拝命、闇の魔術に対する防衛術 ※期間は別途   作:細野藤松

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第七話 サー・ニコラス・ド・ミムジー=ポーピントン卿 没後五百年記念絶命日パーティー

九月最後の週、朝食の席で、フレッドとジョージが揃って敬礼した。ハリーとロンにではない。教職員テーブルへ向かってである。

 

視線の先では、ヒノ先生が紅茶のカップを持ったまま、見なかったことにする顔で新聞を読んでいた。

 

「……ねえ。ヒノ先生に敬礼するの、流行ってるの?」

「俺たちの間でな」

「あの人は分かってる人だ」

 

フレッドが真顔で言った。ジョージも真顔だ。

 

「俺たちの仕事を、初めて正しく採点した大人だぞ」

「悪戯を減点代わりに講評したんだって?」

 

ロンが呆れた。

 

「兄さんたち、完全に手なづけられてるよ」

「そんなんじゃない。師事だ」

「ああ、まさに俺たちの大師匠だ。ヒノ大先生サマだ」

「マーマレード取ってくれる?」

「取るけど、話は終わってないからな」

 

ハリーはロンと目を合わせて、視線だけで会話した。いずれ、とんでもないことになりそうだ。

 

その日の防衛術は、待ちに待った第四回、杖の解禁日だった。教卓には、細長い木箱が置いてある。

 

「連絡した通り、今日から呪文をやります。で、先週言った件ね。教材杖を使うやつは、前へ。番号札と引き換え。理由は訊かない」

 

一瞬、教室は静かだった。誰も動かない。

 

「先生。理由って、何の理由ですか」

 

シェーマスが訊いた。

 

「訊かないって言ったろ」

 

先生は木箱の蓋を開けた。それきりだった。

 

最初に立ったのは、ロンだった。わざとらしいほど何でもない顔で歩いていって、「二」と番号を振られた杖を受け取り、スペロテープの杖を鞄の奥へ突っ込んだ。先生は目も合わせず、名簿に何かを書いただけだった。

 

二人目は、ネビルだった。ネビルは自分の席で、しばらく手の中の杖を見ていた。それから、その古い杖を布で包んで、壊れ物みたいに鞄へしまい、前へ出て「一」の杖を受け取った。戻ってくるネビルの顔は、なんだか身軽で、同時にちょっと申し訳なさそうだった。ハリーはその両方が、少しだけ分かる気がした。

 

「じゃ、今日やる呪文は一つだけ」

 

先生は黒板に書いた。

 

エクスペリアームス――武装解除

 

「攻撃の呪文じゃないのか、って顔してるのが半分いるね。じゃあいつも通り、順番の話をします。相手を倒す呪文より先に、相手の武器を落とす呪文。人間ってのはねえ、道具を失くすと、途端に弱いんだ。杖さえ落ちれば、大抵の相手には、君らの三動作が間に合うようになる。倒さなくていい。落とせば勝ちだ」

 

二人一組の練習が始まった。撃つ側と受ける側を交互に。飛んだ杖は手で拾わず、足で自分の側へ引き寄せてから拾うこと。

 

「屈んだ頭は無防備だからね」

 

ハリーの番が来た。エクスペリアームス、と唱えると、ロンの二号杖が綺麗な弧を描いて飛び、床をくるくる回って止まった。

 

「ポッター」

 

いつの間にか横に先生がいた。心臓に悪い。

 

「今の手首。もう一回」

 

もう一回やった。二号杖がまた飛んだ。

 

「うん。筋がいい。その型、忘れんな。グリフィンドールに三点」

 

それだけ言って、先生は次の組へ歩いていった。褒められたのだと理解するのに少しかかった。派手な褒め方ではないし、加点はネビルが逃げ方を褒められたときより低い。ただ、忘れんな、という言い方が、ずっと先の話をしているみたいだった。

 

この日一番の番狂わせはシェーマスだった。撃つたび左に曲がると先生が公言した癖物を「面白そうだから」と自分から借り、狙いの右を撃つという荒業をその日のうちに会得して、練習試合で初めてディーンに勝った。

 

「こりゃいいや、僕の杖より当たる!」

 

前髪を焦がさずに杖を弾き飛ばしたシェーマスは、嬉しそうに吠えた。

 

「じゃあ僕の負けは杖のせいじゃないってこと?」

 

とディーンがぼやいた。ハーマイオニーは、お説教が喉元につっかえたまま、ちょっと息苦しそうにしていた。

 

