Pixivに投稿済みの同名作品と同一の内容になります。
今回のものはこちらでした。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=27561175
目を閉じる。ツクヨミにログインするときは海に落ちたような感覚がする。聴覚も、視覚も、一枚薄布を被せられたようで、どこか現実ではないことを感じさせる。最近追加された嗅覚、味覚はそこに新たに娯楽を生み出し、多くの人を楽しませている。そこに自分が関わっていることは誇らしい、けれど。
『君たち100人の学生の内、天才はたった1%であり、残りの99%はその礎だ』
大学入学時に学科長が告げた言葉だった。向上心も目標もなく、ただ世界史が苦手だったからこの道に進んだ私はこう思った。なら私は路肩の石ころだ、と。ただ石ころとして無遠慮に踏みつけられることは望んでいなくて。
ログインして真っ先に向かったのはKIYOMIZUエリア。清水寺をイメージしたこのエリアは特殊なスタイルをしている。アクティブ状態を望めば他のエリアと同様に多くのユーザーと賑やかな参道に厳かな境内、荘厳な本堂と舞台から見える景色を堪能できる。非アクティブを望めば、誰もいないプライベートなエリアとして楽しむことができる。私が選んだのは非アクティブだ。
無課金アバターにお面なんて無個性に無個性を重ねた姿で誰もいない清水寺を歩き、舞台を訪れる。私はこの、所謂清水の舞台が好きだ。高校生の時修学旅行で来て、そこからの景観に胸を打たれた。こんなものをこんなとこに作れる昔の人ってすごいな、と思った。
後ろから足音がした。KIYOMIZUエリアにはもう一つ特殊性がある。悩みを抱えているとき、運がいいとヤチヨに会える。つまり、
「こんにちは。お悩みかな?」
後ろからした足音はヤチヨだった。正確にはコピーや分身で、中身は完全にAIなのだろうけど、今回ばかりはそうではない確信があった。
「ゆっくりでいいよ、話したくなかったら話さなくていいし、ヤチヨがいると困るなーってときは席を外すね」
「ヤチヨ」
「うん、なにかな?」
「かぐやちゃん、だよね」
ヤチヨはじっと私を見つめ、何かを諦めたように微笑んだ。
「どうして? 君は前に、私たちは同一人物じゃないって言ったのに」
同一人物ではない理由はたくさんある。ただ、それ以上に同一人物である根拠がある。
「二人は記憶を共有してる。私がかぐやちゃんにしか話してなかったことを、口伝えで情報共有していなくてもヤチヨが知っている」
「この前の恋バナかー。迂闊だったな。でもそれは、ヤッチョがAIでかぐやがその管理者だったら成立しない?」
「それはこの前挙げたライブのことで否定できる。昔のコラボライブの映像も何度も見返したけど、あんなのAIのできる動きじゃない。なにより、感情のないAIがあんな表現はできない、ライブ中に感極まって泣くなんて」
「ふーん、いっぱい見たんだ」
「今その話はいいでしょっ」
「えへへ。はい、ヤチヨはあのとき泣いちゃいました。でも同じ空間に同じ人は二人存在できない。そうでしょ?」
そうだ、ありえない。でもそれは生身の人間だったらって話で。
「できてしまう。二人は私たちが作った義体の中に入っているから。だまし絵みたいなものだよ、下の方を見たときと上の方を見たときに本数の異なる柱の絵。外側から見て二人に見えているだけで、主となるものは一人。落語みたいに、一人で二人を演じている」
「うーん、できるのかなそんなこと? ライブの時かぐやとヤチヨは同時に歌って同時に踊ってたよね」
「普通の人間ならできない。比類なきプロゲーマーとかならあり得るのかもしれないけど、だったらあなたがプロゲーマーとして働いていないことが不自然。だから、今から言う答えは賭けなんだけど」
事前に断っておくが、私はSFは好きだけどオカルトは嫌いだ。嫌いってことは、よく知ってるってこと。だからこんな考えがよぎってしまって拭い去れなくなった。
「あなたはヒト、ではない」
「……」
「もしかしてって思うんだ。かぐやちゃんの言っている月から来たとか、月の超テクノロジーとかが全て嘘じゃないとしたら、設定じゃないとしたら。でもその方が、所長が論理の飛躍をさせることに説明がつく。あの人が私たちが想像もつかない上位の技術を学んでいたらって」
でなければあんな短期間で代謝系コントローラを作れない。でなければ三叉神経へのアプローチをスマコンから行う方法なんて出てこない。でなければ、100年はかかるであろう義体の作成を、10年でできない。
今まで私が見てきた全てがこの答えに導く。
「何より、所長が二人を見る目が同じだ」
