夜が明ける前の薄暗い宿舎、冷え切った藁布団と剥き出しの上半身。
それが、紅魔館に仕える「名もなきメイド妖精」である私の日常だった。

豪華絢爛な表舞台の裏側で、私たちはただの取り替えのきく規格品として消費されている。
朝夕に行われる、十六夜咲夜の冷徹な秒単位の点呼。
逆らえばその場で引き裂かれる、吸血鬼たちの絶対的な理不尽。
そして何より、敷地の境界線を越えて羽ばたけば、音もなく弾け飛んで館へと引き戻される背中の「魔法の楔(ルビ:呪縛)」。

死んでは翌朝に何事もなかったかのように湧き直す、終わりのない輪廻の監獄。

ある日、些細なサボりの雑談と主たちへの怨嗟のなかで、一つの決定的な不条理が私たちの身に降りかかる。
それを機に、私の胸の奥底で、昏く、獰猛な「自由への執念」が鎌首をもたげ始めた。

文字すら満足に読めない底辺の消耗品が、強者たちの「完璧な秩序」の盲点を突き、生存率ゼロの脱獄を企てる。
泉鏡花の絢爛たる色彩、夏目漱石の冷徹な五感、太宰治の破滅的独白の筆致を宿して描かれる、凄惨かつ生々しい、とある妖精の凱旋の記録。

「――ごめんね。みんな。私は、先に行く」


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数ある東方二次創作作品の中から、本作『アンダー・ル・ルージュの囚人』に目を留めていただき、誠にありがとうございます。

執筆を始めるにあたり、読者の皆様へどうしても最初にお伝えしておきたい大切な事柄があり、この場を借りて長々と、しかし丁寧に言葉を尽くさせていただきます。

まず第一に、本作は私のこれまでの執筆活動のなかでも、文字数・密度ともに群を抜いて「長い長編小説」となっております。

一つの場面における描写の解像度を極限まで高め、キャラクターたちの息遣いや、館の冷たい湿気、剥き出しの肉体が受ける痛みの感触にいたるまで、一文字一文字に魂を込めて分厚く紡ぎ上げました。お時間の許す際、じっくりと腰を据えて、この泥濘のような世界に浸っていただければ幸いです。

そして第二に、本作では、紅魔館をはじめとする幻想郷の住人たちや、博麗霊夢、霧雨魔理沙、東風谷早苗といったお馴染みのキャラクターたちに対して、底辺を生きるメイド妖精の視点から、極めて生々しく、時には目を背けたくなるほど苛烈でドス黒い罵詈雑言や、ニックネームでの侮蔑がこれでもかと連発されます。身体的・肉体的な否定や、おぞましい噂話の応酬、そして彼女たち強者の持つ圧倒的な「理不尽」によって消耗品がすり潰されていく描写が多々含まれています。

しかし、これは決して彼女たちを貶めるための「ヘイト」や「悪意」から生まれたものではありません。
私は、彼女たちが「圧倒的な強者」であり、人間を超越した「幻想郷の秩序そのもの」であるからこそ、その足元で消費される持たざる者との間には、決して交わることのない残酷なまでの身分が存在するはずだと考えました。
そして、主たちには主たちなりの、巨大な館を維持するための世俗的な財政難の苦労や、強者ゆえの深い孤独、血を吐くような重責が確かに存在します。
彼女たちは決して「絶対的な悪役」ではなく、ただ見ている高さが違いすぎるがゆえに、結果として妖精たちの命をあまりにも簡単にすり潰してしまうという、悪意なき構造的悲劇を描きたかったのです。

これだけは声を大にして、決して誤解のないようにお伝えさせてください。
作者である私は、東方Projectのキャラクターたちが、決して嫌いではありません。むしろ、彼女たちのことが心の底から大好きであり、深い愛着とリスペクトを抱いています。

大好きなキャラクターだからこそ、単なる記号的な「記号」として綺麗に描くのではなく、彼女たちが巨大な紅魔館を維持するために抱えている世俗的で泥臭い財政難の苦悩、世界の重責の前に人間には言えないリアルなやり取りで頭を抱えている「強者ゆえの生々しい現実」を徹底的に解剖したかったのです。
そして、そんな確固たる絶対者たちに、文字すら満足に読めない名もなきメイド妖精が、知恵と、執念と、自らの肉体を損壊するほどの狂気をもって挑むからこそ、東方二次創作としてかつてないほどの重厚な人間ドラマと、最高のサスペンスが生まれると信じて筆を執りました。

どうか私のキャラクターたちへの愛と、独自の解禁・表現の試みをご理解いただき、この最高に張り詰めた緊張感のサスペンスを、最後まで見届けていただけますよう、心よりお願い申し上げます。

これより始まるのは、終わりのない輪廻の監獄を内側から爆破しようとした、ある妖精の凱旋の記録です。
それでは、本編へどうぞ。


無字の遺言は緋色の硝煙の中に消える

紅魔館の地熱は、夜が更けるとともにすべて吸血鬼の階へと吸い上げられてしまうらしい。私たちのあてがわれた宿舎には、ただ冷え切った湿気と、均一に並ぶ四個の二段ベッドが、まるで墓標のように無機質な影を落としているばかりだった。

意識が、泥の底からゆっくりと、しかし容赦なくせり上がってくる。

私の覚醒は常に、頭蓋の奥でチクタクと不正確なリズムを刻む幻聴から始まるのだ。

まだ陽の光など一滴も混じらぬ暗がりのなか、私は薄いシーツを跳ね除けた。

いや、シーツというのもおこがましい。それは幾度もの洗濯で糊を失い、死人の皮膚のように硬くこわばった、ただの木綿の布切れだった。

身を起こすと、寝床の硬い藁布団がミシミシと、私の肉体の重みを呪うような音を立てる。私の胸から上には、何も纏うものはなかった。私たちはここにおいて、徹底して「剥き出しの消耗品」として管理されている。

夜の間、私たちの背中にある一対の半透明な羽――あの忌々しい「魔法の楔」が打ち込まれた羽を、寝具の摩擦から保護するためという名目のもと、私たちは上半身を裸のまま眠ることを義務づけられていた。

冷気が、直に露出した鎖骨の窪みへと滑り込み、そこから肋骨を伝って這い回る。手で己の肩を抱けば、指先に触れるのは肉の温かみなどではなく、過酷な労働によって磨耗しつつある、ただの白い骨の輪郭だった。絢爛たる怪異の美しさは、この紅魔館の表舞台にはあっても、ここにはない。あるのは、剥き出しの白い肌と、背中に刺さる見えない冷たい針のような呪縛だけだ。

「……んぅ……」向かいの二段ベッドの、下の段。

寝床の主——スズナは、未だ深い眠りの泥に足を取られていた。彼女の背中にある羽が、呼吸に合わせてかすかにピクリと震える。

今日という終わりのない輪廻の始まりを、彼女の防衛本能だけが察知しているのだろう。

だが、彼女の意識は一向に覚醒の兆しを見せない。いつもそうだ。このまま放っておけば、彼女はあの時計の秒針が定位置に達するまでに身支度を終えられず、十六夜咲夜のあの、凍りつくような「冷然たる凝視」をまともに浴びることになる。

それは、私たちの精神に致命的な亀裂を入れるに十分な暴力だった。

私はベッドから足を下ろし、冷え切った板の間に直に足の裏をつけた。床の冷たさが、私の内面の欺瞞を刺してくる。

私はスズナのベッドへ歩み寄り、その白い、むき出しの肩へと手を伸ばした。

「スズナ、起きなさい。もう、時間が始まるわ」私の声は、低く、湿っていた。彼女の肩を小さく揺する。

スズナの身体は、妖精特有の軽さで、私の手のひらのなかで頼りなく揺れた。

彼女は「ふぇ……」と、間の抜けた、しかしどこか必死な声を漏らしながら、ようやくその重い瞼を持ち上げた。その瞳に宿る恐怖の色を見たとき、私は胃の腑がねじ切れるような焦燥を覚える。

彼女もまた、この生活に擦り減らされているのだ。

「……あ、……起きなきゃ、怒られる、メイド長に……」スズナは怯えたように身を起こすと、その細い腕で、同じく一糸纏わぬ上半身を隠すように抱きしめた。

その細い、むき出しの両腕が、私の首筋へと縋りつくように回された。

私の胸へと、スズナの剥き出しの上半身が、狂おしいほどの切迫感を伴って押しつけられる。

どっと私の五感を支配したのは、冷え切った寝室の空気とはあまりにも不釣り合いな、彼女の生々しい皮膚の熱だった。

夜の闇に白くのたうつ怪異の如く、彼女の柔らかな肌は、私の鎖骨や胸元へとぴったりと吸い付くように密着する。

妖精という、いつでも死んで、いつでも生まれ変わるはずの希薄な存在。

それなのに、私の肌に触れる彼女の肉体は、驚くほど生々しく、滑らかで、そして容赦なく「生」を主張していた。

ぎゅっと私の背中に回された彼女の指先が、肉に深く食い込む。

彼女の小さな双丘が、私の胸板へと押し潰され、その微かな弾力と、皮膚の薄い境界線を通じて伝わってくるトク、トク、という早鐘のような心臓の鼓動が、私の肋骨を内側から激しく揺さぶる。

私は今、彼女の恐怖を、その肌の粟立ちを通じて直接触知しているのだ。冷気と恐怖に震えるスズナの肌は、細かく波打ち、私のむき出しの肌をどこまでも摩擦し、粟立たせていく。

「……行かないで、私を置いていかないで……」

耳元で、スズナの熱い吐息が爆ぜる。

その湿った息が私の首筋を濡らすたび、ぞくりとした快感とも畏怖ともつかぬ悪寒が、背骨を伝って奈落へと落ちていく。

鼻腔を突くのは、安物の固形石鹸の匂いと、彼女の身体から立ち上る、妖精特有の、どこか青臭い花の蜜のような、甘く狂おしい体臭。

ああ、私たちはこうして、一糸纏わぬ醜くも美しい姿で互いの体温を貪り合い、終わりのない労働の恐怖から目を背け合っているのだ。この細い肩を抱きしめてしまえば、どれほど楽だろう。この生々しい肌の温もりに溺れ、館の歯車として、従順な家畜として永遠に眠り続ければ、どれほど幸福だろうか。

だが、私の背中には、彼女の胸の突起よりも遥かに冷たく硬い、あの「魔法の楔」が重く沈んでいる。

私は、私の肌を焦がすようなスズナの体温を、あえて冷徹に撥ね退けるように、彼女の細い肩をそっと掴み、その肉体の密着を拒絶した。

他のベッドでも、同室の他の二人が身をよじる気配がする。

一人は「もー、また朝ぁ?」と、道化めいた諦念を口にしながら、既に半分だけ現実に戻りつつあった。

私は彼女たちの覚醒を見届ける義務を放棄するように、自らの箪笥へと向かった。

引き出しを引けば、湿気を含んだ木製の手応えがギィと嫌な音を立てる。

その上にある、水銀が斑に剥げ落ちた共有の鏡。覗き込めば、そこに映る私の顔は中心から酷く歪んでいた。私はその歪みの中に、自らの破滅的な独白を押し込める。

私は私でありながら、ただの“紅魔館のメイド妖精”という、いくらでも代わりのきく規格品に過ぎない。その滑稽な事実を、毎朝この鏡は私に突きつけてくる。

私はまず、純白のドロワの紐をきつく締めた。

布地が肌に擦れる生々しい感覚が、これから始まる現実の重みを告げる。

続いて、糊のきいた黒い上着を頭から被る。むき出しだった私の白い上半身が、紅魔館の秩序という名の強固な檻によって、少しずつ覆い隠されていく。

フリルの袖に腕を通し、首元のボタンを一つ一つ、正確に嵌めていく。その動作は、まるで自らを処刑台へと送り出すための儀式のようだった。

最後に、背中のスリットから自らの羽を慎重に外へと引き出す。

その瞬間、羽の根元に打ち込まれた「魔法の楔」が、冷たい拒絶の感覚を伴って、私の肉体の深部へと再接続された。

館から出ることは叶わない。出れば、この身体ごと弾け飛ぶ。

「二人とも、早くしなさい」

私は振り返ることなく、まだベッドのなかにいる他の二人にだけ冷然と言い捨てた。

エプロンの紐を背中で強く結び、ヘッドドレスを頭に乗せる。

鏡の中の私は、完璧に館の歯車の形をしていた。だが、その胸の奥底で、昨日死んだはずの私の狂おしき意志だけが、未だ冷たく燃え盛っている。

私は部屋の重い鉄のドアノブに手をかけ、それを静かに押し回した。

廊下へと踏み出すその一歩は、奈落の底へと続く、果てしない日常への一歩だった。

扉の向こう側は、ひたすらに対称的で、冷徹な静寂が支配する大廊下だった。

まだ夜の帳が完全に下りきっていない薄暗がりのなか、私とスズナは、音を立てないように素足で漆黒の大理石を踏みしめ、一階の大広間へと向かう。

そこは、普段は仰々しい夜会や饗宴の時にしか使われない、天井のやたらと高い、がらんとした空間だった。

頭上には巨大なクリスタルのシャンデリアが、消えかけた蝋燭の煤を纏って不気味にぶら下がっている。

広間には、既に何十人ものメイド妖精たちが、軍隊のように整然と列をなしていた。

皆、一言も発しない。

衣服の擦れる擦過音と、微かな羽ばたきの音だけが、天井に反響して不気味なノイズと化している。

列の先頭。そこに、十六夜咲夜が立っていた。

彼女の懐中時計がチクタクと刻む音は、この広いホールの隅々にまで、冷たい剃刀の刃のように行き渡っている。

冷然たる執行人の如く、彼女は感情の失せた瞳で、前から一人ずつ、妖精の数を、その肉体の欠損の有無を、そして背中にある楔の脈動を、秒単位の確認作業で検分していく。

「次」

冷徹な声が響く。私の番だった。

咲夜の、灰色の鋭い眼光が私の全身を走る。

その瞬間、私の背中の皮膚が一気に粟立ち、胃の腑がせり上がるような錯覚を覚えた。

彼女の視線は、私のすべてを見透かしているかのようだ。

心臓が早鐘を打つ。だが、彼女はただ事務的に、私の胸元と、背中のスリットから覗く翼の位置を確認しただけだった。

「……一階、東翼の回廊。後ろの子と共に掃除を」

「はい、メイド長」

私は人形のように頭を垂れ、その場を離れた。

背後で、スズナが小さく安堵の息を漏らすのが聞こえた。

私たちはいつも通り、決まった役割を宛がわれ、その巨大な鳥籠の部屋を後にした。

一階の隅にある、黴と薬品の匂いが充満した掃除道具入れへと向かう。

使い古され、毛先が不揃いに磨耗した箒。幾度も血と泥を吸って黒ずんだ雑巾。

そして、重いブリキのバケツ。

井戸から汲んできたばかりの、骨まで凍るような冷水をバケツに満たし、それを二人で持ち上げながら、友人のナズナとオダマキの待つ合流地点へと歩を進める。

「……ねえ、知ってる?」

バケツの取っ手を握るスズナが、周囲の影を気にしながら、消え入りそうな声で私に囁いた。

水面が、彼女の不安に同調するようにチャプチャプと揺れる。

「今日、レミリア様……もうおきてるかもしれないんだって。さっき、パチュリー様の部屋の方から、お洋服の擦れる音が聞こえた気がして……」

「気まぐれな吸血鬼だもの。朝からお茶を欲しがることもあれば、夕方まで死んだように眠っていることもあるわ」

私は冷淡に返した。しかし、内心では焦燥が胸を焦がしていた。

あの吸血鬼たちが夜行性であるからこそ、私たちはこの朝から夕方までの時間を「奴らのいない自由な時間」として、サボり、雑談し、辛うじて人間らしい自我を保っていられるのだ。

