聖女は祈る
民衆は祈る!
召喚されたのは勇者!
なおその勇者は三毛猫のメスとする。
大陸の西から中央にかけて、その世界の三分の一にも及ぶ広大な領土を支配する大帝国があった。
百を超える都市を街道で結び、幾千もの騎兵を養い、属国から集めた莫大な税と兵によって膨張を続けるその国は、自らこそが人の世を統べるにふさわしいと信じている。皇帝の名を知らぬ者は辺境の幼子くらいのもので、帝国の軍旗を見たことがなくとも、その軍靴に踏み荒らされた土地の噂を知らぬ者は少なかった。
一方、大陸北方の荒涼たる地には魔王が治める国があった。
そこに住まう魔族のすべてが人間や亜人を憎んでいるわけではない。しかし玉座に座す魔王と、その下に集った有力者たちは違った。長い歴史の中で積み重なった戦争と迫害を怨念として抱え込み、人間も亜人も等しく滅ぼすべき敵だと公然と唱え、そのための軍備を整え続けていた。
はるかな空には、雲海を越えた先に竜族の天空国がある。
彼らは地上の争いに加わろうとせず、巨大な浮遊島群に築いた国で力を蓄えながら静観していた。人間の帝国がどれほど領土を広げようとも、魔王がどれほど憎悪を燃やそうとも、竜たちはめったに口を挟まない。ただし、その沈黙が平和を意味するとは誰も考えていなかった。
さらに海の底には、地上の者たちがほとんど知ることのない海底王国が存在している。
海底に連なる青白い宮殿の奥で、彼らは地上の豊かな土地を見上げていた。自分たちの時代はいずれ来ると信じながら、海流を読み、軍を育て、虎視眈々と進出の機会を窺っている。
帝国、魔王国、天空国、海底王国。
それだけではない。
小国同士の領土争い、宗教対立、種族間の確執、商人たちによる資源の奪い合い、魔物の増加、飢饉、疫病、貴族の野心。世界には数え切れないほどの火種が散らばっており、その火が燃え上がるたび、もっとも多くを失うのはいつだって剣も権力も持たない民だった。
だから人々は願った。
英雄を。
自分たちではどうにもできない理不尽を打ち砕き、悪しき者を退け、争いを終わらせてくれる存在を。
人々は、その者を古くから伝わる名で呼んだ。
勇者。
そして、地上から遥か遠く離れた聖なる国でも、一人の少女が祈っていた。
白亜の神殿が朝日を受けて淡く輝く聖光国。その最奥にある大聖堂では、無数の蝋燭が並ぶ祭壇の前に聖女が膝をつき、胸元で両手を組んでいた。
彼女の祈りは自分自身のためではない。
戦によって親を失った子供のためであり、魔物に村を追われた老人のためであり、帝国と小国との争いに巻き込まれて故郷を失った人々のためだった。
「どうか、この世界をお導きください、主よ」
静かな声が大聖堂に響き、その言葉は天へと昇っていった。
祈りを聞く者は、確かに存在した。
天上の主、女神アルフィナ。
数多の世界を見渡すことのできる高位の女神であり、この世界がまだ今ほど多くの争いを抱える以前から、人々の祈りに耳を傾けてきた存在だった。
彼女はこれまでにも何度か、世界が大きく傾いたときに勇者を遣わしている。
ある者は人間だった。
ある者は狼の耳と尾を持つ亜人だった。
魔族の中から選ばれた者さえいた。
さらには、この世界とはまったく異なる文明を持つ異界から呼び寄せられた者もいる。
出自も思想も種族も違っていたが、彼らはいずれも一角の英雄となった。
もちろん、すべての問題を解決できたわけではない。勇者一人で世界から悪意を消し去ることなど、女神にもできない。それでも彼らが剣を振るい、知恵を絞り、ときには敵だった者と手を取り合ったことで、滅亡を免れた国や救われた命は確かに存在した。
今回もまた、その時が来たのだ。
アルフィナは天上の神域から無数の魂へと意識を伸ばした。
