体育館のどこかで、最初に泣き声が上がった。
それは大きな悲鳴ではなく、押し殺そうとしても抑えきれずに漏れた嗚咽だったが、
その声をきっかけに、それまで辛うじて保たれていた全体の均衡が一気に崩れた。
堀北クラスでは篠原が池の腕へ縋りついたまま、
その場にしゃがみ込むようにして泣き始め、
軽井沢も佐藤の手を両手で握りしめながら、何度も「嘘でしょ」と繰り返していた。
「こんなのあり得ないでしょ!何で麻耶ちゃんが退学なのよ!」
軽井沢の声は途中から完全に裏返っていた。
佐藤はそんな軽井沢を落ち着かせようとしたが、
自分自身の目にも涙が溜まり始めており、普段の明るい表情はもう残っていなかった。
「恵ちゃん、もういいから」
「よくない!」
軽井沢は佐藤の手を離さない。
「よくないに決まってるじゃん!
何で助けられないの!?何でこんな馬鹿げた試験で終わりなのよ!」
少し離れた場所では、須藤が真嶋たち教師のいる壇上へ向かって怒鳴っていた。
「ふざけんなよ!こんなの試験じゃねえだろ!」
その声に呼応するように、別の男子生徒も立ち上がる。
「最初から十二人落とすつもりだったんじゃねえのか!」
「何が救済だよ!」
「全部茶番じゃねえか!」
「責任取れよ!」
「教師が黙って見てんじゃねえ!」
罵声が重なる。
一人が怒鳴れば、別の一人がさらに大きな声を上げる。
それまで恐怖や困惑を抱えながら黙っていた男子生徒たちまで、
感情の出口を見つけたように一斉に学校側へ怒りを向け始めていた。
「静かにしなさい!」
堀北が声を張り上げた。
しかし、その声も普段の冷静さとは明らかに違っていた。
「ここで暴れても結果は変わらないわ!」
そう言いながら、堀北自身の指先は震えていた。
池。
佐藤。
松下。
自分のクラスから三人。
その三人の名前が赤く表示された大型スクリーンを、
堀北は正面から見ることができなくなっていた。
「でも堀北さん!」
篠原が泣きながら叫ぶ。
「寛治がいなくなるんだよ!本当にいなくなるんだよ!」
堀北は何も言えなくなった。
「分かっている」と答えることすら、あまりにも軽く感じた。
その隙に、須藤が壇上へ向かって歩き出す。
「須藤くん!」
堀北が腕を掴む。
須藤は振り払おうとはしなかったものの、全身に力が入っていた。
「離せ、鈴音」
「駄目よ」
「一発くらい殴らせろ」
「何を言っているの!」
「こんなの黙ってられるかよ!」
須藤の声も震えていた。
怒りだけではない。
池が消える。
その現実を認めたくない。
それが全部混ざっていた。
「教師殴って俺が残れんのかよ!」
池が背後から怒鳴った。
須藤の動きが止まる。
池は篠原に腕を掴まれたまま、泣きそうな顔で無理やり笑っていた。
「だったらやめろよ。俺のせいでお前まで処分食らったら馬鹿すぎるだろ」
須藤は拳を握りしめた。
「お前に馬鹿って言われんの、本気でムカつくな」
「今そこかよ」
池が笑う。
しかし、その笑いはすぐに崩れた。
堀北クラスの反対側では、松下の周囲に女子生徒が集まり、
誰かが「こんなの絶対おかしい」と泣きながら繰り返していた。
松下は比較的落ち着こうとしていたが、
その表情は硬く、自分へ縋る生徒をどう慰めればいいのか分からないようだった。
龍園クラスでは、さらに激しい混乱が起きていた。
石崎が完全に理性を失いかけていた。
「納得できるわけねえだろ!」
近くにあった椅子を蹴り飛ばし、アルベルトが腕を掴んで止める。
「離せよ!」
石崎が振りほどこうとする。
「龍園さんも、椎名も、伊吹も三人まとめて退学とか、そんなのありかよ!」
別の男子生徒も教師へ怒鳴る。
「このクラス潰す気か!」
「やり直せ!」
「抽選なんか嘘だろ!」
「三人ずつ綺麗に揃ってんじゃねえか!」
「最初から決めてただろ!」
罵声が体育館の天井へ反響する。
女子生徒の中には椅子へ座ることすらできず、
その場にしゃがみ込んで泣き崩れている者もいた。
「椎名さんがいなくなるの嫌だよ……」
「伊吹まで何で……」
そんな声がいくつも重なる。
伊吹はそれを聞きながら、顔を背けていた。
「泣かないでよ」
そう言う声そのものが震えている。
「まだ死ぬわけじゃないんだから」
強がったつもりだった。
しかし言い終わる前に、自分でもそれが何の慰めにもなっていないことに気づいた。
ひよりは女子生徒の一人へ近づき、しゃがんで背中をさすろうとした。
「大丈夫ですから」
しかし、その手も僅かに震えていた。
「椎名さんが言わないでよ!」
泣いていた女子生徒が、思わず強い声を返す。
ひよりの表情が固まる。
「大丈夫じゃないじゃん!」
その女子生徒は泣きながら続けた。
「椎名さんがいなくなるのに、大丈夫なわけないじゃん!」
ひよりは返す言葉を失った。
少し離れたところでは、龍園が石崎たちを抑えようとしていた。
「いい加減にしろ!」
龍園の怒声が体育館へ響く。
一瞬だけ周囲が静まる。
「暴れて何が変わる!」
しかし石崎は食い下がった。
「龍園さんは悔しくないんすか!」
石崎の叫びが、騒然とする体育館を切り裂いた。
その言葉を聞いた瞬間、龍園の表情が変わった。
「悔しいに決まってんだろうが!」
それまで辛うじて押さえ込んでいた感情が、初めて剥き出しになった。
石崎が黙る。
周囲で教師たちへ罵声を浴びせていた男子生徒たちも、
泣き崩れていた女子生徒たちも、思わず龍園へ視線を向けた。
龍園は拳を強く握りしめたまま、石崎を睨みつける。
「俺だってこんな糞みてえな終わり方、納得してねえ!
