私は朝田詩乃、そして私はダーク朝田詩乃 作:アリス
翌日の夜、部屋の中には何も起きていなかった。
テレビは消したままで、窓の向こうには冬の夜に浮かぶ向かいのマンションの灯りがいくつも並び、机の上には開きっぱなしの教科書と途中まで式を書いたノート、それから夕食の後で淹れた茶が置いてある。昨日までと違うのは、棚の少し奥に黒い猫のぬいぐるみが一匹座っていることと、それまで何年も同じ場所にあったペン立てが右側へ追いやられていることくらいだった。
ペン立てを動かしたのは彼女だった。昨日は勝手に配置を変えるなと文句を言ったのに、一日使ってみれば以前より右手を伸ばしやすく、結局、私は帰宅してから一度も元へ戻していない。そのことに彼女が気づいているのは、尋ねなくても分かっていた。昼間、何度かそこからペンを取るたびに同じものを見ていたはずなのに、珍しく一度も得意げなことを言わなかった。
猫も昨日の場所にいる。四百円も掛けたのだから雑に扱うなと言われて窓際から遠ざけた場所で、片方の耳だけを少し曲げ、青い目をこちらへ向けていた。
私はノートに視線を戻したものの、さっきから同じ問題を三度読んでいる。
『それで?』
待っていたように、頭の中から声がした。
『昨日から散々考えてたんでしょう。そろそろ聞かせてもらってもいいんじゃない? まさか、一晩寝て学校まで行った挙げ句、まだ保留なんて言わないわよねぇ』
昨夜、自分が何を尋ねたのかなど大したことではないような調子だった。
今日一日もそうだった。朝はいつものように目覚ましが鳴る前から起こされ、食パンを焦がしかければ余所見するなと文句を言われ、通学途中では道を塞いで歩く学生たちを一人ずつ側溝へ落とせば通りやすくなるのにと、採用する気のない案まで出された。それなのに、あの問いだけは向こうから一度も持ち出さなかった。
だから結局、丸一日それを持ち歩いていたのは私の方だった。
私はシャープペンシルを机へ置いた。
「殺さない」
声に出してしまえば、思っていたよりずっと短かった。
頭の中が静かになった。私は机の端に置いたカップを持ち上げたが、まだ少し熱かったので、口をつけずに戻した。
『……早いわね』
「昨日から考えてたもの」
『そういう意味じゃないわよ。もう少し悩みなさいって言ってるの。私、かなり危ないでしょう? あんたが何を怖がるか知ってる。どこまで追い込めば呼吸が乱れて、どの辺りで身体を渡したくなるかも知ってる。目も耳も同じなんだから、隠し事だってほとんどできない。そのうえ身体まで動かせる。これだけ揃ってて無害ですなんて言われたら、私ならそいつの頭を疑うわねぇ』
自分で自分の不利な条件を数え上げながら、声にはどこか楽しそうな響きが残っていた。私が反論するのを待っているのだろう。
私はしなかった。
「そうね」
『あら。認めるんだ』
「認めるわよ。だから、勝手なことをしたら止める。身体を取ったら取り返すし、私を傷つけようとしたら、今度は本気であなたと喧嘩する」
机の下で右手を一度握った。
昨日、彼女が猫耳のついた写真をキリトへ送りつけようとした時、身体の主導権を貸したまま右腕だけを無理やり取り返し、拳を自分の顔へ近づけた手だった。あの時ばかりは、いつも余裕のある彼女が「分かったわよ殴らないで」と声を潜めて早口に謝った。
当然、それも覚えている。
『あれは今でも反則だと思ってるから。全身貸すって言ったくせに、気に入らなくなったら右腕だけ回収って何よ。しかも殴る相手が自分の顔。あんた、私よりよっぽど危険なんじゃない?』
「あなたが約束を破ろうとしたからでしょう」
『送ってないじゃない。送信ボタンにちょっと触ろうとしただけ』
「次やったら左手も取るわよ」
『はいはい。貸主様には逆らいませんよ』
わざとらしく従順な返事に、私は少しだけ口元を緩めた。
