私は朝田詩乃、そして私はダーク朝田詩乃 作:アリス
原作:ソードアート・オンライン
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『ねえ、あいつ殺す?あんなにこっちを気にしてるんだもの。少しくらい相手をしてあげてもいいんじゃない?』
誰かに腹を立てるたびにそんな提案をしていたら、東京の人口はいくらか減ってしまうのではないかと思いながら、私は肩に掛けた鞄の紐を持ち直した。
校門の向こうからはまだ笑い声が聞こえていて、その中に、さっき私へ「今日も一人なんだ」と声を掛けてきた女子のものが混じっている。わざわざ人数を確認しなくても見れば分かるだろうに、とは思ったけれど、引き返してそれを教えてあげるほど親切でも暇でもなかった。彼女が本当に気にしていたのは、私が一人でいることではない。言葉が届いたか、傷ついた顔を見せるか、それを確かめたかっただけだ。私も、頭の中にいる彼女も、そのくらいは同じように見抜いていた。
私は唇を動かさず、頭の中だけで答えた。
「殺さない。あの子は、私が反応するのを待ってるだけよ」
『へえ、分かってるんじゃない。なのに私には、ずいぶんはっきり言うのね。あの子だけ気分よく帰らせてあげるなんて、不公平じゃない?』
隣を歩いているわけでも、イヤホンを通じて話しているわけでもないその声は、車がすぐそばを通っても少しも聞き取りにくくならない。何年も前から付き合っている私にとっては、背後の笑い声より、こちらの方がずっと身近だった。
声だけのくせに、こちらの出方を面白がっている顔まで簡単に思い浮かぶ。その顔が私のものと同じだからかもしれないし、彼女ならこう笑うということを、もう嫌になるほど知っているからかもしれなかった。
「あなたは放っておいても黙らないでしょ。あの子は、相手にしなければそのうち飽きるわ」
『そうかしら。今日が駄目なら、明日はお友達を一人増やしてくるかも。だったら先に──』
「何もしないで」
『はいはい。二人まとめて相手をする方が効率はいいものね』
「そういう意味じゃない」
横断歩道の手前で立ち止まった私に、彼女は『つまらないの』と、欠伸を噛み殺すような調子で答えた。もっとも、本気で残念がっているわけではない。あの女子一人を黙らせたところで、明日から私が余計に学校へ通いにくくなることも、周囲が面白がって騒ぎを大きくすることも、きっと彼女は最初から分かっている。その先まで見たうえで、どこまでなら私が許すかを尋ねているのだ。
こちらも本気で彼女を説得したつもりはなく、信号が青になれば、今日の夕食に何を使うかという話へそのまま移れる。それくらいには、私たちのやり取りは日常の一部になっていた。
私の名前は朝田詩乃で、頭の中にいる彼女も、初めて名乗った時から同じ名前を使っている。同じでは不便だからと小学生の私がつけた呼び名が《ダーク朝田詩乃》なのだけれど、今になってみると、区別の仕方にはもう少し工夫の余地があったと思う。
当人も、思い出したようにその名前を安っぽいと罵る。しかし、それなら別の名前を考えればいいと言うと、自分は朝田詩乃なのだから、嫌なら私の方が改名すればいいと返してくる。その話だけは、どれだけ繰り返しても決着がつかなかった。
アパートの階段を上がり、いつものように鍵を開けて、背後で扉が閉まる音を確かめる。靴を脱いでいる間に買い物袋が傾き、長葱の先が床へ触れそうになったところで、彼女から声が飛んできた。
『ちょっと、卵。先にしまいなさいよ。まあ、落としたいなら止めないけど。夕食が一品減って、床掃除が一つ増えるだけだもの』
「困るのは私だけだって言いたいの?」
『まさか。あんたが空腹で余計に不機嫌になるでしょう?ずっと聞かされる私だって立派な被害者よ』
「片づける間、笑うつもりの人が被害者を名乗らないで」
『あら、よく分かったわね』