ひよりも伊吹も巻き込まれて、俺まで揃って退学だと?笑わせんな!」
怒声が体育館の天井へ叩きつけられた。
「龍園さん……」
「俺たちはまだ終わってねえんだよ!」
石崎の言葉を遮るように、龍園がさらに叫んだ。
その声には、これまで誰も聞いたことのないほど激しい感情が込められていた。
「Aクラスにも上がってねえ!坂柳との勝負も、一之瀬との勝負も、
堀北との勝負も終わってねえ!それだけじゃねえ!」
龍園の視線が動いた。
その先にいたのは、騒然とする体育館の中で状況を見つめている綾小路清隆だった。
龍園の拳がさらに強く握られる。
「綾小路との決着もついてねえ!」
龍園クラスのいくつもの罵声が、少しずつ小さくなっていった。
「あいつを倒すために、俺はここまで来たんだ!一度負けたくらいで終わったつもりなんかねえ!
次はどうやって潰すか、どうやってあいつの余裕ぶっ壊してやるか、それをずっと考えてきた!」
龍園の呼吸が乱れていく。
「それなのに何だ、この終わり方は!」
龍園は壇上へ身体を向けると、そこに並ぶ教師たちを睨みつけた。
「勝負すら成立せずに退学だと!?これで終われってのか!?」
誰も答えない。
教師たちも、学校側の決定を覆すことはできない。
その沈黙が、龍園の怒りをさらに燃え上がらせた。
「俺たちはあいつに勝ち逃げされるんだぞ!」
龍園が再び石崎たちへ向き直った。
「俺たちは負けたままで終わるんだぞ!」
その叫びは、もはや石崎一人へ向けられたものではなかった。
伊吹へ。
ひよりへ。
そして龍園クラスの全員へ。
「テメェらは悔しくねえのかぁぁぁぁぁッ!!」
龍園の絶叫が体育館全体を震わせた。
石崎が歯を食いしばる。
アルベルトが俯く。
伊吹は龍園を見つめたまま動けなくなり、ひよりも悲しそうに目を伏せた。
「悔しいに決まってるじゃない!」
伊吹が叫び返した。
その目にも涙が浮かんでいた。
「私だってこんなの嫌よ!何でこんな終わり方しなきゃいけないのよ!」
石崎も拳を握る。
「俺だって悔しいっすよ!」
「だったら分かるだろうが!」
龍園が叫ぶ。
「俺だって同じなんだよ!」
その瞬間だった。
龍園の声が僅かに掠れた。
誰よりも早く異変に気づいたのは、ひよりだった。
「龍園くん……?」
龍園は答えない。
呼吸だけが荒い。
「ふざけるな……」
小さな声が漏れた。
「こんな終わり方……」
握りしめられた拳が震える。
「ふざけるな!」
龍園が叫ぶ。
「ふざけるなぁぁぁぁぁッッ!!」
それは、これまでの龍園翔からは想像することのできない、剥き出しの慟哭だった。
誰も言葉を発することができない。
龍園翔という男は、いつだって他人が取り乱す姿を見る側だった。
特別試験でクラスが混乱しても笑い、敵が怒ればさらに煽り、
追い詰められれば追い詰められるほど不敵な笑みを浮かべる。
暴力を恐れず、教師にも媚びず、上級生にも怯まず、
自分より遥かに強い綾小路を前にしてさえ、
敗北した翌日には次の勝負を考えているような男だった。
龍園クラスの生徒だけではない。
同学年の生徒たちも、上級生も下級生も、
龍園翔という名前にはある種の畏怖を抱いていた。
何を考えているのか分からない。
何をされるのか分からない。
追い詰めても決して折れない。
そう思われていた男だった。
その龍園の頬を、一筋の涙が伝った。
石崎が目を見開く。
伊吹も何も言えない。
ひよりはただ龍園を見つめていた。
龍園本人も、自分が泣いていることに気づいたのかもしれない。
しかし、拭おうとはしなかった。
次の涙が流れた。
「俺は……」
龍園が声を絞り出す。
「まだ負けたくねえんだよ」
誰も笑わない。
誰も龍園の涙を弱さだとは思わなかった。
「こんなところで終わりたくねえんだよ……!」
その言葉には、これまで龍園が積み上げてきたものすべてが詰まっていた。