昨日、初めて何も起きていない状態で身体を渡し、彼女は最後には約束通り返した。途中でやりすぎれば私が止められることも、お互い分かっている。それでも、本気で私を壊そうとする日が来ないとは言い切れない。
だから、危険ではないとは言わない。
「あなたが安全だから殺さないんじゃない」
私は机の上へ置いた手を見ながら言った。
「危ないことを考えるのも知ってるし、私が嫌がるところまで平気で踏み込もうとするのも知ってる。それでも、まだしてないことを理由に、今いるあなたを消す気にはならない」
今度の沈黙は少し長かった。
窓の外を走った車の灯りがカーテンの隙間から入り、黒猫の青い目を一瞬だけ照らして消えた。
『へえ。案外まともな答えじゃない』
「不満?」
『別に。ただ、昨日あれだけ遊ばせてやったんだから、もう少し情に流されてくれるかと思っただけ。猫まで取ったのに、努力が足りなかったかしらねぇ』
「猫はあなたが欲しくて取ったんでしょう」
『欲しいなんて一言も言ってないわよ。あれが一番取りにくそうだったから取っただけ』
「じゃあ捨てる?」
声が止まった。私は棚の黒猫へ視線を移した。昨日、ゲームセンターから帰る途中、教科書の角で耳が潰れそうになったのを見て、彼女自身が鞄の中へ入れ直したぬいぐるみだった。窓際では色が褪せると言ったのも彼女で、今の場所を選んだのも彼女だ。
『……話、戻さない?』
「分かりやすいわね」
『あんたにだけは言われたくないわ』
返事だけは早かった。
私は少し笑い、それから机へ視線を戻した。
これで昨夜の問いには答えたはずだった。殺さない。それだけで終わってもよかった。
けれど彼女は、しばらくしてもう一度口を開いた。
『じゃあ、私を残して何するの?』
さっきまで残っていた笑いが少しだけ薄くなった。
『もう守ってもらわなくてもいいんでしょう? あの母娘の前でも私を呼ばなかった。拳銃を見ても、この前は一人で戻ってきた。学校で嫌なこと言われても、自分で無視するって決められるし、GGOなら私が出なくてもシノンで撃てる。だったら、何のために私を残すわけ? また何かあった時の予備? それとも卵を割らないよう見張らせるため?』
私はすぐには答えなかった。
役に立つから。強いから。もしまた本当に動けなくなった時、助けてもらえるかもしれないから。どれも嘘ではない。それでも、どれを答えても彼女が聞きたいこととは違う気がした。
右へ移されたペン立てへ手を伸ばすと、以前より短い距離で指がシャープペンシルへ届いた。
昨日の彼女を思い出した。
せっかく身体を貸されたのに、駅前まで出て何をしたいのか分からず、本気で立ち止まっていた。クレーンゲームの黒猫を見つけると、欲しいとは一度も言わないまま四百円を使い、取れた後には潰れた耳を丁寧に直した。猫耳をつけた私の写真を撮って笑い、やりすぎて拳を向けられれば珍しく素直に謝った。
GGOではもっと分かりやすかった。
経験値にも金にもならない道路標識を撃ち、落ちた看板が鉄骨へぶつかる音を聞いて笑った。次から次へ意味のない標的を見つけては、本気で照準を合わせ、夕暮れの廃墟に一本のアンテナを見つけると、東へ回れば根元まで見えると地形まで確認した。
次があることを、当然のように話していた。
「昨日、あなたが楽しそうだったから」
声が止まった。
私はペンを机へ戻した。
「また見たいと思ったのよ」
役に立つところを、ではなかった。何かから私を守るところでもない。
どうでもいいことへ意地になり、余計なことをして私に怒られ、意味もなく銃を撃って笑っているところを、もう一度見たかった。
返事が来るまで、随分時間が掛かった。同じ目で同じ棚を見ているはずなのに、今だけは彼女がどこにもいないような静けさがあった。
『……最悪』
ようやく声がした。
「何がよ」
『そういうの、昨日言いなさいよ。だったら四百円の猫なんかで満足しなかったのに。もっと高いやつ取らせて、あとで返せって言われても絶対返さなかったわ』