罰則の通知は、十月最初の週に来た。

 

九月一日の件の、積み残しである。ロンはフィルチの下でトロフィー室の磨き上げ。ハリーの分は、羊皮紙を覗き込んだロンが読み上げた。

 

「ヒノ教授の夜間作業の助手を命ずる。二十時、職員室前」

「トロフィー磨きの方がマシだったかも」

 

ハリーが言うと、ロンは首を振った。

 

「甘いね。フィルチといっしょに四時間だぞ、こっちは。……なあハリー」

 

ロンは声を落とした。

 

「逮捕されるなよ」

「やめてよ、縁起でもない」

 

夜間作業の実態は、拍子抜けするほど地味だった。ハリーの仕事はランタンを掲げることと、巻尺の端を押さえることだった。ヒノ先生は廊下を歩きながら、敷物のめくれを測り、動く甲冑の位置を記録し、松明の間隔を数え、全部を例のノートに通し番号で書いていく。

 

「先生。これ、何の作業なんですか」

「危険箇所台帳の更新。どうもこの城ってのは生き物でね、先週と今週で危ない場所が変わる」

「……先生って、夜、いつもこれを?」

「まあね。夜勤は慣れっこだ」

 

三階の廊下で、先生が松明の列を見上げて首をひねった。

 

「この松明、先週より一本少なくないか」

「え……分かりません」

「だよなあ」

 

先生はノートに何か書いて、それきりその話はしなかった。

 

不思議と気まずくなかった。大人と二人きりの沈黙は、ハリーにとってはいつも叱られる直前の時間だ。ダーズリー家の車の中とか、マクゴナガルの執務室とか、校長室の前とか。ここでは、巻尺の伸びる音と、ペンの音だけがある。

 

四階の廊下の半ばで、ヒノ先生がふと言った。

 

「そういえば。キングズ・クロス駅の柵の件、あれから何か思い出したことある?」

「……いえ。何も」

「そ。ならいい」

 

先生はノートをめくった。

 

「魔法省に照会かけてるんだけどな、回答遅延二十九日目。あの柵、なんで君ら二人の前でだけ閉じたのか。俺はまだ、あれが一番気に入らない」

 

まだ調べてたのか、とハリーは思った。あの夜のことは、学校中がもう「バカな二年生の武勇伝」として消化し終えている。フィルチでさえ、泥の話しかしない。

 

その時だった。

 

「……殺してやる……」

 

ハリーは動けなくなった。

 

「……裂いてやる……ずたずたに……」

 

声は、壁の中から聞こえた。冷たく濁った声が、石壁の向こうをすうっと移動していく。上へ。

 

「どうした」

 

ヒノ先生の声で、我に返った。ランタンが自分の手の中で揺れていた。先生はハリーの顔を一度見て、それから壁を見た。

 

「何か聞こえたか」

「……こ、声が」

「どこから」

「か、壁の……中、から」

 

先生は迷わなかった。片手を挙げてハリーを黙らせ、壁に歩み寄り、耳を石に当てて、しばらく動かなかった。それから離れて、首を振った。

 

「俺には聞こえん。何て言ってた」

 

言えなかった。

 

殺してやる、と言っていました。壁の中の声が。僕にだけ。口の中で組み立てたその報告は、どう並べ替えても、まともじゃない子供の台詞にしかならない。魔法界に来て二年目だが、それくらいは分かる。ここでだって、聞こえない声が聞こえるのは、いいことじゃないだろう。

 

「……気のせいだった、かも。すみません」

 

ヒノ先生は、ハリーをしばらく見た。ただノートを開いて、時刻と場所を書いた。

 

「ポッター。一つだけ言っとく」

 

書きながら、先生は言った。

 

「何か聞こえたり、見えたりしたら、内容がどれだけ馬鹿らしくても、言うこと。いいか、馬鹿らしい報告を叱った警官は、次の報告を殺すんだ。だから俺は叱らない。絶対にだ。今日のところは『気のせい、と本人談』って書いとく。訂正はいつでも受け付ける」

 

はい、と答えた声は、我ながら小さかった。帰り道、先生はいつもより口数が少なかった。

 

翌朝、ハリーはロンとハーマイオニーにだけ打ち明けた。ロンは「壁の中から?」を何度も言った。ハーマイオニーは眉間に皺を寄せ、長いこと黙ってから言った。

 