Aクラスへ上がるという目標。
自分のクラスを率いてきた時間。
坂柳との競争。
一之瀬との競争。
堀北との競争。
そして、自分を完膚なきまでに叩き潰した綾小路清隆へ、いつか必ず借りを返すという執念。
そのすべてが、強制的に断ち切られる。
敗北を認めたわけではない。
戦うことを諦めたわけでもない。
それなのに、戦場そのものから追放される。
龍園にとって、それは単なる退学以上の屈辱だった。
石崎の目からも涙が溢れた。
「龍園さん……」
「だからこそだ!」
龍園が涙を流したまま怒鳴った。
「だからこそ、ここで教師殴って全部台無しにすんじゃねえ!」
石崎が息を呑む。
「俺たちが悔しいからって、残るテメェらまで処分食らってどうすんだ!」
龍園は石崎の胸元を掴んだ。
しかし、殴らない。
ただ真正面から睨みつける。
「俺たちはもう死んだ。だったら残った奴らが進め!」
「でも……!」
「死んだんだ!」
龍園の声が再び体育館へ響く。
「俺がいなくなったくらいで、このクラスまで終わらせんじゃねえ!」
石崎は涙を流しながら龍園を見る。
「勝て!」
龍園が言った。
「俺たちがここで終わるなら、テメェらが勝て!」
石崎の顔が崩れた。
「龍園さん……!」
「俺たちの退学を言い訳にして負けやがったら、学校の外からでもぶっ殺しに来るからな!」
その言葉に、石崎は泣きながら何度も頷いた。
「はい……!」
龍園は石崎の胸元から手を離した。
そして一度だけ大きく息を吐き、涙の残る顔を乱暴に腕で拭った。
「最後くらい頭使え」
最初に言おうとしていた言葉へ、ようやく戻った。
しかし、もう誰もそれを単なる叱責として聞いてはいなかった。
龍園翔は悔しかった。
誰よりも悔しかった。
敗北することがではない。
まだ戦えるのに、戦う場所そのものを奪われることが許せなかった。
だから泣いた。
だから叫んだ。
そして、それでも最後には自分ではなく、残されるクラスメイトを止めた。
その姿を、石崎も、伊吹も、ひよりも、ただ黙って見つめていた。
普段なら誰よりも不敵に笑い、決して取り乱すことのなかった龍園翔が流した涙は、
この試験が本当に取り返しのつかないところまで来てしまったことを、
どんな退学通知よりも鮮烈に物語っていた。
坂柳クラスでも、もはや普段の統率など完全に失われていた。
橋本は壇上へ向かって何度も怒鳴り、教師たちが何を言っても聞こうとしなかった。
「説明しろよ!」
怒声が体育館に響く。
「何で坂柳まで退学なんだよ!
俺も森下も一回助かっただろ!だったらあの救済は何だったんだよ!」
教師からの返答はない。
橋本の怒りに呼応するように、周囲の男子生徒たちからも次々と罵声が飛んだ。
「やり直せ!」
「こんなの認められるか!」
「学校側のミスだろ!」
「責任者を出せよ!」
「三人も退学させて終わりってふざけんな!」
怒声が怒声を呼び、体育館全体の混乱へ飲み込まれていく。
その中心で、坂柳有栖は杖を握っていた。
普段の彼女なら、こういう時こそ冷静だった。
周囲が感情的になればなるほど、
一歩離れたところから状況を観察し、何が最善なのかを判断する。
しかし、今は違った。
「皆さん……落ち着いて……ください……」
坂柳が声を出した。
しかし、その声を聞いた山村は息を呑んだ。
明らかにおかしい。
声が震えている。
それだけではなかった。
坂柳の呼吸が異常なほど浅い。
小さく息を吸っては、すぐに吐く。
そしてまた吸う。
肩が細かく上下していた。
「坂柳さん……?」
山村が不安そうに呼びかける。
坂柳は答えようとした。
「私は……大丈夫、ですから……」
大丈夫ではなかった。
言葉と言葉の間に何度も呼吸が挟まる。
顔色も普段以上に白い。
杖を握っている右手には明らかに力が入り過ぎており、指先が震えていた。
