王立魔法学院山岳部遭難事件 作:匿名
杭が残っていた。
布は指の中で崩れた。
裂けただけなら、粉にはならない。
グレゴリーは指を止めた。
「粉、か」
「天幕のことなら、試験表の繊維とつながります」
「まず最後まで読もう」
隣の頁には、途中から始まる文章があった。
大丈夫だ。脚だけだ。
声は大きかった。
ロープの上に彼の手があった。
光った。
『待て』
そう言った。
切れた。
名前を呼んだ。
事故だ、と言う声。
泣く声。
ミアの写しでは、その先が四角で埋まっていた。
今になって思えば、あのとき叫べばよかった。
ミアは〈光った〉の一語へ指を置いた。
「ロープの魔力変質……そして、『彼』」
「断定するな。次を読むぞ」
グレゴリーは次の頁へ進んだ。黒く滲んだ箇所が多く、ミアの写しにも空白が続いていた。
岩の陰で、彼の声がした。
赤い筒を持っていた。
振り向いた顔を覚えている。
なぜ使わなかった。
『呼んだら、全部調べられる』
ロープを見た、と言ったら黙った。
ミアは次の断片へ指を滑らせた。
父さんは知らない。
父さんは何も知らない。
彼は何度もそう言った。
数字を変えた。
二十五度。零下。
全員帰れば、問題にならなかった。
次の頁では、筆圧が強くなっていた。字の色も、黒から赤茶に変わっている。
「インクじゃないな」
「血です。途中で、インクが凍ったんだと思います」
グレゴリーの指が、頁の上で一度止まった。
彼が逃げようとした。
脚を掴んだ。
『離せ。二人とも助かる』
『あの人も?』
彼の向こうに——
紙の端が、ここで欠けていた。
押した。
このことも、書いておく。
ミアは救助隊の地図を横へ置いた。信号が出た場所と、遺体が見つかった場所。
「押した……」
次の頁まで、長い余白があった。
赤い筒を拾った。
蓋を開けて押した。
赤く点滅している。
これで来る。
最後の頁は、短い文だけだった。
竜の音がした。
呼んだ。
声が出ない。
少し近くなった。
また遠くなった。
強風。
雪——視界なし。
母のことを思う。
チーズひときれ。
晴れれば来る。
もう少し待つ。
それより後に読める文字はなかった。
グレゴリーは最後の頁から、しばらく指を離さなかった。
ミアは救助隊の記録を手前へ引いた。十二月二十日、21:13。信号発信。22:16、接近中止。
「セドリックさんじゃない。あの人を押したあとで、すぐドラを使った人が待ってた」
「そう読めるな」
「じゃあ、登録者と、送った人は……」
赤い筒が教えるのは、番号と場所だけだ。
「書いたのは……ヴィオレッタさん?」
ミアは写真を手帳の横へ寄せた。婚約者を殺した相手を追ったのなら、分かる。
「リナさんかもしれませんけど」
「その二人の記録は?」
収容記録を開いた。
死亡推定、0807-12-20の18:00〜20:00。
信号の発信は21:13。二人が見つかった岩陰から、七百メートル以上離れている。
「時刻が合わない。でも、推定ならずれるんですよね」
「それだけでは決められん」
ミアは裁判記録も引き寄せた。救助の最中、母には届かなかった通信。
『リナ、私と一緒に引いて。セドリック、そっち、岩に擦れてる』
「二人はロープを引いてる。なのに、これを書いた人は、引かずに彼の手を見てる」
「同じ瞬間だと言えるか」
「ヴィオレッタさんは、お母さんに『落ちるとき、私の名前を』って。手記も『名前を呼んだ』です」
六枚の写真を見た。ガルはその前に死んでいた。アルベルトは引き上げられる側。セドリックは、崖から押された側だった。
一枚だけ残る。
「いや、この人は……」
ノア。
「雪崩で死んだでしょう?」
「遺体は?」
ミアは事故調査の名簿を探した。
ノア・ヘイル。
死亡認定。遺体、未収容。
「……ない」
白い映像には探す声が残っていた。見つからないまま、四人が去った。