外では人の一人や二人、平気で傷つけそうなことを言うくせに、こういう細かなところでは妙にうるさい。私は買い物袋を流し台の上へ置き、制服から部屋着に着替えてから、言われたとおり卵を先に冷蔵庫へ収めた。彼女は勝ち誇るでもなく、次は長葱を落とすのかしらと楽しそうに尋ねてきたので、返事の代わりに冷蔵庫の扉を少し強めに閉めてやった。
卵と葱を使った簡単な夕食を用意し、湯を沸かしている間に、鞄から教科書とノートを出した。狭い部屋では食事をする場所と勉強をする場所が同じなので、必要なものを端へ寄せてからでないと皿が置けない。ノートの上へ携帯端末を置くと、ちょうど画面が明るくなり、キリトからの短い連絡が表示された。
次に店へ来る時は、よければ連絡してほしいという内容だった。
私は分かったと打ち込み、そのまま送ろうとして、先日のお礼をきちんと伝えられていたかが気になった。あの日は泣いてしまって、何をどこまで話したのか、細かなところになると自信がない。書き足しては消す私の指を、彼女はしばらく大人しく眺めていたらしい。
『まだ送らないの?撃つ時より慎重じゃない。だったら私が書いてあげる。「余計なことをしてくれてありがとう。借りは必ず返します」──どう?あんたらしいでしょ』
「最後の一文が脅迫にしか見えないわ」
『見る目があるじゃない』
感心したように言われても嬉しくはない。
私は彼女が考えた文章を一文字も採用せず、この間はあの二人に会わせてくれてありがとう、と一行だけ書き足した。送信した後で読み返すと、もう少し他に書きようがあった気もしたけれど、考え直している間に消せるものでもなかった。
冷蔵庫の低い唸りだけが聞こえる。
彼女が四六時中喋っているわけではないし、こちらの言葉を気に入らなければ無視することもある。それでも、この数日は何かが違うと感じていた。話の途中で急に引いてしまうことや、私が眠る前に声を掛けても答えないことが、あの母娘と会ってから増えていた。
彼女が黙っている隙に食べてしまおうと箸を取ったものの、一口目を飲み込んだところで、私は自分が返事を待っているのに気づいた。少し味が薄かったかもしれない、と考えれば、いつもなら自分で作ったくせにと茶々が入る。今日はその代わりに、自分の箸が皿へ触れる音がやけにはっきり聞こえたので、私は端に置いてあったリモコンへ手を伸ばした。
テレビをつけたのは、彼女を呼ぶためではなく、ただ音がほしかったからだ。映った番組では数人が大きな声で笑っていて、食事の間だけ聞いているにはちょうどよかった。食べ終えた皿を流しへ運び、布巾でテーブルを拭く頃には、その声にも慣れてしまい、画面を確かめることなく、私は開いたノートの前に座り直していた。
指先が止まったのは、番組が途切れて別の映像へ切り替わった時だった。暗い室内で誰かが振り返り、その手にあった黒い拳銃が、画面の中からこちらへ向けられる。映画かドラマの宣伝だったのだと思うが、それを確かめるより早く、握っていたペンが指の間を滑り、ノートの上へ転がっていた。
胸の奥を強く掴まれたようになり、吸った息が途中で止まった。銃の映像はもう別の場面へ切り替わっているのに、その黒い輪郭だけが目の前に残り、さっき食べたものが喉元まで上がってくる。テレビを消そうと伸ばした手がリモコンを押し退けてしまい、私は歯を食いしばりながら、床へ落ちる前にもう片方の手でそれを捕まえた。
ようやく電源を切ると、部屋は急に静かになった。私はテーブルの縁へ両手を置き、そこへ体重を預けるようにして俯いたが、掌が湿っているせいで、力を込めるほど指が滑る。目を閉じたら別の光景が見える気がして、開いたままのノートの罫線を見つめ、ここが自分の部屋だということを繰り返し確かめていた。
彼女なら、映像に反応するより早く私の異変に気づくはずだった。普段の笑いを引っ込め、私の返答を待つ間だけ声を低くして、代わるかと尋ねてくる。その言葉が今にも聞こえる気がして、私は息を吐くたびに続きを待ったけれど、耳に届くのは自分の呼吸と、壁の向こうから聞こえる鈍い物音だけだった。