退学する。
自分が。
橋本が。
森下が。
三人とも。
何度頭の中で整理しようとしても、その結論しか返ってこない。
まだ綾小路との決着もついていない。
Aクラスとして卒業するという未来も消えた。
自分を信じてついてきたクラスメイトたちを残し、自分だけが途中で盤上から降ろされる。
それも敗北を認めたからではない。
自分の判断によって負けたからでもない。
抗い続けた末に、学校側から一方的に終わりを告げられた。
坂柳は何度も呼吸を整えようとした。
「皆さん……聞いてください……」
しかし誰も聞かない。
「学校側の説明をもう一度聞くべきです……ですから……」
男子生徒たちの怒号に声が掻き消される。
「納得できるわけねえだろ!」
「三人返せよ!」
「こんなの試験じゃねえ!」
坂柳の目が揺れた。
「静かに……」
誰にも届かない。
「皆さん……」
再び声を出す。
届かない。
坂柳は杖を握り直し、一歩前へ出た。
「お願いですから……!」
その声さえ、怒号に飲み込まれた。
橋本が振り返った。
そこで初めて、坂柳の異変をはっきりと認識した。
「坂柳?」
坂柳は答えない。
呼吸が速い。
胸元へ片手を当てながら、必死に息を整えようとしている。
「坂柳、お前……」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃねえだろ!」
橋本が近づこうとする。
しかし、その時だった。
後方から男子生徒の一人が壇上へ向かおうと人混みを押し分けた。
「教師に直接言う!どけ!」
「待てって!」
「離せよ!」
何人もの身体がぶつかる。
普段なら、坂柳自身がその動きを見て距離を取っただろう。
しかし今の彼女には、その余裕がなかった。
呼吸を整えることだけで精一杯だった。
一歩後ろへ下がろうとする。
足元がふらついた。
杖の先端が僅かに滑る。
身体が傾く。
「坂柳さん!」
山村が叫んだ。
坂柳は体勢を戻そうとした。
しかし、その瞬間、押し出されるように横へ動いた男子生徒の肩が坂柳の身体へ接触した。
「えっ――」
坂柳の身体が大きく揺れた。
「坂柳!」
橋本の絶叫が響いた。
杖が手から離れる。
坂柳は踏ん張ることができない。
そのまま床へ倒れ込んだ。
その拍子に、坂柳の頭から帽子が外れ、床へ転がった。
しかし混乱の中では誰もそれに気づかず、
坂柳へ接触した男子生徒が後ずさった瞬間、その靴底が帽子をまともに踏みつけた。
柔らかな生地が無惨に押し潰され、
形の整っていた帽子は大きく歪み、床の埃と靴跡によって薄汚れてしまう。
つい先ほどまで坂柳の頭を飾っていた帽子が、騒乱の足元で見る影もなく変形する。
「坂柳さん!」
山村が悲鳴を上げて駆け寄る。
「坂柳さん!坂柳さん!」
完全にパニックになっていた。
森下もすぐに坂柳の側へ膝をついた。
しかし、いつもの軽口はなかった。
「坂柳有栖、聞こえますか」
声は冷静だった。
少なくとも冷静であろうとしていた。
「どこか強く打ちましたか。この指が何本に見えますか?」
坂柳はすぐには答えない。
森下の表情が強張る。
「坂柳有栖」
「……大丈夫です」
掠れた声が返ってきた。
森下が僅かに息を吐く。
一方、橋本は坂柳へ接触した男子生徒の胸ぐらを掴んでいた。
「てめえ!」
「違う!わざとじゃねえ!」
「坂柳に何してんだ!」
「押されたんだよ!」
「知るか!」
橋本が拳を握る。
「橋本正義!」
森下が強い声を出した。
橋本が振り返る。
「今は坂柳有栖を優先してください」
その声にはいつもの奇妙な抑揚も、冗談めいた雰囲気もなかった。
橋本は歯を食いしばる。
「……クソッ!」
男子生徒を突き放し、坂柳のところへ戻った。
山村は今にも泣き出しそうだった。
「坂柳さん、大丈夫ですか?
