もう一度あの舞台へ 作:アオアシ増えろ増えろ
鍋の湯気が、視界の端でゆっくりと渦を巻いていた。
麺をすすりながら、俺はテレビの中の若い選手たちを眺め続けている。誰かがゴールを決めて、誰かが泣いていた。よくある光景だ。何百回と見てきたはずの、ありふれた歓喜の場面。
なのに今夜は、その音がやけに遠く聞こえる。
箸を置こうとした瞬間、左腕にひやりとした感覚が走った。痺れというには鈍く、痛みというにはまだ形を持たない、名前のつかない違和感だった。
(変だな)
そう思った時にはもう、体が言うことを聞かなかった。膝から力が抜け、椅子に座っていたはずの自分が、いつの間にか床に片手をついている。
テレビの音量だけが、やけにはっきりと耳に届く。実況の声、歓声、誰かの名前を呼ぶコール。それらの輪郭が、水に溶ける絵の具のように少しずつぼやけていく。
息を吸おうとして、うまく吸えないことに気づいた。喉の奥に、何かが詰まっている。何が、とは分からないまま。胸の中心を、鈍い重みが押し潰していく。視界の端で、キッチンの灯りがやけに眩しく滲んで見えた。
(ああ、これは――)
現役時代、幾度となくピッチの上で味わってきた、あの独特の静けさに似ていると思った。カウンターを食らって一気に相手ゴールに迫られる瞬間、時間の流れが引き伸ばされたように感じるあの感覚。何もかもがスローモーションになって、自分だけが取り残される。
だが今回は、次のプレーが訪れることはないらしい。
床の冷たさが、頬に伝わってくる。いつの間にか、俺は倒れ込んでいたようだった。
視界に映るのは、テレビの光だけになっていた。画面の中で、誰かがまた歓声を浴びている。眩しい光の中で躍動する若い体を、俺はぼんやりと見つめ続けた。
喉の奥に、酸っぱいような感覚がこみ上げた。羨望だと、遅れて気づく。
もっとやりたかった。あの舞台にもう一度立ちたかった。三十一の冬、あの一瞬の接触さえなければ……そんな何百回と繰り返してきた仮定が、今さらのように頭をよぎる。
悔しいとも、悲しいとも違う。ただ、まだ終わりたくない、という一点だけが、消えかけていく意識の中で最後まで鮮明だった。
名声でも、記録でも、称賛でもない。ただ、もう一度あの緑の上に立って、ボールを蹴りたい。それだけだった。
テレビの音が、ゆっくりと遠のいていく。
誰かの歓声が耳の奥で潮が引くように遠ざかり、やがて何も聞こえなくなったとき、最後に残ったのは――まだ、終わりたくない。それすらもやがて、闇の中に溶けて消えていった。
*
最初に戻ってきたのは、音だった。
やけに近く、やけにこもった音。何かが規則的に鳴っている。ドッ、ドッ、という重たいリズム。それが自分の心臓の音だと気づくまでに、随分と時間がかかった気がする。
次に戻ってきたのは、圧迫感だった。全身を、生温かい何かにきつく包まれている。手足を伸ばそうとしても、思うように伸びない。というより、手足がどこにあるのかさえ、はっきりと分からない。
(――なんだ、これは)
考えようとするそばから、思考そのものがぼやけていく。まるで、まだ形になりきらない粘土をこねているように、輪郭がまとまらない。四十五年分の記憶は確かにそこにあるのに、その記憶を組み立てて言葉にする力が、根本から足りていない。
やがて、強烈な圧力が全身を押し潰した。
狭い、暗い、熱い場所から、無理やり押し出されていく感覚。これまで生きてきたどんな記憶にも存在しない苦しさに、俺は――否、この体は、反射的に何かを叫んでいた。
それは、意思を持った悲鳴ではなかった。もっと原始的な、生き物としての本能そのものが上げる声だった。
突然、視界が真っ白に染まった。
眩しい。何もかもが眩しくて、輪郭が定まらない。ぼやけた光の中に、いくつかの影がゆっくりと動いている。
「――ん、生まれた……!」
女の声。掠れて、震えていた。喜びと安堵と疲労が混ざり合った、聞いたことのない種類の声。
「よく頑張ったね、本当に……」
別の、低い男の声が続く。
視界はまだ何も像を結ばない。ただ、光と影、そして音だけが、俺という存在のすべてだった。
(待て。これは、いったい――)