そして呼びたくなった瞬間、床を押さえている自分の指先が目に入った。まだ動かせることを確かめてから、膝を寄せ、身体を少しずらして背中をベッドの側面へ預け直す。息を無理に深く吸おうとするのをやめ、細く、できるだけ長く吐いて、その次も同じように繰り返した。
喉のつかえはすぐには消えなかったし、吐き気も、指の震えも残っていた。それでも、目の前のノートが別の場所の床に見えそうになる感覚は、少しずつ遠ざかっていった。罫線の青、机の脚についた小さな傷、床へ落ちたままの消しゴムを順番に確かめる。足の裏に触れる床は冷たく、背中には自分の服が汗で貼りついていた。どれも気持ちのいいものではなかったが、今いる場所へ戻るためには役に立った。
落ち着いたと言えるまでには、かなり時間がかかった。身体の震えが小さくなってからも、私はしばらく同じ姿勢で座っていた。すぐに立ち上がってまた気分が悪くなるのは嫌だったし、ようやく動くようになった身体を誰かへ渡す必要がなかったことに、少しだけ安堵してもいた。
それでも彼女は何も言わなかった。
沈黙が長引くにつれて、銃の映像とは別の不安が胸に残り始めた。もう交代してほしいわけではない。それなのに、せめていつものように、そんなものにいつまで怯えているのかと呆れてほしかった。ノートの上からペンを拾い上げた私は、ひびが入っていないか確かめるふりをしながら、今度は唇を動かした。
「……いるんでしょう。聞こえてるなら、返事くらいしてよ」
自分の声が思ったより掠れていたので、一度唾を飲み込んだ。誰かへ電話を掛けているわけではないから、呼び出し音も、相手に届いたことを確かめる方法もない。それまで考えたこともなかった不便さに苛立ちながら、もう一度呼ぼうとしたところで、彼女の声が、いつもと変わらない近さから返ってきた。
『聞こえてるわよ。何?褒めてほしいの?』
「何の話よ」
『一人で戻ってきたでしょう。ご褒美なら明日にして。今日はもう店じまい』
私は拾ったペンを握ったまま、しばらく何も言えなかった。腹が立つような言い方をしてくれたことに安心してしまい、その安心を悟られたくなくて、余計に返事が遅れた。私の目も耳も使っている相手に隠し事をするのは難しいのに、こういう時だけはつい、他人へ向けるのと同じ体裁を整えようとしてしまう。
「誰がそんなものを頼んだの。代わってほしくて呼んだんじゃないわ。あなたが急に黙るから、どうしたのかと思っただけよ」
『へえ。助けはいらないけど、返事はしてほしい。あんた、ずいぶん贅沢になったわね』
彼女はそう言って笑った。しかし、いつものように勝ち誇った笑いではなく、口にしてから自分でその意味に気づいたような、短い笑いだった。
助けを求めるためではなく、ただ返事を聞くために呼ぶ。そんなことは、これまでほとんどなかった。私もその事実を認めたくなくて黙り込み、その短い間に、初めてこの声を聞いた夜のことを思い出していた。
今と同じように返事を待っていたわけではなく、むしろ誰にも何も言われたくなくて、布団の中で耳を塞いでいた夜だった。それでも聞こえてきた声を、結局、私は追い出せなかった。
郵便局の事件から戻ってきた家では、夜になると、大人たちの声が普段より小さくなった。廊下を歩く足音が部屋の前で止まるたびに、眠っているふりをしなければと思うのに、目を閉じると男の顔が浮かぶので、私は布団を鼻のあたりまで引き上げたまま、薄暗い天井を見ていた。
手は何度も洗っていたし、爪の間まで確かめても、目に見える汚れは残っていなかった。それでも掌を布団へ押しつけると、そこへ何かを移してしまう気がして、どこに置けばいいのか分からなくなる。顔のそばへ持ってくればあの匂いを思い出し、目から隠せば、見えないところでまた汚れているような気がした。