もし、太陽が昇っている時間帯にあの強大すぎる主たちが館を徘徊し始めれば、私たちの微かな息抜きの空間すらも、完璧な恐怖によって圧殺されてしまう。

「もし、フラン様まで起きてこられたら……私、本当に怖くて、バケツをひっくり返しちゃうかも……」

「馬鹿なことを言わないで。そんなことをしたら、次こそ本当に『地下』よ」

私はスズナの手首を、少し強く握りしめた。

彼女の肌は、さっきの寝室での温もりを失い、冷たいバケツの鉄肌と同じ温度になりつつあった。

曲がり角の向こう。

廊下の窓から差し込む、微かな朝の薄光のなかに、二つの影が見えた。

箒を杖のように突き、退屈そうにあくびを噛み殺しているナズナと、その横で、自分の靴紐をほどいては結び直している、少しお馬鹿なオダマキの姿だった。

日常という名の、果てしない監獄の時間が、今日もまた本格的に始まろうとしていた。

「遅い、遅い。二人の帰りを待つ間に、私のこの瑞々しい美貌が埃でカサカサになってしまうところだったわ」

ナズナは箒の柄に体重を預け、軽薄さでくすくすと笑った。

私たちは形式だけ、大理石の床に雑巾を滑らせた。

咲夜の足音が聞こえないことを確認し、四人は自然と回廊の薄暗がりに頭を寄せ合う。これが私たちの、唯一の息継ぎの時間だった。

「さっきスズナが、今日に限って『お漏らし吸血鬼』が朝から起きているかもしれないって怯えていたわよ」

私が冷淡に切り出すと、ナズナは待ってましたとばかりに目を輝かせた。

「ああ、あの赤ん坊ね。どうせまた、プリンの形がズレただとか紅茶の温度が一度低いとか、そんな下らない理由で朝から癇癪を起こしているのよ。あの女の気まぐれに付き合わされる私たちの身にもなってほしいわ。あ、そうそう、地下の『悪魔の燃えカス』の部屋の近くには、今日誰も近づかない方がいいわよ。昨夜、部屋の奥から何かをミンチにするような嫌な音が響いていたって、二階の厨房係が顔を真っ青にして言っていたもの」

彼女たちの口から零れ落ちる主たちの名は、どれも血と泥に塗れた醜悪な渾名ばかりだった。完璧な従者を気取る咲夜とて、妖精たちの間では『冷血なネジ巻き人形』と嘲笑されている。しかし、私たちの怨嗟の矛先は、館の住人だけにとどまらなかった。

「癇癪で思い出したけど……先月の夜会の片付けのときのこと、覚えてる?」

スズナが急に、指先を細かく震わせながら声を潜めた。その瞳には、一ヶ月が過ぎても消えない生々しい恐怖の澱が沈んでいる。

「私の前にいた子がね、ただ、机に溢れた葡萄酒を拭き取ろうとしただけだったの。それなのに……あの博麗の『癇癪赤』、酔った勢いで、その子の頭を容赦なくお祓い棒で叩き潰したのよ。脳漿が、私のエプロンにまで飛び散って……」

「ああ、あの守銭奴の紅白ね。あいつの頭の中は賽銭と酒のことしかないのよ。私たちが何人死のうが、翌日にはリセットされてケロッと生き返るただの妖精だと思っているから、虫ケラを潰すのと変わらない感覚なのよね」

ナズナが吐き捨てるように言った。

「その横にいた『白黒ドブネズミ』だって同罪よ。泥棒のくせに大層な魔法使いのツラをして、その光景を見て『おいおい、派手にやったな』って笑いながら、館の銀食器をポケットに詰め込んでいたんだから。あいつのミニ八卦炉、いつか火を吹いてあいつ自身のドブネズミみたいな帽子ごと燃え尽きればいいのよ」

「そうよ、あの泥棒猫、この前も大図書館の裏でパチュリー様の魔導書をスカートの中に隠して走っていくのを見たわ」

オダマキが箒の手を止め、みんなと同じように主たちの理不尽を憎みを並べ立てた。

「でもね、あの白黒ドブネズミ、あの大きな帽子のなかに、いっつも森で拾ってきた怪しいキノコをぎゅうぎゅうに詰め込んでいるのよ。だからあいつが通り過ぎた後って、お風呂に入ってない泥水の匂いと、腐ったカビの臭いが混ざって本当に吐き気がするの。あんな不潔な生ゴミみたいな生き物、早く美鈴に踏み潰されて、館の肥やしにでもなればいいのにねえ」

オダマキは平然とそう言って、自分の鼻を大袈裟につまんでみせた。話の深刻さやデッドラインの危うさを測り損ねている彼女のその小馬鹿にしたような物言いが、かえってこの空間に漂う、強者への歪んだ侮蔑を生々しく際立たせていた。

「紅白と白黒だけじゃないわ。最近、あの妖怪の山から降りてきた守矢の『寄生虫緑』、あの女が一番性質が悪い」

私は、握りしめた雑巾から汚れた水が床に滴り落ちるのを凝視しながら、昏い独白を続けた。

「『奇跡を起こす現人神』なんて自称して、いつもお高くとまっているけれど、中身はただの自己顕示欲の塊よ。先月、館の庭で私たちがサボっているのを見つけたとき、あの女、なんて言ったと思う? 『不真面目な妖精さんたちには、神様のバチが必要です。これも奇跡の証明ですね』って、あの歪んだ笑顔で微笑みながら、私たちの足元に容赦なく乾坤の落雷を落としたのよ。スズナの足が消し炭になって、彼女が泣き叫びながら死んでいくのを、あの女は『あはは、神罰です!』って聖女のような顔をして見下ろしていた。神様なんて、ただのサディストの言い訳に過ぎないわ」

「そうよ、あの女、自分のことを何だと思っているのかしらね。緑色の頭の中身は、きっとツチガエルで満たされているのよ」

ナズナの言葉に、スズナは自分の両足を確かめるように、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。日付が変われば肉体は元通りになる。だが、肉肉しい骨の折れる音も、皮膚が焼ける悪臭も、死の瞬間の凄絶な苦痛も、私たちの精神には確実に消えない傷として蓄積されていくのだ。

「……私たち、いつまでこんな場所で、あいつらのご機嫌取りのために死に続けなきゃいけないのかな」

スズナの呟きは、豪雨を予感させる重苦しい空気のなかに、静かに溶けて消えた。

日常という名の、底なしの泥濘。そこから抜け出すための狂気的な執念が、私の胸の奥で、じわり、じわりと、どす黒い形を成し始めていた。

「ほらほら、お喋りばかりして手がお留守よ。あの『冷血ネジ巻き人形』に耳を削がれたくなかったら、少しは雑巾を動かす振りをしなさいな」

ナズナがふざけた調子で言いながら、毛先の禿げかかった箒で大理石の床をごしごしと擦り始めた。

私もまた、冷水でふやけて感覚の麻痺した指先で雑巾を握り直し、冷たい床へと押し付ける。私は床を這う自分の指先を見つめていた。爪の隙間に大理石の黒い粉が入り込み、皮膚は薬品の混じった水で白くふやけている。これが、私たちの生々しい日常の、戦慄すべき矮小さだった。

「……ねえ、これ本当に誰も聞いてないでしょうね?」

ナズナが再び声を潜め、回廊に並ぶ金箔の剥げかけた肖像画を見上げた。額縁の陰に、レミリアの使い魔である蝙蝠が潜んでいないかを確かめる、いつもの、しかし命がけの確認作業だ。

「二階の客室の、ずっと使われていない奥の部屋。あそこにね……『本物の人間の死体』が転がっているって噂があるの」

「人間の?……どうして? 霊夢たちに殺された妖精なら、翌日には湧き直すけれど、人間は死んだらそれっきりでしょう?」

スズナが、床を拭く手をぴたりと止めてナズナを凝視した。水面に浮かぶ埃が、彼女の息を呑む気配に揺れる。

「そうよ。だからこそ『本物』なのよ」

ナズナの瞳に、破滅的な悦楽の色が灯る。

「お嬢様たちがおやつに召し上がった人間の、乾からびた抜け殻。咲夜様が片付け忘れたのか、あるいはあえて見せしめのために、鍵の閉まった客室のクローゼットに吊るしてあるんですって。たまに二階の廊下を掃除していると、誰もいない部屋の奥から、乾いた骨が壁にぶつかる『カタカタ』って音が聞こえるらしいわ。私たちがどれだけここで健気に床を磨こうが、あの吸血鬼たちにとっては、私たちはただの『喋るおやつ』か、そのおやつを運ぶための『生きたお盆』に過ぎないのよね」

ナズナの語る噂話は、紅魔館の豪華な壁紙の裏側に潜む「腐肉の臭い」をこれでもかと生々しく炙り出してくる。

「あ、それ知ってる! 二階のそのお部屋、私もこの前前を通った時に変な音がするのを聞いたわ」

オダマキがバケツの水に浸した雑巾を絞りながら、まるでとっておきの秘密を披露するかのように、得意げに目を輝かせた。

「カタカタ、カタカタって、まるであのお人形が夜中にひとりでステップの練習でもしてるみたいな、すっごく間抜けな音だったのよ。どうせ片付けるのが面倒だからって、咲夜様があのクローゼットの中に押し込んだんでしょうね。干からびた人間の皮なんて、まるで私たちが冬場に着る、糊のききすぎた古い上着と同じよ。あんな乾ききった生ゴミが壁にぶつかる音をいちいち怖がってるなんて、スズナは本当に怖がり屋さんねえ」

オダマキはくすくすと意地悪そうに笑い、スズナの肩を肘で小突いてみせた。人間の死すらも、ただの乾いた洗濯物と同列の笑い話にしてしまう彼女のその少し頭の足りない無神経さが、かえってこの館の日常に潜む「死への麻痺」を生々しく際立たせていた。

「そんな噂、どうだっていいわ」

私は冷淡に言い捨て、大理石にこびりついた乾いた泥を、爪を立てて削り取った。

「人間だろうが妖精だろうが、この館に囚われている限り、私たちは等しく『死体』よ。毎日セーブされ、日付が変わるたびに同じ場所へと湧き戻される。私たちは、昨日死んだ自分自身の死体の上を踏みしめて、今日もこうして雑巾がけをしているのよ。その滑稽さに比べれば、クローゼットの骨の音なんて、ただの可愛い子守唄だわ」

「相変わらずあんたは夢がないねぇ。だから可愛げがないって咲夜様にも……」

ナズナが肩を竦め、言葉を続けようとした、まさにその瞬間だった。

「……まったく、仕事の手を止めて、よくそこまでくだらない噂話に花を咲かせられるものね」

冷然たる声が、私たちの背後から、鼓膜の奥へ直接氷片を突き刺すように響いた。

私とナズナ、スズナの心臓は、文字通り跳ね上がり、肋骨の内側を激しく叩いた。

いつからそこにいたのか。十六夜咲夜は、一階の回廊の影から、私たちが動かしていなかった箒と、床に滴る汚水を冷たい灰色の瞳で見下ろしていた。

「ため息をつきたいのは私の方よ。あなたたちのその出来損ないの脳組織は、床の埃を払うという単純な命令すら理解できないほど退化しているのかしら。仕事に専念しなさい」

咲夜は深く、酷く退屈そうにため息をつくと、その手に握られた懐中時計の竜頭を軽く弾いた。

――フッ、と。

世界が数瞬の静止を迎えたかと思うと、彼女の姿は最初からそこに存在しなかったかのように、煙のごとく目の前から消え失せていた。時を止める能力。力を持たざる私たちにとって、それは神の気まぐれに等しい絶対的な断絶だった。

「……ッ、はあぁ……! 死ぬかと思った……っ!」

スズナが自分の胸元を強く掻きむしり、酸欠の魚のように激しく喘いだ。ナズナも額の脂汗をエプロンの袖で拭いながら、しかし、咲夜の姿が消えたと確信するや否や、すぐにその歪んだ唇から新たな悪口の弾丸を吐き出し始めた。

「な、何よあの『ネジ巻き吸血鬼の犬』……! いつも完璧な人間ぶっちゃってさ。どうせあの女のあの、無駄に誇張された胸元だって、全部まやかしの詰め物のくせにね。館の妖精たちの間じゃみんな知ってるわよ。あの女の胸は、紅魔館で一番平らで冷酷な鉄板だって!」

「そうよ、そうよ! パット長、パット長!」

それまで雑巾を絞っていたオダマキが、我が意を得たりとばかりに顔を上げ、悪辣な笑みを浮かべて会話の輪に加わってきた。他の三人より少し物覚えが悪く、いつも要領を得ないお馬鹿な彼女だったが、こういう陰湿な悪口の時だけは、妙に平然と、一端の口を利くのだ。

しかも彼女には、場の空気を読むという概念が決定的に欠落していた。ナズナの言葉に悪乗りしたオダマキは、誰もが恐れて口にしない、本当の「一線」を平然と踏み越える独自の罵詈雑言を滑らかに連発し始めた。

「あの女の胸に詰まってるのは綿じゃないわよ、あれは『虚栄心の死骸』と『シリコンの塊』よ。あの吸血鬼の犬、人間の分際で時を止めるなんて不自然な真似ばかりしているから、身体の成長も、細胞の代謝も、ついでに女としての真っ当な機能も、ぜんぶ中途半端に腐って止まってるのよね。だからあんな、洗濯板に干し葡萄を二つ貼り付けたような、見るも無惨な『両性具有のミイラ』みたいな骸骨になっちゃうのよ。本当は月に一回、自分の平らな胸と股ぐらを鏡に映すたびに、人間を辞めた自分に絶望して、夜中にシーツに顔を押し付けて咽び泣いてるくせに。ねえ、本当の年齢はいくつなのかしらね? あの冷血な白髪婆、実は吸血鬼の魔力で若作りしてるだけで、中身はとっくに干からびた八十過ぎのドブネズミなんじゃない?」

その、あまりにも凄絶で、冷酷極まる罵詈雑言が、廊下の冷たい空気に響き渡った、まさにその瞬間だった。

シュッ――。

音もなく、しかし大気を鋭く切り裂く銀の一閃。

それは遙か遠方の暗がりから、一切の狂いもなく正確無比な軌道を描いて飛来した。

次の瞬間、ペキッ、という肉と骨が硬い金属に貫かれる生々しい音が響く。

「……あ、え?」

オダマキの、言葉の途中で止まった間の抜けた声。

彼女の額の真ん中には、深々と、十六夜咲夜の放った銀のナイフが突き刺さっていた。

オダマキは焦点の合わない目で一瞬だけふらつき、それから糸の切れた人形のように、バタンと激しい音を立てて大理石の床へと倒れ伏した。

彼女の頭部から、どくどくと赤黒い血汐が溢れ出し、私たちが今しがた掃除したばかりの床へと急速に広がっていく。まるで絵具のように、その鮮血は冷たい漆黒の床を冒涜的に染め上げていった。