どこか痛くありませんか?先生呼びますか?保健室に……」
「山村美紀」
森下が制する。
「一度に聞いても答えられません」
「でも!」
「分かっています」
森下自身の声も僅かに震えていた。
山村がそれに気づき、言葉を失う。
森下藍まで平静ではない。
ただ、この場で誰か一人でも冷静さを保たなければならないと理解しているから、
必死に普段の自分へしがみついているだけだった。
坂柳は床へ座り込んだまま、何度も浅い呼吸を繰り返していた。
そして、すぐ近くへ転がった自分の杖へ目を向けた。
いつも使っている杖。
毎日、自分の身体を支えてきた杖。
坂柳はそれへ手を伸ばした。
橋本が拾おうとする。
「俺が取る」
「結構です」
坂柳が答えた。
声が低かった。
橋本の手が止まる。
坂柳は自分で杖を掴んだ。
そして次の瞬間だった。
坂柳は、その杖を力の限り床へ叩きつけた。
甲高い金属音が体育館に響いた。
橋本が固まる。
山村が目を見開く。
森下さえ動きを止めた。
周囲で怒鳴っていた男子生徒たちも、一斉に坂柳を見る。
誰も状況を理解できなかった。
坂柳有栖が。
自分自身を支えるために使い続けてきた、大切な杖を。
自ら床へ叩きつけた。
もう一度振り上げようとした坂柳の腕を、森下が咄嗟に掴んだ。
坂柳の腕が震えている。
「離してください」
「できません」
森下は静かに答えた。
「今の坂柳有栖には、できません」
「森下さん」
「できません」
森下はもう一度繰り返した。
坂柳は森下を睨んだ。
しかし、やがて腕から力が抜けた。
杖が床へ落ちる。
再び乾いた金属音が響いた。
そして誰も言葉を発することのできない静寂の中で、坂柳が俯いた。
「こんな……」
声が震える。
「こんな醜悪で……惨たらしい結末など……」
坂柳がゆっくり顔を上げた。
そこに、いつもの優雅な微笑みはなかった。
端正な顔が怒りと悔しさに歪んでいる。
目には涙こそ浮かんでいない。
しかし、それ以上に恐ろしい表情だった。
普段の坂柳を知る者ほど、その顔に恐怖した。
「一体、誰が認められましょうか……」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。
それなのに、橋本の怒声よりも周囲を黙らせた。
坂柳の目が壇上へ向く。
教師たちを睨む。
そこにあったのは、これまで彼女が見せてきた冷静な敵意ではなかった。
剥き出しの憎悪だった。
「鬼畜の所業です」
誰かが息を呑んだ。
坂柳クラスの生徒たちが絶句する。
山村は震えていた。
橋本でさえ何も言えない。
森下だけが坂柳の側へ座ったまま、無言で彼女を支えている。
あの坂柳有栖が、ここまで感情を露わにしている。
それだけで、この試験がどれほど彼女を追い詰めたのか理解するには十分だった。
「私は……」
坂柳が息を吸う。
しかし呼吸が上手く続かない。
一度言葉を止め、胸元を押さえる。
「私は、負けることそのものを恐れていたわけではありません」
呼吸を整えながら、それでも言葉を続ける。
「自分より優れた相手がいるのなら、その方に敗北することもあるでしょう。
私自身の判断が間違っていたのであれば、その結果を受け入れる覚悟もあります」
坂柳の目が鋭くなる。
「ですが、これは何ですか」
誰も答えない。
「橋本くんを救おうとすれば別の方が危険に晒され、
森下さんを救おうとすればさらに責任が広がり、最後には私まで退学する。
それまでの救済も、議論も、私たちが必死に考え抜いた選択も、
すべて嘲笑うように十二名を退学させる」
声が再び震え始める。
「こんなものを……」
坂柳が床へ落ちた杖を見る。
「実力至上主義などと呼ばないでいただきたい」
橋本が息を呑んだ。
「坂柳……」
「私たちは玩具ではありません」
その一言に、山村の目から涙が零れた。
「数字でも、駒でもありません」
坂柳は壇上を睨んだまま続ける。
「ここにいる全員に、卒業まで過ごすつもりだった時間がありました。
目標がありました。友人がいました。競いたい相手がいました」
そこで初めて、坂柳の目が一瞬だけ綾小路のいる方向へ向いた。
しかしすぐに教師たちへ戻る。
「それを一つの試験で踏みにじっておきながら、規則だから受け入れろと仰るのであれば……」
坂柳の端正な顔が、再び激しい怒りに歪んだ。
「私は最後まで、この試験を認めません」
静かな宣言だった。
しかし、体育館の誰も声を上げなかった。
先ほどまで教師へ突進しようとしていた男子生徒たちさえ、その場に立ち尽くしている。
坂柳が怒鳴ったからではない。
むしろ逆だった。
普段なら何が起きても優雅に微笑み、
相手の感情すら盤上の情報として扱ってきた坂柳有栖が、
呼吸を乱し、足元をふらつかせ、転倒し、
自分を支えてきた杖を床へ叩きつけ、端正な顔を怒りに歪ませている。
その姿そのものが、どんな怒号よりも恐ろしかった。
橋本はゆっくり拳を下ろした。
山村も泣きながら口元を押さえた。
森下は何も言わない。
普段ならこの重苦しい空気を壊すために何か突拍子もないことを口にしたかもしれない。
しかし今だけは、一言も発しなかった。
ただ床へ落ちた杖を静かに拾い上げると、それを坂柳へ返すのではなく、自分の手元に置いた。
坂柳は何も言わなかった。