混乱する頭の中で、四十五年という歳月に積み上げてきた記憶だけが、やけにくっきりと残っている。スタジアムの匂い、鍋の湯気、テレビの光、そして、あの静かな消え方。
俺は、死んだはずだった。
なのに今、俺は誰かの腕の中で、産声を上げている。
自分の意思では、指の一本すら思うように動かせない。声を出そうとしても、出てくるのは意味を成さない泣き声だけだ。幾十年かけて積み上げてきたはずの言葉も、経験も、技術も、この小さな体の前では何の役にも立たない。こんな理不尽なことがあるのか、そう毒づきたい気持ちすらうまく言葉にならない。ただ喉の奥から、また新しい泣き声が込み上げてくる。
温かい布に包まれ、誰かの腕にそっと抱き上げられる感覚があった。とくん、とくん、と規則的な鼓動が、抱く者の体越しに伝わってくる。
その鼓動に呼応するように、俺の中で暴れていた混乱が、少しずつ凪いでいくのを感じた。
視界の端で、ぼんやりとした光の輪が揺れている。まだ何も、はっきりとは見えない。
だが、確かに感じていた。
自分は今、もう一度、ここにいる。
その事実だけが、まだ何も分からないこの小さな体の中で、唯一確かなものとして存在していた。
*
最初に覚えたのは、絶望的なまでの不自由さだった。
寝返りひとつ打つのに、途方もない時間がかかった。頭の中では動作の手順まで明確に分かっている。分かっているのに、体がその通りに動いてくれない。長い年月をかけて鍛え上げてきたはずの神経と筋肉は、この小さな体のどこにも存在していなかった。当たり前の話なのだが、中々に堪える。
ある日、布団の上でうつ伏せになろうと悪戦苦闘していた俺を見て、母が驚いたように声を上げた。
「あら、平、もう寝返りできるようになったの? 早いわねえ」
早いも何も、これで何十回目の挑戦だったか。俺自身はとうに数えるのをやめていた。名前は「平」というらしい。中村平。何度か呼ばれるうちに、それが自分の名前だと理解した。
言葉を発することができないというのは、想像以上にもどかしいものだった。伝えたいことは山ほどあるのに、出てくるのは意味を成さない喃語だけだ。腹が減った、暑い、退屈だ……そのどれもが、泣くという一つの手段でしか表現できない。
しかしながら、今世でも「中村」という姓の家に産まれるとは、なんという因果だろうかと自嘲したくなる夜もあった。それでも、体というのは正直なものらしい。ハイハイができるようになった頃、俺は自分の中に、前世からの何かが確かに染み付いていることに気づき始めていた。庭先でボールを見つけた時のことだ。生後八ヶ月、まだ立つこともままならない体で、俺はそのボールに這って近づき、両手で抱えるように触れた。柔らかいゴム製の、幼児用の小さなボールだった。
「あらあら、平ったら、ボール好きねえ」
母が笑いながら、そのボールを俺の目の前で軽く転がしてみせた。俺は思わず、体を大きく乗り出してそれを追いかけようとした。
結果、バランスを崩して盛大に転んだ。
俺はといえば、じんわりと痛む額を庭の土に押し付けたまま、しばらく動けなかった。悔しさよりも先に、おかしさが込み上げてくる。
(長く生きて、赤ん坊に転生して、最初の挫折がハイハイでのボール追いか)
どこまでも理不尽で、どこまでも滑稽な人生の再スタートだった。だが、その滑稽さの中に、確かな手応えもあった。歩き始めた頃にはボールを蹴るという動作が、周りの同年代の子どもたちとは明らかに違うことに両親は気づいていたようだった。
「平、また上手に蹴ったわね」
「うん、なんか、この子は筋がいいなあ。今度、公園でちゃんとしたボールで遊ばせてみるか」
父の声には、単なる親馬鹿では片付けられない響きがあった。俺自身、体の成長に技術が追いつく感覚を、日々の中で確かに味わっていた。
三歳になる頃には、近所の子どもたちと混じって、簡単なボール遊びに加わるようになっていた。もちろん、体格も体力も年相応でしかない。だが、ボールをどこに置けば追いかけやすいか、どの角度で蹴れば思った方向に転がるか、そうした勘だけは、明らかに周りの子どもたちより数段上にあった。
「平くんは筋がいいわねえ」
「将来はサッカー選手かしら?」
その言葉に、俺は複雑な感情を抱かずにはいられなかった。
