『普通』とは何だろうか。自分が『普通』だと思っていることは、必ずしも他の人にとっての『普通』ではない。そんな経験はないだろうか。『普通』とは、市民が安心・安全に暮らしていく上で、社会が、集団が作り上げ、共有されていった一種の判断基準。
ここに一人の少女がいる。彼女は個性が発現したその日から、人の血と肉でしか腹を満たせない哀れな人間となった。いや、人間と言うべきかも怪しいところだ。人は、数多の生き物を食べて飢えを満たす。だが決して人は食べない。
『どうして?』
同じ生き物だから? その少女の問いに両親は答えなかった。いや、正確には答えられなかった。今まで愛してきた娘が、昨日まであんなに愛おしかった娘が、その日、その瞬間に、化け物になってしまった。
『お腹空いたよ。お母さん、お父さん』
少女は両親の元に歩み寄る。その小さな足を、血に染まった足を、大好きな父と母の元へと。恐怖に塗れた両親の悲痛な叫び声が家に響き渡り、音が消えた。
「起きろ、おい起きろ百合子」
誰かが、頭の上から自分の名を呼んでいる。少女はゆっくりと目を開け、上半身を起こして腕を天井に上げるとグッと伸びをした。
「ん………おはよう。弔くん」
弔。そう呼ばれた男は、少女が起きるなり肩を落として不満気な態度を見せる。
「寝過ぎだぜ百合子。もうすぐ19時だ。腹が減った。早く晩飯作ってくれ」
「あぁ……はぁい、分かったわ」
いつもの同居人のお願いに、少女はBARのソファから、床に脱ぎ揃えられた靴を履いて立ち上がった。すると、揺ら揺らとゆらめく黒い霧状の頭を視界の端に捉えた。
「おはようございます。神代百合子」
「うん。おはよう黒霧」
神代百合子。名を呼ばれた少女は、ほぼ閉じられた目を黒霧に向けて微笑み、奥の扉に入って行った。
「百合子。俺、今日は肉食べたい」
百合子の後ろをついて来た弔が、今日作る晩のおかずを勝手に決め出す。百合子はその注文を耳で聞きながら、冷蔵庫を開けて中を確認する。残念ながら、ハンバーグ用の合い挽き肉は冷凍庫でカチカチに凍っている。
「今から解凍すると時間が掛かるわ。そうだ。今日は焼きそばにしましょう」
「えぇ〜、俺は肉が食いたかったのに」
百合子はエプロンを着ける。そして、ポケットからヘアゴムを取り出すと、長い茶髪を纏める。
「ハンバーグは明日にしましょう。すぐ作るから座って待ってて」
不満を漏らす弔だが、百合子の言葉に従いダイニングの椅子にドサッと座り、テーブルに置いてあったリモコンを操作してテレビを点ける。
『HAHAHA!!』
「ッ!!」
テレビの画伯に収まりきらないくらいドアップした笑顔。次第にカメラが引いていき、青を基調とするコスチュームを着た、筋骨隆々の逞しい男の全身が映し出された。
『今回もオールマイトが大活躍! 凶悪なヴィランを倒し市民の平和を守ってくれました! オールマイト! テレビの子供達に一言お願いします!』
何処かの中継だろうか。アナウンサーの女性は、
オールマイトの顔にマイクを近づける。
『HAHAHA! 大丈夫だ皆んな! 私が来た!!』
「オールマイト……!!」
テレビに映るオールマイトを見て、弔は首を掻きむしる。彼の目にはドス黒い殺意が宿っていた。
「オールマイト、今日もすごいわね」
一方で、百合子はNo. 1ヒーローの活躍ぶりに口元を綻ばせる。
「クソッ!」
弔はリモコンのチャンネルを切り替える。自分の憎きオールマイトは消えたが、他局では違うヒーローのインタビューが行われていた。何処もかしこもヒーローばかりだ。ついにはリモコンを投げ捨てた。
「壊れちゃうわ」
「五月蝿い!」
そしてまた首を掻きむしる。その様子を見た百合子は、料理を一時中断して棚からある物を取り出す。
「そんなに掻いてたら血が出ちゃう」
弔の前に保湿クリームを差し出した。
「……チッ」
舌打ち。だが弔はそれを手に取ると4本の指で器用に蓋を開け、指先でクリームを少量すくい首につけて手のひらで薄く伸ばした。
「確かもうすぐだよな、雄英」
「うん」
百合子は、国立雄英高等学校に入学する。これまで数多くのヒーローを輩出してきた名門校。