「そこなの?」
『何よ。感動して泣けばよかった? 残念ね、涙腺はあんたと共用なの。私だけ勝手に使えないわよ』
いつものように最後まで軽口を続けると思った。けれど、その先が来なかった。
私は待った。
何か別の言葉を考えているだけなのかと思ったが、数秒経っても声は戻らない。冷蔵庫の低い機械音が一度止まり、部屋が少しだけ静かになった。
「ねえ」
呼んでから、さらに間があった。
『……聞こえてるわよ。急かさないで』
声量が小さくなったわけではない。それでも、今までと同じ近さには聞こえなかった。
「今、止まったでしょう」
『たまには黙るわよ。私が四六時中あんたを楽しませるために喋ってると思ってた?』
「最近、その『たまに』が増えてるでしょう」
返事がなくなった。私は黒猫から目を離し、机の上に置いたカップを見た。さっきまで上がっていた湯気は、もう細くなっている。
「全部、自分で黙ってたわけじゃなかったの?」
長い沈黙の後、彼女が小さく息を吐いた。
『知ってたっていうほど親切じゃないわよ。ただ、最近、静かにするのが妙に簡単だっただけ』
声は、さっきよりゆっくりしていた。
『最初は本当に自分で黙ってみたの。あんたが私を呼ばなくても平気か、私も呼ばれなくて平気か試した。それで、やってみたら思ってたより簡単だった。あんたが馬鹿なことしてても口を出さずにいられるなんて、私も大人になったじゃないって感心してたくらい』
そこでまた、一度途切れた。
私は急かさずに待った。
『そのうち、黙るつもりじゃない時にも戻れないことがあった。返事しようと思ってたはずなのに、次に気づいたら話が終わってたり、夜に何か言おうとして、そのまま次に呼ばれるまで何もなかったり。原因なんて知らないわ。いつまでこうしてられるかも分からない』
何かの病名や理由を尋ねても、答えは出ない。
私たちのどちらにも分からないのだろう。
母娘に会ってから、私は郵便局で引き金を引いた自分を以前ほど遠い場所へ追いやれなくなった。拳銃の映像を見ても、彼女へ身体を渡さずに戻れることが増えた。それと彼女が薄くなっていることに関係があるのかもしれないし、まったく別のことかもしれない。
分からないものへ名前をつけても、彼女をここへ繋ぎ止められるわけではなかった。
「……知ってたの?」
『だから、知ってたってほどじゃないって言ってるでしょう。静かにするのが簡単になった。それだけ。最初はね』
「じゃあ、どうしてあんなこと聞いたの」
彼女は何を、と聞き返さなかった。
しばらくして、声が戻った。
『あんたが私をどうするつもりか、聞いておきたかったのよ。いなくなってからじゃ、答え聞けないでしょう?』
私は何も言わなかった。
その言葉の向こうに何があったのかを、無理に決める気にはならなかった。
殺してほしかったのかもしれない。殺さないと言ってほしかったのかもしれない。自分なしでも私が最後の判断をできることを確かめたかっただけなのかもしれない。
少し時間を置いてから、彼女の方が先に口を開いた。
『ねえ、詩乃。一つだけ覚えときなさい』
今度は、声からほとんど冗談が消えていた。
『私がいなくなった後、嫌なもの全部私のせいにするのは禁止よ』
私は眉を寄せた。
『あの男を撃ったのも、恭二を怖がったのも、死銃に腹を立てたのも、GGOで撃つのを楽しいと思ったのも――あんたでしょう』
「あなたもいたでしょう」
『いたわよ』
返事だけはすぐだった。
『だから何?私がいたら、あんたがいなくなるわけ?』
苛立ちが声へ戻った。
今まで弱くなっていたはずの声が、その時だけ少し強く聞こえた。
『私は持ってただけ。あんたが見たくない間、預かってただけよ。それを今さら全部こっちの荷物にして、「あれは私じゃありませんでした」なんて綺麗な顔されたら腹立つのよ。そんな便利なゴミ箱になるために何年も付き合ったんじゃないわ』