この程度で才能があると言われてしまう自分が、少しだけおかしかった。前世で見てきた本物の天才たちの動きを俺は誰よりも知っている。生まれながらにして規格外の身体能力と技術を持つ人間が、この世のどこかに、まだ何人も実在するはずだということも。自分はまだ、その足元にも及ばない。真剣に探せばそこそこいるだろうただの「筋のいい子ども」でしかないのだから。
だがそれでいいとも思っていた。焦る必要はない。この体には、まだ十年以上の伸びしろがある。前世で得られなかった時間を、今度こそ丁寧に積み上げていけばいい。
*
その夜、目が覚めたのは、喉の渇きのせいだった。
五歳になったばかりの体を布団から引きずり出し、暗い廊下を手探りで進む。リビングの扉の隙間から、青白い光が漏れているのに気づいたのは、水を飲み終えた後だった。
こんな時間に、誰か起きている。
そっと扉を押し開けると、薄暗い部屋の中、父がソファに座ってテレビの画面を見つめていた。時計の針は、夜中の三時を指していた。
「父さん……?」
「ん、平か。まだ起きてたのか」
父はそう言いながらも、画面から目を離さなかった。声を落として続ける。
「スペインという国でやってる試合だよ。夜中にあるからな、こっそり観てるんだ。母さんには内緒だぞ」
俺はよく分からないまま、父の隣によじ登るようにして座った。画面の中では、緑の芝の上を、選手たちが激しく行き交っていた。
「日本人が、こんな舞台で走ってるんだよ」
父の声が、独り言のように呟いた。顔は見えないものの、真剣に観ていることは伝わってくる。その言葉に引かれて、俺は画面を見つめ直した。白いユニフォームを着た一人の選手が、相手の間をすり抜けるようにボールを運んでいく。派手さはないがスマートでどこか惹きつけられるプレイ。それに引っ張られるように体の向きを変える一瞬、相手の足が止まる。
(あれ?)
胸の奥で、何かが引っかかった。うまく言葉にならない、小さな違和感だった。次の瞬間、その選手が相手DF二人を一人で外し、味方へ鋭いパスを通した。スタジアムがどよめき、実況の声が一段と跳ね上がる。
『決めた! 決めました! この劣勢の中、若きサムライが、また試合を動かしました!』
画面下に、名前のテロップが表示された。
福田達也———その四文字を目にした瞬間、俺の中で何かが音を立てて繋がった。
(待て)
それは、前世で読み込んだ、あの作品に記されていた名前だった。作中で描かれた若かりし日のエピソードとして。フィクションの中の、ただの背景情報として。
なのに今、目の前の画面で、その人物が、確かに息をして、走って、汗を飛び散らせている。
(本当に、いるのか)
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。五歳の小さな胸郭では受け止めきれないくらいの、重たい鼓動だった。
「平? どうした、怖い顔して」
父が、俺の顔を覗き込んだ。
「……ううん、なんでもない」
俺は慌てて、いつもの幼い表情を取り繕った。だが内心では、まだ鼓動が収まらずにいた。画面の中の福田は、この後もう一度、鋭い切り返しから相手を置き去りにしてみせた。実況が彼の名前をまた叫び、観衆が割れるような喝采を挙げるその姿は正しくスターと呼ぶに相応しいものだった。事実この俺が経験してきた選手の中でも10指に入るくらいの迫力がある。
あれは、物語の中の存在ではなかった。この同じ空の下、たった今、確かに戦っている一人の人間だった。その夜、父に背負われて寝室に戻ってからも、俺はしばらく寝付けずにいた。天井を見つめながら、頭の中で同じ問いを繰り返す。
(もし、あの世界が本当にここにあるのなら俺は、その中に足を踏み入れることになるんだろうか)
前世で味わえなかったもの。同世代の圧倒的な才能とぶつかり合う経験。日本代表として、世界一を目指す経験そのもの。それらを手に入れる可能性が、今、この小さな体の中に眠っているのだとしたら。
胸の奥で、何かが小さく、しかし確かに疼くのを感じた。
それは、古傷が疼くのとは、違う種類の感覚だった。
まだ名前のつかない、生まれたばかりの予感……それだけが、暗い天井を見つめる俺の中で、静かに膨らみ始めていた。