「……魔法界でもね、ハリー。他の人に聞こえない声が聞こえるのは、いい兆候じゃないの」

 

分かってるよ、とハリーは思った。

 

 

 

十月は雨と一緒に来た。

 

湖は増水し、廊下は湿り、城中で風邪が流行った。マダム・ポンフリーの元気爆発薬は劇的に効いたが、飲むと数時間、耳から湯気が噴き出した。ジニーは顔色が悪いままパーシーに薬を飲まされ、燃えるような赤毛と耳の湯気で、頭全体が燃えているように見えた。パーシーは満足そうに妹の背中をさすっていた。

 

それから、コリン・クリービーである。

 

「ハリー! ねえハリー、写真撮っていい? 一枚だけ! 動くんだよね、魔法界の写真って! 現像液に魔法の薬を混ぜると動くって本当? サインもらっていい? 他の寮の友達がね、君のこと嘘だって言うから、証拠に――」

 

一年生のコリンは、首から下げたマグルのカメラごと、ハリーの行く先々に出現した。うっとうしい。うっとうしいのだが、無下にもできなかった。牛乳配達の父さんに動く写真を送るんだ、と目を輝かせて言う顔が、魔法界に来たばかりの頃の自分に、少しだけ似ていたからだ。

 

そしてハリーは、クィディッチ練習帰りの泥をエントランスホールに点々と残した廉で、フィルチに捕まった。

 

管理人室で「処刑」だの「内臓を吊るす刑の復活」だのの書式(そんな書式があるのか?)を探されている最中、天井で世界の終わりみたいな破壊音がした。フィルチが飛び出していき、戻ってこず、ハリーは釈放とも言えない形で解放された。

 

廊下で、ほとんど首無しニックがすうっと壁から出てきた。

 

「うまくいきましたか? ピーブズに頼んで、フィルチの部屋の真上で『姿をくらますキャビネット棚』を落としてもらったんです。ちと大きな音でしたが」

「あれ、ニックが? ……ありがとう! 本当に助かった」

「いえ、礼には及びません。――いや、実を言えばですね、ハリー。及んでもらえると、ありがたい話が一つあります」

 

ニックは、透けた胸元から一通の手紙を取り出した。差出人はサー・パトリック・デレーニー=ポドモア卿。首無し狩りの、入団審査の結果通知だった。

 

「『貴殿の首は、半インチの皮膚および筋により頸部に接続しており、当狩猟団の入団要件である完全なる斬首を満たさぬものと認められる』――だそうです。半インチですよ、ハリー君。たった半インチ! 四十五回も鈍らの斧で打たれた者に、この仕打ちです!」

「……ひどい話だね」

「そうでしょう! そうでしょうとも!」

 

ニックは帽子ごと首を傾け(文字通り、首が横に倒れた)、咳払いをした。

 

「時にハリー君。今度のハロウィーンは、私の五百回目の絶命日でしてね。地下でささやかなパーティーを開きます。……君のような有名人が来てくれたら、サー・パトリックへの、その、良い見せつけに――いや、大きな名誉になるのですが」

 

命の恩人ならぬ釈放の恩人である。断れるはずもなかった。

 

「ロンとハーマイオニーも連れてきていい?」

「無論! 生きた客人は歓迎ですとも!」

 

ハーマイオニーはとても乗り気だった。

 

「絶命日パーティーに出たことのある生きた人間なんて、ほとんどいないはずよ。歴史的じゃない」

 

ロンはまったく乗り気ではなかった。

 

「ハロウィーンだぞ。上ではご馳走が出てるんだぞ。かぼちゃと、焼いた芋と、コウモリ形の――」

 

多数決で、地下に決まった。

 

そしてハロウィーンの夜、地下への階段を降りるにつれ、空気が氷水になった。通路の蝋燭は全部、細長い漆黒の蝋燭で、炎が青かった。青い光の中では、生きている三人の顔色まで死人のそれになった。突き当たりから、爪で黒板を引っ掻く音を上品にしたような音楽が聞こえてくる。後で分かったが、鋸の合奏だった。

 

「ようこそ! ようこそ、我が友よ!」

 

黒天鵞絨の帳の前で、ニックが最上級の礼で出迎えた。頭上の垂れ幕には「サー・ニコラス・ド・ミムジー=ポーピントン卿 没後五百年」。

 

