『安楽死』の個性を持つ透明な"僕"と血を吸う少女 作:汚れっちまった哀しみに
差し込む西日が傾きかけている。
日曜日という言葉がいつから産まれ機能しているのか僕は知らないけれど、多くの人にとってそれが意味するところに大きな認識の差異は少ないだろう。
田等院の街を行く人々が楽しげにしているように。
僕の少しだけ前を歩くヒミコちゃんが振り返る姿が、欲しいものを買ってほしくて親の手を引く子供のように見えた。
「僕くん! 次はあのお店です! あそこに入りましょう!」
既に両手に紙袋を持ち、中には購入した服が入ってるとなれば、それなりの荷物にもなっている。
僕の力は自慢にもならない自慢だけれど、まったくの非力と言って差し支えない。運動部の女子と腕相撲をして五秒とまたずに負けたこともある。
当たり前だが対戦相手のクラスメイトがゴリラだったわけじゃなく、単純に僕の力がカトンボ並みだったというだけだ。
まぁ、六人参加した中で彼女が優勝していたけれど。
そんな僕だから、一つ前のファッションセンターしかむらでの買い物が最後になってほしいと願っていただけに、次なる買い物を示唆されて想うことが無いわけでないが口をつぐむ。
女性との買い物にいらぬ嘴を突っ込むと、それなりの災いを招くこともあるにある。
店に入るとやっぱりヒミコちゃんは、
「あれが可愛いです!」
「これも可愛いです!」
と、飛び立つ鳥のような勢いで店内の物を見つめて喜んでいた。
「そうだね」
とだけ返すと、少しだけしょぼくれてから、
「僕くん! ちゃんと見てくれていますか?」
と言った。
ごめん見ていなかったかもしれない。
しかし服屋だけで六軒巡り同じやり取りを繰り返していれば、流石に想うところも出てくるもので。それが不快感ではなく、ただの疲れから来るものなのがまた厄介だった。
僕は非力でどうしようもない人間なんだ。
「もう! ちゃんと正面から私を見てくださいね! 今、着替えてきますから!」
言いながらヒミコちゃんは白いワンピースを片手に若い女性の店員さんへと話しかけにいく。そうして試着室の前まで三人で移動した。布擦れの音が聞こえてき、手持ち無沙汰になっている僕に店員さんが話しかけてくる。
好奇心ありありと言った表情をしていた。
「彼女さんですか?」
「いえ、ただの知り合いですよ」
「そうなんですか? とても仲が良さそうに見えましたけれど‥‥」
「あはは、学校では一番長く話していますね」
「それでも彼女では‥‥いえ友達でもない?」
「ええ、はい。僕とヒミコちゃんは彼女でなければ友達でもありません。」
僕の言い方に彼女は少々訝しんだようだった。
「えぇと、それじゃあいったい?」
「‥‥」
確かに僕らの関係はどのようなものなのだろう。返す言葉を僕自身持ってはいなかった。
僕たちの関係はいったいなんなのだろう。
流れた微妙な空気を、カーテンを引いてその姿を見せたヒミコちゃんが引き裂いた。
「どうですか? この服は可愛いですか? 僕くん!」
試着室から飛び出して来たヒミコちゃんは白いワンピースを着ていた。涼やかな白地のそれは、春風の緑と空の青に染められてしまう前の純粋さを残しているように見えた。
それよりもなによりも。
白いワンピースを着ているヒミコちゃんそのものが可愛らしくも美しい。
「あぁ‥‥とっても可愛いよヒミコちゃん」
気がつけば殆ど無意識で、僕は正面からヒミコちゃんの瞳を見据えそう言っていた。自然と笑みも浮かべていた。
「‥‥」
僕の言葉にヒミコちゃんはすぐには反応を示さなかった。ただ瞼を大きく開き、空を写したようにキラキラとした湖面のように瞳を潤ませた。それから俯いてしまう。
無言。ヒミコちゃんは両手の掌でワンピースのスカート部分を握りこんだ。やがてパッと顔をあげる。
歪んだ笑顔。体温が上がっているのか紅潮し始める頬。波打つようで浅く規則正しい息遣い。
ヒミコちゃんは全身を使って笑っているようだった。
「よかったで――」
――すね
という店員さんの声を背後に残して、僕はヒミコちゃんに腕を引かれて試着室に連れ込まれてしまう。すぐさまカーテンのレールがシャカシャカ動く音が聞こえ、それから胸元から、「はぁ‥‥はぁ‥‥」、というヒミコちゃんの息遣いが聞こえた。
土足のまま姿見へと押し付けられている僕。僕より背の低いヒミコちゃんの顔は影となっていて見えない。
どれくらいそうしていたのだろう。一瞬のことだったようにも、長い時間そうしていたようにも思える。
店員さんは不測の事態に動転し固まっているのかもしれない。試着室の外側からはなにもアクションが生まれなかった。まるで今はこの内側だけが世界の全てであるようだった。