私は反論しなかった。
彼女はそこまで言ってから、少し息を整えるような間を置いた。
『それから――《シノン》まで私に持っていかせる気?』
思わず顔を上げた。
『ふざけないで。あれは最初から、あんたよ』
今度の言葉には迷いがなかった。
『怖いくせに銃を握ったのも、手が震えてるのに撃ったのも、負けたら腹を立てて、次は絶対勝つって戻ったのもあんたでしょう。私が横にいたから何?私が何度か身体を動かしたから何?あんたが積んだものまで私の手柄にする気?失礼にもほどがあるわよ』
彼女は昔からそうだった。私が自分を弱いと思うたび、それを一番嫌った。銃が怖いから弱いのではなく、怖くても撃てるならそれでいいと、本人である私より先に決めていた。
《シノン》という名前で強い自分を作った頃から、彼女だけは、それを別人として扱ったことがなかった。
「分かってる」
彼女はまだ何か言おうとしていたようだったが、それ以上は必要なかった。
「シノンは私よ」
今度は、向こうが黙った。少しして、ごく小さく息を吐くような音がした。
『……ならいいわ』
その声だけは、ひどく静かだった。
私は机の上へ置いていた右手を見た。昨日、彼女を殴るために奪い返した手は、今は何も握っていない。
部屋の中には危険なものは何もなかった。
テレビも消えている。
誰かに傷つけられているわけでもなければ、拳銃を向けられているわけでもない。彼女が私を守る必要は、どこにもなかった。
だから、何かしてやれることも思いつかなかった。
目の前にいる相手なら、手を握ることくらいできたのかもしれない。
隣へ座ることも、肩へ触れることも、黙って同じ部屋にいることもできただろう。
彼女には身体がない。
この何年も、声は誰より近くにいたのに、一度も触れたことはなかった。
私は右手を持ち上げ、しばらく見てから、左手でその手首を掴んだ。
どちらも自分の手だった。当然、それで彼女に触れられたわけではない。
『……何してるの?』
まだ声がした。
「別に」
『へえ。自分で自分の手握って慰めてるわけ? 随分器用なこと始めたじゃない』
「うるさい」
私は手を離さなかった。
彼女も、それ以上からかわなかった。
同じ感触を彼女も知っているーーそれだけでしかなかった。
「何か、できることないの?」
尋ねてから、答えがないことは分かっていた。もし何かあるなら、彼女の方が先に考えている。それでも、聞かずにはいられなかった。
しばらくして、薄くなった声が返ってきた。
『ないわねぇ』
言い方だけは妙にあっさりしていた。
『残念。あんたがどれだけ頑張っても、私の手を掴んで引っ張るとかできないもの。昔からそうだったでしょう?』
その通りだった。彼女が私を引っ張ることはあった。動かない身体を代わりに動かし、見たくないものを代わりに見て、言えないことを代わりに口へ出した。
けれど、今度は逆だった。
私から向こうへ届く手は、一つもなかった。
「……嫌ね、それ」
『でしょうね』
「こんなに近くにいるのに」
『まあ、住所は同じだからねぇ』
いつもの軽口だった。
それでも、私は笑わなかった。
「ねえ、詩乃」
初めて、その名前で呼んだ。
小学生の頃、同じ名前では不便だからと、《ダーク朝田詩乃》と呼び始めた。本人が安っぽいだの捻りがないだのと何度文句を言っても、その呼び名だけはずっと変わらなかった。
今は、その余分な言葉をつける気になれなかった。
返事までに時間が掛かった。
『……何よ。今さらそっちで呼ぶの?』
「分かるでしょう」
『まあね。自分に話しかける時に声出すほど変じゃないものね、あんた』
まだ、こういう返しができる。
そのことが嬉しくて、同時に嫌だった。
「いてほしい」
私は手首を握ったまま言った。