広間は、真珠色の霧だった。霧のあちこちで何百という幽霊がワルツを踊り、踊りながら互いの体を平気で通り抜け、通り抜けた拍子に裾や袖の輪郭がひとつに溶けてまた分かれ、三人の吐く息が白く凍って見えた。

 

「あー、食べ物でも見に行く?」

 

ロンが希望を込めて言った。

 

行かなければよかった。

 

テーブルの上には、腐った魚が銀の大皿に艶々と並び、真っ黒に焦げたケーキが山を成し、蛆のたかったハギスが湯気(悪臭)を立て、灰色の毛が生えたチーズの隣に、墓石の形をした巨大な灰色のケーキが鎮座していた。ケーキにはタール状の文字で「サー・ニコラス・ド・ミムジー=ポーピントン 一四九二年十月三十一日没」。太った幽霊が一人、皿の腐った鮭の中を、口を開けて何度も通り抜けていた。

 

「……あの、それ、味ってするんですか?」

 

ロンが訊いた。

 

「ごくわずかにな」

 

幽霊は悲しげに言った。

 

「通り抜ける瞬間だけ、匂いの影のようなものが。だから腐らせるのだよ。濃い方が、影も濃い」

「ウン、なるほどね」

 

ロンは青い顔で頷いた。

 

「すごく合理的だ」

「おやおやおやァ?」

 

頭上から、パーティー帽をかぶったピーブズが逆さまに降ってきた。生者三人を見つけて、目が輝いている。

 

「生きてるのが来てる! なんで? 死に損ない? 予行演習?」

「招かれた客よ」

 

ハーマイオニーが澄まして言った。

 

「ふーん? じゃあ挨拶してきなよ、ほら、あそこ。嘆きのマートルにさ」

 

ピーブズはにやにやと指差した。ハーマイオニーが慌てて声を落とした。

 

「しっ……! 駄目よ、その名前で呼んじゃ。本人が気にして――」

「誰が何を気にしてるですって?」

 

背後の空中に、分厚い眼鏡の幽霊が湧いていた。ハーマイオニーは必死に立て直した。

 

「あ……あの、マートル、よね? お会いできて嬉しいわ。あなたの、その、トイレの話は聞いてる。素敵な……由緒ある、トイレ、よね」

「嘘」

 

マートルの声が低くなった。どうやら立て直しには失敗したらしい。

 

「私のこと、陰気で、めそめそしてて、眼鏡が牛乳瓶の底だって思ってるんでしょ。みんなそう。みーんなそう!」

「思ってないってばさ〜」

 

ピーブズは揺れながらマートルに近づいて、耳元で嬉しそうに囁いた。

 

「『陰気なマートル』って、さっき廊下でみんな言ってたのにねえ〜」

「言ってない!」

「言ってた〜」

「うわあああん!!」

 

マートルは顔を覆って泣き崩れ――かけて、ふと手を止め、涙目のままキッと三人を睨んだ。

 

「いいもん。いいもん! あんたたちなんかに分かってもらわなくても、あの新しい先生は、私の話を最後まで聞いてくれたもん! 二時間も! 手帳にメモまで取って! 『また来る』って言ったもん! 仕事柄また訊きたいことがあるって!!」

 

言い捨てて、マートルは霧を貫いて飛び去った。ピーブズが「センセイのお友達だってさ〜! ケーサツのお友達〜!」と囃しながら追いかけていく。三人は顔を見合わせた。

 

「……新しい先生って」

 

ロンが言った。

 

「ヒノのこと?」

「二時間も、何の話を聞いたのかしら」

 

ハーマイオニーの目が光った。去年、あのバカでかい『ホグワーツの歴史』を取りに部屋に戻った時に似ている様子だ。

 

「手帳にメモって……あの幽霊から、いったい何を?」

「ていうか、ケーサツって何」

「警察ね。マグルの、法の執行機関」

「へえ」

 

答えは出ないまま、広間の空気が変わった。ニックが演壇代わりの氷の塊に浮かび上がり、自分で自分を追悼する演説を始めたのだ。

 

残念ながら、すぐ誰も話を聞かなくなった。狩猟ラッパが鳴り響き、乱入してきた十数騎の幽霊の騎馬が首を球にした馬上競技を始めたのだ。広間は瞬く間に観客の幽霊たちが歓声を上げる場になった。

 

「諸君! 見たまえこの首の弧を! これぞ完全なる斬首の証! ――おっとニック、君は参加できんのだったな! なにせ君の首は」

 

