社会人だってリア充になりたい 作:アンドレアス
カードパックを開け終えた誠一と河合は、そのまま新宿の街をふらふらと歩いていた。誠一の頭の中では、河合の勢いに押されて、ついカードパックを買ってしまったことへの後悔が渦巻いていた。
百万円を失った結果が、Fランク十枚。あまりにも酷い結果だった。酷すぎて、すぐに帰る気にもなれなかった。
二人は特に目的もなく、クリスマスの雰囲気に浮かれた休日の新宿を、ただぶらぶらと歩いていた。
大通りには人々が行き交い、すれ違う人からは、甘ったるい香水の匂いが漂ってくる。そんな賑やかな街の中を、二人の男だけが、絶望を抱えたまま歩いていた。
「いやぁ……まさか全部Fランクとはなぁ」
隣を歩く河合が、もう何度目になるか分からないため息をついた。手には、さっき開けたカードの束がある。
「百万円払って、全部Fランクだからな」
「俺なんか、二ヶ月分の給与だぞ。お前と違って、臨時収入なんてないんだから」
「……そう考えると、酷いな」
「そう考えなくても酷いだろ」
河合が、一番上のカードをつまみ上げる。そこに描かれているのは、醜い小型モンスター――ゴブリンだった。
「こいつが、十万円」
「言うなよ」
思わず声が大きくなった。前を歩いていた女性が、ちらりとこちらを振り返る。誠一は焦って、小さく頭を下げた。
河合はそんな誠一を見て、少しだけ口元を緩めた。
「まあ、でもさ。……こういう時って、次は当たる気がするよな」
「は?」
河合は頬をひきつらせて笑いながら続けた。
「ほら、ここまで外したんだから、次は反動で」
「無理だよ。俺はこれで、貯金なくなったんだから」
誠一の財布は、かなり危機的な状況にあった。銀行残高は、十万円を下回っている。ここで「次こそは」と考え始めたら、本当に破滅してしまう。
「……今日はもう、カードの話はするな」
酔いが回ってきたのか、少し気持ち悪くなってきた。河合からFランクカードが詰まったパックを受け取りながら、誠一はため息をつき前を向いた。その時だった。
人混みの向こうから、見覚えのある女性が歩いてくるのが見えた。
その姿は、人の流れの中にいても、なぜかすぐに目に入った。
(……あれ?)
誠一は足を止めた。河合が二、三歩先まで進んでから振り返る。
「どうした?」
女性が近づいてくる。見間違いではなかった。高梨美咲だった。――その隣には、男が歩いている。
背が高く、細身で、姿勢がいい。服装もきちんとしていて、髪型も整っている。顔立ちは、素直に言って、男前だった。
その男を見た瞬間、誠一の心臓のあたりが、きゅっと縮んだ。息を呑んで立ち止まっていると、美咲がこちらに気づいた。
「あれ?」
美咲が足を止め、つられて男も立ち止まる。
「誠一さん?」
「……あ!」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が跳ねた。
「やっぱり誠一さんだ!」
美咲が嬉しそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、誠一の中にあった不安が、一瞬だけ薄れた。――いや、待て。
隣には、親しげな男がいる。しかも、かなりのイケメンだ。
「こんなところで会うなんて、偶然ですね」
「そ、そうですね」
誠一は、美咲と男を交互に見た。見れば見るほど、二人の距離が近く感じる。傍目には、お似合いの男女に見えた。
視線に気づいたのか、隣の男がこちらに顔を向けた。近くで見ると、さらに顔立ちが整っていた。
カードパックで全てFランクを引いた直後、好きな女性が、知らないイケメンと一緒に歩いている。――なんだ、この世界は。俺に何か恨みでもあるのか。誠一は、そんな理不尽さすら感じていた。
「じゃあ、俺はここで」
男が、美咲に向かって言った。
「え?」
誠一は、思わず男を見た。恋人ではないのか。
「話せてよかったよ。美咲も頑張れよ」
男はそう言って、美咲に軽く手を上げた。美咲も、小さく頭を下げる。
「はい。沢渡さんも」
男はそのまま、誠一たちの横を通り過ぎていった。すれ違う瞬間、清潔感のある香りがした。その背中が、人混みの中へ消えていく。
――美咲も頑張れよ。その言葉が、誠一の頭の中で反芻していた。何の話だ。嫌な想像が、勝手に膨らんでいく。
「え、ちょっと待って」
先に口を開いたのは、河合だった。男の後ろ姿を見ながら、眉間に皺を寄せている。
「今の人、誰?」
「……俺も聞きたい」
誠一は、美咲に向き直った。
「あの、さっきの人って……」
「え? ああ、沢渡さんっていって、三つ星の冒険者なんです」
名前を聞いただけで、嫌な予感がさらに強くなった。