森下も何も言わなかった。
二人とも、それで意味は通じていた。
今だけは持たせない。
今の坂柳には、それほどの余裕すら残されていない。
その事実を理解した橋本は顔を歪め、俯いた。
そして坂柳クラスの誰もが、この瞬間初めて理解した。
自分たちのリーダーは冷静なのではない。
強いのでもない。
平気なのでもない。
自分たちと同じように悔しく、怒り、恐れ、傷ついているにもかかわらず、
それでも最後まで自分たちの前に立とうとしていただけなのだと。
だからこそ、坂柳がついに立っていられなくなった姿を前にして、
もう誰一人として暴れることはできなかった。
体育館に残ったのは、床へ杖を叩きつけた時の虚しい金属音の記憶と、
坂柳有栖が吐き捨てた言葉だけだった。
「退学者を出さない我々を罰したいだけなら、最初からそう仰ればいい」
その一言は、十二名の退学という結果を前にした坂柳有栖の、初めてにして最大の怒りだった。
一之瀬クラスでは、怒りよりも悲嘆が前面に出ていた。
一之瀬は神崎、網倉、白波の三人を前にして、
もはや自分の足だけで立っていることさえ苦しそうだった。
「嫌だよ……」
何度口にしたのか、一之瀬自身にも分からなかった。
「三人ともいなくなるなんて……そんなの無理だよ……」
声を出すたびに涙が溢れ、拭っても拭っても頬を伝っていく。
白波が泣きながら一之瀬へ抱きつき、網倉もその隣で顔を覆った。
「帆波ちゃん……」
「千尋ちゃん……」
一之瀬は白波の身体を抱き返した。
その腕に力が入る。
まるで強く抱いていれば、
午後六時になっても白波をこの学校へ繋ぎ止めておけるとでも思っているかのようだった。
「嫌だよ……神崎くんも、麻子ちゃんも、千尋ちゃんも……ずっと一緒だったじゃん……」
返事をすることのできない白波の嗚咽だけが聞こえる。
その周囲でも、一之瀬クラスの生徒たちが次々と泣き始めていた。
一人の女子生徒がその場へ座り込めば、
隣にいた女子生徒も耐えきれず膝をつき、互いの身体を支えるように抱き合う。
「どうしよう……」
「神崎くんまでいなくなるの……?」
「嫌だよ……」
「三人もいなくなったら、明日からどうすればいいの……?」
普段の一之瀬クラスからは想像もできない光景だった。
誰かが苦しんでいれば別の誰かが寄り添い、
意見が割れれば一之瀬を中心に話し合い、クラス全員で前へ進もうとしてきた。
その結束が、今は悲鳴と嗚咽に変わっていた。
男子生徒たちの感情も限界を超えていた。
「一之瀬にこんな判断させて何が教育だ!」
「三人まとめて退学とかふざけんな!」
「何のために今まで試験やってきたんだよ!」
「救済って言っただろ!だったら最後まで救わせろよ!」
怒号が壇上へ浴びせられる。
教師たちは黙っている。
それがさらに生徒たちを苛立たせた。
「黙ってんじゃねえよ!」
「説明しろ!」
「担任なら何とかしろよ!」
ついには星之宮へ怒りを向ける生徒まで現れた。
星之宮の表情が強張る。
普段の軽い口調も笑顔も完全に消えていた。
「私だって……」
そこまで言って、星之宮は口を閉ざした。
教師である彼女にも、この結果を覆す権限はない。
その事実を説明したところで、
目の前で三人の仲間を奪われようとしている生徒たちが納得できるはずもなかった。
一之瀬が白波からゆっくり身体を離した。
「みんな……」
誰にも届かない。
「もうやめよう……」
男子生徒たちの罵声が続く。
女子生徒たちの泣き声も止まらない。
「お願い……」
一之瀬が一歩前へ出た。
足元がおぼつかない。
網倉が支えようとしたが、一之瀬はそれでもクラスメイトたちの前へ出ようとした。
「お願いだから……先生たちを責めないで……」
「でも一之瀬!」
「こんなの納得できるかよ!」
「俺たち三人も失うんだぞ!」
その言葉が一之瀬の胸を抉った。
失う。
三人を。
自分が守ると決めたクラスから。
「分かってるよ……」
一之瀬の声が震える。
「分かってるから……」
それでも怒号は止まらない。
「学校側にもう一回やらせろ!」
「こんなの無効だ!」
「神崎たちを返せよ!」
「やり直せ!」
泣き声。
怒声。
悲鳴。
教師への罵声。
互いの名前を呼ぶ声。
それらすべてが一之瀬の周囲で渦を巻いていた。
一之瀬は両手で耳を塞ぎかけた。
しかし、途中で止めた。
これは自分のクラスだ。
自分が守ると決めた人たちの声だ。
聞かなければならない。
受け止めなければならない。
そう思うのに、もう何一つ受け止められなかった。
「やめて……」
誰も気づかない。
「お願いだから……」
声が掠れる。
そして次の瞬間、一之瀬の中で張り詰めていたものが切れた。
「やめてよぉぉぉぉぉッ!!」
絶叫が体育館を貫いた。
一之瀬クラスの怒号が止まった。
女子生徒たちの泣き声さえ一瞬小さくなる。
全員が一之瀬を見た。
一之瀬は泣いていた。
ただ涙を流しているのではない。
顔を歪め、肩を震わせ、呼吸すらまともにできないほど泣いていた。
「もう……やめてよ……」
声が震える。
「私だって分かんないよ……!」
神崎が目を見開いた。
「一之瀬……」
「分かんないよ!」
一之瀬が叫ぶ。
「どうすればよかったの!?誰を助ければよかったの!?誰を助けちゃいけなかったの!?