「彩葉はねー、嘘つけないから。君は彩葉のことをよく見てるんだね。彩葉のこと、もう嫌いになっちゃった?」
肩をすくめた。しょーもないことしか言えないから。
「あり得ないんだけどね、あんなマッドサイエンティストで、ピグマリオンコンプレックスの変態なのにさ」
「言うねぇ」
「笑ってんじゃないよ、ヤチヨだってこんなんの原因なんだかんな」
「はーい」
「言っとくけど、ヤチヨはめっちゃ怖いからね? 月がどうのこうのってことが本当だとしたら、あんな見えるところに遥かに技術水準が高い連中が住んでて常に見られてるってことなんだから!」
「あははーそうだねー」
にこにこしやがって畜生。そうだ念のため確認しよう。
「あの8010歳ってのはさすがに嘘だよね?」
「聞きたい?」
「聞きたくない。ぶっちゃけヤチヨとかぐやちゃんが同一人物ってのも受け入れたくないし、ヒトじゃないかもしれないってのも馬鹿な考えであってほしい。そんなの受け止める度量は私にはない。気が狂う。第一本当に8010歳ってなら、世界があまりにも所長とかぐやちゃんが出会うための形をしすぎてる」
だったら私の存在とは、となる。やだやだ考えたくない。特大の地雷を踏みたくない。
「研究、どうしてそんなに嫌なの?」
「許されないことだから。私の言ってることって間違ってる?」
「うぅん、正しいよ」
「そうだよね、みんながおかしいんだ。科学は人類の発展のためにあるもので、個人のためのものじゃない。だからできたとしてもやっちゃいけないことがある、越えちゃいけないラインがある。それに……」
「大丈夫、聞いてるよ」
「もし、隠し通せなかったら、所長が何も知らない、理解する気もない他人に傷つけられる。あの人絶対全部背負うじゃん。嫌だよそんなの」
「君は本当に彩葉のことが大好きなんだね」
「傷ついてほしくない。理不尽に悲しい思いをしてほしくない」
「どうして?」
「聞きたいの?」
「聞きたいなー」
所長の大切な人にこんな話するのなんか嫌だな、とは思うけど、話したかった。聞いてほしかったってのが正しいな。
「大した話じゃないんだけど」
§
世界史が苦手というだけで工学部を選ぶのはあまりにも短絡的な考えだった。案の定工学にもさして興味が持てず、のんべんだらりと過ごし、なんとなくで所属研究室を選んだ。卒論もなんとなくでテーマをもらった。ロボティクス関連。へーふーんって感じだった。このままなんとなくで生きていくんだと思った。
そんな折、教授に学会の手伝いに連れて行かれた。ぼけーっとポスター発表の準備をしていて、一つのポスターに目がとまった。東大の院生のものだった。
テーマは五感を持つ人造の義体。とんでもSFだ。夢物語すぎる。でも、なんというか、きれいだった。光っていた。何も理解できないことが悲しくなるほど。
「おや、それが気になるとは。ぼんやりしてる割にはお目が高いな」
「一言余計です教授」
「せっかくだからそれの人の口頭発表を見に行くかね」
「……はい」
それで、聞いた。その人の、酒寄彩葉の口頭発表を。注目されてる人で、会場は満席。一番後ろの端っこで聞いたからどんな人なのか顔なんて見えなかった。話してる内容も全然理解できなかった。それなのに、ただただ美しかった。私にとっては地上に落ちてきた流れ星みたいな衝撃だった。
「あなたはこの研究で何を目指してらっしゃるんですか?」
投げかけられた質問に彼女は答えた。真上、天井を通り越して上空を指さして。
「月ですね」
意味わかんなかった。落ちる音がした。
§
「あれは効いたね」
「うんうん、彩葉そういうとこあるよね」
「こんな話して大丈夫? 嫌な気分にならない?」
「大丈夫。むしろ私の知らない彩葉を知れて嬉しい」
「そっか。よかった」
「君は本当に優しいね~」
「やめろよしよしするなお面がとれる顔が割れる」
「ヤッチョにはアカウント名見えてるんだけどなー」
「そうだけどさ! 気持ち的な問題で」
ヤチヨは実に楽しそうに笑う。その顔がかぐやちゃんと被った。あぁやっぱり、と思ってしまう。
「ヤチヨは所長を止めないの?」
「彩葉が危ない目に遭うのは嫌だけど、かぐやは止めないよね」
「変なの。同じ人なのに」
「落とし物を見つけたときに天使と悪魔が囁くよね? ヤチヨとかぐやはそういう関係。心が二つあるときの右と左」
「この場合どっちが天使?」
「それはー、見方によるかなー」
「私の味方してくれた方が所長のためだよ」
「むむむ、それは百里ある」
「ちょいちょいカスのネットミーム挟んでくるな……」
「ねえ、君は彩葉のことが、好き?」
度々聞かれているそれ。答えないとだめ? 言わないといけない? こんなこと言葉にする必要ある?