いつの間にか、倒れたオダマキのすぐ傍らに、咲夜が再び歩み寄っていた。

彼女は感情の微塵もない動作で、死体の額から銀のナイフを「あ、」とも言わずに引き抜いた。肉が裂ける生々しい音が響き、咲夜はハンカチでナイフの血を拭い取ると、先ほどよりもさらに、深く、重いため息をついた。

「……残った三人、その肉塊が散らかした血をすべて拭き取って、元通り綺麗にしなさい。一滴でも汚痕が残っていたら、次はあなたたちの番よ」

咲夜は残された私たちに冷徹な視線を一瞥だけ呉れると、それ以上言葉を重ねることなく、踵を返して近くの階段へと、静かな、しかし完璧に統制された足取りで向かっていった。彼女の背中が、薄暗い階段の闇へと消えていく。

静寂が、血の匂いとともに回廊を支配した。

私とナズナ、そしてガタガタと歯を鳴らして震えるスズナは、床に転がる、まだピクリと痙攣しているオダマキの死体をただ凝視していた。

明日になれば、このお馬鹿な友人は何事もなかったかのようにリセットされ、また寝室で目を覚ます。だが、今のこの生々しい死の不条理。

私たちは、まるで事前に息を合わせていたかのように、冷酷な、しかしどこか諦念に満ちた声を、揃って口の内で呟いた。

「「「…なんて愚かで馬鹿な奴だ」」」

日常という名の、終わりのない、狂った監獄の歯車が、また一つ、血を吸って回りはじめた。

 

白髪の執行人が去った後、回廊にはただ、生温かい鉄錆の臭いだけが濃密に立ち込めていた。

スズナが喉の奥で、胃液のせり上がるような湿った音を立てて蹲る。

私は何も言わず、膝を大理石の床へと突き、オダマキの死体へと這い寄った。私の指先は驚くほど平然と動いていた。

引き抜かれた額の傷口は、まるでおぞましい赤い口を開けているかのようだった。そこから、どくどくと、ドス黒い粘性を帯びた血汐が、とめどなく溢れ出ている。私は躊躇なく、己の糊のきいたエプロンを外し、両手でその白いエプロンを彼女の額の穴へと強く押し当てた。

じゅぶ、と、肉と血が布に吸われる生々しい感触が手のひらを通じて脳髄へと伝わってくる。いくら強く圧迫しようとも、人間の心臓より遥かに小さな妖精の胸元は、未だ死にきれずにピクリ、ピクリと不規則に波打ち、そのたびに私の指の隙間から、温かい脳漿の混じった赤が溢れて、私の腕を濡らした。

「ナズナ、スズナ、突っ立ってないでバケツと雑巾を。早くしないと、大理石の微細な孔に血が染み込んで、二度と落ちなくなるわ」

私の張り付いたような声に、ナズナがハッとしたように雑巾を床へ叩きつけた。ただ必死に、周囲へ急速に広がる血の海を雑巾で大雑把に掻き集め始める。

「くそ、オダマキ、死ぬならバケツの中に頭を突っ込んで死ねばよかったのよ……! スズナ、泣いてる暇があったら手を動かしなさい! 乾いたら私たちの命がないのよ!」

スズナは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、震える手で床を擦った。雑巾が血を吸って重くなり、床を滑るたびにねちゃり、ねちゃりと、肉を捏ねるような不快な音が回廊に反響する。耳の奥が痒くなるような、あの骨と肉が擦れ合う陰惨な音が、私たちの五感を容赦なく汚染していった。

「……よし、運ぶわよ。頭を頼むわ」

私はエプロンをオダマキの頭部に巻きつけたまま、彼女の両腋に腕を差し入れた。ナズナがその細い、まだ温かい両足を抱え、スズナが恐る恐る、だらりと垂れ下がった彼女の腰のあたりを支える。

三人で持ち上げたオダマキの身体は、驚くほど軽かった。中身の詰まっていない、ただの薄っぺらな鳥の羽を運んでいるかのようだった。しかし、その背中からは、先ほどまで彼女の身体の一部だった一対の半透明な羽が、持ち上げた衝撃でメキリと嫌な音を立てて不自然な角度に折れ曲がった。

私たちは、一階の廊下の突き当たりにある使われていない客室へと向かった。

鍵の開いていた重い木製の扉を足で押し開ける。部屋のなかは、埃除けの白い布が被せられた家具が、まるで幽霊のように並ぶ死の世界だった。私たちはその部屋の隅、大きなクローゼットの脇の、一番目立たない絨毯の上に、オダマキの肉体を容赦なくバタンと投げ出した。

白い布に包まれた暗がりのなかで、オダマキの死顔だけが、額の赤を際立たせて奇妙に光っていた。

私たちは誰も、彼女の死を悼んではいなかった。あるのはただ、「またか」という、終わりのない輪廻に対する底知れない倦怠だけだった。

「……それにしても」

ナズナが、自分の服についた血を手で払いながら、深く、忌々しそうに息を吐き出した。

「あいつ、普段は私たちより少し抜けたお馬鹿さんのくせに……あのパット長に対する罵詈雑言、一体どこの引き出しから引っ張ってきたのかしらね。干し葡萄を二つ貼り付けたような、両性具有のミイラだなんて……思い出すだけで、感心しちゃうわ。私には逆立ちしたってあんな凶悪な言葉、出てこないもの」

「本当ね」

私はオダマキの、まだ完全に閉じきっていない瞳を見下ろしながら、冷淡に同意した。

「あの女が、自分の肉体の不自然さにどれだけ怯えているか、あの子は本能的に見抜いていたのよ。お馬鹿だからこそ、デットラインの境界線が見えなくて、一番鋭いナイフを平然と相手の心臓に突き立ててしまう。ある意味、あの子のあの毒に満ちた感性は、この館の誰よりも天才的だったかもしれないわ」

「天才だろうが何だろうが、頭にナイフが刺さったら終わりよ」

スズナが突然、己の血に染まった両手で自らの髪をボサボサとかきむしり、激しく頭を振り始めた。彼女の細い肩の震えは止まらず、カタカタと鳴る歯の音が、死んだように静まり返った客室に不気味に響く。その瞳は完全に恐怖に狂い、まるで今も背後にあの白髪の死神が立っているかのように、部屋の暗がりを血走った目で凝視していた。

「嫌、いやよ……! メイド長は、全部知っているんだわ……! 私たちがサボっていることも、あの子が言ったあの恐ろしい悪口も、私のこの胸の内の醜い怯えも、ぜんぶ、ぜんぶあの灰色の目で覗き込まれているのよ……っ! 次に時計の針が止まったら、私の首にあの銀の刃が刺さるんだわ! 何が本当で、どこまでが許されて、いつあの女の逆鱗に触れるのか、もう私、分からなくなっちゃう……っ!」

スズナは過呼吸のような短い息を繰り返しながら、私の服の裾へと縋り付き、狂ったように懇願するような視線を向けてきた。

咲夜という絶対的な恐怖に、彼女の精神の亀裂は完全に破綻しかけていた。

私は、自らの太ももに擦り付けられる彼女の涙と鼻水の生温かさを感じながらも、その細い手をあえて冷酷に振り払った。

「それが私たちの日常よ、スズナ。怯えたって、あの時計のネジ巻き人形は一秒も手加減してくれないわ」

私は彼女の細い肩を突き放すように言い、部屋の扉へと歩き出した。

「さあ、戻るわよ。まだ回廊に、あの子の残した『天才の痕跡』が残っているわ。あれを完璧に拭き取らなければ、夕方には私たちがオダマキの隣に並ぶことになる」

私たちは再び、あの血生臭い回廊の元の場所へと戻り、膝をついた。

バケツの冷水は、今や濁った赤黒い液体へと変貌している。そこに雑巾を浸し、何度も、何度も、大理石の床を擦り続ける。

爪の間に他人の血が入り込み、皮膚が凝固した血清で突っ張る生々しい感触。

私は床に映る、自分の顔を凝視していた。

オダマキは明日湧き直す。だが、今日流されたあの生々しい血の熱さは、私のこの皮膚が、確かに覚えている。

 

初夏の陽光は、時に人を狂わせる劇薬に似ている。

午前中、あの回廊の黒大理石にへばりついたオダマキの赤黒い鮮血を、爪の間に血清を詰まらせながら拭き取り、彼女のまだ生温かい肉塊を「使われていない客室」の白い埃除けの陰へと投げ込んできたばかりの私たちに、呼吸を整える時間など一秒たりとも与えられなかった。

咲夜の冷徹な采配によって、オダマキという「欠員」が出たままの状態で、私たちは息つく暇もなく次の使役の地である紅魔館の広大な前庭へと駆り出された。

私のエプロンは先ほど彼女の額の傷口を塞ぐために引きちぎってしまったため、今は腰元が酷く心許なく、剥き出しの黒い上着が直接、初夏の重苦しい熱を吸い込んでいる。

「……はぁ、最悪。どうしてあいつが死んだせいで、私たちがこんな鉄の塊を余計に引きずり回さなきゃいけないのかしらね」

ナズナが、泥と油に汚れた大きな剪定鋏の柄を、まるで呪わしい骨董品でも見るかのような目で睨みつけながら、諦念を滲ませて吐き捨てた。

オダマキを欠いた私たちのノルマは、単純計算で一人頭一.五倍に膨れ上がっている。手にした鋏を動かすたびに、午前中に死体を運んだ両腕の筋肉がみしりと軋み、あの肉肉しい骨の折れる感触が、終わりのない幻肢痛のように脳髄を苛んでいた。

「静かにしなさい、ナズナ。上を見なさいな。お漏らし吸血鬼の耳に届いたら、今度は本当に私たちの首が飛ぶわよ」

私は声を潜め、手にした鋏を生垣の硬い枝へと突き立てた。私は自らの視線を、前庭の正面に位置する高大なエントランスのテラス席へと向けた。

そこは、まさに「天上」だった。

豪奢な唐草模様が施された白鉄のテラス席には、大きな日傘の深い陰の中に、緋色のドレスを纏ったレミリア・スカーレットが、まるで世界の王座にでも腰掛けているかのような不遜な優雅さで鎮座していた。その向かいには、分厚い羊皮紙の魔導書を膝の上に何冊も積み上げ、蒼白い指先で気怠げにページの端を繰っているパチュリー・ノーレッジの姿がある。

風が、上空からふわりと、最高級のアッサム茶葉の甘やかな、しかしどこか発酵した果実のような香りをこちらへと運んできた。

それは、私たちが今しがた刈り取った、青臭い薔薇の茎の汁の匂いや、地を這う泥の悪臭、そして私たちの皮膚に染み付いたオダマキの鉄錆の臭いと醜く混ざり合い、強烈な階級の格差を象徴する、耐え難い不快な香気となって鼻腔を刺した。

上では、優雅で高貴な「貴族の世間話」が紡がれている。

下では、泥にまみれた「虫ケラたちの怨嗟」が蠢いている。

この広大な前庭は、その二つの世界が、薄い空気の層を隔てて対比する、巨大な円形劇場そのものだった。

「……ねえ、聞こえる? あの『薄のろ魔導書』、また新しい魔法の術式がどうとか、退屈な講釈を垂れてるわよ」

ナズナが、刈り取った薔薇の棘で自分の指先をわざと突っつき、新たな血の玉を膨らませながら冷笑した。

「自分の部屋に引きこもってばかりで、歩くこともままならないもやしっ子のくせに、偉そうに魔力の流れを語るなんて片腹痛いわ。あいつの頭の中の知識なんて、ぜんぶ黴の生えた古本の受け売りに過ぎないのよ。私たちの背中にこんな不気味な楔を打ち込むことしか能がない、ただのサディストの学者崩れよ」

「……し、静かにして、ナズナ……っ!」

スズナが、自分の小ぶりな鋏を両手で強く握りしめ、ガタガタと全身を震わせながら周囲を凝視した。彼女の額からは、午前中の咲夜への恐怖による冷たい脂汗が今もだらだらと流れ落ち、エプロンの胸元を汚している。

「もし……もし咲夜様がどこかの影から見ていたら、今度こそ、本当に私たちが次の『片付けの対象』にされちゃう……。オダマキは、オダマキはまだあの部屋の床で転がっているのに……どうしてあんたは、そんなに平気でいられるの……っ?」

「平気なわけないでしょう、スズナ」

私は冷淡に、しかし内に秘めた昏い炎を声に宿して言った。

「平気だから喋っているんじゃないわ。喋っていなければ、この冷たい床と泥のなかに、自分の自我が溶けて消えてしまうからよ。あいつらは私たちを人間だなんて思っていない。いつでも湧き直す、取り替えのきく『動く家具』だと思っている。だからこそ、私たちは口の中でだけでも、あいつらの肉を呪い、剥ぎ取らなきゃいけないのよ。あのお馬鹿なオダマキだって、口の中だけは自由だったからこそ、あのネジ巻き人形に一矢報いて死んだのよ。……まあ、本当に、ただ犬死にしただけの手の焼けるお馬鹿さんだったけれどね」

「おやおや、みんな、またそんな物騒な話をしているのかい?」

背後から、低く、しかし驚くほど温かみのある柔らかな声が響いた。

私たちが一斉に振り返ると、そこには、巨大な庭木用の大鋏を軽々と肩に担いだ、紅美鈴が立っていた。彼女の豊かな紅髪が、初夏の風に揺れて、陽光の中で鮮やかに踊っている。

美鈴の存在は、この冷徹極まる紅魔館において、唯一の「異物」だった。

十六夜咲夜のような凍りつくような殺意もなく、レミリアのような絶対的な理不尽もない。彼女は、私たちがどれだけ仕事をサボっていようが、どれだけ主たちの悪口を言っていようが、ただ苦笑いを浮か上げて「あまり咲夜さんに聞かれないようにね」と注意するだけだった。メイド妖精たちの間でも、美鈴に対する悪口というのは、不思議なほど存在しなかった。強いて言えば――。

「美鈴、あなたこそまた門のところで居眠りをしていたでしょう。あなたのそのだらしない警備のせいで、また白黒ドブネズミに庭の貴重な薔薇を盗まれたら、人数が減った私たちの管理責任を問われて、エプロンが何枚あっても足りなくなるわ。本当にちゃんとしてほしいものね」

私が冷然と言い放つと、美鈴は「うぐっ、面目ない……」と言って、大きな手を頭の後ろへと回して、本当に申し訳なさそうに眉を下げた。

「いやあ、本当に申し訳ない。どうしても春から初夏にかけての陽気というのは、睡魔が容赦なく襲ってきてね……。でも、次にあいつが来たら、絶対に私のこの『彩虹脚』で蹴り飛ばしてあげるから、勘弁しておくれよ。……それにしても、オダマキのやつ、またやらかしちゃったんだって? 咲夜さん、すごく大きなため息をついていたから、君たちも大変だったろう。無理はしないで、辛くなったら私の陰で少し休むといい」