――ごめんなさい
始まりのそれは、囁くようなか細いものだった。しかし次第に力強く変わっていく。声は小さいというのに言葉に込められた言霊は重いものへと。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
繰り返される謝罪の言葉。視線をあげたヒミコちゃんの表情が目に映る。
「僕くんごめんなさい――」
白い肌が朱に染まっていることに合わせ、僕を押さえつける体の温みがどんどん上がっていくのがわかる。
這い寄るように、絡みつくように、ヒミコちゃんは言う。爬虫類のような冷たさではなく、獣のような熱をもって。
「――けれど、私もう我慢出来ないんです‥‥僕くんが見てくれた。私を見てくれた。服じゃなくて私を可愛いって言ってくれた! 嬉しいなぁ‥‥嬉しいなぁ! 好きです僕くんが大好きです。どうしようもないくらい僕くんのことが大好きなんです――だから、もういいですよね?」
その言葉を最後にヒミコちゃんは僕の首筋へと噛み付くようにしゃぶりついた。ぬるりという唇と舌の感触が、首筋の弱いところを刺激する。頸動脈のすぐ近く。生命の危機も相まって、くすぐったいような退廃的な感覚がそこにはあった。
暫く僕の首筋を味わうように舐めていたヒミコちゃんだったけれどもう一度、
「ごめんなさい僕くん‥‥」
というと、その鋭い八重歯で僕の首筋に噛み付いた。
瞬間の痛みと流れ出す血液の感触。それから傷口から血液をチウチウ吸い上げられながらペロペロ舐められる、ピチャピチャという水音が辺りに満ちた。
僕の首元に頭を埋めるヒミコちゃんの髪を撫でる。よく手入れのされた金糸の髪の毛は、すぅっと僕の指を通してくれた。
それから暫く。
「落ち着いた?」
「‥‥ごめんなさい僕くん。私」
「大丈夫だよ、君は悪くない。それに前に約束したことでもあるからね」
パンツのポケットからハンカチを取り出してヒミコちゃんの口元を拭う。血の雫が零れ落ちて、せっかくの白を赤く染めるのは憚られた。
「そう、ですね‥‥」
僕のなすがままにされているヒミコちゃんは、なんだか少しだけ傷ついたような表情を見せたが、すぐに平時の顔つきへと戻っていた。
血を拭ったハンカチをしまい、着衣の乱れを整える。
「よし、行こうか」
「‥‥はい」
カーテンを開けると、店員さんは引きつった笑みを浮かべたまま固まっていた。
「あ、あははは……だ、大丈夫でしたか?」
視線は、僕の首元に残る生々しい赤と、ヒミコちゃんの未だ紅潮している頬とを往復している。先ほどまではあった好奇心がとうの昔に消え失せている。
店員さんはなにも追及しない。
「すみません、土足で上がってしまって、あぁ、この服買いますね?」
僕が何事もなかったように微笑むと、彼女は「あ、いえ……」と引きつった声を出して、逃げるようにレジへと戻っていった。
会計を済ませてから服屋を出ると、辺りは蜜柑色に染まりつつあった。いつもの夕暮れよりも明るい。雨上がりの空のような、光が乱反射し、世界が輝いてるようだった。
僕たち二人は並んで街を歩く。交わされる言葉はない。きっと先ほどの店でのことが空気を濁らせている。まるで死人の行進のように、僕らはあまりに静かだった。
ヒミコちゃんの手が僕の手へと近づいては離れていく感覚だけを感じとる。どうしてゆらゆらと揺らしているのだろうかは知れない。
こういう時、どうしようもない僕は何を口にすればいいのかよく分からない。戸惑っているといえばそう言えるし、しかし言葉を紡げばいつものような抑揚で話すことも可能には違いない。
だからこそ口を噤む。
無感情的に天気の話をふるように、「さっきのお店は良かったね」、とか当たり障りのないことを口にすると人は怪訝な顔をしたり逆に大袈裟に振る舞ったりすることを僕は知っていた。
それともそうするのが正解なのか。
よく、わからない。
そういう風に考えている内に、僕らは駅前まで辿り着いていた。まばらに行き交う人達をしりめに、ヒミコちゃんがこちらを振り返る。
「それじゃ、僕くん、私はここでお別れです。今日は一日付き合ってくれてありがとうございました!」
それまでの沈黙を破るようにヒミコちゃんはきらめくような声で言った。その表情は決して鬱屈したものではなく、むしろ頬を上気させ、あるいはいつも以上に輝いているようにも見えた。
たたっと、小走りでヒミコちゃんは駆けていき、駅のホームの中へと去っていく。
その背中を見ながら僕は思う。
そもそも僕にとってヒミコちゃんはどういう存在なのだろう。
首元の傷へと無意識に手をやると、そこは未だじんじんとした熱を持っていた
白いワンピースは穢されるために存在してると思う