口づけの連続。文の脳内は、屈辱を通り越して「この口づけのなかで息が絶えてもいい」という、自傷的な快感の奴隷へと完全に変貌していた。

何度も繰り返される口づけの熱によって、文の理性が完全に融解したその瞬間、椛はついに唇を離し、その標的を文のむき出しの皮膚へと移動させた。

椛の行動は容赦なく、文の皮膚の感度を確かめるように、じっとりと、執拗にその首筋から胸元へと舌で舐め回した。

「ひ、あぐっ……!? そこ、は……っ!」

お互いの境界線が曖昧になるほどの、フェティッシュな熱量。

椛の手は文の腰を固定したまま、空いたもう一方の手で文の身体を強引に引き寄せ、支配権を誇示するように蹂躙した。それだけに留まらず、白狼としての獰猛な本能が、文の胸元へと、その鋭い牙をガチリと突き立てたのである。

「ひぎぃっ……!?ん、んんっ!!」

痛みが脳の芯を殴る。しかし、その痛みを追うようにして、猛烈な感情の波が脊髄を駆け抜ける。文の背中に生える漆黒の羽が、あまりの激痛と衝撃に狂ったように寝台の四隅を叩き、シーツを激しく引き裂くような音を響かせた。

噛み終えた椛の口唇が離れる瞬間、文の肌には、鮮烈な歯形が刻まれていた。そして、その傷口からは、真夏の皮膚が流す汗のように、少量の、しかし鮮やかな紅い血がぷつぷつと滲み出た。その一滴が、肌の上をゆっくりと流れ落ちていく。

その激しい格付けの痛みに、文のなかの何かが完全に決壊した。

悔しさと、屈辱と、そして何より自分がこれまで一歩後ろを歩かせていたはずの椛に、これ以上ないほどに翻弄されているという事実。文の脳内は、その圧倒的な背徳感によって変貌していた。

「っ、この……っ、椛、の、くせに……っ!」

文は涙目で叫ぶと、感情に耐えかねて、椛の衣服の剥ぎ取られた背中へと、自らの鋭い爪を死に物狂いで立てた。

ガリ、と、烏天狗の爪が白狼の背中の皮膚を引っ掻く。

痛みに椛の眉が微かに跳ね上がったが、その動きは止まらない。文の爪が刻んだ傷口からも、やはり汗の雫のように、少量の血が滲み出て、椛の背中を紅く汚していく。お互いの肉体に刻み込まれる、爪痕と歯形。血と汗が混ざり合い、二人の境界線は完全に融解していった。

激しい感情の波が、二人の深部から津波のように押し寄せる。

文の黒い羽が、もはや拒絶のためではなく、椛の身体をこの空間のなかに閉じ込めようとするかのように、背後から包み込むようにして寝台を覆い尽くした。同時に、椛の純白の尾が、文の身体に激しく絡みつく。

白と黒のコントラスト、獣と鳥の境界線が交わる耽美的な倒錯のなかで、椛の激しい衝動が、文の限界を何度も超えさせていった。

「あ、あ、っ……、も、みじ……っ!もっと……っ!!」

いつも言葉の裏に隠れていた烏天狗が、初めて「言葉」に完全なる敗北を喫した結果、口にしたのは、もっとも純粋で、剥き出しの本音であった。

涙を流しながら、部下の背中に爪を立て、さらに深く関わることを乞う上司の姿。

椛はその文の叫びを、最高の「成果」として受け止め、さらにその身体を深く繋ぎ止めるように強く抱きしめた。

部屋の外の蝉時雨さえ、もはや二人の鼓膜には届かない。

聞こえるのは、密閉された寝台のなかで、お互いが完全に理性を失ったかのように同調し、高熱にうなされながら貪り合う、荒い息遣いと衝突音だけ。二人の情動は完全に氾濫し、真夏の白昼夢の底へと、どこまでも深く溶け合っていった。

 