求める条件は単純でありながら、難しかった。
権力に媚びず、富だけを求めず、それでいて苦しむ者を見れば放っておけない魂。
命令されたから善を為すのではなく、自らの感情によって動ける者。
世界の常識に縛られすぎず、かといって破壊そのものを楽しむような者でもない。
アルフィナは自らが管理する世界だけに対象を限定しなかった。
異界も含め、可能な限り広い範囲へ呼びかける。
召喚される魂がどこから来るのかは、彼女自身にも分からない。
それこそが、この勇者召喚という奇跡の特徴でもあった。
やがて神域の中央に巨大な光輪が現れ、幾重にも重なった魔法陣が回転を始める。黄金と銀の光が絡み合い、空間そのものが水面のように揺らぐにつれ、アルフィナは自然と表情を引き締めた。
どのような人物が来るのだろう。
歴戦の剣士かもしれない。
若き王かもしれない。
あるいは前回のように、異世界でまったく別の人生を歩んでいた者かもしれない。
召喚の光が最高潮に達し、やがて弾けるように消え去った。
アルフィナは胸の前で両手を合わせ、そこに現れた新たなる勇者を優しく迎えた。
「勇者よ、あなたにお願いしたいことがあります」
返事はなかった。
アルフィナは微笑みを保ったまま、ほんの少し首を傾げた。
光の中心に何かはいる。
ただし、人影ではなかった。
床の上に伏せていた小さな生き物が、面倒そうに顔を持ち上げる。
「んー?」
そんな声に聞こえる鳴き声を漏らしたあと、その生き物は半分閉じていた目をゆっくり開いた。
「んにゃ」
白い毛。
黒い毛。
茶色の毛。
三つの毛色が複雑に混ざった、小柄な獣だった。
丸い顔にぴんと立った耳、身体の横にゆるく置かれた尻尾。その姿を見間違える余地はない。
猫である。
しかも三毛猫だった。
アルフィナはしばらく黙っていた。
三毛猫も黙っていた。
やがて猫のほうが先に口を開け、
「にゃー」
と鳴いた。
神域に、妙にのんびりとした声が響く。
「……勇者?」
三毛猫は女神を見上げると、今度は少し短く、
「おー」
と鳴いた。
アルフィナは自らの召喚術を疑った。
しかし、何度確認しても間違っていない。
召喚陣は正常に作動しており、魂の選定条件にも異常はなく、目の前にいる三毛猫こそが今回選ばれた勇者だった。
そもそも過去にも人間以外の勇者は存在した。獣人や魔族が選ばれたこともあるのだから、猫だから駄目だという決まりもない。
ないのだが、これまでの勇者には少なくとも言葉による意思疎通が可能だった。
「勇者よ。まずは、私の話を聞いていただけますか?」
三毛猫はアルフィナを見ていなかった。
神域を漂っている小さな光の粒を見ていた。
女神の力が自然に結晶化したものであり、害のあるものではない。淡い金色の光が猫の鼻先を通過すると、その頭が光を追ってすいっと動く。
「この世界はいま、大きな危機を迎えようとしています。西方には巨大な帝国が――」
三毛猫の前足が伸びた。
光はそれを避けるように上へ浮かぶ。
「――北方には魔王が治める国があり、さらに天空には竜族が――」
もう一度、前足が伸びた。
今度は肉球が光に触れかけたものの、わずかに届かなかった。
三毛猫の瞳孔が大きくなる。
「……勇者?」
「にゃ」
「聞いていますか?」
「んー」
明らかに聞いていなかった。
光が少し遠ざかった瞬間、三毛猫は腰を低くして尻を小刻みに左右へ振った。
アルフィナが嫌な予感を覚えた直後、猫は勢いよく跳んだ。
「あっ」
神域を舞う光へ飛びついた三毛猫は空中で前足を伸ばし、そのまま着地すると、すぐさま振り返って次の光を探し始める。
アルフィナは沈黙した。
世界の命運を背負う勇者が、女神の話より光るものに夢中になっている。