だが、彼女はヒーロー科でなく普通科を受験して合格したのである。
「つーか、高校なんて何処でも良かったろ。なんでよりにもよって雄英なんだ」
「だって、先生に頼まれちゃったから。私、スパイ活動とかさせられるのかしら?」
頬に手を当て「困ったわぁ」と呟く百合子。けど、合格通知が来たことを伝えても「おめでとう」としてか返って来なかったから、実のところは分からない。
「先生は何考えてんだ」
「いつもゲームばっかりしてる弔くんよりも、沢山の事を考えているのは事実ね。はい、出来上がり」
耐熱敷きの上にプライパンを置いて、食器棚から皿を2枚取り出す。トングを使って出来上がった焼きそばを皿に盛り付ける。自分の前に出された弔は、顔につけている手を外して、何処からか持ってきた割り箸を使って食い付いた。
「(モグモグ)……百合子、マジで出ていくのか?」
「ここから雄英に通うのは無理だから。それに、先生が住居を用意してくれたし」
「俺、これからどうやって飯を食うんだよ」
「もうすぐ20でしょ? 少しは自分でしてみたら?」
「面倒臭いんだよ」
「その面倒臭いの、私は毎日してるのよ?」
「………黒霧に頼む」
4月1日。新しい制服に身を包んだ百合子は、鏡の前でくるりと一回た。スカートの裾がふわりと揺れる。鏡に映った自分をしばらく眺めると、嬉しそうに口元を綻ばせた。
プルルル、プルルル、ポケットの中の携帯が鳴る。
百合子は応答ボタンを押して耳元に当てる。
『やぁ百合子』
「先生。おはようございます」
『おはよう。新しい制服の着心地はどうかな?』
「ん〜、普通ですかね」
『そうかいそうかい。これで君も晴れて高校生だ。
子供の成長はやはり早い』
先生と話しながら玄関に向かった百合子は、頭と肩で携帯を挟みながら靴を履き始める。
「先生、私はこれから雄英で何をすれば良いのでしょうか?」
『いや特に無いよ。君を雄英に入れさせたのは、ただの保険の一つに過ぎない。君は僕からの命令が来るまで、楽しい学生生活を送るといいよ』
保険。その具体的な内容は聞かなかった。百合子は、先生にとって作戦の一部としてどのように扱われようと気にしていなかった。それよりも、
「……弔くん。私が居なくても大丈夫かしら?」
ご飯も洗濯も今まで自分がやっていた。黒霧が居るから多分大丈夫だと思うけれど、それでも心配を口にする百合子に、ククッと電話から笑い声が漏れる。
『まるでお母さんだね。けど弔ももう20だ。いつまでも君に頼るのはイケナイと思ってね。"男子、三日会わざれば刮目して見よ" なんてことわざがある。次に弔と会った時は、成長していることを期待するといい』
「えぇそうします。それじゃあ先生。行ってきます」
『行ってらっしゃい』
電話を切った百合子はマンションを出て歩道を歩き出した。家から5分ばかり歩いた先の最寄りの駅から電車で15分かけて雄英近くの駅を目指す。そこからさらに駅から雄英高校が出している生徒専用のスクールバスに乗る。校舎は街に近い森に囲まれた小高い山の上にあり、広大な敷地を擁している。
(おっきいなぁ…………)
校舎がデカ過ぎて見上げる百合子。ついには首の可動領域が限界に到達していた。雄英高校は、ヒーロー科・普通科・サポート科・経営科の4学科で構成されている。その中で、普通科は大学進学就職を第一目標とする教育学科である。
入学式を終えた百合子はその足で教室へと向かう。長い廊下から楽しそうな声が漏れている。百合子はスライド式の扉を開けて教室に入った。中は既に交流を図っている生徒が大勢いた。
百合子は黒板に貼られている、名前とその人物が座る席が書かれた紙に目を通した。百合子は窓際の1番端の席だった。内心ガッツポーズをとって席に移動する。そうして座った席から窓の外を眺める。ここからだとグラウンドが丸見えだ。
キーーンコーーンカーーンコーーン
チャイムが鳴ると生徒達は自席に着席する。そのチャイムから数秒後に教師が入ってきた。今日はオリエンテーションだけ。生徒が利用できるこの学校の施設の説明と明日から始まる授業の軽い内容。
(……ん?)