言わないと伝わらないんだよね。
「うん。とても」
「だってさー彩葉!」
「は?」
振り返ると、申し訳なさそうにこちらへ歩いてくる、青を基調としたストリート風。着物にパーカーとベルトとブーツ。狐モチーフの尻尾と耳。いろP、じゃなくて、所長。うそだろ信じられない、いつから聞かれてた?
「お、おい月見てめえっ! やりやがったな!」
「おほほほほ、ごめんあそばせー」
「ごめん……ヤチヨに頼んで入れてもらった……」
「職権乱用! プライバシーの侵害! 不正アクセス!」
「そ、そうだけど、そうだけどっ」
「さぁさぁ後は若い二人に任せて、さらばーい」
「えっちょっと、ヤチヨがついててくれるって言うから来たのに! ねえヤチヨってば!」
ヤチヨからの返事はない。完全に二人だけにされてしまった。さてどうする、何したらいいの、殴り合い? 負けるが?
「あーその……勝手に研究の話を進めようとしてごめん……君の言うことももっともで、私はみんなが受け入れてくれることに甘えすぎてた」
「はい。あれはおかしいです」
「君は正しい。でも、うん、君の言うとおり、私はかぐやのために研究をしてる。だからその研究が秘匿されるべきものになっても、ためらわない、止まらない、後悔したくないから」
「うまくいったとして、その子どもはどうなるんです。ずっと実験体として生きていくことになりますよ」
「そうはしない。普通の人間として、普通に生きていってもらう」
「遺伝子的に問題はないんですか」
「問題なくできる」
「はぁ……月の超テクノロジーってやつですか。でもって、それをするなら、研究のありとあらゆる記録を削除して、私たち職員は全員、死ぬまで口をつぐんで、場合によってはあなたの研究所に骨を埋めることを決心しないといけない」
「うん」
「そこまでの犠牲を払う必要はありますか? 成功すればもちろんバッシングは免れませんし気狂いの烙印は捺されますが、ノーベル賞を百回は取れます。一部研究を、諸々伏せて公表してもどえらい功績です。でもリスクを回避するなら、根こそぎ全部捨てることになります。それでも、ですか?」
所長はしばらくしゃべらずじっと私を見つめた。それから、ひどく優しく、見ているこっちが泣くんじゃないかって顔で笑った。
「それでも、だよ」
「どうして」
「かぐやを、本当の意味で人間に」
この人がまぶしく光っているのは一方だけを見つめてるから。この人の見つめる先も光っているから。誰かに人生を照らされたあなたが、私の人生を照らしてくれるのは、すごく嬉しくて、奇跡で。
「所長、あなたが好きです」
「うぇっ」
「恋慕じゃなくて憧憬です」
「びっくりした!」
「あなたのひたむきで、まっすぐで、ためらわない姿が好きです。底抜けに馬鹿でめちゃくちゃで、みんな自分と同じと思ってる節がありますけど」
「う、それ真実と芦花にも言われる」
「でしょうね。でも、そんなどうしようもねぇあなたを尊敬しています。なので、敬愛するあなたが心無い人に傷つけられるんじゃないかと思うと耐えられません。どうせ何かあったらあなたは矢面に立つつもりでしょう」
「それが責任だから」
「所長、これが最後です。あなたを心から慕っています。心配です。傷ついてほしくありません。お願いですから踏みとどまってください。そんな責任を取ろうとしないでください」
「ありがとう。でもごめん」
「そっか」
フラれたなぁ。でもそうだよなぁ。そうなんだよ。この人はこういう人だ。最初からずっとこうだ。私がこの人を見つけた時にはもうこうだった。でもこういう人でなければ出会わなかった。
所長はこの世界の主人公で、世界は所長とかぐやちゃんが出会うための形をしていて、でもその形の先に、私がこの人の端っこを見つけられる形がある。じゃあ、どうするかなんてもう決まってるじゃないか。