しかし選定そのものが間違っていない以上、この猫にはアルフィナが求めた資質が備わっているはずだった。
ならば信じるしかない。
アルフィナは気を取り直し、説明を続けた。
「この世界には、あなたの助けを必要としている者たちが大勢います。もちろん、すべてを救えとは言いません。あなた自身が正しいと思った道を歩いてください。それこそが、勇者にもっとも必要な――」
言葉の途中で三毛猫が走り出した。
新しい光を追っている。
アルフィナは目を閉じた。
神とは忍耐を必要とする仕事である。
「……では、勇者として活動するにあたり、あなたには私からいくつかの加護を授けます」
三毛猫は光を追っていた。
「一つは、強靭なる生命の加護。普通の獣であれば命を落とすほどの傷からも、あなたは高い回復力によって立ち直ることができます」
三毛猫は尻尾を振っている。
「さらに魔力への適応、毒や病への抵抗、魔物に対抗するための身体能力の強化、それから言葉についてもある程度は――」
「にゃー」
「はい」
「にゃ」
「……分かりました。説明を簡潔にしましょう」
アルフィナは勇者召喚を行って以来、これほど自分の説明能力を試された経験はなかった。
どうすれば猫に世界情勢を理解させられるのだろう。
そもそも国家という概念から説明する必要があるのかもしれない。
聖光国、大帝国、魔王国、天空国、海底王国という話に進む以前に、人間社会について理解してもらわなければならない可能性まである。
そこでアルフィナは一つのことに気づいた。
三毛猫が先ほどから、時折こちらを見ている。
いや、正確にはアルフィナの背後を見ていた。
神域の祭壇には、人々が捧げた祈りを象徴する供物が並んでいる。その中に、一尾の焼き魚があった。
三毛猫の鼻が動く。
アルフィナは焼き魚を手に取った。
三毛猫の視線も動いた。
魚を右へ移せば顔も右へ向き、左へ移せば顔も左へ向く。
「……こちらには興味があるのですね?」
「おー」
三毛猫がすぐ近くまでやって来た。
アルフィナは試しに焼き魚を差し出した。
「では、私の話を最後まで聞いたら――」
三毛猫は後ろ足で立ち上がり、前足をアルフィナの手へ伸ばした。
「まだです」
「にゃー」
「勇者よ」
「んー」
「これはお話が終わってからです」
三毛猫は座った。
尻尾の先だけが左右に動いている。
ようやく話を聞く態勢になったらしい。
アルフィナは世界情勢、勇者の役割、自ら与える加護、地上に降りたあと最初に向かってほしい聖光国について、可能な限り分かりやすく説明した。
三毛猫は途中で何度も魚を見た。
何度も欠伸をした。
一度は自分の後ろ足を舐め始めた。
それでもアルフィナが話し終えるまでは、その場からいなくならなかった。
「以上です。あなたには大きな使命を背負わせることになりますが、私はあなたの意思を縛るつもりはありません。どうか自らの心に従い、あなたが正しいと思うことをしてください」
三毛猫はアルフィナを見上げた。
「にゃ」
「……理解していただけましたか?」
「おー」
アルフィナは、それを肯定だと受け取ることにした。
約束どおり焼き魚を与える。
三毛猫は待ってましたと言わんばかりに顔を近づけ、香ばしく焼かれた魚へ齧りついた。夢中で食べ進める姿を眺めながら、アルフィナはこの勇者が選ばれた理由について改めて考えていた。
権威には媚びない。
確かに女神を前にしても一切媚びていない。
富に執着しない。
おそらく金貨など与えても魚ほど喜ばない。
世界の常識に縛られない。
そもそも常識を知らない可能性がある。
条件には合っていた。
あまりにも合いすぎている気もした。
魚を食べ終わった三毛猫は口元を舐め、それからアルフィナの足元まで歩いてくると、当然のように身体を擦りつけた。
「まあ」