「水晶と一緒に埋まって、そのまま死んだんだと思ってました」
「水晶は見つかった。ノアは見つかっていない。荷は一人十三キロだ。自分の分は、背負ったまま埋まっていたはずだ」
「もし雪崩を生き延びて、追いついて、そこで殺すところを見て……」
ミアはノアの写真を、手帳の横へ移した。
「だから、合流しなかった。そういうことだったんですね」
グレゴリーは名簿を閉じなかった。
「……いい読みだ」
「え?」
「何でもない。字の血は鑑定にかける。ノアの家族の血と照らせば、誰が書いたかは出る。それまでは、ノアだと決めて合わないところを捨てるなよ」
ミアは頷いた。頷きながら、もう手帳が流れてきた川のことを考えていた。
「ノアさんの遺体の場所も、これで見当がつきますね」
「手帳が川を下ってきたならその上にいる。雪解けを待って沢を遡れ。そう言っているんだろう」
「さすがですね、警部。橋の上で、沢は三本に分かれてます。雪解けで水が増えるのは、真ん中です」
「詳しいな」
「地元ですから」
麓の町で育って、あの山に登りたいと思ったことは一度もなかった。
「それにしても、なんでみんな山なんか登るんでしょうねえ」
「さあな。お前がなぜ謎を解くのかと同じだろう」
ミアは、彼の写真に書いた〈雪崩〉を消した。
「殺人は二件。一件じゃなかった!」
ミアは机の上へ矢印を引いた。
セドリックからアルベルトへ。ノアからセドリックへ。
「欠陥ロープを使って、一件。崖から押して、もう一件」
グレゴリーは裁判記録の、魔力変質の一行を指で叩いた。
「この跡が、ずっと引っかかっていた」
「欠陥が、殺人を隠した」
ミアは六人の写真を並べ直した。
ガル。アルベルト。セドリック。ノア。並べては、手帳と見比べる。
「ふふっ」
声が漏れた。
「ミア」
「これで、謎が解けた……!」
一年、読んだ。分からなかった。何度読んでも同じところで止まった。
その先へ、今、進めた。
「ノアさんだったんだ。撮ってた人が、見てたんだ。誰もいないと思ってたところに、いたんですね!」
「声を落とせ」
グレゴリーは扉を見た。
ミアは笑いを噛み殺した。頬が痛かった。
「すみません。だって、こんなの」
「マスコミに流すのか?」
ミアはきょとんとした。
「まさか!」
手帳と写真へ両手を広げる。
「私だけが知ってるんです!」
グレゴリーは椅子を引いた。
さっきまで手帳の上にあった彼の手が、今は机の端にあった。
「……俺もいる」
「警部は、一緒に分かった人じゃないですか」
何がおかしいのだろう。
誰でも読める新聞に載せて、分かった気になられるなんて嫌だった。自分は一年かかった。ここへ来るために試験を受けた。
どうして、それを知らない人に配らなければならないのか。
「これは事件の証拠だ。お前の秘密にはしない」
「はい。調べるんですよね。血の鑑定も、会社の数字も」
「遺族は、お前が拾う前から待っている」
ミアは少し考えた。
「あ、警部の手柄にだったら、してもいいですよ。五年も追ってたんですから」
グレゴリーはすぐには答えなかった。
机の上には、五年分の箱があった。窓際の、誰も来ない部屋だった。
「……拾った日付から書け」
「え?」
「数字を変えた奴と、同じことをする気はない」
グレゴリーは手帳を閉じて自分の机へ移し、新しい用紙を出した。
「隠していたことも、焼こうとしたことも、報告する。この事件からは外す。鑑定の結果も、お前には回さない」
「いいですよ」
グレゴリーの手が止まった。
「もう、分かりましたから」
ミアはすぐに書き上げて、用紙を差し出した。
グレゴリーが受け取った用紙から目を上げる前に、ミアは身を乗り出した。
「さあ、次の事件も一緒に解きましょう!」
グレゴリーは眼鏡を外し、眉間を揉んだ。しばらく、そのままだった。
「……俺が、何か悪いことでもしたか」
背後の書棚には、まだ開いていない記録が隙間なく並んでいた。