ホグワーツ二階東廊下は、着任二ヶ月にして初めて日野の知っている匂いになった。
血や薬品の匂いのことを言っているのではない。人の出入りが止まり、時間が一箇所だけ煮凝りになった場所には独特の静まり方が残る。二十年、そういう場所ばかり歩いてきた。
「マクゴナガル教授。生徒の退去をお願いします。監督生に任せて構わない。それと、廊下の両端に人を一人ずつ。誰も入れないこと」
「分かりました。アルバス、猫は」
「検分が先です。五分ください」
ダンブルドアは頷いた。良いと思うようにやりなさい、を今夜も実行する男だった。白紙委任は危険だと思っていた。今夜に限っては、これほど動きやすい制度もない。
五分で見るべきものを見た。
一、床の水。廊下の半分を浸す水量。流れの跡は突き当たりの女子トイレの方向から広がっている。故障常習、慢性冠水。危険箇所台帳、通番六十三。
二、壁の文字。床から約一・五米、一文字およそ三分の一米。筆致は太く、刷毛かあるいは指束か。血に見える。見えるが、匂いが違う。鉄気が薄すぎる。指先で触れず、持参の綿で端の一画から微量を採取した。材質不詳。「血文字(ただし血に非ざる可能性大)」と書く。なかなか間の抜けた日本語だ。
三、猫。松明の腕金、床から約二米の位置に、尾で吊るされている。板のように硬直。外傷なし。吊るした者のリーチは成人相当――と書きかけて、線を引いて消した。浮遊術、変身、服従の呪文、透明マント。この手の現場では、物理の推定に全部「ただし魔法を除く」が付く。オモテの鑑識課の連中に見せたら三日は寝込むだろう。
猫本体も検分した。触れて最初に感じたのは冷たさ、次いで硬さ、そして棘の感触だ。猫の毛並み一本一本が、そっくりそのまま硬い何かに置き換わっている。目を覗き込むと、異様に精巧な彫刻の趣があった。念のためダンブルドアを呼ぶ。ダンブルドアもまた猫を検分し、日野と同じ見立てを静かに言った。
「死んではおらん。石化しておる」
「治りますか」
「マンドレイクが育てば、回復薬が作れる。ポモーナに聞いたところでは、数ヶ月というところじゃな」
死んでいない。治る。それだけでこの事案の帳簿は半分軽くなった。もっとも、と日野は手帳の隅で考える。法律上、猫は器物である。本件の正式な分類は器物損壊。この分類は、あの管理人の前では墓場まで持っていくことにする。
袖の中は静かなものだった。参考にならん。
「さて」
背後で、油を差していない扉のような声がした。
「検分ごっこはお済みかな、ヒノ教授。ならば次は尋問の時間だ。ポッターとその取り巻きが、都合よく第一発見者の位置にいる。宴にも姿がなかった。これが偶然だと?」
「尋問じゃなくて事情聴取ね。それと、順番。容疑の前にアリバイです」
三人の申告は、地下の絶命日パーティーに出席していた、というものだった。スネイプの唇が半月に歪んだ。
日野はその場でほとんど首無しニックを呼び、裏を取った。三名の入場時刻、退出の状況、証言は明快だった。
「……というわけでアリバイ成立。いい証人ですよ、幽霊ってのは。死んでる証人は買収が利かない」
スネイプの口の端がごく僅かに動いた。笑いを堪えた顔に見えたのは、たぶん気のせいだろう。
「では最後に一つだけ伺おうか、ポッター」
スネイプは矛を収めず、切っ先だけ変えた。
「なぜ、宴に行かなかった。絶命日パーティーとやらが終わってから、大広間に戻れば夕食に間に合ったはずだが」
ポッターが、詰まった。
日野はその沈黙を横から観察した。言えないことを飲み込んでいる。十月の夜、四階の廊下で見たのと同じだった。手帳の頭の中の頁をめくる。壁内音声を聴取と申告、本人撤回、「気のせい、と本人談」。訂正はいつでも受け付ける、と言った。
「疲れてたので、寝ようと思って」