「冒険者の友達です」
「……え?」
冒険者の友達。誠一はその言葉を、頭の中でゆっくり反芻した。誠一と河合は、思わず顔を見合わせた。たぶん、同じことを考えている。友達という言葉の意味が、自分たちの知っているものとは違うのかもしれない。
「でも、美咲さん。冒険者の知り合いはいないって……」
「ああ、それは……」
美咲が、少し困ったように笑った。その表情に、誠一の心臓が、嫌な音を立てる。
「実は、元カレなんです」
「…………」
街の音が、急に遠くなった。人の足音や話し声が、すべて薄い膜の向こう側にあるように聞こえる。
「元カレと、なんで会ってたんですか?」
河合が聞き返した。誠一は、聞き返すことができなかった。聞き返すのが、怖かった。
「今回は、前に貸していたものを返してもらうために、会っていただけです」
美咲は、あっさりと答えた。
「今は、本当に何もありません。連絡も取っていなくて」
「そ、そうなんだ……」
ようやく声が出た。自分でも驚くほど、情けない声だった。
――よかったのか。いや、元カレがいるという事実は、普通によくない。気持ちが落ち着かないせいか、誠一はどうしても悪い方向にばかり考えてしまっていた。
「あ!」
美咲が突然、声を上げた。誠一は驚いて、びくっと肩を跳ねさせた。
「ちょうど、誠一さんの話もしていたんですよ」
「俺の?」
「はい」
美咲が、嬉しそうに頷く。
「ちょうどよかったです。少し、お話しませんか?」
「え?」
誠一の鈍くなっている頭では、話の展開についていけなかった。
「じゃあ、俺は帰るわ」
河合の反応は早かった。美咲が誘い終わる前に、もう帰る顔をしている。
「え?」
「俺、今日もう十分傷ついたから。二ヶ月分の給料を失って、目の前で男女の再会イベントまで見せられて」
河合は、本気で疲れた顔をしていた。
「……河合」
「今の俺は、もう、これ以上他人の幸せを見ていられない」
河合は傷ついているようだったが、誠一も似たような気持ちだった。
「まだ幸せになると決まったわけじゃないだろ」
「その台詞を言う奴は、だいたい幸せになるんだよ」
河合は片手を上げると、誠一たちを置いて、駅の方へ歩き出した。誠一はその背中を見ながら、なんとなく申し訳ない気持ちになった。
「……河合さん、帰っちゃいましたね」
「はい。何を考えてるのか、俺にもよく分かんないです」
美咲も、河合の様子に少し驚いているようだった。だが、美咲は誠一と河合に今日起きた不幸を、まだ知らない。
「まあ、あいつは器用な奴なんで、大丈夫です」
誠一は、河合の背中を見ながら首を振った。
「明日になったら、今日のことなんか忘れて、元気になってると思います」
その後、二人は、近くの喫茶店に向かった。誠一は、河合のことよりも、美咲の話の内容の方が気になって仕方なかった。
***
古いビルの一階に入っている、フランチャイズの喫茶店に、二人は入っていった。
案内された席に向かい合わせに座るが、なぜか少し距離があるように感じる。
「誠一さんは、何か食べますか?」
「え?」
「中途半端な時間になっちゃったので、私は何か食べようかなと思って」
美咲の様子からして、沢渡と会っていた時間は、そんなに長くなかったのかもしれない。だが、誠一には、注文のことよりも、何を話したらいいのかの方が気になっていた。
今こそ、シルキーに相談したいと心から思った。
「じゃあ……俺は、このコーヒーゼリーを」
美咲が、小さく笑った。その笑顔を見て、誠一の胸が、また跳ねた。
その時、美咲がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、誠一さんって、テレパス使えますか?」
「え?」
誠一は、注文用の端末を持ったまま固まった。
「テレパスって、なんですか?」
「カードと頭の中で会話する、冒険者のスキルなんですけど」
「あ!」
誠一は思わず声を上げた。
「やっぱり、できるんですね」
美咲が、納得したように頷く。
「誠一さんのモンスターたちって、連携がすごく良いなって、思ってたんですよね」
「冒険者としては、当たり前のスキルだったんですね……」
「私も、さっき知ったんですけど。プロ級の冒険者にとっては必須のスキルみたいですよ」
「そうだったんですか。全然知らなかったです」
誠一は、まどろんでいた頭が、ようやく回転してきた。そして、少し胸が熱くなった。プロの冒険者のスキルを、二つ星の自分が、すでに身につけていた。
「不思議な感覚だったので、自分だけかと思ってました」
誠一は、自分の手元を見た。人生最悪の日だと思っていたが、頭が混乱して、よく分からなくなっていた。