狂乱の絶頂が寝台のシーツを引き裂いたのち、室内に訪れたのは、潮が引くような絶対の静寂であった。

二人の皮膚が発していた尋常ならざる高熱が、じわり、じわりと、寝室の澱んだ空気の中へと放散されていく。

閉ざされた空間を支配していたのは、目に見えるほどの濃厚な「匂いの澱」であった。真夏の蒸し暑さを吸い込んだ古い紙の埃っぽい匂いに混じり、肉体から絞り出された生々しい汗の、塩辛くもどこか甘やかな体臭。そして女性同士の最も深い秘部から溢れ出た、泥濘のごとき分泌液の、熟した果実が爆ぜたかのような濃密な青臭さ。それらが混ざり合い、熱せられ、シーツや破れた資料の紙片にべっとりと染み込んで、逃げ場のない不作法な情念の死骸となって部屋の四隅に淀んでいた。

ゴロゴロと、遠くの尾根の向こう側で、地底の底から響くような鈍い雷鳴が轟いた。

次の瞬間、バチバチバチ、と、凶暴なまでの大粒の夕立が、文の家の窓ガラスを激しく叩き始めた。外を圧殺していた蝉時雨は、この天の決壊によって一瞬にして掻き消される。

開いた窓の隙間から、冷涼な、しかし土の匂いを孕んだ雨の風が室内に滑り込んできた。その冷気が、汗と体液でじっとりと濡れそぼった二人の全裸の皮膚を、容赦なく冷やしていく。

その雨の冷たさに当てられた瞬間、犬走椛の瞳孔が、まるで弾けたように元の生真面目な形へと収縮した。

だが、それは単に暑さから解放されたからではなかった。

冷たい雨が、彼女の身体だけでなく、熱に浮かされていた思考まで一気に冷却していく。

これまで自分が積み重ねてきた行為。

自分が破壊したもの。

そして、自分が相手にした人物。

それらが、一つずつ鮮明な輪郭を取り戻していく。

脳髄を満たしていた真夏の白昼夢の霧が急速に晴れ、冷徹な「現実」が、彼女の精神を猛烈な勢いで殴りつけたのである。

……私は、一体……何を、してしまったのだ……?

我に返った椛が目にしたのは、無残に散らかった書斎の床と――そして、寝台の上で完全なる全裸のまま、ぐったりと横たわっている射命丸文の姿であった。

「あっ……あ、あ、……っ!?」

椛の顔が、先ほどの情熱とは全く違う、純粋な恐怖とパニックの朱で一瞬にして染まった。

床を見れば、文が大切にしていたはずの未公開の取材資料や古新聞が、自分の手によってバリバリと木端微塵に引き裂かれ、インク瓶の中身とともに泥濘の海と化している。

そして何より、目の前の上司の姿。いつも不敵に笑い、山の最高速を誇っていたあの傲慢な烏天狗が、今は寝台の上で指先一つ動かせず、浅い呼吸を繰り返している。その白磁の首筋や胸元、しなやかな横腹には、自分の白狼としての牙が残した赤紫色の噛み跡が幾つも刻まれ、そこから滲み出た少量の血とよだれが、汗と混ざり合って淫らに皮膚を汚している。背中の黒い羽は、毟られたように乱れ、畳の上に哀れに数枚落ちていた。

「文、様……っ! 私は、私は、大変な、不敬を……っ!申し訳ありません、申し訳ありません、私は、山の規律を、上司である貴女を……っ!!」

規律正しく生真面目な白狼としての倫理が、大火事を起こしたようにパニックを起こす。

椛はあまりの恐ろしさと気まずさにガタガタと身を震わせ、衣服の散らばる床へ飛び降りて膝をつこうとしたが、その慌てようは、まるで巣を荒らされた小動物のようであった。

その椛の狼狽を、ぐったりとした姿勢のまま、文は涙目の隙間からじっと見つめていた。

全身の噛み跡と引っ掻き傷が、夕立の冷気の中でズキズキと熱を持って疼いている。体力的には指一本動かすのも億劫だったが、部下があまりにも分かりやすく元の堅物に戻ってパニックになっているのが、記者としての、そして何より女としての意地を微かに刺激した。

文は、床に落ちていた破れた取材資料の紙片を一枚、震える指先で手繰り寄せると、はだけきった己の胸元にそっと載せて顔を半分だけ隠した。そして、掠れた、しかしどこか艶っぽい響きを残した声を絞り出す。

「……犬走。これを……ただの不敬で済ませると思いますか? 明日の一面、いいえ、大天狗様への直訴ものの……命がけのスキャンダルですよ。……覚悟、しておきなさいな……っ」