アルフィナが背中を撫でる。
三毛猫は目を細めた。
首の後ろを撫でれば頭を少し下げ、耳の後ろを指先で掻けば気持ちよさそうに喉を鳴らす。先ほどまで世界の命運について考えていた女神も、次第に撫でることへ夢中になり、ついには両手で猫の頬を柔らかく揉んでいた。
「あなたは不思議な勇者ですね」
「んー」
「けれど、きっとこれにも意味があるのでしょう」
「にゃ」
「地上の人々を、お願いします」
三毛猫は目を細めたまま喉を鳴らしている。
やがて転移の時間が訪れた。
アルフィナは三毛猫の身体へ最後の加護を刻み、地上へ通じる魔法陣を開く。
「勇者よ。あなたの旅路に、私の祝福があらんことを」
三毛猫の身体が光に包まれる。
「まずは聖光国を目指してください。そこで聖女があなたを待っています」
「にゃー」
「世界について分からないことがあれば、聖女に尋ねれば――」
三毛猫は消えた。
神域に静寂が戻る。
アルフィナはしばらく魔法陣の跡を見つめてから、ふと不安そうな顔になった。
「……本当に理解してくださったのでしょうか」
その疑問への答えを知るには、そう長い時間は必要なかった。
勇者として選ばれた三毛猫が覚えていたのは、世界を救う使命でも、聖光国へ向かう指示でも、大帝国や魔王国についての説明でもなかった。
撫でてもらったことが、とても気持ちよかった。
焼き魚が、とても美味しかった。
だいたい、その二つであった。
女神の加護を受けた勇者が地上で最初に目を覚ました場所は、聖光国から遥かに離れたクルトの大森林だった。
そこは何百年も前から巨大な樹木が生い茂る原生林で、人が踏み入れることは少ない。樹冠は幾重にも重なり、昼でも地面まで届く陽光は柔らかく弱められている。倒木には苔が生え、湿った土の匂いが漂い、遠くから鳥や虫の声が絶え間なく聞こえていた。
そんな森の中、柔らかな草の上に三毛猫は寝転がっていた。
召喚による眩しい光が消えてからしばらく経ち、猫はようやく目を開く。
知らない場所だった。
しかし慌てる様子はない。
周囲を一度見回したあと、大きな欠伸をして口を閉じると、前足を地面につけたまま腰と尻を高く持ち上げ、背中を反らせながらぐいっと身体を伸ばした。十分に筋肉を伸ばしてから顔を左右にぶるぶると振り、その場に座り込む。
そして前足を舐め始めた。
舐めて湿らせた前足で顔を何度も擦り、耳の近くまで丁寧に毛づくろいする。
世界の危機について考えている様子はなかった。
それどころか、自分が勇者になったことすら忘れている可能性が高かった。
「んー」
毛づくろいを終えた三毛猫は立ち上がると、気の向くまま森の中を歩き始めた。
行き先が決まっているわけではない。
聖光国という言葉も覚えていない。
ただ、森にはさまざまな匂いがある。
湿った土、樹液、花、獣、鳥、それから水。
猫はその中から水の匂いを選び、木々の間を進んでいった。
やがて小さな沢へ辿り着く。
山から流れてきた清水は澄み切っており、底に転がる小石までよく見えた。三毛猫は川岸へ降りると前足が濡れない位置に身体を置き、舌を素早く動かして水を飲む。
何度か喉を潤したところで、水面の下を何かが横切った。
三毛猫の動きが止まる。
魚だった。
小さな銀色の魚が、流れに逆らいながら泳いでいる。
女神の説明は忘れた。
焼き魚の味は覚えている。
三毛猫は水面をじっと見つめた。
魚が石陰から出てくる。
前足が動いた。
水飛沫が上がる。
最初の一撃は外れ、驚いた魚が逃げると、猫は濡れた前足をぶるぶる振ってから沢沿いを追いかけた。
次に魚が浅瀬へ入ったところで再び前足を振る。
今度は爪が魚を引っかけた。
銀色の身体が水から飛び出して川岸へ転がり、三毛猫はすかさず飛びつく。
「おー」