窓から見えるグラウンドに人が集まっている。体操着をきた生徒と思われる者が20人と真っ黒な服装に首にマフラーみたいな物を巻いている男が1人。
生徒の1人が白い円の中に入って、大きく振りかぶるとボールを投げた。その際に、その生徒の手元が爆発してボールが遥か遠くまで飛んでいった。
(随分と遠いわねぇ)
投げたボールは見えなくなった。多分、校舎の外まで飛んでいったんじゃないかと思われる。その時になって百合子は気が付いた。
(あぁ、あれがヒーロー科か………)
その後、次々と生徒が個性を発動させて100m走、走り幅跳び、反復横跳び、握力測定など、体力テストをしている。入学早々に授業とは、流石はヒーローの卵達だ。けど、
(弱そうね……)
まだ誰も見るからに頼りなさそうだ。今から投げようとしている緑髪の男の子は顕著に。でも次第に、
皆んなヒーローとしての基礎を学んでいくんだろう。
彼らがプロのヒーローになる為に成長していく様を、この席から眺めていくのだろうか。
「ただいま〜」
帰って来た百合子は、玄関に入るなりそう言った。残念ながら、返事をしてくれる人間は誰もいない。
少し寂しいと思いながらも、靴を脱いでリビングのソファに体重を掛ける。時計の針が動く音だけが、この部屋に響く。日が段々と落ちていく。
「お腹すいたな」
独り言。百合子は立ち上がって冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には、何故が保存容器がびっしりと積み重ねられていた。そのタッパーには、一つ一つ作った日付が付けられていた。百合子はそこから1番古い日付のものに手を伸ばす。
「これ、どこの部位だったかしら?」
容器の中には赤い液体に漬けられた綺麗にカットされた肌色の物体がぷかぷかと浮いている。パカッと蓋を開けると、閉じ込められていた匂いが解き放たれた。百合子の鼻腔を通り、脳内に快楽物質が分泌されていく感覚を覚える。
「……あ! いけない」
百合子は無意識に出ていた涎を袖で拭き取る。
「2日振りだったからつい。やっぱり我慢っていけないわね」
百合子は食器棚から皿とグラス、小さな引き出しからフォークとナイフを取り出してテーブルに並べる。肌色の物体を皿の上に置き、残った赤い液体をグラスに直で注いでいく。
さて準備は終わった。百合子は椅子を引いて着席する。そして体の前に両手を持っていき、手のひらを合わせてこう言った。
「いただきます」
左手持つフォークで刺し押さえ、右手に持つナイフで肌色の物体を食べるサイズに切っていく。滴り落ちる赤い液体、その落ちるタイミングに合わせて口に放り込み、咀嚼する。
「(モグモグモグ)………ほぉ、はぁかぁった」
ゴクン。百合子の食道を通って胃の中に収まる。
「ふくらはぎだわ」
次の日。欠伸をする百合子は教室を目指して廊下を歩いていると、曲がり角から黄色のスーツに身を包んだ、スーツの上からでも分かる隆起した筋肉、金髪で長身の男性が現れた。
「…………………へ?」
眠気が完全に吹き飛んだ。いつも閉じていた目がガバッと見開いた。だってオールマイトだからだ。あのNo. 1ヒーロー、オールマイトが曲がり角から現れたからだ。テレビの中のスターが突如と目の前に出て来たことで百合子は身体が固まった。
「やぁお嬢さん、おはよう」
「は、え、おはようございます……」
上手く言葉が出てこなかった。こんなに緊張したのは今までなかった。だって、初めて人を殺した時でさえも、心臓の鼓動は一定の脈を打っていたのに。これが、No. 1ヒーローの凄みなのだろうか。
「おや、緊張しているのかな」
「あ、はい」
「HAHAHA! では私は授業があるからこれで」
手を挙げて去って行くオールマイト。その後ろ姿は、いつもテレビで見ているものと同じだった。というか今、授業があると言っていた。まさかオールマイトが、雄英高校で教師に就任していたなんて百合子は短い時間で二度目の衝撃を受ける。
(サイン貰えばよかった…………)
それともう一つ、
(先生に報告した方がいいのかしら?)