美鈴はそう言って、私たちのバケツから雑巾を一枚取ると、自分の大きな手で軽々と、かつ精密に生垣の土台を拭き始めた。彼女の圧倒的な身体能力と気功の魔力があれば、庭園の手入れなど一瞬で終わるはずだった。だが、彼女はあえて私たちと同じ目線に立ち、泥にまみれながら、私たちの不器用な作業を優しく手伝ってくれているのだ。彼女は館の中で唯一、私たちの言葉を「虫ケラの羽音」ではなく「声」として聴いてくれる、ささやかな救いのような存在だった。

天上では、レミリアが最高級の紅茶を口に含み、その優雅な喉を鳴らしている。

底辺では、私たちが美鈴の優しさに束の間の救いを感じながら、泥の雑巾を絞っている。

「ねえ、パチェ。近頃の『文々。新聞』を見たかしら。あの天狗、また守矢の神社ばかりを大々的に取り上げて、私たちの館のことなんて、隅の方にほんの数行、名前が載っているだけ。このままじゃ幻想郷における紅魔館の存在感なんて、霧の湖の霧よりも薄くなってしまうわ」

上空のテラス席から風に乗って降ってきたのは、高貴なる者の、しかし酷く世俗的で切実な愚痴だった。レミリアの声は涼やかに澄んでいるが、日傘の深い陰の中で、彼女は薄紅色の磁器のカップを傾けながら、その緋色の瞳に、館の主としての生々しい焦燥を滲ませていた。

その天上の会話が微かに耳に届いた瞬間、私とナズナ、そしてスズナは、生垣の葉を刈り取る鋏の音を僅かに落とした。私たちの耳殻は、風の音の隙間から主たちの言葉の破片を貪り食うための窃聴器と化している。

今日の主たちの「機嫌の良し悪し」を測ることは、私たちの肉体が今日中にバラバラにされるか否かを決める、絶対的な死活問題だったからだ。

「あの『お漏らし赤ん坊』、また高尚なものについて悩んでいるふりをしてるわよ」

ナズナが、泥にまみれた手で箒の柄を握り直し、冷笑を浮かべて私に耳打ちした。

「新聞に載る載らないだなんて、私たちにしてみれば、厨房の火を起こすときに咲夜様から『これでも燃やしなさい』って投げ渡される、ただの薄汚い紙切れの束でしかないのにね。文字が読めたところで、一階の床が綺麗になるわけでもないのにさ」

「本当よ」

スズナが、自分の小ぶりな鋏の刃をパチンと鳴らし、ナズナの言葉を引き取るようにクスリと笑った。

目の前にあの冷徹なネジ巻き人形がいないこの庭園の青空の下では、彼女もいつもの調子を取り戻し、一端の口を利くのだ。

「あの女、いつも格好いいことを言って世界の王様みたいに振る舞っているけれど、本当は先週お気に入りのテディベアの耳が取れたとき、部屋の隅で一日中声を殺して泣いていたらしいわよ。厨房の妖精たちが『お嬢様のご機嫌が直るまでおやつは運べない』って怯えていたもの。存在感がどうとか言う前に、自分のぬいぐるみの心配でもしていればいいのよ」

「手厳しいわね、スズナ。でも、文字なんてあんな芋虫の這った跡みたいなもの、読めない方が余計な現実を知らなくて済むだけ幸せかもしれないわよ」

私は冷淡にツッコミを入れながら、刈り取った薔薇の枝をバケツへと放り込んだ。

「聞いているわよ、レミィ」

対面に座るパチュリーが、膝の上の巨大な魔導書から目を離さないまま、冷淡に、しかしその青白い額に深い疲労の皺を刻んで紅茶を啜った。

「でも、そんな名誉だけの心配よりも、私にはもっと現実的な頭痛の種があるわ。今月の、大図書館の魔術触媒と禁書の購入費用の請求書を見たかしら? 人間の里の貸本屋を経由して買い付けたけれど、外の世界の物価の上昇のあおりを受けて、先月の倍以上の見積もりが届いているの。これ以上、館の財政が傾けば、私の喘息の薬の調合用ハーブさえ、来月からはランクを落とさざるを得なくなるわ。レミィ、あなたも少しは、あの無駄に豪華な夜会の頻度を減らすとか、そういう現実的なやり繰りを考えてちょうだい」

パチュリーの、深く、呪わしい溜息が風を湿らせる。

魔宮の主たちとて、その内実には、この巨大な館を維持するための、血の滲むような「財政難の苦労」があるのだ。彼女たちは悪人ではない。ただ、今月の維持費をどう工面するかという圧倒的な現実の前に、私たちのささやかな命の重みなど、最初から計算式のなかに含まれていないだけなのだ。

「……ふん、お金が足りなくて可哀想だなんて、どの口が言うのかしら」

ナズナが、生垣の奥の暗がりに向かって、溜まった唾を吐き捨てた。

「あのもやし魔導書、私たちが毎朝、どれだけ眠くても冷水で顔を洗って、一日中館の中をこれでもかって這い回っているか、想像したこともないのよ。あいつらの言う『財政難の苦労』なんて、私たちが午前中にオダマキの脳漿を拭き取ったときの、あの指先の生々しい感触の百分の一の重みもないわ。薬のハーブなんて、そこらの草でも齧ってればいいのよ」

「みんな、その辺にしておきなよ。お嬢様たちの耳に入ったら、私でも庇いきれなくなっちゃうからね」

私たちのすぐ横で、黙々と大鋏を動かしていた紅美鈴が、困ったような、どこか悲しげな苦笑いを浮かべて声をかけてきた。

「お嬢様たちも、悪気があってあんなことを言っているわけじゃないんだ。ただ……この巨大な紅魔館を維持するために、厳しい中やり繰りで毎日頭を抱えているんだよ。だから、ちゃんとお仕事をして、咲夜さんに叱られないようにね」

美鈴はそう言うと、私の頭をその大きな、硬い手のひらでぽんぽんと優しく叩いた。

私たちがどれだけ主たちの悪口を言っていようが、それを咲夜に密告することもなく、ひとつの『命』として扱ってくれている。

「そう言うけど、美鈴さんだって不満はあるんじゃないの〜?」

スズナが、すかさず美鈴の腰元を剪定鋏の柄でツンツンと小突いた。

美鈴の苦笑いに、私たちはほんの少しだけ、この理不尽な館の空気の中で息を吹き返すことができた。

だが、テラス席の上の「天上」の会話は、私たちのそんなささやかな安息すらも、じわじわと侵食し始めていた。

レミリアが、パチュリーの零した「財政難」や「魔術触媒のコスト」という言葉から、ふと、館の維持費を削減するための「別のシステム」へと、純粋な知的好奇心の視線を向けたのだ。

「財政のやり繰り、ねえ……。そういえば、パチェ。あなたがこの館全体に張り巡らせた、あのメイド妖精たちを逃がさないための『術式』――敷地の境界線を越えたら羽が弾けるという、あの仕掛けにかかる魔力の維持コストは、削ることはできないかしら?そもそも、あれ本当に機能しているの? 実は魔力を無駄に消費しているだけじゃないの?」

レミリアの、その何気ない、しかし館の経営を検証しようとする主ゆえの一言が、前庭の空気を一瞬にして凍りつかせた。

私の手の中で、剪定鋏が冷たく、そして不吉に鳴った。

上空の吸血鬼の視線が、ゆっくりとテラスの端から這い下りて、庭園の泥にまみれる私たちの背中――その羽の根元にある「魔法の楔」へと、鋭く突き刺さろうとしていた。

「失礼ね、レミリア。私の編み上げた術式に一ミリの無駄も、不発の狂いもありはしないわ。あの張り巡らされた結界と、彼女たちの背中の楔は、外の世界のいかなる合理主義に晒されようとも、完全に機能し続けている。証明が必要かしら?」

パチュリーの、冷淡でありながらも自らの魔術に対する絶対的な矜持を込めた声が、重苦しい初夏の空気を劈いてテラス席から降ってきた。

その瞬間、前庭のすべてが、まるで奇妙な真空地帯に閉じ込められたかのように静まり返った。

私たちが手にする剪定鋏の鉄肌が、陽光を反射して不吉な白光を放つ。心臓を直接握り潰されるような緊迫感が、私の五感を容赦なく支配し始めていた。

「ええ、証明してちょうだい。百の講釈を聞くよりも、一度その目で見る方が、今月の予算案に印を捺すための良い材料になるわ」

レミリアの、鈴の鳴るような、しかし一切の慈悲を排した声。

彼女の緋色の瞳が、ゆっくりとテラスの白鉄の欄干から、前庭の泥にまみれる私たちの背中へと、まるで品評会の家畜を選ぶかのような冷徹さで這い下りてくる。

そして――その視線が、正確に、私の歪んだ瞳と真っ向からぶつかり合った。

全身の毛穴という毛穴が、一瞬にして凍りつく。

吸血鬼の持つ、圧倒的な「個」の質量。逆らうという選択肢そのものを脳の神経細胞から消去してしまうほどの強烈な威圧感が、目に見えない巨大な杭となって私の身体を大理石の地面へと縫い付けた。

「そこの、エプロンをつけていないあなた。ちょっとその黒鉄の門の外まで、走って出てみてくれないかしら?」

レミリアが、長い爪の先で、優雅に私の頭上を指差した。

その言葉には、一切の悪意も、怒りも、残虐な愉悦すらも含まれていない。ただ、今朝の紅茶の温度を確かめるために指先を浸すような、あまりにも平然とした、生々しい「実験」の要求だった。

「……ッ、」

私の隣で、スズナが息を呑み、手にした鋏を泥の中に落とした。カランという高い鉄の音が、異様に大きく回廊に響く。ナズナの顔からも、道化の笑みが完全に剥ぎ取られ、死人のような蒼白さがその皮膚を覆っていた。

私たちのすぐ横にいた美鈴すらも、その豊かな紅髪を強張らせ、悲痛な、しかし主の絶対的な命令には一歩も立ち入ることのできない、持たざる者ゆえの無力な絶面を浮かべて私を見つめることしかできなかった。

断る権利など、最初からこの館のどこにも存在しない。

もしこの場で「嫌です」と首を振れば、次の瞬間には背後の影から十六夜咲夜の銀の刃が私の喉笛を正確に割るだろう。それは、午前中に部屋に投げ込んできたオダマキの肉塊と、同じ運命を今ここで辿ることを意味していた。

「……はい、お嬢様」

私は、自分の声が驚くほど乾ききっていることに気づいた。

手にした重い剪定鋏を、まるで自らの命の残滓を捨てるように、スズナの足元へと静かに押し付けた。

スズナは何も言わず、ただ涙の溜まった両目で私を見上げ、小刻みに顎を震わせている。

私は、ゆっくりと歩き出した。

一歩、また一歩。泥を踏みしめる素足の感覚が、異常なほど鮮明に脳髄へと伝わってくる。

目指すのは、紅魔館の敷地を外の世界から隔てる、あの巨大な黒鉄の格子門だ。

門の向こうには、霧の湖の青白い水面が広がり、その先には人間の里へと続く、どこまでも自由で、どこまでも不自由な一本道が伸びている。

奈落の底で最悪の劇薬を煽るような、狂おしい破滅的独白が私の胸の内を激しく叩き始めた。

本当に弾けるというのか。本当に、パチュリーの魔術は完璧なのか。外の世界の『合理的思考』がこの郷を侵食しているというのなら、あの傲慢な魔導書の計算にだって、ごく僅かな、コンマ数パーセントのバグや計算ミスが生まれているはずではないか。もし、発動しなかったら? もし、このままあの門を潜り抜け、あの道へ飛び出してしまえば、私はこの終わりのない輪廻の監獄から、今この瞬間に、永遠に抜け出せるのではないか。

愚かしくも美しい、希望的観測という名の劇薬が、私の血管の中を沸騰させていく。

心臓の鼓動が、頭蓋骨の裏側で爆音となって鳴り響く。

黒鉄の門が、目の前に迫る。

私は息を深く吸い込み、ぬかるんだ土を思い切り蹴った。

一歩。私の足の裏が、紅魔館の敷地外の、あの境界線の外側の土を確実に踏みしめた。

「……生きてる」

発動しない。背中には、まだ不快な感覚があるものの、肉体は損壊していない。

逃げれる!

確信が、私の脳内で弾けた。私は自らの背中にある一対の半透明な羽を、外の世界の、どこまでも高い青空へ向かって、狂ったように、力の限り羽ばたかせた。

身体が宙に浮き、館の煉瓦の壁が、美鈴の紅い髪が、急速に遠ざかっていく。掴みかけた自由。外の世界の風が、私の頬を優しく撫でた、まさにその刹那だった。

——熱い。

脳が痛みを感知するよりも早く、背中のスリットの奥、私の肉体の中心核が、太陽の黒点を直接埋め込まれたかのような、凄絶な熱量で燃え上がった。

次の瞬間、私の耳殻を、そして世界のすべてを圧殺するような、おぞましい音が響き渡った。

それは、私自身の背骨と、一対の羽の根元にあるすべての骨組織が、内側から凄まじい魔力の暴発によって完全に粉砕される、生々しい破壊の響きだった。

羽が、根元から音もなく、しかし圧倒的な肉の爆辞を伴って爆散したのだ。

爆発の衝撃波と、背中に打ち込まれた見えない鎖が私の肉体を捉え、大空を掴みかけていた私の身体を、凄まじい重力とともに、地面へと強烈に引き戻した。

「あ、――」

声にならなかった。視界が上下に激しく回転し、天地の境界線が失われる。

重力に逆らう術を奪われた私は、そのまま、薔薇の棘がひしめく泥の上へと、ただの重い肉の塊として激しく叩きつけられた。

グシャリ、という、熟しきった柘榴が床に落ちて割れるような生々しい音が、私の内部から響いた。

全身の骨が粉々に砕け、指先一ミリすら動かすことができない。

だが、本当の地獄は、地面に激突したその後に始まった。

呼吸をしようと、本能的に肺を大きく広げて空気を吸い込んだ。

しかし、その空気の代わりに気管へと雪崩れ込んできたのは、破裂した肺胞と、千切れかけた内臓から溢れ出た、大量の、生温かい、どす黒い血汐だった。

「ゴボッ、……ゴボ、ゴボゴボッ!」

酸素を求めれば求めるほど、溢れる血が気管を逆流し、強烈にむせ返る。

激しく咳き込むたびに、唇から、鼻から、ドス黒い凝血の破片の混じった血反吐が、地面へと絶え間なく吐き出されていく。

吸い込んだ空気が血の泡となり、肺の中でじゅぶじゅぶと不快な音を立てて鳴る。

己の喉の奥が鉄の味で満たされ、呼吸が苦しくなるような、圧倒的な五感の暴力。

泥にまみれた私の視界は、自らの眼球の裏に溢れ出た血の海によって、急速に、禍々しい緋色へと染め上げられていった。

体温が、じわり、じわりと、指先の末端から剥がれ落ちるように奪われていく。

意識の輪郭が、冷たい泥の中に溶けて消えかけていく。

私は、ただ一人、その血溜まりの中で孤独に弱り、死んでいくしかなかった。

美鈴がどのような悲痛な顔で私を見下ろしているのか、ナズナやスズナがどんな悲鳴を上げているのか、もう私の破壊された鼓膜には、何一つきこえはしなかった。

ただ、その薄れゆく、奈落の底へと沈み込んでいく意識の奥底で。

遙か上空の、あの届かないテラス席から、優雅にアッサム茶のカップを置く、磁器の触れ合うカチリという音が、驚くほど鮮明に響いてきた。

そして、私の耳元で直接囁かれているかのような、残酷で、あまりにも明瞭な幻覚が、私の脳髄を嘲笑うように駆け巡った。

「あら、パチェ。本当に弾けたわね。今月の予算、維持費は削らなくて正解のようだわ。とても面白い、良い証明を見せてもらったわ」

鈴の鳴るような、レミリアの満足げな笑い声。

「当然でしょう。私の魔術に、予算を削るほどの狂いなど最初からありはしないのよ」

冷淡に、当然の帰結として応じるパチュリーの声。

主たちにとって、私のこの凄絶な死も、肉体の爆散も、ただの「今月の予算案を検証するための、片手間の実験」に過ぎなかったのだという、究極の、そして冷徹極まる理不尽。

その圧倒的な絶望と怨嗟のなかで、私の視界は完全に漆黒へと暗転し、意識は深い死の泥へと沈み込んでいった。

私はハッと、息を吸い込んだ。

「ごほっ!げほっ!!——え、?」

喉の奥に残る、あの強烈な鉄の味と、肺が血で溺れるような凄絶な灼熱感。私は狂ったように自分の胸元を掻きむしり、激しく咳き込んだ。

しかし、手のひらに触れるのは、血でも泥でもなく、幾度もの洗濯で糊を失い、死人の皮膚のように硬くこわばった、ただの木綿の布切れシーツだった。

薄暗い、冷え切った湿気の漂う宿舎。

均一に並ぶ四個の二段ベッド。

目覚まし時計の無機質な針の音が、頭蓋の奥でチクタクと響いている。

「……湧き直した」

私は生きている。

私の背中には、まだ一対の羽が、何事もなかったかのように生えている。

だが、あの骨の砕ける音も、血反吐を吐いた生々しい痛みも、私の皮膚の裏側には確実に刻まれていた。

ふと見渡せば、向かいのベッドにはスズナが、そして隣のベッドにはナズナが、さらに昨日の朝、確かに咲夜のナイフで頭を抜かれたはずのオダマキまでもが、何事もなかったかのように微睡んでいる。