嘘だな。日野は思った。思ったが、今夜は追わない。追う場所と追う時刻はこちらで選ぶ。心の動揺に付け込めば自供は取れるし、それはそれで使い方次第だが、今それをやっても良いことは何もない。
「聴取は終わり。三人とも寮へ。監督生と一緒にね」
それから日野は、廊下の隅で震えている管理人の前に立った。フィルチは猫の名を繰り返し呟いており、目の焦点が合っていなかった。
「フィルチさん。三つだけ言います」
日野は指を折った。
「一つ。猫は死んでない。二つ。治る。薬の当てもある。三つ」
指を三本立てたまま、日野は管理人の濁った目を正面から見た。
「やった奴は、俺が挙げます。管轄がどうあれ」
フィルチは口を半分開けたまま、何も言わなかった。
翌十一月一日、管理人室。
部屋は薄暗く、黴臭く、猫の毛だらけ――そこまでは予想通りだ。予想と違ったのは、天井から吊るされた鎖と手枷が、使われた形跡もないのに丁寧に磨き上げられていたことと、壁一面を占めるファイルキャビネットだった。抽斗の見出しには几帳面な手書きで年度が振ってある。一番古い見出しは四十年以上前だった。
聴取は猫の日課の確認から始めた。ミセス・ノリスの巡回経路、時間帯、昨夜の足取り。フィルチはぼそぼそと、しかし正確に答えた。この男は自分の猫の行動を分単位で把握している。
その途中だった。机の上の、封筒の束が目に入った。一番上の封筒に派手な飾り文字が躍っていた。「クイックスペル――初心者のための通信魔法講座」。
フィルチの視線が日野の視線を追い、封筒に達し、凍りついた。骨ばった手が封筒の束を引ったくり抽斗に叩き込む。それから管理人は、追い詰められた獣の顔で日野を睨んだ。
「……見たな」
「そりゃまあ」
「言えばいい! 言いふらせばいいだろう、他の連中みたいに! スクイブのフィルチ、魔法も使えん出来損ないが、魔法使い様の学校で床を磨いてるってな! どうせあんたも――」
「事件に関係あります?」
フィルチの罵声が途中で止まった。
「……何?」
「その講座と、昨夜の猫の件。関係あります?」
「な、ない、が」
「ないなら調書に書かない。書かないものは俺の中では存在しない。で、続きです。ミセス・ノリスの昨夜の巡回、二十時以降の足取りは」
フィルチは長いこと日野を見ていた。それからのろのろと椅子に座り直し、続きを話し始めた。声はさっきより少しだけ人間のものに戻っていた。
スクイブという単語の意味は後でマクゴナガルに確認した。魔法族の家に生まれた魔法の出ない子。説明を聞いてそれ以上は調べなかった。職務に関係がない。
聴取の本題は猫の話の先にあった。
「フィルチさん。ちょっと確認ですが、この壁のキャビネット、中身は全部生徒の記録?」
「……不品行の記録だ」
フィルチは鼻を鳴らした。
「規則違反、夜間徘徊、器物破損、立入禁止区域への侵入。日付、場所、名前、様態。全部だ。わしが赴任してからの全部」
「見せてもらっても?」
抽斗を三つ検めて、日野は手を止めた。
完璧だ。
日付は一件も飛んでおらず、記載は簡潔で、場所の表記は「三階東廊下(甲冑の手前)」の書き方で五十年ぶん統一され、年度ごとに綴じられ、綴じ紐は一本も緩んでおらず、加筆と訂正には必ず日付と理由が添えてあり、そのうえでこの五十年、本人以外の誰一人としてこの抽斗を開けたことがない。
処罰の妄想(「鞭打ち復活の請願・第十四次」等)が随所に挟まっているのはご愛嬌として、記録としての質は沼田あたりに見せて手本にさせたい水準だ。
「フィルチさん」
日野は、心からの敬意を込めて言った。
「あんた、この学校で唯一、まともに記録を付けてる人だ」
フィルチの返事はなかった。振り返ると管理人は口をぱくぱくさせて、五十年分の記録を認められた経験のなさと格闘していた。
その日のうちに、協力体制が成った。夜間巡回の分担図の共有。過去記録の閲覧許可。そして日野の側からは報告書に一項を約束した。ミセス・ノリスは城内最良の移動感知器であり、その機能停止は警備上の実害であると正式に書面へ残すこと。