私、ずっと考えたよ!みんなが残れる方法、ずっと探したよ!」
涙が次々と落ちる。
「ポイントだって全部使ってよかった!私が代わりに退学するんでもよかった!
何でもよかった!三人が残れるなら何でもよかったのに!」
神崎が何か言おうとする。
しかし、言葉が出ない。
一之瀬は自分の胸元を掴んだ。
「私……入学した時から……」
呼吸が乱れる。
「みんなで卒業したかった……」
それは一之瀬帆波が、この学校へ入ってから何度も守ろうとしてきたものだった。
誰か一人を犠牲にして上へ行くのではなく、クラス全員で進む。
甘いと言われても構わなかった。
神崎から現実を突きつけられたこともあった。
それでも一之瀬は、その理想だけは捨てなかった。
「誰も退学させたくなかった……!」
一之瀬の膝が震える。
「私が守るって……みんなのこと守るって……そう思ってたのに……」
視線が神崎へ向く。
網倉へ。
白波へ。
三人とも泣いている。
午後六時になれば、三人はいなくなる。
一之瀬だけが残る。
「なのに……」
一之瀬の表情から、何かが抜け落ちた。
「三人も……」
小さく笑うような息が漏れた。
神崎の表情が変わる。
「一之瀬?」
「私が……」
一之瀬は自分の両手を見つめた。
「私が悪いんだ……」
「違う」
神崎が即座に否定した。
しかし一之瀬には届いていなかった。
「全部……私が……」
「一之瀬、聞け」
「私がちゃんとしてれば……」
「違うと言ってるだろ」
「私がみんなを……殺し……ひっ」
そこで言葉が途切れた。
一之瀬の口から、場違いな笑い声のようなものが漏れた。
「あ……はは……」
神崎が完全に言葉を失う。
網倉が震えながら名前を呼ぶ。
「帆波ちゃん……?」
「はは……あはは……あははははははははははははは!!」
一之瀬の精神は限界に達し、発狂した。
「あははははははははははははははは!!」
笑っているのに、涙だけが止まらない。
「一之瀬!」
神崎が目の焦点が合っていない彼女の肩を掴む。
その瞬間、一之瀬の笑い声が途切れた。
「うわああああああああああああああああああ!!」
一之瀬はその場へ崩れ落ちた。
白波と網倉が咄嗟に身体を支える。
「帆波ちゃん!」
一之瀬は二人へ縋りつくようにしながら、声を上げて泣き続けた。
「ごめんなさい……!」
何度も謝る。
「ごめんなさい……!ごめんなさい……!」
「帆波ちゃんのせいじゃないよ!」
白波も泣きながら叫んだ。
「違うよ!」
網倉も一之瀬を抱き締める。
それでも一之瀬は激しく首を振り続けた。
「違う……違うよ……!」
そして突然、一之瀬は二人の腕の中から教師たちのいる壇上へ顔を向けた。
「私を殺せええええええええええええええ!!」
絶叫だった。
体育館中の視線が一之瀬へ集中する。
「三人じゃなくて私を殺せええええええええええええ!!」
「一之瀬!」
神崎が叫ぶ。
しかし、もう一之瀬には届かなかった。
彼女にとって、この学校から仲間を失うことは、それほど決定的な喪失感だった。
「私一人退学でいいでしょ!?神崎くんも、麻子ちゃんも、千尋ちゃんも残してよ!
三人分なら私が全部背負うからぁぁぁぁ!!」
白波が泣きながら一之瀬を抱き締める。
「帆波ちゃん、やめて!」
「嫌だあああああぁぁぁぁ!!」
一之瀬は子供のように泣き叫んだ。
「三人を連れていかないでよぉぉぉ!!私が死ぬから!