私の一度目の死によって、世界は再び、この「狭い寝室の朝」へと巻き戻されたのだ。

しかし、日常の歯車は、私たちの罪を、規則違反を、決して見逃してはくれなかった。

その日の夕方。

いつも通りの無機質な回廊磨きを終え、大広間に集められた私たちの前に、十六夜咲夜が再び現れた。彼女の灰色の瞳は、昨日よりもさらに、凍りつくような冷徹さを湛えて、私たち四人を凝視していた。

「昨日、敷地境界線における術式の強制発動を検知したわ。あなたたちが何を目論み、どのような規則違反を犯したのか、私には興味がないけれど」

咲夜は懐中時計の竜頭を冷たく弾き、私たち四人を指差した。

「連帯責任よ。あなたたち四人は、これから二週間、地下への配属を命じます。大図書館の重労働、食料庫の整理、そして――地下二層のフラン様への食事運びを、強制的にこなしてもらうわ。一秒の遅れも、一度のミスも、次からは許されないと思いなさい」

二週間。地下送り。

その冷徹な宣告を聞いた瞬間、スズナの顔から完全に血の気が引き、彼女は床へと崩れ落ちた。ナズナの瞳からも、完全に光が消え失せていた。

 

冷え切った石の階段を下りるたび、背後で地上の光が一段ずつ死んでいくようだった。

私たち四人の前を歩く十六夜咲夜の背中は、いつも通り一ミリの無駄もなく、糊のきいたエプロンの白さだけが、地下の淀んだ暗がりに不気味に浮かび上がっている。彼女の懐中時計が刻むチクタクという無機質な秒針の音だけが、湿った地下の壁に反響し、私たちの葬列の鐘のように響いていた。

辿り着いた大図書館の入り口には、パチュリーの忠実な僕である小悪魔が、所在なさげに佇んでいた。

神経を摩耗しきった都会の知識人の如く、彼女の琥珀色の瞳には、隠しようのない濃い「疲労の澱」が沈んでいた。

「咲夜さん、今月分の魔導書の配置変更リスト、もう確認してくれた?パチュリー様がまた、真夜中に『本の夜鳴きがうるさくて頭が割れそうよ』って、お薬の調合を放り出して寝込んでしまわれたの。私、もう三日もまともに目を閉じていないわ」

小悪魔は、咲夜の姿を見るや否や、いつもの賑やかな調子を装いながらも、縋るような声を漏らした。その言葉の端々からは、大図書館という「知の監獄」をたった一人で維持管理することの、血の吐くような苦労が生々しく滲み出ている。

「ええ、確認したわ。でも、厨房の予算の帳簿の辻褄合わせも、お嬢様のお召し物の新調も、すべて私の両手に委ねられているの。ため息をつきたいのは私の方よ。これ以上、あの魔導書たちの我が儘に付き合わされたら、私のネジが本当に巻き切れてしまうわ」

咲夜は深く、重いため息をつきながら、右手で自らの眉間を強く揉みほぐした。

完璧な従者と、忠実な僕。表舞台では一糸乱れぬ鉄の秩序を体現している強者たち。しかし、こうして地下の薄暗がりに並ぶ二人の横顔には、巨大な紅魔館という怪物を維持するためだけに、自らの生の全てを削り取られている者特有の、痛々しいほどの疲弊が刻まれていた。彼女たちもまた、立場こそ違えど、この館の「高貴なる歯車」に過ぎないのだ。

「それで……その後ろにいるのが、例の『規則違反』を起こした出来損ないたちね?」

小悪魔の冷淡な視線が、私たち四人の全身を舐めるように走った。

咲夜は、私たちを一瞥することすらなく、ただ事務的に言葉を投げ渡す。

「ええ。今日から二週間、この子たちを好きに使い潰しなさい。特に、大図書館の重労働には丁度いい生贄でしょう」

「助かるわ。ちょうど、人手が足りなくて困っていたの」

咲夜はそれだけ言い残すと、時間を止める能力を使うことすら億劫であるかのように、ただ静かに、冷徹な足取りで上の階へと戻っていった。彼女の気配が完全に消えた後、小悪魔は「さあ、ついてきて」と、冷え切った声で私たちを館のさらに奥へと案内し始めた。

案内された場所は、大図書館の最奥の回廊にひっそりと隠された、地下に配属されている妖精たちのための共有の寝室だった。

部屋の扉を開けた瞬間、私の胸の内に閉塞的な自嘲が湧き上がってきた。

部屋の作りは、上の階にあるあの宿舎と、驚くほど何も変わっていなかった。

均一に並ぶ四個の無骨な二段ベッド、歪んだ小さな箪笥、水銀の剥げかけた共有の鏡。まるで、上の部屋をそのまま切り取って、地下の泥の中に埋め込んだかのようだった。

唯一の決定的な違いは、ここには外の世界を微かに覗かせる「窓」が、一枠たりとも存在しないことだった。

あるのは、天井の隅に、まるで不気味な黒い口を開けているかのような、細い換気用のダクトだけ。

そこからゴー、ゴーと、館の肺腑が呼吸するような無機質な金属音が絶え間なく響き、この部屋が「地底の檻」であることを、一秒ごとに私たちに突きつけてくる。

「今日のところは、大図書館の本の整理の仕事はないわ。でも、遊ばせておくわけにはいかないからね。……ちょうどその寝室の真向かいにある扉、それが地下一層の『物置部屋』へと通じる道よ。そこへ行って、予備の蝋燭を数十本、大図書館まで持ってきなさい」

小悪魔はそれだけ言い捨てると、予備の蝋燭を投げ入れるための粗い麻布が敷かれた頑丈な木製の木箱を私たちの足元へとドンと放り投げて、巨大な本棚の迷路の向こうへと消えていった。

「……はぁ、最悪。これから二週間、毎日この巨大な図書館と物置を、重い箱を持って何往復もさせられるわけね。考えただけで、自分の足の骨がまたミシって鳴りそうだわ」

ナズナが、誰もいない廊下に向かって、深く、忌々しそうに溜息を吐き出した。

しかし、その横で、いつもなら一番に咲夜の名前に怯え、ガタガタと指先を震わせていたはずのスズナが、不思議なほどケロリとした顔で「まあ、上の階でいつナイフが飛んでくるか分からないよりは、暗いだけの地下の方がマシかもしれない」と、いつもの調子で軽口を叩いたのだ。

一度に、オダマキと私の死という最悪の不条理を目の当たりにし、地下へと移動させられたことで、彼女の中で何かが完全に吹っ切れてしまったのだろう。

ひんやりとした、しかしどこか生温かい地下の空気が、私たちのむき出しの首筋を撫でていく。

「ねえ、スズナ」

ナズナが歩調を合わせてスズナの顔を覗き込んだ。

「あんた、さっきから随分と余裕じゃない。上の階にいた時は、咲夜様の足音がしただけで、まるで自分の首が既に切り落とされたみたいに顔を真っ青にして怯えていたくせに。……今更だけどさ、あんたどうして、あのネジ巻き人形のことをそこまで異常に怖がっているの?」

ナズナの何気ない問いに、スズナの歩みが、ぴたりと止まった。

地下の薄暗がりのなか、彼女の横顔が妙に白く、そして不気味に強張っていく。

「……ナズナ、あんたはあいつの真の怖さを知らないのよ」

スズナの声から、さっきまでの軽快さが一瞬にして消え失せ、湿った地脈の底から響くような、生々しい暗さが混じり始めた。

「私がここへ湧き直して、まだ三日目くらいのことだったわ。仕事のやり方が分からなくて、ミスって花瓶を破ったり絨毯を汚したりしてよく怒られてたわ。でもお嬢様に朝の紅茶を運んでた時に緊張して足が絡まった時にお嬢様とあの高価なペルシャ絨毯の上にかけちゃったのよ」

スズナは自らの記憶の最も生々しい傷口を、指先で抉るように語り始めた。

「その瞬間、世界が、完全に止まったの。音も、風も、空気の震えも、ぜんぶ消えて、目の前にいた咲夜様が、フッと消えた。……ううん、消えたんじゃなかったわ。次の瞬間には、私は別の所にいてすぐ真横に、あの冷たい灰色の瞳が迫っていたの。あの女、何も言わずに、私の両目を、その手に持った冷たい銀のピンセットで、容赦なく、生きたまま抉り出したのよ」

「……うわー、生々しい」

ナズナが息を呑む音が、暗い廊下に小さく響いた。

スズナの独白は、自らの眼球の裏側を針で突突かれるような、凄絶なディテールを伴って加速していく。

「痛い、なんて言葉じゃ足りないわ。視界が真っ黒に染まる感覚と、自分の眼窩の奥の神経が、めきめきって引きちぎられる音が、頭蓋骨の中で爆音みたいに響いた。私が叫ぶこともできずに、自分の血の海の中でのたうち回って、多分その時に机にあったインクをこぼしたのに、あの女はただ、上から冷たく見下ろしながら言ったの。『度重なる不手際だけに留まらず、その汚い両目は、お嬢様の御召し物を汚す不敬すら認識できないようね。そんな出来損ないの肉体なら、最初から必要ないわ』って。……私は、自分の両目から溢れる血とインクが混ざったドロドロの液体を、目が見えないまま、床に這いつくばって、死ぬまで舐め取らされたのよ。日付が変わって、目が元通りに湧き直した後も……あのピンセットが眼球の裏に触れた瞬間の、あの凍りつくような鉄の冷たさだけが、今も、この目の奥から消えないの」

スズナは、自分の両目を隠すように、血の気の失せた両手で顔を覆った。

それは、あまりにもグロテスクで、生々しい、持たざる者ゆえの不条理の極みだった。

ナズナも、その想像を絶する恐怖の理由を知り、今更ながらに咲夜という存在の底知れぬ狂気に背筋を凍らせていた。

スズナが怯えていたのは、単なる臆病からではなかった。彼女は、正しかったのだ。

その、凍りついた静寂を破ったのは、私たちの後ろを、木箱を持って歩いていたオダマキだった。

「なんだ、そんなことだったの」

オダマキは、平然とした顔で右手でスズナの細い背中を、その小さな手のひらで、パシッ、と小気味いい音を立てて叩いた。

「そんなの、あのパット長がただの弱虫だからに決まっているじゃない。スズナ」

「……え?」

スズナが、涙で潤んだ目を大きく見開いて、オダマキを振り返った。

「あの女はね、私たちのことが怖くて怖くてたまらないのよ。だって、私たちは何回目を抉り出されようが、何回頭をナイフで抜かれようが、翌朝には何事もなかったみたいに綺麗な顔で湧き直して、またこうしてあいつの悪口を言って笑い合えるでしょう? でも、あのパット長は、ただの『人間』だもの。一回死んだらそれっきり。一回年老いたら、二度と若返ることもできない、ただの干からびたゴミになるのよ。だからあいつは、自分にはない『永遠』を持っている私たちが、羨ましくて、妬ましくて、怖くてたまらないから、あんな意地悪な方法でしか、自分の強さを確かめられないの。あいつのピンセットなんて、ただの弱虫の八つ当たりよ。そんなものに、私たちの綺麗な目が負けるわけないじゃない」

オダマキはそう言って、自らの綺麗な、濁りのない瞳を爛々と輝かせ、スズナに向かってにっと笑ってみせた。

オダマキのその少しお馬鹿で、しかし絶対的な真理を含んだ言葉は、スズナの胸の奥底に張り付いていた暗い呪縛を、一瞬にして綺麗に吹き飛ばしていった。

「……ふふ、何よそれ。あんた、本当にお馬鹿さんのくせに、たまにそういう生意気なことを言うんだから」

スズナの唇に、ようやく本物の、生きた少女の笑みが戻った。彼女の両肩の震えは止まり、その瞳からは、咲夜に対するあの異常なまでの怯えが、微かに、しかし確実に消え去っていた。

「さあ、早く行きましょう。あのもやし魔導書の部屋を明るくするための蝋燭なんて、一本残らず泥まみれにして運んでやるわ」

スズナは自分の手を強く握り、今度こそ軽快な足取りで、地下の深い闇の先にある物置部屋へと歩き出した。

私たち四人の小さな足音が、光の届かない回廊に、不思議なほど力強く、チクタクという時計の音を掻き消すように響き渡っていた。

 

暗闇の中を、私たちはただ牛のように鈍く、遅い歩調で進んでいた。

大図書館のあの「知の監獄」を出て、地下一層の物置部屋へと至る道程は、時間にして片道五分ほどもかかったのだろうか。

夜の間に私たちの背中を保護するため、そしてあの「呪縛」を宿し続けるために課せられた、あの剥き出しの上半身の不快な冷えが、地下の湿った空気と混ざり合って、じわじわと肋骨の奥へと染み込んでくる。

もし、私たちに許されたあの半透明な羽を羽ばたかせ、地下の回廊を滑るように飛び抜けることができたなら、こんな距離は数十秒とかからずに踏破できたはずだった。

しかし、大図書館の全域に張り巡らされた小悪魔の幾何学的な検知結界は、僅かな「羽ばたきの風」をも侵入者の兆候として捉えてしまう。私たちは、その羽をただの重い飾りのように背中に折り畳み、重い木製の浅箱の取っ手を二人連れで持ち上げながら、一歩一歩、素足で冷たい石床を這うように歩くしかなかった。