母を呼びたいと思ったが、口を開く前に、事件の後で私へ向けられた目を思い出した。抱きつけば安心できるはずの相手が、今の私を抱き返してくれるのか分からなかった。確かめて駄目だった時のことを考えると、布団の中から手を出すことさえできず、私はそのまま、手首が痛くなるほど自分の両手を握り合わせていた。
『目を閉じればいいじゃない。あんたが見たくないものくらい、私が見ててあげるわ』
耳を塞いでも同じ大きさで聞こえたその声を、初めは自分の考えだと思った。けれど、見ていてほしいと頼むより前に返事をされたことがおかしくて、私は布団から少しだけ顔を出した。部屋には誰もおらず、閉まった扉の下に廊下の明かりが細く見えているだけで、母が来てくれたわけではないと分かっても、声は消えなかった。
「誰なの。私のこと、見てるの?」
『朝田詩乃』
自分の名前を他人から名乗られたことが怖くて、違う、私はこんなふうには喋らないと心の中で押し返した。すると、少し考えるような間があった。その頃の彼女の声は今より幼く、私が泣けばつられて息を詰めるような、不安定なところがあったことを覚えている。
『違う?ふうん。じゃあ今夜は、あんたが朝田詩乃じゃなくていいわ。怖いものは私に寄越して、寝てなさい。何か来たら──私が追い払うから』
それだけで何もかも平気になったわけではなく、その夜も私は何度も目を覚ました。それでも、眠りから引き戻されるたびに同じ声が返事をするので、次に目を開けても一人ではないと思うことができた。布団を握りしめる指から少しずつ力が抜け、廊下の明かりが消えたことにも気づかないまま眠ったのは、ずっと夜が終わらないように感じていた、明け方近くのことだった。
それから何年もの間、私はその声と暮らしてきた。どうしても身体が動かない時に任せると、私の口から違う調子の言葉が出て、立てなかったはずの脚が私をその場から連れ出した。あとで何も覚えていないわけではなく、ただ、自分が選んだわけではない動きや言葉を、少し離れたところから見ていたような感覚が残った。
私が言えなかった怒りを彼女が口にし、見たくなかったものを最後まで見て、誰かを傷つけたいと思った時には、その願いごと引き受けた。彼女が何をしたかより、その間に自分が何もしなくてよかったことへ、私は安堵していたのだと思う。それを借り物だと気にする余裕ができたのは、ずっと後のことだったし、いつの間にか声が食事や宿題にまで口を出すようになった理由を、改めて尋ねたこともなかった。
苦しい時に呼ぶ相手だったはずなのに、今日はもう苦しくなくなってから、私は彼女を探した。
『何、その顔。私がいなくなったとでも思った?』
現在へ引き戻した声には、私の返答を値踏みするような響きがあった。昔と同じことを考えていたのかと聞きたくなったものの、彼女がその話を望んでいるか分からず、私は膝に置いていた手を持ち上げて、眼鏡の位置を直した。指の震えは小さくなっていたが、細かな動きをしようとするとまだ頼りなかった。
「分からないわよ。黙っていれば、いるのかいないのか、私には確かめようがないでしょう」
『じゃあ次から札でも下げておく?ただいま留守にしております、って』
「私の頭の中のどこに下げるのよ」
『さあ?場所くらい、あんたが用意しなさいよ。返事をしろって注文したのはそっちでしょう』
テーブルの上には、食事の後で淹れたお茶がそのまま残っていた。両手でカップを持ち上げると、温かさはほとんど失われていたけれど、口を湿らせるにはちょうどよかった。いつもと同じくだらない応酬が戻ったことに安心しかけたが、彼女の声は、その先へ話を進めようとはしなかった。
私はカップを置き、後回しにしていた疑問を口にした。
「ふざけないで。この間からずっとそうでしょう。話していたと思ったら、急に黙って。何か言いたいことがあるんじゃないの?」
『気づいてたの。へえ。私がいなきゃ、お茶の味も分からないのかと思ってたわ』
「お茶は関係ないでしょう」