「必要だからじゃない。守ってほしいからでもない。何も起きない日なら、ずっとくだらないこと言ってればいいし、昨日みたいに勝手に遊んで、余計なことして、私に怒られてればいい。だから……いてほしい」
最後まで言ってから、少しだけ俯いた。
これ以上は何も言えなかった。彼女を引き止めるための理由をどれだけ並べても、それで声が強くなるわけではない。残ってほしいと願うことと、残せることは別だった。
長い時間が経ってから、返事が来た。
『……私だって、いたいわよ』
皮肉も冗談もなかった。
『あのアンテナ、まだ撃ってないんだから』
胸の奥が詰まった。昨日、夕暮れの廃墟に残した一本のアンテナ。
東側から回れば根元まで見えると地形を確認し、次はそこから撃つと決めていた。
まだ落ちる音を聞いていない。
「そうでしょう」
私は顔を上げた。
「だから、あなたが撃くまで取っておく。次に――」
そこで、声が消えた。
私は続きを言わずに待った。机の上に置かれた茶からは、いつの間にか湯気が消えている。
「詩乃」
すぐには返事がない。
「ねえ」
さらに間を置いて、ようやく届いた。
『……聞こえてるわよ。何回も呼ばないで』
声は遠くなっていた。
私は左手を右手首から離さなかった。
「返事が遅いのよ」
『しょうがないでしょう。今それで怒られても困るんだけど』
「怒ってるわよ」
『理不尽ねぇ』
笑っているのはまだ分かった。
それなら、と私は思った。
今はまだ、話せる。
「アンテナはあなたが撃くんでしょう」
『予定ではね』
「だったら、私は撃たない。あなたが見つけたんだから、残しておく」
返事がなかった。
私は待った。何秒経ったか数える気にはならなかった。
『……ほんっと察し悪いわねぇ』
ようやく、小さな声が戻ってきた。
『無理そうだから頼んでるの。東側からなら根元が見える。あんたが撃って落としなさい』
「嫌よ」
考えるより先に出た。
彼女は少し黙った。
「あなたが撃きたいって言ったんでしょう。まだ撃ってないから、いたいって言ったじゃない。だったら、自分で撃けばいいじゃない」
言いながら、自分でもどうにもならないことを言っているのは分かっていた。
彼女ができるなら、頼まない。
それでも、その言葉を受け入れたら本当に最後の予定を渡されるような気がした。
『詩乃』
呼ばれたが、声は弱かった。
『私だって、自分で撃ちたいに決まってるでしょう』
それだけ言った後、長く途切れた。
『あれを落とした時の音、まだ聞いてないんだから』
私は目を閉じなかった。
満足して消えるわけではない。
やりたいことを全部終えたわけでもない。四百円の猫だって、もっと眺めたかっただろう。
昨日の写真も、まだ何か余計な使い道を考えていたのかもしれない。
明日の朝になれば、また私の朝食へ口を出したかったかもしれない。
その全部が残っている。
だから余計に、別れたくなかった。
それでも、私は何もできない。
右手を握っても彼女の手ではない。名前を呼んでも、声が戻るまでの時間が少しずつ長くなる。もっと強く願えば残るようなものでもなかった。
「……分かった」
喉が少し掠れた。
「私が撃つ」
返事を待った。
長い時間の後で、小さく笑う声がした。
『よろしい。先端に当てて満足しないでよ。根元からちゃんと落とすの』
「分かってる」
『一発でね』
「昨日あなた、標識外したじゃない」
『あれは観測射。まだ覚えてたの? 本当に性格悪いわねぇ』
「あなたに言われたくない」
『それもそうか』
笑い声は、途中で薄くなった。
私は急かさなかった。返事がなくなるたび、まだ戻ってくるかもしれないと思って待った。
机の上の時計を見るのもやめた。何秒掛かったか分かってしまうのが嫌だった。
少しして、また声が戻った。
『猫、窓際に戻さないでよ』
「戻さないわよ」
『色褪せるから』
「分かってる」
『ペン立ても今の場所の方が使いやすいでしょう?』