「……長いわね。地上の廊下なら、とっくに端から端まで往復できているわ」

ナズナが、木箱の端を握る手の指先を白く強張らせながら、滲ませて呟いた。

突き当たりに見えた重い鉄の扉。その錆びついた真鍮のドアノブを私が静かに押し回すと、ギィ、と、地底の怪物が悲鳴を上げるような嫌な音が反響した。扉の向こうに広がっていたのは、短い、どこまでも真っ直ぐに伸びた無機質な通路だった。

壁の松明の炎が、私たちの排出した息に揺れて、歪な影を前方の壁へと投げかける。その狭い産道のような通路を通り抜けた先で、私たちはようやく、地下一層の広大な物置部屋へと足を踏み入れた。

薄暗く、ひんやりとした、そしてどこか生温かい腐肉の臭いが漂う空間。

初めてこの場所に足を踏み入れた者なら、誰しもが「ここは生者の立ち入る場所ではない」と背筋を凍らせ、不気味さに身を震わせるに違いない、そんな陰惨な静寂が四方を支配していた。

だが、紅魔館という巨大な怪物に仕える私たちにとって、ここは決して見知らぬ異郷ではなかった。壊れた予備の家具、古びた銀食器、大量の蝋燭の束。それらを運ぶために、ここで働くメイド妖精の多くは、その永劫の労働の歴史の中で一度は訪れる、見慣れた、しかし呪わしい「職場の底」に過ぎなかった。

「あっちね。予備の蝋燭が積まれているのは、確か三番目の保管庫だったわ」

スズナが、さっきオダマキの言葉によって咲夜への根深い恐怖から解放されたおかげか、本物の生きた少女の足取りで先頭を歩き始めた。彼女の背中の羽が、地下の微かな風を吸って楽しげにピクリと震える。その愛おしい日常の光景を後ろから見つめながら、私は木箱の重みを両腕に感じていた。

その時だった。

「――ぁ、ああああああああっ!」

遙か遠方、地下二層へと続く、あの湿った暗黒の深淵の奥から、短い、しかし喉を掻きむしるような凄絶な「叫び声」が、回廊の壁を伝って響いてきた。

それは、明らかに私たちと同じメイド妖精の、死の直前の悲鳴だった。

間髪入れず、パンッ、という、何かが風船のように、あるいは肉の塊が内側から綺麗に弾け飛んだような、生々しい破裂音が不気味に響き渡り、そのまま元の静寂へと収束していった。

私とナズナ、そしてスズナは、その音を聞いた瞬間、驚くこともなく、ただ顔を見合わせてクスリと歪んだ笑みを浮かべた。

「あらあら、今日の『悪魔の燃えカス』は、随分とお退屈されているようね。あるいは、お漏らし吸血鬼と喧嘩した腹いせか」

ナズナが、手にした木箱をわざとカタカタと鳴らしながら、他人の死をただの世間話のネタとして冷笑した。

「きっと、おもちゃ代わりに『きゅっ』と握り潰されちゃったのよ。湧き直すまでの間、あの部屋の白い壁がまた赤く染まってるわね」

「本当に、あの方の気まぐれに付き合わされる妖精の身にもなってほしいわよね」

スズナも、かつての怯えを忘れたかのように、ナズナの言葉に生々しいツッコミを入れて笑った。

妖精の命は安い。昨日オダマキが頭を抜かれ、さっき誰かが地下二層で弾け飛んだ。だが、明日になればまた何事もなかったかのように湧き直す。その狂った不条理に麻痺しきっている私たちは、遠くで響いた死の音すらも、退屈な重労働を紛らわせるための「ただのお茶請け」にしてしまうのだった。

私たちは目的の保管庫へと入り、木製の重い扉を閉めた。

中には、埃除けの荒い麻布が被せられた木箱や予備の家具が、乱雑に、まるで死体の山のように積み上げられていた。

私は部屋の奥にある、一段と大きな木箱の前へと歩み寄った。

木箱の表面には、パチュリーの部屋の使い魔たちが書いたと思われる、いくつかの「文字」が墨で書き殴られていた。

『――調合用触媒・防腐術式封入・寒冷期用白蝋燭――』

「……ん、これか?」

木箱に刻まれたその複雑な文字列を見つめた瞬間、私の思考の歯車がギチリと嫌な音を立てて止まった。

読めない。

ただの日常の愚痴や、簡単な数字のやり取りなら理解できる。しかし、パチュリーの大図書館が管理するこの地下の物資に刻まれた、専門的な魔術用語や、難解な固有名詞の羅列は、私の持つ矮小な知恵の壁を容易く打ち砕いて、ただの「不気味な呪いの文様」として私の目を眩ませるのだった。

文字そのものが生き物のようにのたうち回り、私という消耗品の無知を嘲笑っているかのようだった。

激しい自己嫌悪と、己の無力さに対する破滅的独白が胸の内を駆け巡る。

「どうしたの、突っ立って。早く蝋燭を詰めないと、小悪魔に『サボっていたのね』ってまた難癖をつけられるわよ」

ナズナの声に、私はハッと現実に引き戻された。

私は自らの醜い焦燥を隠すように、冷淡に首を振ると、その大きめの木箱の蓋を両手で力任せに引き開けた。

中には、脂の匂いを放つ、白く冷たい予備の蝋燭が、何百本も整然と並んでいる。

「これね。……余計な文句を言われたくないから、私たちが持ってきたこの箱に、入る分だけ完璧に詰め込んでしまいましょう」

私はそう言うと、白く固い蝋燭を、数本ずつ掴んで、私たちが運んできた麻布の敷かれた浅箱へと移し替えていった。

スズナとナズナも、私の手元を手伝いながら、蝋燭が擦れ合うカチ、カチという硬質な音を、暗い部屋の中に響かせる。

箱の隙間が、白い蝋燭の束で、狂いなく、完璧に埋まっていく。

持ってきた木箱が、ずっしりとした「蝋燭の重量」を伴って、私たちの両腕へとその冷たい現実を伝えてきた。

これを持って、またあの片道五分の、光の届かない回廊を大図書館へと往復しなければならない。

私たちは、誰からともなく深く、そして重いため息を吐き出しながら、蝋燭の詰まった重い箱を持ち上げ、その静まり返った保管庫を後にするのだった。

 

背負った木箱の重みは、冷え切った両腕の骨をじわじわと軋ませていた。

一段ずつ、確実に地下一層の床を踏みしめながら、私たちは大図書館へと引き返していた。白く固い蝋燭が隙間なく詰め込まれた浅箱は、ただ無骨にその重量を私たちの肉体へと預けてくる。かつて地上の前庭で、あの青空へ向かって羽ばたこうとした瞬間の、背中が沸騰するような爆散の激痛――その生々しい記憶が、今も皮膚の裏側で冷たい針のように燻っていた。

もしあの時と同じように、この半透明な羽をほんの数回羽ばたかせることが許されるなら、地底の迷宮など一息に通り抜けられたはずだった。しかし、大図書館の全域を覆う幾何学的な検知結界の存在を思えば、私たちはその自由を自ら縛り、ただの重い飾りのように翼を背中に折り畳んで、牛のように鈍い歩調を保つしかなかった。

「……それにしても、今日はかなり短めの悲鳴だったね」

ナズナが、木箱の角を握る指先を白く強張らせながら、低く湿った声で呟いた。

先ほど地下二層の深淵から響いてきた、あの短い悲鳴と、何かが内側から綺麗に弾け飛んだような生々しい破裂音。その余韻は、今や広大な物置部屋の冷気の中に完全に溶けて消え失せていた。

「きっと、今日のご飯を運んだ誰かが、トレイの置き方一つ間違えたのよ。あの方のお部屋に入る時は、息をする回数すら計算しなきゃいけないんだから。…ねえ、明日は私たちの誰かがあそこへ行くことになるのかしら」

スズナが、木箱の取っ手を握り直し、少しだけ身を縮めながら言った。

「誰が行くことになっても同じよ。私たちはただ、命じられた通りに動き、命じられた通りに死んで、また翌朝には湧き直すだけ」

私は冷淡に言葉を返し、前方の暗がりを見つめた。

私の脳裏には、先ほど保管庫の木箱で見つめた『調合用触媒・防腐術式封入・寒冷期用白蝋燭』という、あの難解な魔術用語の羅列が、未だ不気味な記号のように焼き付いていた。

他の妖精たちとは違い、私は最低限の文字の読み書きができる。その微かな自惚れが、強者たちの紡ぐ『本物の知識』の前であっけなく打ち砕かれたことへの昏い焦燥。だが、ここで焦ったところで、目の前の重い木箱が軽くなるわけでも、この二週間の刑期が縮まるわけでもなかった。

世界を変えるための鍵も、あの忌々しい「魔法の楔」を外すためのロジックも、今の私の手の中には何一つとして存在していない。

ただ、冷たい蝋燭の脂の匂いと、暗闇だけが、私たちの全身を包み込んでいた。

大図書館の境界である重い木製の扉へと辿り着き、それを静かに押し開ける。

幾千、幾万もの書物が天井まで届く本棚に押し込められた、あの静まり返った「知の監獄」へと戻ってきた。

受付の古い黒檀の机の前に、小悪魔が相変わらず疲弊しきった琥珀色の瞳を凝視させて、机の上に広げられた書類の束を睨みつけていた。

「遅かったじゃない。物置部屋でまたサボってお喋りでもしていたの?」

小悪魔は、私たちが床へと下ろした木箱のドンという重苦しい音に顔を上げ、不機嫌そうに声を尖らせた。

だが、その言葉には私たちを叱責するだけの本物の覇気はなく、三日もまともに眠っていないという彼女の肉体の限界が、その青白い唇の震えから生々しく滲み出ていた。

「申し訳ありません。蝋燭の木箱が予想以上に奥に積まれておりましたので、検分の仕様に手間取ってしまいました」

私が人形のように頭を垂れて嘘を吐くと、小悪魔は「ふん、まあいいわ」とだけ言い、それ以上私たちを追求することはしなかった。彼女は木箱の中から数本の白蝋燭を掴み出し、そのままパチュリーの籠る奥の調合室の方へと、羽ばたきの手応えもなく気怠げに歩き去っていった。

結局、その日はそれ以上のことは何も起きなかった。

主たちの高貴な会話がテラスから降ってくることもなければ、大図書館の禁書から何かの知識が漏れ聞こえてくることもない。私たちはただ、小悪魔の指示に従って、ひたすら本棚の埃を払い、古い羊皮紙の束を台車で運び、地下の冷たい湿気の中で身体を強張らせるだけの、果てしない、無機質な労働を貪り続けた。

夕刻になり、私たちの共有の寝室へと戻された時、部屋を支配していたのは、ただ底知れない身体の疲労と静寂だった。

天井の隅にあるダクトからゴー、ゴーと響く無機質な金属音。

窓のない、ただ四個の二段ベッドが並ぶだけの檻の中で、スズナとナズナ、そしてオダマキは、泥のように眠りに落ちていった。彼女たちの穏やかな、しかしどこか虚無的な寝息が、狭い部屋の中に小さく反響する。

私は一人、二段ベッドの下の段で、横になりながら自らの両手を見つめていた。

爪の隙間には、今も大理石の黒い粉と、昨日のオダマキの血の痕跡が、見えない汚れとなってこびりついているような錯覚が消えない。

……私は、いつかここから出たい。

胸の奥底で、狂おしいほどの一歩が、どす黒い形を成そうとしていた。

だが、その一歩を踏み出すためには、私はこの部屋で息を潜めて眠っている彼女たちを――いつも廊下を掃除しながら、主たちの酷いニックネームを言い合って笑い合ってきた、私の大切な、かけがえのない友人たちを、この地獄の輪廻の中に置き去りにしていかなければならないのだ。

もし私が仕掛ける計画が、館のすべての歯車を巻き込むような破滅的なものになるのだとしたら、彼女たちはどうなるのだろう。咲夜のピンセットに目を抉られ、あるいはフランの気まぐれに肉体をミンチにされるのではないか。

暗闇の中、私の胸を焦がしたのは、強者への怨嗟だけではなかった。

良き友人である彼女たちを「裏切る」ことになるかもしれないという、生々しく、抉られるような倫理の葛藤が、私の肺の奥を、あの血反吐の時のように重く、苦しく締め付けていた。

時計の針は、私たちの苦悩など一秒も待ってはくれない。

地下生活の初日は、何一つの収穫も、何一つの光も見出せぬまま、ただ冷徹に、その帳を落としていくのだった。

 

地下に落とされてから、一体どれほどの時間が流れたのだろう。

窓のないあの寝室の天井で、ダクトがゴー、ゴーと無機質な金属音を立てて館の肺腑を鳴らすのを、私は何度、数え切るともなしに数え続けただろう。

三日目には、大図書館の奥で古書の修復作業をしていたナズナが、パチュリーの部屋から漏れ出た謎の紫色の魔導煙を吸い込んでしまい、肺が内側からガラスのように結晶化して事切れた。彼女を宿舎へと連れ帰る私の両腕の中で、ナズナの肉体がみしみしと不気味な音を立てて崩れていったあの重みを、私の皮膚はまだ鮮明に覚えている。

五日目には、私自身が地下二層の『あの方』の、あの広く快適に設えられた部屋へ、初めて食事の銀トレイを運ぶ役目を命じられた。重い木製の扉を開けた瞬間、そこにいたあの方は酷くご機嫌斜めで、私の顔を見るなり「おもちゃ、みーつけた」と、あの鈴の鳴るような声で微笑んだ。次の瞬間、私の内臓という内臓が、まるで見えない巨大な手できゅっと直接握り潰されるような、凄絶な不条理の感覚。叫ぶ暇すらなく肉体が内側から破裂し、視界が己の血で赤く染まって暗転した。

だが、そんな凄惨な死も、骨の砕ける痛みも、日付が変わる瞬間に「なかったこと」として館のシステムに一律にリセットされる。

目覚めれば、またいつもの四個の二段ベッドが並ぶ宿舎のベッドの上。ナズナも、私も、何事もなかったかのように綺麗な皮膚を取り戻して、また新しい一日の重労働へと駆り出されるのだ。

今日で、地下送りになってから丁度一週間。刑期の半分が過ぎようとしていた。

「――ねえ、あんたたち起きてる? どうせこんな冷え切った地下じゃ、ろくに眠れやしないでしょ」

ナズナの、少し掠れた低い声が、薄暗い寝室の闇に響いた。

誰も寝付けずにいたのは同じだった。天井のダクトからの金属音に混じって、スズナがベッドの上で寝返りを打つミシッという藁布団の音が聞こえる。

地下の過酷な労働で全員の肉体は磨耗しきっていたが、その精神は、死の麻痺によって奇妙に昂ぶっていた。私たちはいつからともなく、この終わりのない退屈と閉塞感を紛らわせるための「暇つぶし」として、この数日間で自分たちがどんな死に方をしたかという、酷く生々しい愚痴の応酬を始めようとしていた。

「起きているわよ。眠れるわけがないでしょう、ナズナ。あんたが三日前にあのもやし魔導書の煙を吸って、全身を紫色のガラスみたいにカチカチにして死んだときの、あの嫌な断末魔の音がまだ耳の奥に残っているんだから」