今のところ何の命令も無いが、オールマイトが雄英にいることを伝えた方がいいか、百合子は「ん〜」と顎に手を当てながら再び教室を目指して歩き出した。
結局、席に着くとオールマイトが雄英の教師をしていることをメールで伝えた百合子の元に、先生からありがとうと吹き出しが付いたネコのスタンプが返って来た。もういい歳なのに、こういう所は子供っぽいなと思う。
2日目にして授業が始まり、黒板に書かれた大事な部分をノートにピックアップしていく。百合子は黒板からグラウンドの方に視線を向けるが、ヒーロー科の生徒の姿はない。クラスメイトの話では、どうやら今日は戦闘訓練を行なっているらしいのだ。しかもオールマイトと共に。
オールマイトが雄英の教師になったのは何故だろうか。気分転換? ヒーロー活動飽きちゃった?
いや、それはないだろう。しかし、何の情報も無い現時点で考えられることとすれば………後継。
オールマイトは、自分の後継者を育成する為に教師になったのではないか。確証も無い妄想が百合子の頭を駆け巡る。
「Hey! そこの茶髪JKはどこ見てる?
黒板はそんな所にはねぇぜ!」
黒板の前に立つプレゼント・マイクがチョークで百合子を指さす。授業を聞いていないと思われた百合子は軽く頭を下げる。
「ごめんなさい。プレゼント先生」
「……プレゼント先生って、そんな呼び方されるの初めてだな。普通はマイク先生なんだけど」
先程よりも声量を抑えたマイクの独り言のような声はしっかりと百合子の耳に届いていた。
「それじゃあ、イレイザー・ヘッド先生はヘッド先生なんでしょうか?」
そう言って首を傾げた百合子に、マイクは吹き出して咄嗟に教科書で口元を隠した。
「ぷぷぷ、めっちゃ面白いじゃねぇか! 一体何のヒーローなんだよそれ! 分かんねぇよ!
まぁ、アイツのヒーロー名付けたの俺なんだけど」
((((((((((((((((((そうなのかよ……))))))))))))))))))
多分、クラス全員の気持ちが一致した。
午後最後の授業が終わり、一人一人席を立って教室を出て帰っていく。百合子も教科書やノートを鞄の中にしまうが、帰る素振りが無かった。
(家に帰っても何もないし、どうしようかしら?)
昨日食べたから空腹はない。寝る時間が来るまでテレビを見て暇を潰すという選択もあるが、せっかくだからこの学校を探検するのも悪くない、そう思ったら百合子の行動は早かった。
下駄箱で外靴に履き替えると、正門に向かわずその逆を向いて歩き始めた。オリエンテーションにも説明があったが、この学校にはUSJがあるらしい。と言っても某テーマパークではなく、災害救助の訓練を行う演習場である。けどそれはバスで行かないと遠いので却下。
(あれ? 誰かが後をついてくる………)
少し遠いが確実に向かって来る人の気配を察知した百合子。ここで後ろを振り返ればその正体が分かるのだが、百合子はクスッと笑うと建物を曲がってその人物から視界を消した。
(!)
誰かが近づいて来る。百合子は歩を止めて曲がり角で待ち伏せした。そうしてやって来たストーカー? その正体は………。
「何か用ですか?」
「……まさか、気が付かれていたとは」
その人物はヒーロー科1年A組の担任教師であり、
抹消ヒーロー、イレイザー・ヘッドこと相澤消太だった。相澤は自分の尾行が気付かれたことを少なからず驚いていた。
「もしかしてストーカーかしら?」
「それは違う。俺はただ、下校時間が過ぎてるのに校内を歩き回っていたお前を不審に思ってーーー」
「でも、それってやっぱりストーカー?」
「………あまり大人を揶揄うな」
自分の教師生命が危ないと感じたのか、相澤は百合子に釘を刺す。それに百合子は口元を隠して肩を震わせる。
「ふふふ、ごめんなさいヘッド先生。
私、ちょっと校内を探検したかったんです」
「そうか………てかヘッド先生って何だ?」
「プレゼント・マイク先生はマイク先生と皆んなが呼ぶので、ならイレイザー・ヘッド先生はヘッド先生と呼ぶべきかなって」
「いや、普通に相澤先生でいいだろ。俺は頭に特徴的な物は何もつけてないぞ」
「そうですねー」
「…………」
おっとりとした百合子の抑揚もなく平坦な言葉に、相澤は調子を崩される。
「はぁ、もういい。日が落ちる前に帰れよ」
こういう相手は苦手だと言うかのように、踵を返し、手を振って去って行く。百合子もそれに応えるように手を振る。すると、何故か相澤の足が止まる。
「あ、そうだ。お前、名前はなんだ?」
百合子は微笑みながら答えた。
「神代百合子。普通科の1年D組です」