「……猫が、感知器」
「規則違反者を誰より早く見つけてきたんでしょう。立派な保安設備ですよ。だから直す。設備の復旧は最優先事項です」
フィルチは横を向いてしばらく黙り、それから鍵束から古い鍵を一本抜いて、机に置いた。
「記録書庫の鍵だ。夜でも入っていい。なくすなよ」
城内に記録者が二人になった。
五十年前を掘る作業は、副校長立ち会いのもと資料室で行った。学籍簿。年鑑。理事会議事録。三日かけて、分かったことと分からなかったことが綺麗に分かれた。
分かったこと。一九四三年、この学校で何かが起きた。同年度の理事会議事録に、閉校の可否についてという議題が一度だけ現れる。審議の中身は綴じられていない。翌一九四四年度、在籍者数が説明なく減っている。そして年鑑の一九四三年の頁だけ、行事写真が極端に少ない。
減った数を数えた。二人である。
一人は死んだ生徒だろう。では、もう一人は誰だ。
卒業ではない(卒業者は名簿に載る)。転校の記録なし。では死んだのか、辞めたのか、辞めさせられたのか。退学処分の記録綴りを繰った。一九四三年度の頁はあった。あったが、綴じ穴の脇に紙を破り取った耳だけが残っていた。
死亡記録と同じ手口だ。同じ年に同じ手つきで、二枚抜かれている。一枚なら事故で済む。二枚は作為だ。手帳に書く。死者一名(氏名不詳)、退学者(推定)一名(氏名不詳)。両名の記録、抜取。優先度・最高。
もう一人。お前は死んだ側か。殺した側か。それとも、殺した側にされたのか。
「……妙ですね」
マクゴナガルが眉根を寄せた。
「事務が杜撰な学校ではないのです、ここは。少なくとも私が来てからは」
「ええ。杜撰ならこうはならない」
杜撰な記録は満遍なく薄い。ここは違う。周りは厚いのに、二点だけ正確に薄い。つまり誰かが書かせなかった。あるいは、書かれたものを抜いた。
代わりにと言うべきか。同じ一九四三年度の記録に、一つだけ妙に立派な紙が残っていた。表彰名簿である。
「学校特別功労賞 トム・マーヴォロ・リドル」
功労の内容、記載なし。
生徒の死で閉校が審議された年度に、内容を書けない功労で表彰された生徒が一人。日野は名前を手帳に書き写した。T・M・リドル。五十年前の卒業生。現在なら六十代――存命なら。
盾の現物はトロフィー室にあるというので、日野は見に行った。トロフィー室では折悪しく、罰則の少年が銀器を磨いていた。傍でフィルチが目を光らせている。
「あ……ヒノ先生? 何か?」
「盾を一枚、見に来ただけ。作業続けてな」
「盾ってどれです?」
「これ」
ロナルド・ウィーズリーは、日野の指した小ぶりな盾を覗き込んだ。
「ああ、それ、さっき磨きました。ほらぴかぴかでしょ。トム・なんとか・リドル。功労賞って、何した人なんですかね」
「さあね。書いてないんだ、それが」
「へえ。……なんか損な賞ですね。何したか誰も知らない賞なんて」
少年は屈託なくそう言って、次のトロフィーに取りかかった。日野は磨き上げられた盾の中の、五十年前の名前をもう一度だけ見て部屋を出た。
マートルの再聴取はその夜行った。
「あら! 来てくれたのね! 言ったでしょ、また来るって! ねえ聞いて、ハロウィーンの夜、私、ひどい目に遭ったの!」
証人は協力的だった。協力的すぎて、時系列の確定に一時間半かかった。要旨は以下の通り。
ハロウィーンの夜、証人は絶命日パーティーに出席。二十一時前、ピーブズに容姿を嘲笑され(この件の詳述に四十分)、泣きながら自室(便器)へ帰投。悲嘆の余り、トイレを水浸しにした(「わざとじゃないの、感情が溢れると水も溢れるの」)。以後、朝まで自室に籠っていた。外の廊下の物音、声、人影、一切気づかず(「泣いてたから何も! 私、泣くと集中しちゃうの!」)。