私が冷淡に切り出すと、ナズナはベッドから身を乗り出し、悔しそうに歯を鳴らした。

「あれは本当に理不尽極まりないわよ! あのもやし、自分の実験が失敗したからって、換気もせずに大図書館に毒煙を垂れ流すんだもの。私がガラスになって割れる瞬間、あの女、本から目を離さないまま『あら、風通しが悪いのね』って、ただそれだけよ。私たちの命なんて、あいつらにとっては部屋の埃が一つ舞うのと変わらないのよね」

「ナズナのガラスの死に方も凄かったけれど、私は五日前の私自身の死に方の方が、よっぽどおぞましかったわ」

スズナが、二段ベッドの上の段から顔を覗かせ、自分の細い首元を両手でさすりながら声を潜めた。彼女の瞳には、かつてのような咲夜への狂気的な怯えはなく、むしろ主たちへの純粋な嫌悪が混ざり合っている。

「四日前の夕方、私が食料庫のワイン樽を運んでいたときのことよ。あの冷血ネジ巻き人形が後ろから歩いてきてね、私が樽を運ぶ歩調が、彼女の懐中時計の秒針よりコンマ数秒遅いっていうだけで、世界を止められたの。……次に音が戻ったときには、私の両手足の筋が、あの女の銀のナイフで、まるで細い糸を切るみたいに綺麗に、全部切り離されていたわ。床に転がって血を流す私を、あの女は一瞥もせずに『歩調が乱れるパーツは、その場で削ぎ落とすのが一番効率的よ』って……。あの女の頭の中のネジ、絶対に何本か錆びて狂っているわ」

「あはは、スズナの手足がポロンって取れちゃったんだね。それは傑作だわ」

オダマキが、自分のベッドでアホ毛を弄りながら、平然とした顔で笑った。彼女もまた、この数日間の間に、地下二層であの方の気まぐれによって頭を壁に叩きつけられて一度死んでいるはずだった。

だが、お馬鹿な彼女にとって、死の恐怖など一晩寝れば綺麗に消えてしまう玩具のようなものらしかった。

「でもね、あのお人形たちがどれだけ私たちをバラバラにしようが、翌朝にはこうしてまたみんなで悪口を言い合えるんだから、やっぱりあいつらの負けよね。私はね、あのネジ巻き人形がため息をつくたびに、あいつの寿命が縮んでるって信じてるわよ」

友人たちの、その不条理に麻痺しながらも、互いを気遣い、他愛のない愚痴で笑い合う声。

それを聞きながら、私は胸の奥を抉られるような激しい葛藤に苛まれていた。

私は、ここから出たい。何が何でも、この狂った輪廻をこじ開けて外へ出たい。だが、もし私がその計画を実行に移せば、いつもこうして暗闇の中で寄り添い合って生きてきた、私の大切な、かけがえのない友人たちを、この地獄の中に置き去りにすることになる。彼女たちを裏切り、一人の自由を選ぶことへの、血を吐くような罪悪感。

その時だった。

天井の細い換気ダクトの隙間から、チリ、と、何かが床へと落ちる微かな音がした。

私が横目で視界の端を這わせると、そこには、地下の湿った石床の上を、不器用にのたうち回っている一匹の羽蟻の姿があった。

その虫は、何かの拍子にダクトの金属刃に巻き込まれたのだろうか、背中にある一対の透明な羽のうち、片方の羽が根元から無惨に千切れ落ちていた。

飛ぶための器官を、その存在の象徴を失った虫。しかし、その羽蟻は、自らが飛べなくなったことなど一滴も絶望していないかのように、残された細い六本の脚を泥まみれにしながら、ただ黙々と、大理石の床を力強く走って、部屋の暗がりの向こうへと力強く這い去っていった。

「羽が、なければ……」

私の脳髄の奥底で、何かの歯車が、ギチリと凄まじい音を立てて噛み合った。

夜の闇に白く光る怪異の如く、その一匹の這う虫の軌跡が、私の瞳の裏側に強烈な残像となって焼き付いて離れない。

パチュリーの打ち込んだ「魔法の楔」は、私たちの『羽』という飛行器官の脈動をトリガーにして、敷地外に出た瞬間に爆発を引き起こす仕組みになっている。ならば――最初から、その爆発するべき『羽』そのものが肉体から消失していたら、あの冷徹な魔術の術式は、一体どこを認識して、どこを弾け飛ばせばいいというのだろう。

なら……羽を、捨てればいい。

しかし、そんな考えは霧の如く薄れすぐに消えていった。

「――さあ、朝よ。あなたたち、いつまで無駄なお喋りを続けているの。今日の使役の時間が始まるわよ」

扉が乱暴に開け放たれ、小悪魔の冷淡な声が寝室の空気を切り裂いた。

私たちは一瞬にして「館の歯車」の顔へと戻り、糊のきいた黒い上着に腕を通し、背中のスリットから自らの羽を慎重に引き出した。羽の根元にあるあの楔が、冷たい拒絶の感覚を伴って肉体の深部へと再接続される。だが、私の胸の奥で燃え盛る昏い炎は、さっき目撃したあの這う虫の姿を糧にして、より一層獰猛に、どす黒く膨れ上がっていた。

「今日の最初の仕事は、地下二層の『あの方』の部屋への食事運びよ。トレイの準備はできているわね。……一秒の遅れも、一度の手の震えも許されないと思いなさい」

小悪魔の冷徹な宣告。

私たちは、人間から搾り取られた生温かい血の満ちた銀のトレイをそれぞれ両手に捧げ持ち、あの方が待つ、あの地底の最深部――いつ誰がミンチにされるか分からない、死のロシアンルーレットが待つ地下二層の暗黒の奥へと、ゆっくりと歩みを進めていくのだった。

 

人間の血管から絞り出されたばかりの血は、私たちが地上の厨房で配給される冷え切ったパンやスープとは、およそ次元の異なる、狂おしいほどに甘美な香気を放っていた。

銀のトレイの上に美しく設えられたガラスの器。そこへ、咲夜によって凝固を阻まれた新鮮な紅い液体が、地下の微かな揺れに合わせて、チャプチャプと妖しく、かつ濃厚に揺らめいている。

それは、ある種のスパイスや熟した果実の頽廃的な匂いと、生々しい鉄の匂いが混ざり合った、飢えた獣なら一口で理性を失うような「いい匂い」だった。

私たちは、そのトレイをそれぞれ両手に捧げ持ち、地下一層の冷気を脱して、さらに深く、湿った段差の先にある地下二層の深淵へと、一歩一歩静かに足を進めていた。

「……ねえ。これ、すっごくいい匂い。一口だけでいいから、ペロッて舐めてみたいなあ」

私たちの後ろを歩いていたオダマキが、銀のトレイを鼻先に近づけ、喉の奥を小さく鳴らしながら、平然とした顔でそんな不敬極まる言葉を漏らした。

いつもなら、彼女の少し頭の抜けた物言いに対しては、ナズナが冷笑を浴びせ、スズナが鋭いツッコミを入れ、私が冷淡に窘めるのが、私たちの愛おしいサボり日常のルーティンだった。

だが――この時ばかりは、私を含めた三人の誰もが、あえて何も言わず、ただ凍りついたような沈黙を保ったまま、黙々と前方の暗がりを見つめ続けた。

誰も、彼女を止めようとはしなかった。

なぜなら、私たちがこれから向かう地下二層の奥には、機嫌一つで妖精の肉体を綺麗に弾け飛ばす、あの狂気の吸血鬼が待っているからだ。もし、この四人の中でオダマキが本当にその料理を盗み舐めし、あるいはその間の抜けたお馬鹿さのせいで『あの方』のヘイトを一身に買ってくれるのだとしたら――残された私たち三人は、その隙に、何の手傷も負わずに無事にお部屋から生還できる。

妖精としての絆や、日々を共にしてきた良き友人としての情愛は、確かに私たちの胸の内にあった。しかし、一歩間違えれば自分がミンチにされるという死のロシアンルーレットの極限空間の前では、そんな美しい友情すらも、他者を身代わりに差し出そうとする冷徹な保身のロジックによって、生々しく、醜く塗り潰されてしまうのだった。

「……オダマキ、あの方の前でもその調子で頼むわよ」

ナズナが、前を向いたまま、唇の端だけで微かにそう呟いた。それが、私たちが彼女に呉れてやった唯一の、冷酷な返答だった。

やがて、回廊の突き当たりに、地下の陰惨さとは似つかわしくない、豪奢な装飾が施された重厚なマホガニーの扉が現れた。

あの方が好きで籠っているという、二つある快適な部屋の、そのうちの一つ。

私は、銀のトレイを片手に持ち替え、もう片方の手で、その重い扉を三回、正確にノックした。

コン、コン、コン、と、私たちの心臓の鼓動を象徴するような硬い音が、湿った廊下に吸い込まれていく。

数秒の、心臓が止まるかのような静寂。

「――はーい、どうぞ」

扉の向こうから、鈴の鳴るような、どこまでも無邪気で、しかし圧倒的な質量を持った幼き少女の声が返ってきた。

私は意を決して、真鍮のドアノブを回し、部屋の中へと足を踏み入れた。

部屋の中は、地上の客室を凌駕するほど華やかに調えられていた。豪奢な絨毯、高価なレースのカーテン、そして部屋の隅には、色とりどりのおもちゃやぬいぐるみが散らばっている。その中央の大きなソファーに、あの方――フランドール・スカーレットが、ちょこんと腰を掛けていた。背中にある、結晶が怪しくきらめく歪な翼が、私たちの侵入に合わせてチリ、と硬質な音を立てて微動する。

私たちは、生きた人形のように表情を消し、あの方の気まぐれな視線がこちらに向かないことを祈りながら、運んできた銀のトレイを、近くの磨き上げられた丸机の上へと静かに、細心の注意を払って並べた。トレイを置く手が1ミリ震えただけで、あるいはグラスの底が不躾な音を立てただけで、私たちの肉体は次の瞬間には部屋の白い壁を赤く染める絵の具にされる。

心臓の早鐘がエプロンの下で狂ったように鳴り響いていた。

「よし、完璧。……失礼いたします、お嬢様」

私が配膳の完了を告げ、ナズナとスズナを視線で促し、一刻も早くこの死の空間から立ち去ろうと、踵を返して扉へと歩き出した、まさにその時だった。

「――待って。ねえ、ちょっとそこのあなたたち、止まって」

背後から、フランドールの、弾むような声が響いた。

その一言で、私たちの足の裏が、まるで床に釘付けにされたかのようにピたりと止まった。全身の皮膚が一気に粟立ち、冷たい汗が背筋を伝い落ちる。

ゆっくりと振り返ると、フランドールはソファーの上で膝を抱え、その緋色の澄んだ瞳を爛々と輝かせながら、私たち四人をじっと見つめていた。

「あのね、ずっと気になっていたことがあるの。……あなたたちメイド妖精って、いつも私たちのいない裏側で、どんな『お喋り』をしているの? どんな愚痴を言い合っているのかしら?」

「……え、」

スズナの喉の奥から、微かな、しかし絶望的な引きつった音が漏れた。

「だって、私が時々上の階にお散歩に行くと、みんな私を見た瞬間に、まるで壊れた機械みたいにカチコチに緊張しちゃって、ぜんぜんお喋りしてくれないんだもの。咲夜もレミリアも、いつも退屈な書類の話ばかりだし……。あなたたち、絶対に裏では面白いお話をしてるでしょう? 何を話しているのか、私に教えてよ」

フランドールはそう言って、小首を傾げながら、無邪気極まる笑みを浮かべた。

だが、その無垢な瞳の奥には、物質の『目』を握り潰すあの圧倒的な破壊の魔力が、いつでも牙を剥く準備を整えて、昏く渦巻いているのがはっきりと見えた。

何を答えても、一歩間違えれば全滅する。

主たちの本当のニックネームや、あの凄絶な悪口がバレれば、翌朝湧き直すまでの間、私たちはこの部屋のクッションの綿にされる。

私とナズナ、そしてスズナは、互いに顔を見合わせ、視線だけで激しい、しかし必死の押し付け合いを始めた。

(――あんたが言いなさいよ、ナズナ!)

(無理よ、私が言ったら絶対に口を滑らせて殺されるわ!)

(私を見て、私、もう顎が震えて喋れない……!)

その、張り詰めた沈黙のデッドラインを破ったのは、やはり、私たちの期待通り、あの少しお馬鹿なオダマキだった。

「あ、はい!じゃあ、オダマキがお話しします!」

オダマキは平然とした顔で一歩前へ出ると、あの方の正面に立ち、その濁りのない瞳で吸血鬼を真っ向から見つめ返した。

場の緊迫感や、今にも部屋の空気が破裂しそうな恐怖をまるで測り損ねている彼女のその無謀な姿を、私たちは「頼むから、私たちを巻き込まずにあいつ一人だけをミンチにしてくれ」と心の中で祈りながら、ただ息を潜めて見守るしかなかった。

日常の悪口の天才であるオダマキの唇が、ゆっくりと開き、あの方への「お喋り」を紡ぎ始めようとしていた。

 

「私たちは、いつも上の階で、お嬢様やパッ……あ、咲夜様に対して、ちょっとした愚痴を言い合っているんです」

オダマキは、まるで厨房で余ったクッキーの枚数を報告するかのような平然とした声で、一歩前へ出ながら言い放った。場の緊迫感を完全に無視したそのお馬鹿な一言に、私の背中からはドッと冷たい脂汗が吹き出した。ナズナもスズナも、呼吸をすることすら忘れたように硬直している。

「へえ、愚痴?たとえばどんなこと?」

フランドールはソファーの上で膝を抱えたまま、興味深そうに緋色の瞳を輝かせた。その無邪気な好奇心の裏側で、部屋の空気がみしみしと音を立てて歪み始めているのがわかる。

オダマキは、ふう、と一呼吸置いた。限界のデッドラインを見誤っている彼女の唇が、滑らかに動く。

「たとえば、レミリアお嬢様のことですけれど。私たちの間じゃ、お嬢様のことを『お漏らし赤ん坊』って呼んでいるんです」

――終わった。

私は心の中でそう確信し、目を閉じた。次の瞬間には、オダマキの肉体が四散し、その巻き添えを喰って私たちの首も飛ぶに違いない。

しかし、部屋に響き渡ったのは、肉の破裂音ではなく、鈴の鳴るような無邪気な笑い声だった。

「あはははは!『お漏らし赤ん坊』! それ、本当よ!お姉様、こないだも寝坊したときにベッドを染めちゃって、咲夜に泣きつきながらお着替えさせてもらっていたもの!それが妖精たちにまで知れ渡っているなんて、お姉様ったら最高に格好悪いわ!」

フランドールはソファーの上で楽しそうに身をよじり、小さな手で何度も膝を叩いて大笑いした。その反応に、オダマキは調子を良くしたかのように、さらに小賢しい笑みを浮かべて言葉を重ねる。

「他にもあります、フラン様。咲夜様のことは『冷血ネジ巻き人形』とか『パット長』って呼んでるの。だって、あの女のあの無駄に誇張された胸元、全部まやかしの綿の詰め物なんですもの。パチュリー様のことは『もやし魔導書』。部屋に引きこもってばかりでドブ水みたいな薬を齧っているから、あんなに陰気臭いのよ」