「君の次のポストは必ず私が見つけるから。なんなら真実と芦花とお兄ちゃんの伝手でもなんでも使って次の職場を」
「私が美容インフルエンサーとグルメインフルエンサーとプロゲーマーの世界で生きていけるわけがないでしょうが」
「でもそうしないと申し訳が」
「いらないです。お傍においてください。手放す方で責任取ろうとすんじゃねえですよこのこんこんちき」
「……いいの?」
「佐藤さんが言ったでしょ、職員一同、覚悟の上です。まあ科学者としては失格ですけど。我々を一生面倒見る方向で責任取ってください」
風が吹く。電子の世界の風は現実とは違っていて、それでも涼しくて、火照った気持ちを落ち着かせてくれる。ごーん、と鐘の音が響く。腹の底に響く音。時間だ。
「なにこれ?」
「いろPには無縁そうですもんね、ここ。悩み事が解決すると鐘が百八回叩かれるんです」
「知らなかった。初めて来たし。いや地元だからリアルでは来たことあるんだけど」
「ちょうどいいですね、跳びますか」
「跳ぶ? どこから……あぁ」
ここは清水の舞台。やるべきことが決まって決心したなら、願掛けをするべきだ。正しさだけを振りかざして傍観者になるのはおしまい。この人の物語に巻き込まれて、めちゃくちゃになる。腹はくくった。
駆け出そうと体重を移動させたとき、隣から高揚した声が聞こえた。
「いいね、上等!」
所長が言った次の瞬間、私の手を握った。力強く、頼もしく。
「は?」
おいばかやめろ、ふざけんな誰がここまでしろって言った、なんで手を握ってるんだ、結構ドキドキしてんだぞこっちは。
「行くよっ」
「いやなんであなたも行くんですか、私は自分で勝手に決めて勝手に決心して一人で跳ぼうと」
ぐいっと所長が、いろPが手を引く。あーなんだよこれ、脳みそ焼けちゃうよこんなの。そもそもなんでここまで来てくれちゃったんだよ。なんでヤチヨもかぐやちゃんも所長も私を一人にしようとしないんだ。
「なんでって、君が行くなら私も行くでしょ」
お前ホント、そういうとこだぞこのスパダリ。ヤチヨとかぐやちゃんにだけやれあんぽんたん。
「ああ、もう、勝手だな!」
この人たちは私を一人にしたりしない。言葉が足りないくせに、散々振り回すのに、聞こうとしてくれる。お節介で、馬鹿みたいに優しい。そんなこの人たちが好きで、だから心配で。それでも進むって言うなら、全部投げ打ってついて行きたい。
「いいですよ一緒に跳んでやりますよ。ええお供しますとも」
「どこまで?」
「当然、ハッピーエンドまで」
いろPが満足そうに笑う。冗談みたいに顔が良い。焦げそう。手汗かいてないよね? 手汗の感触ってまだ実装してなかったよね? 生涯実装しないわ。
ごーん、また鐘が響く。背中を押されたように二人で駆け出す。足並みは合わない、呼吸も合わない。でも向かう先は同じ。真っ暗な舞台の下に少し恐怖を感じた。でも力強い手が、迷いのない横顔が、この先を照らしてくれる確信をくれた。あなたはまぶしい。どうかずっとずっと光っていて、私の北極星。
いろPが走る。無名の一般人が手を引かれてつんのめりながら走る。端までたどり着き柵に足をかける。まだ鐘が鳴り響く。一つ一つ、余計な考えが消えていく。
「せめて息合わせろくそったれ!」
「じゃあ、せーのっ」
「じゃあって」
踏み切る瞬間、足元で木のしなる感触がした。
こうして私たちは清水の舞台から飛び降りた。耳元をかすめていく風が心地よい。落下の感覚さえ楽しかった。
「あのさ」
「落ちてる最中になんですか」
「私の自意識過剰だったらごめんなんだけど、その狐の面って私のアバターの」
「ぶっとばしますよ。最低ですね酒寄所長」
§
翌日の会議は私の全力土下座から始まった。
「青二才が生言ってすいませんでしたっ特に佐藤さん、手を振り払ってすみませんっ」