「実は、さっきの沢渡さんから教えてもらいました」
誠一は驚いて、再び思考が止まった。
「プロの冒険者を目指してる人で、色々と話を聞いてたんです」
「ああ……」
混乱していたせいか、男の話が出て、誠一は逆に少し落ち着いた。
「あと、それで、誠一さんに話したかったのは、その件じゃなくて……」
美咲が、顔を下に向けて考え込んでいる。その動きが、やけにゆっくりに見えた。
(そういうことだったのか)
美咲が何を言おうとしているのか、もう聞きたくなかった。今日の出来事が、頭の中で勝手につながっていく。最近、少し運が向いてきたからといって、調子に乗ってしまったのかもしれない。
これは、自分への罰なのだ。むしろ、最近の自分が、人生の中で異常だっただけなのだ。男と並んで歩いていた美咲の姿が、頭の中にフラッシュバックする。
誠一は、もう何も考えたくなかった。美咲からの言葉で傷つくくらいなら、何も聞かずに立ち去った方が良いと思い、椅子からゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、店内に大きな音が響いた。
「すみません。今日はもう帰ります」
冷えた頭とは反対に、心臓の音だけがうるさくなっている。
(二人で探索できたこと、楽しかったです)
心の中でそう呟きながら、自分でも分からないうちに、口が勝手に動いた。
「俺が敵うものなんて、何一つないので。今まで、ありがとうございました」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
美咲が慌てて立ち上がった。テーブルが揺れ、水の入ったグラスが波打つ。
「誠一さん、さっきから何言ってるんですか?」
美咲は、本当に驚いているようだった。
「どうして急に、帰るなんて言うんですか?」
美咲は慌てた様子で、テーブルの上にカードを置いた。
「これ、見てください」
机の上には、禍々しい角と鋭い爪を持つ、見るからに恐ろしげなモンスターのカードが、こちらを睨みつけていた。
「デーモンのカード、ですか……?」
それは、Dランクの中でも上位の性能を持つ、人気のカードだった。デーモンは、Dランクでありながら、同じDランクのレッサーデーモンを眷属召喚することができる。
美咲が頷いたので、誠一はカードを手に取った。カードの情報が、目に飛び込んでくる。
【種族】デーモン
【戦闘力】150
【先天技能】
・悪魔の眷属:自身の下位悪魔を召喚することができる。一日一回。
・下級魔法使い:簡単な魔法を使用可能。
【後天技能】
・悪魔のプライド
・無口
「……これ、どうしたんですか?」
誠一は、カードと美咲を交互に見て尋ねた。
「私は主人として認めてもらえなくて、どうしても、うまく使うことができなかったんです」
美咲は、真剣な表情をしていた。
「よかったら、誠一さん、使いませんか?」
「へっ?」
誠一は、カードを持ったまま固まった。
「い、いいんですか? かなり強力なモンスターですけど」
美咲は、少し困ったように笑った。
「私の言うこと、全然聞いてくれなくて。テレパスが使える誠一さんなら、悪魔も上手く扱えるんじゃないかと思って」
カードの中のデーモンを見る。後天スキルには、マイナススキルである「無口」があった。ほとんど喋らず、集団行動にマイナス補正がかかるスキルだ。
そして、悪魔のプライド。カードを少し傾けると、デーモンのイラストが、さらに偉そうに見えた。
「売るくらいなら、誠一さんに使ってもらった方がいいかなって」
「どうやって、このカードを?」
美咲が、少し照れたように笑いながら答えた。
「実は、唯と一緒にいる時に、勢いでカードパックを買ってしまって。Dランクカードが、二枚入ってたんです」
「え!」
誠一は驚いた。美咲もカードパックを買って、Dランクカードが二枚も入っていたなんて。
自分たちは、Fランク十枚。美咲は、Dランクカードが二枚。
「もう一枚のDランクカードは?」
美咲は、鞄からさらに一枚のカードを取り出し、誠一に手渡した。――それは、アマゾネスのカードだった。
【種族】アマゾネス
【戦闘力】150
【先天技能】
・戦士:戦士に必要な技能を収めている。武術、剣術、槍術、弓術、騎乗スキルを内包する。
・不屈の闘志:追い詰められるほど力を発揮する。生命力が一定以下になると、筋力が大きく向上する。
【後天技能】
・奇襲:攻撃時、相手に気づかれていない場合、ダメージにプラス補正。気配遮断を内包する。