『そう?さっきから冷えたのを大事そうに抱えてるじゃない』
言われて初めて、私はまだカップを両手で包んでいたことに気づいた。わざわざ指摘したのは、私が何かに縋っていると認めさせたいからだろう。腹は立ったけれど、何も持っていなくても平気だと証明するために手を離すのは、余計に彼女の思うつぼのような気がして、そのままにした。
「話を逸らさないで」
『あら、残念』
軽い調子で答えた後、彼女はしばらく黙った。窓には、明るい部屋と、床に座っている私の姿が薄く映っている。いつもの癖でそこへ目を向けると、自分の表情に彼女の顔を重ねてしまう。実際の私は口元を引き結んでいるのに、頭に浮かぶ同じ顔は、薄く笑ってこちらを見ていた。彼女と向き合おうとする時、目に見える相手がいないことを埋めるために、私はよくこうしていた。
『あの子、あんたの手を握ったでしょう。人を撃った手だって知ってるのに……それで、震えてたのはあんたの方。変な話よねぇ』
どの子のことなのか、聞き返す必要はなかった。
郵便局の事件で助かった女性と、その時にはまだ母親のお腹にいた女の子に会った時、私は差し出された小さな手を前にして、どうすればいいのか分からなくなった。あの手は私が何をしたのかを知らずに伸びてきたのではなく、知ったうえで、それでも私へ触れようとしていた。
「あの子は、私を怖がるために来たんじゃないわ」
『そうね。あんたにありがとうって言うために来た。私じゃなくて、あんたに』
最後だけが不自然なほど静かだった。男を撃ったことも、その後の年月も消えなかったけれど、あの場にいたのが死んだ人だけではなかったことを、私はようやく自分の記憶の中へ置けるようになった。そのきっかけになった言葉が、彼女ではなく私へ向けられたことを、彼女は繰り返し確かめていたのかもしれない。
「それが、気に入らなかったの?」
『まさか。あんた、私を何だと思ってるの?』
「嫌味で、物騒で、私と同じ名前を勝手に名乗ってる、面倒なやつよ」
『ひっどい紹介ねぇ。まあ、間違ってないけど』
彼女は笑った。けれど、それも長くは続かなかった。
『あんたが泣き出した時は、また私の出番かと思ったわ。いつものことだもの。代わってあげようかって、口を挟むつもりだった。でも、あんた、あの子の手を離さなかったじゃない』
「離す理由がなかったもの」
『ええ。それに、私が出たら、後で怒ったでしょうね。自分の口で言いたかった、自分であの手を握っていたかったって。面倒なことになるのは分かってたから、待っててあげたの……ほら、礼を言うなら今よ?』
「言わないわよ。私が自分で話しただけ」
『そうね。私が譲ったんじゃない。あんたが譲らなかった』
その言葉には、私を責める響きも、手柄を奪われたと恨む響きもなかった。むしろ、私が譲らなかったことを喜んでいるようにさえ聞こえたからこそ、その後に残った沈黙が理解できなかった。
「それで、どうして黙ることになるの」
『別に。あんたが立てるようになったなら、結構なことじゃない』
「だったら──」
『私が前に出れば、あんたは目を閉じていられた。あんたが言えないなら私が言うし、それでも近づいてくる馬鹿がいたら、今度こそ黙らせる。それでよかったのよ』
私の言葉へ被せた声は明るかった。昔の役目を並べながら、何でもない仕事の説明をしているように聞かせていたが、その内容は、子供の頃から彼女が引き受け続けた年月そのものだった。
『それが、あの子の前じゃ何もなかった。今夜もそう。あんたは勝手に戻ってきて、私を呼んだのは全部終わった後。ご立派ね。私の出番、綺麗になくなっちゃった』
私は無意識に掌を見下ろしていた。少し前までテーブルの縁を掴むことに必死だった指で、今はカップを持ち、眼鏡を直し、膝の上の皺を伸ばしている。彼女を必要とするような状態へ戻りたいとは思わなかったし、それを望まないことに罪悪感を覚えるのもおかしいはずだった。