つまり床の水はこの証人の涙の副産物であり、犯行との直接の関係はない。犯人は偶然、水浸しの廊下を現場に選んだ。あるいは水など気にも留めなかった。
聴取を終えて、日野は宿舎で城の平面図を広げた。赤い印を二つ打つ。一つ。一九四三年、生徒(氏名不詳)死亡地点、二階東・女子トイレ。二つ。一九九二年十月三十一日、猫石化地点、二階東廊下、同トイレ前。
壁一枚。五十年を挟んで同じ住所である。偶然だと思えば楽になる。今回は楽にならない。
幽霊の件は翌々日までに片をつけた。ニックはこちらが切り出す前から乗り気だった。
「ハリー君たちの件では、私の言葉を採用していただいた。証人として! 生前を含めて、公式の記録に採用されたのは初めてです。それに私のパーティーの夜に起きた事件だ。主催者として看過できません」
太った修道士は二つ返事で、レイブンクローの婦人は無言の頷きで、それぞれ受けてくれた。血みどろ男爵には依頼はしなかった。地下牢の廊下で行き会った際、目礼を一つ。男爵も目礼を一つ。それで足りた。ああいう格の相手には言葉を増やすほど軽くなる。
依頼の内容は全員に同じもの、一つだけにした。
「見たものを、見たまま教えてください。解釈は要りません。珍しいかどうかもそちらで判断しなくていい。事実だけ。それが一番助かるんです」
収穫はピーブズの指揮系統の確認だった。あの災害は唯一、血みどろ男爵の統制下にある。つまり無秩序に見えて、この城の空には気圧配置が存在する。災害対策の基本は気圧配置の把握である。台帳を更新した。
一人だけ断られた。マートルである。現場に最も近い証人であり、常駐であり、こちらに好意的でもある。適任のはずだった。だが「見たものを教えてほしい」と頼んだ途端、水面の機嫌が変わった。
「……つまり、あれでしょ。見張りをしろってことでしょ。仕事しろってことでしょ」
「仕事ってほどのものじゃ――」
「ゼッタイやだ」
証人は便器の縁に頬杖をついて、そっぽを向いた。
「私は話を聞いてもらうのは好きだけど、頼まれごとは嫌い。だってそれ、私が役に立つから来てくれるってことになるじゃない。やだ。オリーブ・ホーンビーだって、宿題を写させてほしい時だけ優しかったんだから」
「なるほどね」
「怒らないの?」
「そりゃあ、供述も協力も、強要したら質が落ちるんだから仕方ない。気が変わったらいつでもどうぞ。変わらなくても聞いてほしい話ができたら、それもいつでも」
「……ふん」
十四歳のまま五十年というのは、そういうことなのだろう。分からなくもない理屈だった。日野にも、多少は覚えがある。
日誌に一行。自警団、届出受理。ただし現場最寄りの一名、加入拒否(強要せず)。
校長室には中間報告の体で上がった。入口は廊下の石像である。石像は合言葉を要求する。合言葉は月替わりで、年末までの分は着任時に知らされていた。知らされた時から一度も納得はしていない。
「……羊羹」
石像が脇へ滑った。
合言葉が菓子の名なのはこの校長の趣味だという。それは分かる。何せ朝からレモンキャンディを貪る爺さんだ。なぜ羊羹なのかが分からない。英国の廊下で、日本の役人に、月に何度も羊羹と言わせる。偶然なら人が悪いし、狙いなら人が悪い。どちらにせよ人が悪い。今度、来年分の選定基準を訊いてやろうと思っている。訊いたら負けな気もしている。
石像の奥は、螺旋の階段だった。乗ると、勝手に回りながら上がる。動く床は床じゃない、と生徒に教えている手前、乗るたびに多少の敗北感がある。手すりもない。台帳には初日に載せてある。通番十一。改善見込み、なし。
不死鳥が止まり木で羽づくろいをしていた。ダンブルドアは報告を最後まで聞き、レモンキャンディを勧め(辞退した)、それから炉の火を眺めた。
「それで、ミチヒロ。訊きたいことがまだ顔に書いてあるのう」