「落ち着いて、君の考えもごもっとだから」
「いえ、この研究所に配属されながら覚悟が足りていませんでした。これより誠心誠意精進してまいります。ってことでこれリスク回避案です」
「昨日しっかり話し合って、情報漏洩の危険を回避するために彼女に色々考えてもらうことにしました。てことで、かぐやとヤチヨも協力してね」
「はーい、かぐやがんばります」
「ヤッチョもがんばるね。で、何したらいいのかな?」
私は資料を各職員に配った。今回の計画のメインはかぐやちゃんとヤチヨになる。
「全データの保管場所を統一し、そこに絶対的なセキュリティをかけます。ローテクではたどり着けないところに保管すればプロジェクト終了後に最低限のデータは残せるし、子どもに何かあったとき参照できます」
「うん、何かあったときに何も参照できないのは困るね。で、どこに保存するの?」
「月です」
「はい?」
「超テクノロジーなんでしょ? 中坊でしたけどさすがに覚えてますよ、ツクヨミ、月の人たちにハッキングされましたよね。てことは月の人らなら高度な電子技術を持ってます。ならデータも預かってくれますよ。なのでヤチヨ、かぐやちゃん、コミュニケーションよろしく」
「ヴェエエエエエやらないとだめ?」
「がんばろうかぐや? 私たちにしかできないお仕事だよ」
かぐやちゃんが床に転がってやだやだし始めたので一旦無視して所長に向き直る。
「それから、最低限の言い訳を確保するために出産までの育成は人工子宮で行いましょう。羊ごときができてるんですから人間でできないわけがない。所長の体は使いません、使うのは卵細胞だけです」
「え、その方が安全じゃない?」
「あなたが妊娠してること自体がリスクになります。相手誰って答えるつもりですか」
「かぐや」
「馬鹿もここまでくるとすがすがしいな。あと、あなたには育休を取ってもらいますので手続き確認してください。出生届やらかぐやちゃんの戸籍なんかは国のシステムハッキングしてなんやかんやしてください。足跡は残さないように」
「なんか君、やる気すごいね」
「絶対幸せにしてやりますから覚悟しろよ酒寄彩葉」
「ひえ」
かぐやちゃんがやだやだをやめて顔を上げ、ヤチヨに話しかけた。
「なんか、やばい人覚醒させたかも」
「んー、いとかわゆし」
「え、かわいい、あれ?」
§
204X年某日
研究所の裏でライターに火をともす。タブレットでヤチヨが大人しくしている。と、ぱっと明るい顔でこちらを見た。
「成功したよ」
「了解」
書類に火を落とす。どうしても出てしまう紙のデータは今日消すことにしていた。これで地上には何も残らない。
『君たち100人の学生の内、天才はたった1%であり、残りの99%はその礎だ』
この言葉には続きがある。
『それでも君たちは科学者を志すのだから、知的活動で何かしらの名前をこの世に残したいのだろう』
うん、残したかった。でもそれよりもっといいものを見つけたから。何度現実に塗りつぶされても理想を掲げられる人に出会えたから。人の評価なんて気にしなくていいくらい生きるのが最高だ。
舞い上がった紙切れに測定を担当した私の名前が書かれている。田中一、タナカハジメ。すぐ燃え尽きて煤になる。
名前なんて残らなくていい。無名なままでいい。やりきった。心地よい達成感。そして思い出す。あ、また論文書かなきゃ。まだまだやることが続くな。
煙が細くのぼっていく。うっすらと白い月が見えた。
「たいせーつなメロディーはながーれーてるよー」
なんとなく口ずさんだ。
これにて第一部完となります、ありがとうございました。
第一部が終わったということは、第二部が生えたり、短編集が生えたりします。
こちらもPixivの方にある程度ストックしてあるので、1日1作品のペースで移動させようと思います。
というわけで、また明日!