同じ価格のカードパックを、購入したはずなのに、結果はまるで違う。アマゾネスとデーモン――どちらも、Dランクカードの中では強力な部類に入る。しかも、女の子モンスターであるアマゾネスは、人気の高いカードでもあった。
誠一は、もう一度、自分のカードの束を思い出した。Fランク、Fランク、Fランク――十枚すべてが、同じ結果だった。対して、美咲のカードは、二枚ともDランク。明らかに、強いカードたちだった。
誠一は、ゆっくりと椅子に座り直した。さっきまで立ち上がっていたことすら、忘れかけていた。
「なんだ、この差は……」
気分の悪さを通り越して、誠一の中では、妙な感情が渦を巻いていた。
美咲を見ると、居心地悪そうに頷いている。誠一は、なぜか納得してしまっていた。
思えば、最近の自分は、いつになく運が良かった。新しいカードを手に入れ、迷宮での危ない場面も、大きな問題もなく切り抜けてきた。色々なことが、調子よく進んでいた。
誠一は、それを自分の運の良さだと勘違いしていた。だが――もしかしたら、違うのかもしれない。
自分の運が良かったわけではない。美咲がずっと幸運で、誠一の隣に美咲がいたから、その幸運の一部が、少しだけ流れてきていただけなのかもしれない。
そして今、その幸運の一部を、美咲は誠一に分けてくれようとしている。
誠一は、目の前のカードを見つめた。デーモン。Dランク。自分に扱えるかは分からないが、間違いなく強いカードだった。
だが、そんなことは、もう、どうでもよかった。
誠一は、美咲を見た。彼女は、自分にカードを渡そうとしている。自分が引いた貴重なカードを。
(……この人を、絶対に離してはいけない)
そう思った。理屈ではなく、直感だった。カードパックの結果も、元カレのことも、三つ星冒険者のことも、全部どうでもよくなっていた。
誠一は、美咲を見つめた。
「み、美咲さん」
「はい?」
美咲が顔を上げる。その目が、まっすぐ誠一を見た。
心臓が、どくんと鳴った。店内の音が、また遠くなる。コーヒーの香り。隣のテーブルの会話、窓から差し込む午後の光。全部がぼんやりして、目の前の美咲だけが、はっきりと見えた。
「好きです」
「……は?」
美咲の目が丸くなる。誠一自身、自分の言葉に驚いていた。言ってしまった。それでも、もう止まらなかった。
「付き合ってください!」
声が、店内に響いた。さっきよりも、大きかった。窓際の若い男女がこちらを見る。本を読んでいた男性が、顔をあげてこっちを見ている。店内の会話が止んで、空気が一瞬で変わった。
誠一は、その時になって、ようやく自分の状態を思い出した。
頬が熱い。頭がぼんやりする。さっきから、水を飲んでも全然酔いが醒めない。
そもそも、誠一は今日、カードパックを開ける前から調子良く酒を飲んでいた。河合と一緒に、景気づけだとか何とか言って、昼間から飲んでいたのだ。
つまり――誠一は今、かなり酔っ払っている。それも、相当に。
美咲も、誠一の顔色に気づいたらしい。
「えっと……」
美咲は、珍しく顔を赤くして、視線を下げた。手を机の上に揃えて置いているが、その指先が少し落ち着かない。
「誠一さん、かなり酔ってませんか?」
「酔ってません!」
反射的に答えた。
「いや、酔ってますよね?」
「酔ってても、関係ありません! 初めて会った時から、好きでした!」
言ってから、店内の空気がさらに重くなった。誠一は自分で言った言葉に、恥ずかしくなっていたが、もう引き返せない。
その言葉を聞いた瞬間、美咲の頭に、唯の言葉が過ぎった。
――大事にしてるんじゃない?
そうだ。誠一はずっと、自分のことを大事に考えてくれていたのかもしれない。ただ、それを態度には出さず、控えめに、ちゃんと向き合おうとしてくれていたのだ。
美咲は、嬉しかった。今まで知り合ってきたどの男性とも、目の前のこの人は違う――そう、はっきりと感じていた。
「……わかりました」
美咲が、恥ずかしそうに、ゆっくりと顔を上げた。
「え!?」
「でも」
美咲は、少しだけ困ったように笑った。
「酔ってない時に、もう一回言ってくださいね」
「いつでも言いますよ!」
誠一は即答した。早すぎた。美咲が目を瞬かせる。
「本当に?」
「はい!」
「今も、酔ってますよね?」
「酔ってません! 好きです、美咲さん!」
誠一は、もう一度、はっきりと言った。もはや店内の全ての客が、二人に注目してどこからかパラパラと拍手まで聞こえてきた。
「絶対、酔っ払ってますよね」
美咲は、顔を両手で隠した。こんなに恥ずかしい告白をされたのは、初めてだった。それでも同時に――お酒の力を借りなければ、素直な気持ちを伝えられない。そんな誠一の不器用なところを、美咲は、いつの間にか好ましく思っていたことに気がついた。