「あなたが何もしなくて済んだなら、それでいいでしょう。私だって、また動けなくなりたいわけじゃない」
『知ってるわよ。だから困ってるの』
言い返す余地を与えないほど素早かった。彼女が私の回復を望んでいないのなら、怒ることができた。けれど、彼女は確かにそれを望んでいる。望んだものが現実になり始めたせいで、自分の居場所だけを失いかけている。その二つが同時にあることを、彼女自身が誰より嫌っているのだと分かった。
『あんたが目を閉じなくなったら、私は何を見てればいいわけ?』
「見張るものがないなら、見なくていいでしょう。話してればいいじゃない。さっきみたいに卵を先にしまえとか、お茶が薄いとか、宿題が遅いとか。そういうことなら、今までだって勝手に言ってたでしょう」
口にしてから、もっとましな答えがあったのではないかと思った。しかし、彼女が日々何をしていたかを考えると、真っ先に浮かんだのがそういうことだった。言い直せずにいる私へ、彼女の方が先に小さく笑った。
『へえ、お喋り相手。ずいぶん気楽な仕事にしてくれるのねぇ。次は宿題を見張って、お茶の濃さに文句をつけて、寝る前にはおやすみなさい?私、そんなに行儀よくできてたかしら』
「できてないわ。だから、今までどおりでいいと言ってるの」
『今までどおり、ね』
笑い方はいつもと同じだったが、自分を笑う時の声まで聞き慣れているわけではなかった。私は反射的に言い返しかけ、彼女がまだ何かを言おうとしていることに気づいて口を閉じた。今のやり取りだけを拾って怒れば、きっといつもの喧嘩に戻れる。それでは聞けなくなることがあると、ようやく私にも分かり始めていた。
『だから、黙ってみたのよ。何も言わなければ、そのうちあんたも私を呼ばなくなると思って』
「私を試したの?」
『自分を、よ。あんたは放っておいても生きていける。だったら私も、いなくなる準備くらいできるでしょ』
「何も言わずに?」
『言ったら、今みたいに面倒なことになるじゃない』
「勝手ね。私の中にいるくせに、私には何も知らせないで──」
『あら、文句なら最後まで聞いてからにして。失敗したんだから』
背中を預けているベッドの布地が、急に冷たく感じられた。彼女の言う失敗が何を指すのか、尋ねる前から分かってしまった気がした。カップへ伸ばしかけた手を止め、それでも最後まで聞こうとした私へ、彼女は先ほどまでと変わらない軽さを作って続けた。
『さっき、あんたが息を詰めた時──私、数えてたの。何回息を吐けば、あんたが私を呼ぶか』
「私は、代わってほしいなんて──」
『知ってる』
短い言葉に遮られた。
その声には、私の言い訳を笑う響きも、続きを促す意地悪さもなかった。
彼女が私の苦しんでいるところを見ていたのは、当たり前のことだった。そばにいなかったわけではないと分かったことに安心するはずが、今はその事実が別の重さを持っている。私が自分で呼吸を整えようとしている間、彼女は助けるべきか迷っていたのではなく、自分の名前が呼ばれる瞬間を待っていた。
『あら、嫌そうな顔。いいわよ、最低だって言ってみたら?あんたが弱るのを待ってるようなやつに、今まで守ってもらってたんだもの。ひどい話よねぇ』
最後には笑いまで含まれていたが、私が怒るのを待つような調子だった。誰かに評価されることをあれほど嫌がる彼女が、自分のこととなると、私の口から一番ひどい答えを引き出そうとしている。私に罵られれば、その言葉を自分で下した判決のように使えると思っているのかもしれなかった。
私は膝の上で握っていた手をほどき、ゆっくり息を吐いてから答えた。
「嫌に決まってるでしょう。私が苦しむのを待ってたなんて、平気で聞けるわけがない。でも、私に最低だなんて言わせて、その一言で勝手に終わらせるのはもっと嫌」
『へえ。私を庇うつもり?』
「庇ってない。私の一言を、自分で消えるための言い訳にしないで、って言ってるの」
『相変わらず可愛くないわねぇ』
「あなたにだけは言われたくないわ」