私を退学にして!お願いだから三人を残してよぉぉぉぉ!!」
それは交渉ですらなかった。
ルールを分析しているわけでも、
学校側へ合理的な代替案を提示しているわけでもない。
ただ、大切な三人を失いたくないという感情だけが、
一之瀬の口から絶叫となって溢れ続けていた。
神崎は絶句していた。
入学以来、どれほど苦しい状況でも他人を励ます側だった一之瀬が、
今は白波と網倉に身体を支えられながら、自分を代わりに退学させてほしいと泣き叫んでいる。
「お願い……お願いだから……」
絶叫する力さえ失われ、一之瀬の声が掠れていく。
「私ならいいから……三人は残して……」
「よくないよ!」
白波が泣きながら強く否定した。
一之瀬が白波を見る。
「帆波ちゃんだけならいいなんて、そんなわけないよ!」
網倉も一之瀬を強く抱き締めた。
「私たちだって帆波ちゃんに残ってほしいよ!」
一之瀬の顔がさらに歪んだ。
自分が三人を失いたくないのと同じように、三人もまた自分を失いたくない。
そんな当たり前のことさえ、今の一之瀬にはあまりにも残酷だった。
「じゃあ……」
一之瀬は震えながら三人を見る。
「どうすればいいの……?」
誰も答えられなかった。
「誰もいなくならないためには……私はどうすればよかったの……?」
神崎も答えられない。
白波も。
網倉も。
この試験には、その問いに対する答えそのものが存在しなかった。
だから一之瀬は再び三人へ縋りつき、声が出なくなるほど泣き続けるしかなかった。
しかし体育館全体では、なお混乱が収まっていなかった。
男子生徒同士が教師へ詰め寄ろうとして押し合い、
女子生徒の泣き声が何重にも重なり、誰かが椅子を乱暴に動かす音が響き、
別の場所では机を叩く音まで聞こえる。
「こんなの認めねえ!」
「何が特別試験だ!」
「十二人返せ!」
「最初から仕組まれてたんだろ!」
「学校が大量虐殺しただけじゃねえか!」
怒鳴り声が次々と体育館の壁へ反響する。
堀北は須藤と平田を使いながら自クラスを抑え、
龍園は石崎たちを怒鳴りつけ、
坂柳は転倒した痛みを堪えながら橋本たちを静め、
一之瀬は泣きながらクラスメイトへ訴え続けていた。
しかし、その四人自身も冷静ではなかった。
堀北は何度も声を詰まらせる。
龍園は教師へ向ける怒りを隠しきれず、拳を握りしめたまま。
坂柳は杖を持つ手を震わせる。
一之瀬は言葉を発するたびに涙が流れる。
リーダーたちが必死に崩壊を止めようとしているのに、
そのリーダー自身もまた十二人の退学という現実に押し潰されかけていた。
オレはその光景を体育館の中央付近から見ていた。
これはもう議論ではない。
特別試験の分析でもない。
感情が限界を超えた集団が、一斉に出口を失った状態だった。
誰かを責めなければ立っていられない者。
誰かへ縋らなければ崩れてしまう者。
怒り続けなければ泣いてしまう者。
泣くことすらできず、ただスクリーンを見る者。
誰もが違う形で同じ事実から逃れようとしている。
それでも大型スクリーンに表示された文字だけは、一切変わらなかった。
『退学処分――十二名』
その一文だけが、
体育館中の叫び声も泣き声も罵声も全部無視するように、赤い光を放ち続けていた。
堀北は何度も考えた。
救済方法を探した。
共同資産供出という最後の可能性も検討した。
それでも、十二人は退学する。
堀北は両手で額を押さえた。
「……何だったのよ」
オレは彼女の横へ立つ。
堀北は顔を上げない。
「私たち、ずっと何してたの?」
答えは簡単だった。
学校側の規則の中で、選ばされ続けていた。
しかし、それを今口にしても意味はない。
堀北は震える声で続ける。
「伊吹さんを助けた。橋本くんを助けた。白波さんを助けた。
森下さんも助けた。それなのに全員戻って、最後は十二人」
「そうだな」
「だったら最初から何もしなければ」
「四人で済んだかもしれない」
堀北が目を閉じる。
その言葉は、彼女が最も考えたくなかったものだった。
池。
伊吹。
橋本。
白波。
最初の四人だけを見捨てていれば。
結果論に過ぎない。
当時は十二人という規定人数も知らなかった。
それでも、数字だけ見ればそうなる。
仲間を助けようとした。
その結果、退学者候補が三倍に膨れ上がった。
堀北はそこで初めて、完全に言葉を失った。
大型スクリーンには最後の案内が表示される。
『本試験終了時刻――本日18時00分』
『退学対象者十二名は、それまでに私物整理および必要手続きを行うこと』
『18時00分をもって、本校在籍資格を失効する』
現在時刻は午後三時を少し過ぎたところだった。
残された時間は、およそ三時間。
十二人はまだこの学校の生徒。
まだ同じ体育館にいる。
まだ話せる。
まだ笑うこともできる。
しかし三時間後には、全員がこの学校から去る。
試験は事実上終わった。
頭脳戦もない。
逆転もない。
救済もない。
残っているのは、別れだけだった。
第一体育館の扉が開かれる。
教師が告げた。
「退学対象者は各自、帰寮して荷物をまとめるように。残留生徒との行動制限は設けない」
その言葉を受けても、誰もすぐには動かなかった。
十二名の名前が赤く表示された大型スクリーンだけが、
体育館の正面で静かに光り続けている。
そしてオレは、その十二人を見ながら理解していた。
ここまでが試験だったのなら、ここから先に評価点も順位も存在しない。
誰が賢かったかも。
誰が正しかったかも。
誰が勝ったかも。
もう意味を持たない。
残された三時間で、生徒たちが向き合うのは規則ではなく、
明日から本当にいなくなる人間そのものだった。