「では単刀直入に。秘密の部屋。あるんですか、ないんですか」
「伝説では、の」
ダンブルドアは炉の火から目を離さなかった。
「創設者の一人、サラザール・スリザリンが、城のどこかに隠した部屋があるという。彼の正統な継承者だけが開けることができ、中には――」
「あー、校長。伝説の講義は年鑑で読みました。俺が訊いてるのは真偽じゃない。五十年前に何があったかです」
炉の火が、爆ぜた。
「一九四三年。生徒が一人死に、閉校が審議され、記録が抜かれている。で、当時の職員名簿は抜かれてませんでした。変身術、A・ダンブルドア。……あなた、いたでしょう」
長い沈黙があった。老人は炉の火を見たまま、ゆっくりと言った。
「……当時、犯人は捕まった。事件は解決した――ということになっておる」
「なっておる」
日野は繰り返した。
「あなたは信じていない、という意味に聞こえますが」
ダンブルドアは答えなかった。答えないというやり方で、半分答えた。それから老人は初めて炉から目を上げ、半月眼鏡越しに日野を見た。
「ミチヒロ。逆に訊くがの」
声は穏やかなままだった。穏やかなまま重い。
「君は――生徒を、疑うのかね」
来た。
この質問は試験だ。疑うと答えれば、日野は生徒を容疑者名簿として見る監視者になる。疑わないと答えれば、日野は目を瞑る置物になる。どちらの答えもこの爺さんの手の上だ。幸い、手の上に乗らない答えは二十年前から用意してある。日野の職業の一行目だ。
「全員疑って、全員守る。両立しますよ。仕事なので」
半月眼鏡の奥の目が、一瞬、確かに緩んだ。
「……ふぉっふぉ。なるほどのう」
だが老人は、五十年前についてはそれきり一言も足さなかった。代わりに、去り際の日野の背中へ、独り言のような声だけを投げた。
「五十年前もな、ミチヒロ。疑われた者と、疑うた者がおった。疑いというものは時に、呪いより長く残るのじゃよ」
居室に戻り手帳を開く。「校長・要観察」の項に、二重丸を付けた。
『臨時報告(第二号様式)
発:在ホグワーツ・日野
宛:官房気付・加藤企画官
一、十月三十一日夜、校内二階廊下において、管理人の飼育猫一匹が硬直状態(校長の見立てでは「石化」)で発見され、現場壁面に威嚇的文言(「秘密の部屋は開かれたり」以下)が大書されていた。猫は数ヶ月内に薬草学的手法で回復可能の由。人的被害なし。
二、法的分類は器物損壊に相当するが、当職は本件を傷害未遂ないし予告事案として扱う。理由は二点。第一に、文言が人間を対象とする害意を明示しているため。第二に、動物への加害は対人加害の典型的な前駆行動であるため。昭和五十六年の「山彦」連続事件においても、端緒は管狐への加害であったことを想起されたい。前駆段階で拾えなかった事案の帰結を、当職は現場で見てきた。本件を猫の件として処理する選択肢は、当職にはない。
三、類似事案として、五十年前(一九四三年)に当校で生徒一名が死亡した形跡を確認した。ただし死亡記録・調査記録は校内に存在しない。同年度には退学者(推定)一名の記録も同様の手口で抜き取られている。存在しないことそのものに作為を認める。
四、当校の危機管理体制について特記する。事件発生後、捜査機関への通報が行われていない。当地では学校内の事案は学校内で処理する慣行の由。慣行と隠蔽の区別について、当職は判断を留保する。
五、当職は本件を継続調査する。理由:他にやる者がいないため。
以上』
書き終えて判を捺した。手帳の新しい頁に帳場の紙を作る。被疑者、不詳。凶器、不詳。動機、不詳(ただし五十年前から継続の可能性)。五十年前の死者一名、氏名不詳。同年の退学者(推定)一名、氏名不詳。証拠品、文字の材質サンプル一点。協力者、管理人一名、幽霊四名、副校長一名。要観察、校長一名。
白紙の多い紙だった。だが、白紙の位置は決まった。
「帳場が立った」
日野は判を置き、灯りを消した。