その脅し文句は、かつての傲慢な上司の響きを真似てはいたが、声の締まりが完全に失われており、むしろ「私をこんな目にした責任を取りなさい」という、敗北を認めた女の呪縛のようにしか聞こえなかった。

「ひ、ひゃい……っ!!」

椛は情けない悲鳴を上げ、消え入りたいほどの羞恥に包まれながら、散らかった衣服を大急ぎで身に付けた。

それからの部屋の片付けは、言語を絶するほどの「気まずさ」の極みであった。

夕立が窓を叩く音だけが激しく響く中、二人は一言の会話も交わさず、視線すら合わせようとしなかった。椛は顔を真っ赤にしたまま、自分が破り捨てた資料の残骸を涙目で拾い集め、文は布団を身に纏いながら、最低限の身なりを整えて机の前に座り直した。カサ、カサ、という紙の音だけが、昨日までとは致命的に変わってしまった二人の距離を、気まずく引き摺っていた。

やがて、片付けが終わり、部屋に夕立上がりの涼しい風が吹き込み始めた頃。

椛は耐えかねたように、直立不動の姿勢で頭を下げた。

「では、私は……これで、失礼いたします……っ」

逃げるように踵を返し、文の家の玄関の戸に手をかけた、その瞬間だった。

「椛」

背後から、不意にいつもの、あの食えない、食えない烏天狗の「悪戯に満ちた声」が響いた。

椛がびくりと肩を震わせて振り返ると、文机に頬杖をついた文が、いつもの切れ長の瞳に歪んだ愉悦の光を灯して、こちらをじっと見つめていた。

文はゆっくりと自らの白直垂の襟元に細い指先をかけると、ずり、と、それをわざと大きく引き下げた。

露わになったのは、文の白磁の首筋から鎖骨にかけて、真昼の残り光の中で生々しく、赤紫色に腫れ上がった、椛がつけたあの噛み跡であった。そこにはまだ、乾ききらない水分が妖しく光っている。

「……明日からの山邏、この痕を隠して歩く私の苦労、貴女がちゃんと『手伝って』くれないと、困りますよねぇ?」

文は、唇の端を意地悪く釣り上げ、くすくすと妖艶に笑った。

その視線は、上司としての命令ではなく、「私たちはもう、共犯者ですよ」という、終わりのない秘密の檻への招待状だった。

「あ……っ、う……っ」

椛はもはや言葉を失い、顔から火が出るほどの羞恥に耳まで真っ赤に染め上げると、そのまま回れ右をして、文字通り風のように文の家から飛び出していった。

閉まった戸の向こう側で、遠ざかっていく白狼の足音を聞きながら、文はもう一度、自らの噛み跡を指先でそっとなぞった。ズキリ、と痛む。その痛みが、真夏の白昼夢が残した確かな熱となって、彼女の胸の奥を狂おしいほどに満たしていく。

窓の外では、夕立のあとの澄んだ青空が広がり始めていたが、散らかった書斎に残された二人の消えない熱は、次の季節が来るまで、決して冷めることはないのだった。

 

 

 

 




ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本作はいかがでしたでしょうか。
もし少しでも楽しんでいただけましたら、感想や評価をいただけると嬉しいです。皆様からいただいた言葉は、今後作品を書いていく上での大きな励みになります。

今回は、私自身の体験や夢の中で見た光景、そしてこれまで読んできた多くの文学作品から影響を受けながら、一つの物語として形にしてみました。

こうした方向性の小説を中編として最後まで書き切ったのは今回が初めてでしたが、個人的には、自分がやりたかった文章表現をかなり形にできた作品だと思っています。

もちろん、反省点もあります。
読み返してみると、似たような表現を繰り返してしまっている部分や、もう少し登場人物一人ひとりに「命」を吹き込めたのではないかと思うところもありました。
この辺りは、これから作品を書いていく中で少しずつ改善していきたいと思います。

もし本作を気に入っていただけたのであれば、今後もこのような、文章表現や文学的な描写を重視した小説を書いていきたいと思っています。

更新は不定期になると思いますが、これからも様々な作品を書いていく予定です。
また読んでいただけたら嬉しいです。

そして、もし「この作品を誰かにも読んでほしい」と思っていただけましたら、ぜひ周りの方にも広めていただけると、とても嬉しく思います。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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