首は空中でくるりと回って、綺麗に胴の上に着地した。

 

「くっついておる!」

 

どっと笑いが起きた。ニックは氷の演壇の上で、微動だにしなかった。ハリーは思わず声をかけた。

 

「ニック。あの、演説、僕らは聞いてたよ。すごく、その、感動的で」

「……ありがとう、ハリー君」

 

ニックは寂しげに微笑んだ。

 

「半インチです。たった半インチの皮が、五百年、私をあちら側に入れてくれません。――いや、愚痴は止めましょう。今宵は私の絶命日です。楽しんで――」

 

声が、途切れた。

 

「……裂いてやる……」

 

背中が冷たくなった。

 

「……引き裂いて……殺してやる……」

 

あの声だ。壁の中。冷たく、濁って、そして動いている。上へ。ハーマイオニーの声が遠かった。

 

「ハリー? ハリー、どうしたの」

「あの声だ」

 

自分の声が、他人のもののように聞こえた。

 

「また――聞こえる。上に行く。何かを殺しに行く」

「声って、僕には何も」

「来て!」

 

ハリーは走り出した。青い蝋燭の通路を駆け抜け、階段を駆け上がる。背後でロンが「だから何も聞こえないってば!」と叫び、それでも二人はついてきた。玄関ホール。声はまだ上だ。大理石の階段。二階。

 

「……血の匂いだ……血の匂いがするぞ……!」

「聞こえた!?」

「何も!」

「こっちだ!」

 

二階の廊下に飛び込んで、三人は急停止した。静かだった。声は、消えていた。代わりに、床が光っていた。廊下の半分ほどが水浸しで、松明の火を鏡のように映している。窓の縁では、蜘蛛が十匹、二十匹、いやもっと、行列を作って、我先にと窓の割れ目から外へ逃げ出していた。蜘蛛が、列を作って。ハリーはなぜかその光景から、しばらく目が離せなかった。

 

「ハリー」

 

ハーマイオニーの声が、掠れていた。

 

「あれ」

 

壁だった。二つの窓の間の壁に、松明の火を照り返して、一フィートはある文字が光っていた。

 

秘密の部屋は開かれたり 継承者の敵よ、心せよ

 

そして、その下。松明の腕金に、尾で吊るされて、ミセス・ノリスがぶら下がっていた。板のように硬直して、両目をかっと見開いたまま、ぴくりとも動かない。

 

「逃げよう」

 

ロンが囁いた。

 

「ここにいるところを見つかったら」

「え、でも、助けを――」

「逃げよう」

 

遅かった。遠くで宴の終わる喧噪が湧き、二本の階段から生徒の奔流が廊下に流れ込んできた。先頭の連中が三人と壁を見て止まり、後続が押し合い、そして波が引くように、静寂が広がった。水浸しの廊下と血文字と吊るされた猫を、何百の目が見た。

 

人垣を押し分けて、前へ出てきた者がいた。

 

「『継承者の敵よ、心せよ』?」

 

マルフォイだった。冷たい目が生き生きと輝き、血の気のない顔が上気していた。

 

「次はお前たちだぞ、穢れた血ども!」

「わしの猫!」

 

今度はフィルチだった。人垣を突き破り、猫を見て、後ずさり、恐怖に顔を歪めた。その目がハリーを捉えた。

 

「貴様ァ! 貴様がやったな! わしのミセス・ノリスを! 殺してやる! 貴様を――」

「アーガス!」

 

ダンブルドアが到着した。教師たちが続く。マクゴナガルとスネイプ。遅れてスプラウト。そして、人垣の一番後ろから来たはずのその人は、誰よりも先に立ち止まった。水浸しの床の手前だった。

 

「はい、全員そこまで」

 

大声ではなかった。なのに、廊下の全員に届いた。

 

「その場で止まって。動かない。それと、床の水、誰も踏むんじゃない」

 

ランタンが掲げられ、横に伸ばした腕が、見えない規制線になった。何百人の生徒と、教師たちと、喚くフィルチまでが、その腕の線で止まった。

 

ヒノ先生は、水際に一人で立った。壁の文字を見て、吊るされた猫を見て、床の水を見て、それから腰の手帳を抜いた。ハリーの位置からは、その背中しか見えなかった。血のように光る文字と、石になった猫と、その前に立つ、黒い羽織の背中。

 

「校長」

 

先生は振り返らずに言った。

 

「ここから先は、現場です」

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