いつもの言葉を返すと、彼女は今度こそ少しだけ楽しそうに笑った。けれど、その笑いはすぐに細くなり、私は窓に映る自分から目を逸らした。
目の前に座っている相手なら、顔を見て、何かを飲むよう勧めたり、今日はもう休もうと言ったりできたのかもしれない。彼女には差し出せるカップも、隣に空けてやれる場所もなく、私が手を伸ばしても、触れられるのは自分の膝か冷たい窓だけだった。眠れなかった夜、私が目を閉じてから彼女が何を考えていたのかさえ、私は聞こうとしてこなかった。
『最初に私を呼んだのは、あんたよ。見たくない。怖い。誰か代わって──口に出さなくても、全部聞こえてた。だから、私が出てきた。それだけだったはずなのにね』
幼い夜の声をなぞるように言ってから、彼女は一度黙った。次に口を開いた時には、深刻になりかけた自分を笑い飛ばすような調子が戻っていた。
『ところが今度は、私があんたに呼んでほしいんですって。困るわよねぇ。道具のくせに、勝手に願い事なんか始めるんだもの』
「自分を道具みたいに言わないで」
『私を使ったのはあんたでしょう?』
すぐに否定することはできなかった。
私は彼女へ任せてきた。怖いものを見ないことも、言い返せない相手へ怒ることも、傷つけたいと思った自分を覚えておくことも、彼女がやるのを遠くから見ていた。それで助かった後に、あれは私ではないと切り離してきたのも私だった。
「……そうね。私はあなたに任せてきた。今さら、使っていないふりはしないわ。でも、だからって、あなたが道具だったことにはならないでしょう」
『私が勝手に何かを欲しがるまでは、ね』
私が答えるより先に、彼女は明るく息を弾ませた。ここからが本題だとでもいうように。
『ねえ、詩乃。私がまだお利口さんのうちに、ちゃんと考えた方がいいわよ』
「何を?」
『次は、テレビに任せないかもしれないもの』
その言葉が意味するものに思い当たり、私はカップの縁へ置いていた指を止めた。彼女はそれを見逃さず、面白いものを見つけた時のように声を少しだけ高くした。
『分からない?銃なんて、探せばいくらでも見つかるでしょう。映像を選んで、あんたが目を逸らせない時に流して、名前を呼ぶまで待つ。それから出ていって、全部片づけてあげるの』
方法を思いついたことに興奮しているような話し方だった。しかし、その順序には迷いがなく、どんな映像なら私が反応し、どの程度まで追い詰めれば自分を呼ぶのか、本当に試そうと思えば確かめられる者の声だった。
『泣かせるのも私、助けるのも私。ほら、これなら私の出番はなくならない。うまくできてると思わない?』
「思わない。そんなのは、守るって言わないわ」
『そう。じゃあ、何て呼ぶ?』
「支配よ」
『正解。ちゃんと分かってるじゃない』
褒めるような言い方なのに、彼女は少しも喜んでいなかった。私の身体がどうすれば動かなくなるのか、彼女は誰よりよく知っている。そして、私が拒んでも、守るために必要だと判断すれば身体の主導権を奪えることも、何度も互いに確かめてきた。これまでは、その力が私を危険から遠ざけるために使われていた。けれど、必要とされたいという彼女自身の願いが生まれた今、同じ力が次も同じ目的に使われると、誰が保証できるのだろう。
「でも、あなたはまだ、そんなことをしてないでしょう」
『まだ、ね』
「自分がそうなるのが怖いの?」
『怖い?私が?あら、随分かわいい心配をしてくれるのね。自分が泣かされるかもしれないって話をしてるのに、気にするのはそっち?』
「誤魔化さないで」
『誤魔化してないわよ。考えてみなさい。私があんたを泣かせて、あんたが私を呼んで、私が出ていって全部片づける。あんたは助かるし、私は暇じゃなくなる。ほら、誰も困らないじゃない』
「私が困るわ」
『そう?今までだって似たようなものだったでしょう。違うのは、あんたを怖がらせる役まで私が引き受けるってだけ。仕事が一つ増えるけど、そのくらいサービスしてあげるわよ』