自分の獲物を前に、どこか満足そうな声を出した。
生魚ではあるが、猫にとっては問題にならない。
頭から齧りつき、骨ごと噛み砕きながら食べ始める。
アルフィナから与えられた身体能力の加護は、早くも魚捕りという用途で発揮されていた。
食事を終えた三毛猫は口元についた鱗を舐め取ると、また森を歩き始める。
しばらく進んだところで今度は甘い匂いを見つけた。
低い木の周囲に赤い果実がいくつも落ちている。
猫はその一つへ鼻を近づけ、何度か匂いを嗅いでから小さく齧った。
酸味のあとから強い甘味が広がる。
「んま」
思わず漏れた声とともに、もう一口齧る。
猫が本来どの程度果物を好むのかという話は別として、この三毛猫は気に入ったらしい。
一つ全部を食べることはせず、何度か齧って満足すると、そのまま果実を置いて歩き出した。
陽が少しずつ傾いていく。
森の中は外より早く暗くなる。
夜を迎える前に寝る場所を見つけたいという程度の本能はあり、三毛猫は木の根元や岩の隙間を覗きながら進んでいた。
すると、木々の向こうに自然物とは違う形が見えた。
小屋だった。
太い丸太を組んで造られた古い猟師小屋である。
以前は森で狩りを行う人間が使っていたのだろうが、煙突から煙は上がっておらず、周囲にも人の匂いはほとんど残っていない。軒先には壊れた罠が吊られ、入口の横には薪が積まれていたものの、その多くが雨と湿気で黒ずんでいた。
三毛猫は慎重に近づき、戸口の前で鼻を動かす。
人はいない。
犬もいない。
ただし、昔ここに人が暮らしていた匂いと、乾いた草の匂いがする。
戸は少しだけ開いていた。
三毛猫は前足を隙間へ入れ、身体を押しつけるようにして中へ入り込んだ。
小屋の内部には簡素な寝台、古びた机、壁に掛けられた道具類が残っていた。長い間使われていないため薄く埃が積もっているが、雨風を防ぐには十分であり、奥には家畜用だったらしい乾いた飼い葉が積まれている。
三毛猫は迷わずそこへ向かった。
飼い葉の上に前足を乗せる。
柔らかい。
もう片方も乗せる。
悪くない。
「おー」
猫は飼い葉の上へ身体を移すと、寝心地のよい場所を探すようにくるくると回り始めた。
一周。
二周。
三周ほど回ったところで満足したのか、ようやく身体を沈める。
前足を胸の下へしまい込み、尻尾を身体に沿わせると、三毛猫は一度だけ入口のほうを見た。
森では夕暮れを告げる鳥が鳴いている。
世界のどこかでは帝国軍が進軍していた。
魔王国では新たな兵が集められていた。
天空では竜たちが地上の動きを観察し、深海では海底王国の軍議が開かれている。
聖光国では今頃、聖女が勇者の到来を待っていることだろう。
だが、その勇者は聖光国がどちらにあるかすら知らなかった。
そもそも向かう必要があることを覚えていない。
今日一日の出来事として三毛猫の中に残っているのは、美味しい焼き魚をもらったこと、知らない場所で魚を捕まえたこと、甘い果実を見つけたこと、そして今いる飼い葉がなかなか寝心地のよい場所だということくらいだった。
「んー……」
三毛猫は目を細める。
ほどなく喉から小さな寝息が漏れ始めた。
こうして世界を救うため召喚された勇者の第一日は、大帝国との戦いでも魔王との邂逅でもなく、沢で魚を捕り、落ちた果実を味見し、誰もいなくなった猟師小屋の飼い葉で昼寝より少し長い眠りにつくことで終わった。
女神アルフィナが想定していた勇者の旅とは、最初からかなり違っていた。
それでも三毛猫は気持ちよさそうに眠っている。
白と黒と茶の毛並みに木漏れ日の名残が淡く差し込み、加護の証である微かな光が一瞬だけ身体を包んだものの、本人は気づかないまま前足へ顔を埋めた。
世界が待ち望んだ勇者は、その夜、誰よりものんきに眠っていた。