こんな時に、とうとうそれを言った。
私は少しだけ息を吐いた。
「……まあね」
『ほら。私の方が分かってるじゃない』
「一日使っただけで偉そうにしないで」
『一日あれば十分よ。あんたのことだもの』
その後の沈黙は、それまでより長かった。
私はもう一度右手を左手で包んだ。指先から伝わる体温は、自分のものだった。彼女も同じ温度を感じているのだろうかと考えたが、聞かなかった。
答えてもらうために声を使わせるのが惜しくなっていた。
しばらくして、彼女の方から呼んだ。
『詩乃』
「いるわよ」
今度は私がそう答えた。
それきり、向こうは何も言わなかった。
『……ねえ』
また、しばらくしてから声がした。
「何?」
『昔、あんたに言ったでしょう。目を閉じればいいって』
初めて声を聞いた夜のことだった。
『見たくないものくらい私が見ててあげるから、寝てればいいって』
「覚えてる」
『あれ、取り消すわ』
私は右手を包んでいた指を少し緩めた。
『これからはちゃんと見なさい。嫌なものも、怖いものも。どうしても目を逸らしたくなったら、少しくらい逸らしてもいいけど……そのままずっと閉じてるのは禁止』
昔の彼女なら、自分が全部見てやると言った。今はもう、それを引き受けようとはしなかった。
「分かった」
『それと、変な我慢もほどほどにしなさいよ。あんた、平気な顔するの下手なんだから』
「あなたほどじゃないわよ」
返事がなかった。
私は少し待ってから、気づいた。今のは、返してくるはずの言葉だった。
「……詩乃?」
しばらくして、かすかな声が戻った。
『何よ』
私は息を吐いた。
「何でもない」
『だったら呼ばないで。今、戻るの結構大変なんだから』
冗談めかして言ったものの、笑いはなかった。
その一言で、今まで曖昧だったものが少しだけ形を持った。
彼女自身も、もう簡単には戻れないのだ。
私はそれ以上、無意味に呼ぶのをやめた。
代わりに、そこにいた。机の前から動かず、手も離さず、彼女と同じものを見ていた。
黒猫。右へ移ったペン立て。冷えた茶。途中まで書いた式。何年も一緒に見てきたものの中で、特別なものは一つもなかった。
だから、それでよかった。
彼女が最後に見るものが、何か劇的な景色である必要はなかった。何も起きていない、自分たちの部屋でよかった。
どれくらい経ったのか分からない。
彼女が、また小さく私の名前を呼んだ。
『詩乃』
「うん」
今度は、何、と聞かなかった。
聞かなければ続きを考える負担が少し減るような気がした。
『……その返事、何。気持ち悪いわねぇ』
「最後まで文句言うの?」
『言えるうちは言うわよ』
私はほんの少し笑った。
「じゃあ言ってて」
『注文多いって……言ったでしょう』
「知ってる」
また声が途切れた。
もう右手首を強く握ることもしなかった。逃げていくものを掴もうとしているようで嫌だったので、今は両手を重ねるだけにしていた。
『詩乃』
「いるわよ」
『……昨日、楽しかったわ』
思いがけない言葉だった。
彼女が自分からそう認めるとは思っていなかった。
私は返事をする前に、少しだけ息を詰めた。
「私も」
『あんた、ほとんど見てただけじゃない』
「見てるのが楽しかったのよ」
『……最悪』
さっきと同じ言葉だった。
今度は笑いが混じっていた。
『本当に昨日言いなさいよ』
「言ったらどうしてたの?」
返事はすぐには来なかった。
『もっと遊んだ』
それだけだった。
胸の奥が痛くなった。私は何も言わず、黒猫を見た。
もっと遊べばよかった。
その言葉は口にしなかった。
昨日の時間は戻らないし、それを言ったところで彼女が一時間増えるわけでもない。ただ、次があると思っていたことだけが残った。
彼女の声は、その後さらに間遠くなった。
返事が来るまでの時間が伸びても、私は呼び続けることはしなかった。呼ぶことが彼女をここへ繋ぐのではなく、むしろ戻るために力を使わせているのだと分かったからだ。