声音だけを聞けば、彼女は本当に、少し手間の掛かる方法を思いついただけのようだった。けれど、その手順はあまりに具体的で、どの記憶を使えば私が動けなくなるのかも、どの程度まで追い詰めれば自分を呼ぶのかも、既に検討を終えているように聞こえた。
「そんなのは、守るって言わない」
『じゃあ何?支配?飼育?好きな方を選べば。あんた、名前をつけるのは得意でしょう?』
自分につけられた《ダーク朝田詩乃》という呼び名まで含めて笑われていることに気づき、私はすぐに言い返せなかった。彼女はその沈黙を楽しむように少し待ってから、わざと親切そうな声を作った。
『それとも、今のうちにもっと立派な名前を考えておく?あんたを泣かせて、助けて、また泣かせるもの。守護人格なんて呼ぶには、少しばかり趣味が悪いものねぇ』
「……どうして、そんなことを私に話すの」
本当に実行するつもりなら、黙っていればよかったはずだった。私が意図に気づかなければ、偶然目に入った映像と、偶然聞こえてきた声を疑うことさえできない。何年も私の目と耳を共有してきた彼女なら、その程度の細工を隠すことは難しくない。
それなのに、彼女は始める前から、自分が何をするかを私へ教えている。
『どうしてだと思う?』
彼女は答えず、私の問いをそのまま返した。
『ほら、せっかく考える時間をあげてるんだから、少しくらい頭を使いなさいよ。何も分からないまま私に飼われるなんて、あんただって嫌でしょう?』
軽い笑いが続いたが、どこまで本気なのかは読み取れなかった。自分が変わってしまうことを恐れて警告しているのか、私に恐れられることで消える理由を作ろうとしているのか、それとも、これさえ私を呼ばせるための仕掛けなのか。どれも彼女なら考えられることで、同時に、どれか一つを選べば残りを見落とすような気がした。
ただ一つ分かるのは、彼女が私へ「止めて」と頼むつもりはないことだった。何を望んでいるのかさえ最後まで言わず、私が答えを出すより先に、自分だけで行き先を決めようとしている。
今決めなくてもいい、と言いかけて、私は口を閉じた。今夜初めてこの話を聞いた私にはまだ分からないことでも、彼女はあの母娘と会った日から、同じ問いを何度も繰り返してきたのだろう。私が食事をして、宿題をして、誰かへ連絡を返している間にも、一人で先の先まで考え、私の反応まで計算に入れたうえで、自分だけの結論へ辿り着こうとしていた。
それが、急に腹立たしくなった。
「私のことを、私抜きで決めないで。あなたがどうなるかだって、私に関係がある。だから、私にも考えさせて」
『あんたに?』
「そうよ」
『私を使ってきたあんたが、今度は私の行き先まで決めるの?大した欲張りねぇ』
「一人で決めないで、って言ってるの。私も考える。あなたも話す。それで決めるのよ」
『随分まともな相談みたいに言うじゃない。私たち二人で、一人分の頭しかないのに』
「それでも、あなた一人で決めるよりはましでしょう」
少し強く言うと、彼女は返事の代わりに、喉の奥で小さく笑った。私の要求を馬鹿にしたのか、それとも、ほんの少しだけ気に入ったのかは分からなかった。
窓の中には、床に座っている私一人しか映っていない。それでも今は、その向こうに、同じ顔をした誰かが立っているように思えた。黙っていてもそばにいろという言葉だけでは、彼女の欲しがっている答えにならない。もう必要ないと告げたところで、素直に出ていけるわけでもないのだろう。
膝の上に置いた手の震えは、いつの間にかすっかり収まっていた。その手を彼女も見ている。かつてなら、自分が前へ出なければ止められなかった震えが、今は私の手の中で静まっていることを、喜びながら、恐れながら見ている。
やがて彼女は、私の名前を呼んだ。普段、からかったり呼びつけたりする時とは違い、逃げ道を塞ぐための笑いも、意地の悪い抑揚も、その声には残っていなかった。
『ねえ、詩乃。あんた、私を殺せる?』