トキワの森では、夕方になるとピカチュウが鳴く。
それは町に住む人なら、誰でも知っていることだった。
日が山の向こうへ沈みはじめるころ、森の奥から、
――ピカ。
と、小さな声が聞こえてくる。
一匹が鳴くと、少し離れたところから別の声が返る。
――ピカ、ピカ。
それがいくつも重なって、森全体が小さくざわめく。
僕はその声を聞きながら、店先のランプに火を入れた。
「今日は早いね」
母さんがそう言った。
「雨が降りそうだから」
「そう」
母さんは空を見上げた。
森の向こうにある雲は、夕焼けを隠して灰色になっている。
この季節のトキワの森は、雨が多い。
雨の日は虫ポケモンが屋根の下に逃げ込んでくるし、草むらから出てきたポケモンが町の道を横切ることもある。
だから、町の人はみんな玄関先に小さな箱を置いている。
ポケモンが雨宿りできるようにするためだ。
うちの店にも、ひとつ置いてある。
古い木箱に、藁を敷いただけのもの。
去年の冬からずっと使われている。
「また来てるよ」
母さんが言った。
見ると、木箱の中に黄色い耳が二つ見えていた。
ピカチュウだった。
僕が近づくと、ピカチュウは片目だけを開けた。
「……こんばんは」
「ピカ」
「今日も雨宿り?」
「ピカチュ」
何を言っているのかは、たぶん僕には分からない。
でも、なんとなく分かる。
長く暮らしていると、ポケモンの声にはそれぞれ癖がある。
このピカチュウは、機嫌がいいときは語尾が少し上がる。
警戒しているときは短く鳴く。
眠いときは、今みたいに鼻にかかった声になる。
僕は木箱の隣にしゃがんだ。
「夕飯、食べた?」
「ピカ」
「そう」
僕は店に戻った。
少ししてから、母さんが小皿に木の実をいくつか乗せてくれた。
「余り物だからね」
「分かってる」
「人間用の食べ物を勝手にあげちゃだめよ」
「これ、ポケモン用だよ」
「それならいい」
皿を外に置く。
ピカチュウはすぐには食べなかった。
少し離れたところまで出て、森のほうを振り返る。
耳が動く。
何かを聞いているらしい。
僕には聞こえない。
しばらくすると、森の奥から小さな声がした。
――ピカ。
木箱のピカチュウが答える。
――ピカ。
それから、皿の前に戻ってきた。
僕はその様子を眺めながら思う。
きっと、あの子にはあの子の暮らしがある。
森の中に寝床があって、仲間がいて、好きな木の実があって。
雨が降れば、うちの店に来る。
晴れれば、森へ帰る。
ただ、それだけだ。
僕らは一緒に暮らしている。
けれど、一緒に生きているからといって、いつも一緒にいる必要はない。
そういう距離の取り方もあるのだと、僕はこの森で覚えた。
やがて雨が降り始めた。
屋根を叩く雨音の向こうで、ピカチュウが木の実をかじっている。
店のランプが、黄色い毛並みを照らした。
森の中にも、きっと同じような灯りがいくつもある。
ポケモンたちの暮らす場所。
僕ら人間の暮らす場所。
その間にある、細い道。
夜になると、その道をピカチュウたちが歩いていく。
明日の朝には、また森へ帰っているだろう。
僕は雨の音を聞きながら、店の戸を閉めた。
「おやすみ」
振り返ると、ピカチュウがこちらを見ていた。
「ピカ」
それが、僕らの一日の終わりだった。