だから待った。
返事が来れば話した。来なければ、そのまま同じ部屋にいた。目の前にいる誰かの呼吸が浅くなっていくのを見守るようなことはできない。手を握ることも、身体を支えることも、水を飲ませることもできない。
彼女には身体がなかった。
その代わり、声が来るたびに返した。
それだけしかできなかった。
『……詩乃』
随分長い沈黙の後で、また呼ばれた。
「ここにいる」
私は答えた。今度は、本当に長い間、何も聞こえなかった。それでも待った。
『……ちゃんと……当てなさいよ』
切れ切れの声がした。私は喉の奥へ何かが上がってくるのを飲み込んだ。
「分かってる」
『シノン』
その名前だけは、不思議なくらいはっきり聞こえた。
『外したら……笑うから』
「あなた昨日外したでしょう」
返事はなかった。
私は少し待ってもう一度言った。
「観測射なんでしょう?」
今度も何も返らなかった。
それでも、私はしばらく待った。
いつものように、呆れた声で言い返してくるかもしれないと思った。
時間が過ぎた。冷蔵庫が一度動き始め、しばらくして止まった。
向かいの建物の明かりが一つ消えた。カップの中の茶は、とうに冷えている。私は両手を重ねたまま座っていた。
「詩乃」
呼んだが、返事はない。
少し待ってから、もう一度呼んだ。
「詩乃」
何も聞こえなかった。
それでも私はすぐに立ち上がらなかった。呼んだ直後に返事がなくても、少ししてから戻ってくることは何度もあった。
だから待った。
時計を見ないまま、ただ待った。どれだけ待っても、今度は声が戻らなかった。
私はそこで初めて、左手を右手から離した。
どちらの手にも、相手の温度は残っていなかった。元から一度も、そこにはなかった。
私は机の前に座ったまま、黒猫の曲がった耳を見た。
立ち上がり、棚へ手を伸ばして、その耳を指先で起こす。
離すと、柔らかな布が少しだけ元へ戻った。
もう一度直した。
今度は、そのままになった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
後日、私は《GGO》へログインした。
SBCグロッケンを出る時、いつもの南側ではなく、東側の出口を選んだ。マップには、彼女が最後に身体を使った日に置いた目印がまだ残っている。
高架の下を抜け、機械系Mobの出現区域を避けて荒野へ出ると、言われた通り、南側より余計な戦闘をせず目的の廃墟まで辿り着けた。
空は薄く赤み始めていた。崩れた高層建築の屋上には、あのアンテナがまだ立っている。
こちらからなら根元まで見えた。私は《ヘカートⅡ》を地面へ下ろし、二脚を開いた。
腹這いになり、銃床を肩へ当てる。頬をストックへつけ、スコープの中へ細いアンテナの根元を入れた。
距離は前より少し長く、風は右から左へ流れていた。
息を吐き、止め、引き金を絞る。
銃声が荒野へ響いた。
弾丸はアンテナの根元を少し右へ外れ、屋上のコンクリートを小さく砕いた。
私はスコープから目を離さなかった。
少し待った。何も聞こえなかった。
右手をボルトへ掛け、空薬莢を排出する。次弾を送り込み、一発目の着弾位置から照準を修正した。
「……今のなし」
自分の声だけが聞こえた。
もう一度、息を吐く。
引き金を絞った。
二発目はアンテナの根元へ当たった。
細い金属棒が大きく傾き、残った接合部を引き千切るように屋上の縁へ倒れる。そのまま壁面へ一度ぶつかり、回転しながら建物の外へ落ちていった。
数秒遅れて、遠くから硬い金属音が届いた。
私は何もなくなった屋上を、しばらくスコープ越しに見ていた。
やはり返事はなく、私は次の標的を探した。
これにて完結になります。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。