「キャハハハハッ! ネジ巻き人形に、もやし魔導書! ね、あなたたち、名付けのセンスが最高にいいわね! もっと聞かせて、普段通りにここでその愚痴を言い合ってみせてよ!」

フランドールの圧倒的な「許可」が下りた瞬間、恐怖の檻に閉じ込められていたナズナとスズナ、そして私の脳内のリミッターが、奇妙な形で弾け飛んだ。ここで拒絶すれば逆に殺される。その狂った生存本能と、日頃の鬱屈した怨嗟が混ざり合い、私たちはまるで地上の回廊の薄暗がりにいるかのような、普段通りの口調で悪口の弾丸を吐き出し始めた。

「そうよ、あのパット長、本当は胸なんて一ミリもない、ただの干からびたおじいちゃんみたいな身体なのに、お嬢様の前じゃ完璧な人間ぶっちゃってさ」ナズナが、歪んだ唇から他愛のない隠し事を暴露する。

「レミリアお嬢様だって、先週お気に入りのテディベアの耳が取れたとき、部屋の隅で一日中声を殺して泣いていたのよ。世界の主ぶっているけれど、中身はただの泣き虫の子供だわ」スズナも、かつての怯えを忘れたように生々しいツッコミを入れ、私たちはいつしか吸血鬼を前にしていることすら忘れて、泥濘のような愚痴の宝庫を曝け出していた。

フランドールはそれを、まるで最高のお伽話でも聞くかのように、瞳を爛々と輝かせて楽しんでいた。

だが、オダマキのその少し頭の抜けた傲慢さは、ついに人間で言うところの「三途の川の境界線」を、完全に反復横跳びするレベルの、破滅的な領域へと突入していった。彼女はいつもの平然とした顔のまま、悪口や皮肉という言葉の概念を遥かに超越した、獰猛な罵詈雑言の羅列を立て始めた。

「でもね、本当に一番滑稽で哀れなのは、この館の血統そのものよ。格式高い吸血鬼なんて気取っているけれど、その中身はただの『近親相姦の奇形の末路』でしかないんだもの。外の世界じゃ、日光を恐れてジメジメした地下に引きこもる生き物なんて、ただのカビかゴキブリと同列よ。特に、そこにいるフラン様。あなただって、閉じ込められているわけじゃないなんて言いつつ、結局はあの『癇癪赤ん坊のお姉様』の都合のいいおもちゃとして、この快適なだけの地下の檻で一生飼い殺されるだけの、ただの『お飾りの精神病患者』じゃない。自分の能力が恐ろしいからって、周りのものを綺麗に弾け飛ばすことしか脳がない、ただの知能の足りない化け物。あのお漏らしお姉様の靴の裏を一生舐めながら、このドブの底で腐り果てていくのがお似合いの――」

その、フランドールという存在の根源的な孤独と狂気、そして肉体そのものの不気味さを容赦なく抉り出す、ドス黒い名台詞の最中だった。

「――きゅっ」

あの方が、虚空に向かって、その小さな、白い手のひらを握りつぶすような動作をした。

べちゃり。

何の予兆もない、あまりにも生々しく、重苦しい肉肉しい音が部屋に響き渡った。

次の瞬間、私の口の中に、そしてナズナとスズナの唇の端に、鉄錆に似た、強烈に生温かい「液体の味」が広がった。

「……え、」

ふと視線を横に這わせると、そこには、数瞬前まで平然と暴言を吐き散らしていたオダマキの、首から上が完全に消失した肉塊が佇んでいた。

彼女の頭部は、あの方の能力によって、肉も、骨も、脳も、一切の原型を留めることなく、一瞬にして四散し、綺麗に弾け飛んでいたのだ。

オダマキの首の断面から、まるで館の噴水のように、真っ赤な鮮血がどくどく、どぶどぶと凄絶な勢いで天井に向かって噴き出していた。頭部を失ったその肉体は、未だ死を理解しきれていないかのように、残された両腕を不器用に痙攣させ、床を己の血で冒涜的に染め上げながら、バタン、と激しい音を立てて倒れ伏した。

仮に今の現状を本にして出版したら、読者が想像するだけで己の口内が他人の血の味で満たされ、内臓がせり上がるような、圧倒的にグロテスクで、生々しい死の現実が襲いかかってくるだろう。

「あはははは!『お飾りの精神病患者』! 本当に、あなた最高に面白いわ!」

フランドールは、ソファーの上で、顔や衣服に浴びたオダマキの返り血を手の甲で拭い、その血をペロリと舐めながら、狂気的な笑い声を上げ続けた。あの方にとって、友人の頭が弾け飛ぶことも、その血の甘露も、ただの「お喋りの終わりの合図」に過ぎなかったのだ。

私とナズナは、口の中に残るオダマキの血の味を飲み込むこともできず、ただ人形のようにその場に立ち尽くしていた。

そして、さっきまで軽快に悪口を言っていたスズナは、オダマキの痙攣する足元を見つめたまま、白目を剥きそうなほどの衝撃を受け、一切の言葉を失って、真顔のままその血溜まりの中にガクガクと膝を折ってへたり込んでしまった。

明日になれば湧き直す。だが、今、私の舌の上に残っているこの熱い血の味は、本物の死の味だった。

 

口蓋の裏側にべっとりと張り付いたその液体は、私たちのサボり仲間であり、良き友人であったオダマキの、まだ生温かい脳漿の混じった鮮血だった。

凄絶な破裂音が回廊の壁に溶けて消えた後、私とナズナ、そしてスズナの三人は、ただ人形のようにその場に硬直していた。だが、舌の上が強烈な鉄錆の味で満たされていくその生々しい不快感に、私たちの肉体は、恐怖よりも先に拒絶の拒絶反応を示した。私は狂ったように、自分の手の甲や、引きちぎれてボロボロになった上着の袖を口元へと押し込み、そのドロドロとした赤を必死に拭い取った。ナズナもまた、激しく咽びながら、己の指先を口内へと突っ込んで血を掻き出している。

その私たちの目の前で、フランドール・スカーレットは未だ、腹を抱えて笑い転げていた。

「キャハハハハッ! 本当に、本当に最高だわ、あの子!『お飾りの精神病患者』だなんて! お姉様のドレスの染みより、よっぽど傑作よ!」

あの方は、衣服に浴びたオダマキの肉片すらも気に留めることなく、ソファーの上でのけ反り、身をよじらせて狂ったような笑声を上げ続けていた。相当に気に入ったのだろう。彼女の背後にある、結晶の歪な翼が、歓喜の脈動に合わせてチリチリと耳障りな金属音を立てて激しくきらめいている。

だが――その強大すぎる狂気の「笑い」が、この狭い部屋の魔力の均衡を、どれほど異常に歪ませているか、あの方自身すらも気づいてはいなかった。いや、気づく必要すらなかったのだ。

パチン――。

何の予兆もない、乾いた、しかし不吉な空気の爆ぜる音がした。

「――っ、あ、あ、ああああああああっ!」

突如として、ナズナの口から、喉笛を引きちぎるような凄絶な断末魔の悲鳴が迸った。

あの方が笑い転げる最中、その無意識の魔力の奔流が、部屋の片隅にいたナズナの右足の『目』を、おもちゃの紐を引き抜くような軽さで綺麗に弾け飛ばしたのだ。

膝から下が完全に消失した右足の断面から、どくどくと赤黒い液体が絨毯へと溢れ出し、ナズナはその場に激しく倒れ伏した。

「う、く、あ、……つ、痛い、痛い、痛い、――っ!」

彼女は一滴も保てず、床に這いつくばりながら、涙と脂汗で顔をぐしゃぐしゃに濡らして呻き声を上げていた。咲夜に叱責されることを本能的に恐れているのか、彼女は自らの衣服を口に押し込んで声を抑えようとしていたが、それでも、肉を削がれる激痛に耐えかねた生々しい嗚咽が、部屋の四方に虚しく漏れ聞こえていた。

スズナは、すっかり腰が抜けてピクリとも動けなくなっていた。

彼女は床に広がるオダマキの血溜まりと、目の前でのたうち回るナズナの右足を見つめたまま、ただ両手を自らの口元に強く当て、恐怖のあまり声も出せずにボロボロと涙を流して震え続けていた。その瞳からは、かつて私たちが廊下で言い合っていたあの愛おしい愚痴の光景など完全に消し飛び、ただ「死の恐怖」という絶対的な不条理だけが、彼女の精神を限界まで圧殺していた。

私の脳の歯車だけは、その地獄絵図の中でも冷酷なまでに静かに回り続けていた。

今よ。あの方が、笑いに気を取られて、私たちの存在を『おもちゃの認識』から外している、この数秒の間だけが、唯一の隙よ。

私は膝を床に突き、へたり込んでいるスズナの黒い上着の襟元を両手で強く 掴んだ。

「スズナ、立ちなさい。……動けないなら、そのまま這うのよ」

私の張り付いたような低い声は、彼女の耳殻には届いていなかったかもしれない。私は執念だけで彼女の細い身体を引っ張り、大理石の床の上を、ゆっくりと、音を立てないように扉がある方向へと引きずり始めた。一ミリでも早く、この狂気のロシアンルーレットの空間から脱出するために。

その時、床に這いつくばっていたナズナの、血に汚れた左手が、無意識に助けを求めるようにスズナの足首へと縋り付いた。

「……す、スズナ……たすけ、て……お願い…おいて、行かないで」

ナズナの指先が、スズナの純白のドロワの裾を赤く汚す。しかし、ナズナはスズナの完全に光を失った真顔を見つめ、そして自らの失われた右足の無惨な断面を見つめた後――何事かを察したように、その掴んでいた手を、静かに、力なく離した。

私たちは等しく代わりのきく消耗品であり、ここでは誰も、他人の命を救う英雄にはなれない。その冷徹な現実を、彼女の残された知性が、最期の瞬間に受け入れたのだろう。

「ふぅ……あー、おもしろかった」

不意に、フランドールの笑い声がピたりと止まった。

思いっきり笑い終わったあの方は、ソファーの上から、まるで遊び終えたおもちゃの片付けでもするかのような、酷く気怠げな視線をこちらへと向けた。

彼女はまず、床で呻き声を上げていたナズナの元へと歩み寄った。その小さな、白い裸足の足の裏が、ナズナの流した血を踏みしめて赤く染まる。あの方は何も言わず、ナズナの胸元の『目』に向かって、その小さな手のひらを再び『きゅっ』と握りつぶした。

べちゃり、という、先ほどと同じ重苦しい肉肉しい音が響き、ナズナの悲鳴は二度と聞こえなくなった。

そして――あの方は、返り血を全身に浴びた禍々しい姿のまま、扉の目前までスズナを引きずっていた私のすぐ目の前へと、音もなく歩み寄ってきた。

結晶の翼がチリと鳴り、あの方の緋色の瞳が、私の顔を真っ向から覗き込む。

「ねえ、そこのあなた。あなたも、何か面白いお話をしてよ」

フランドールは、私の鼻先にまでその小さな顔を近づけ、無邪気に微笑んだ。

「さっきの子みたいに、私が大爆笑しちゃうような、最高のお喋りを聞かせて。……面白いことを言ったら、そのままお部屋から帰ってもいいよ?」

生存率ゼロの、究極の選択。

私の脳細胞は、これまでの永劫の輪廻の中で培ってきた、館の住人たちのあらゆる弱みや悪口のデータを、狂ったような速度で検索し始めた。オダマキが言ったあの『近親相姦の奇形』を超える言葉。あの方のコンプレックスをさらに深く穿ち、それでいて彼女の機嫌を損ねない、針の穴を通すような言葉の羅列。

私は、泡立つ唾液を飲み込み、震える唇を開いて、必死に考えた悪口を吐き出した。

「……咲夜様は、お嬢様たちの前では完璧な従者を気取っていますが、夜中に自らの平らな胸に綿を詰めながら、人間である己の老いに絶望して、シーツに顔を押し付けて咽び泣いている、ただの哀れな老醜の白髪婆に過ぎません……」

私の放った、乾いた言葉。

数秒の、生殺与奪の権を握られた静寂。

フランドールは、私の言葉をじっと聞いた後、つまらなそうにふいにと首を横に振った。

「うーん、ダメ。さっきの子の方が、よっぽどおもしろかったわ」

あの方が、微笑みながら、私の胸元に向かってその小さな、白い手を伸ばした。

「きゅっ」

あの方が微笑みながら虚空で小さな手を握りつぶしたその瞬間、私は反射的に強く両目を瞑った。

脳髄が、一瞬にして自らの肉体が破裂する凄絶な衝撃を予感し、すべての思考の歯車を凍りつかせる。だが――数秒が過ぎても、私の内臓が内側から弾け飛ぶあの生々しい不条理の感覚は、どこからもやってこなかった。

おそるおそる、私は目を開けた。

視界のすぐ目の前には、未だに少女の無邪気な笑みを浮かべたままで、私の顔をじっと覗き込んでいるフランドール・スカーレットの姿があった。

「あはは、騙されちゃった? いきなり壊しちゃうなんて、そんなの勿体ないじゃない」

あの方はそう言って、私の返答を待つこともなく、その白い、小さな指先を私の顔へと伸ばしてきた。

本当に、何の予兆も、何の悪意もなかった。

次の瞬間、私の頭蓋の底でめき、めき、ベキベキッという、己の肉組織が未知の怪力によって強引に引きちぎられる、凄絶な生々しい音が響き渡った。

「――っ、ひ、……ッ、」

叫ぼうとした。しかし、私の喉からは、ただ空気が虚しく通り抜けるような、湿った掠れ音しか漏れ聞こえなかった。

あの方は、私が面白いお喋りを返せなかったその制裁として、私の舌と、下顎を、まるごと根元から毟り取ったのだ。

私の顎があった場所からは、どくどくと、堰を切ったように生温かい鮮血が噴水の如く溢れ出し、私はそのまま床へと激しく崩れ落ちた。

指先を動かし、激痛の根源である自らの顔へと手を伸ばし、それを必死に押さえ込もうとする。だが、手のひらに触れたのは、あるはずの骨や肉の感触ではなく、ただ生温かい血の海と、剥き出しになった喉の奥の、酷く歪な空洞だけだった。そこに何かがあるはずだという私の脳の錯覚を、ただ「無い」という冷徹な現実だけが容赦なく打ち砕いていく。何の意味も、何の救いもない、ただの肉体の損壊だった。

あの方は、床の血溜まりの中でのたうち回る私を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように、その緋色の瞳を私のすぐ横へと向けた。

そこにいたのは、すっかり腰が抜けて、ただ両手を口に当てて震えているだけのスズナだった。

「ねえ、次はあなたの番よ。何か、お姉様の悪口を言ってよ」

フランドールは、今度はスズナの元へと歩み寄った。だが、スズナの精神は、オダマキの頭部爆散とナズナの右足破裂、そして私のこの無惨な姿を目の当たりにしたことで、完全に極限の恐怖によって圧殺され、白目を剥きそうになりながら、ただガタガタと歯を鳴らして何も言えずにいた。

「なーんだ。あなたも、ぜんぜん面白くないのね」

あの方は、酷くつまらなそうに眉を下げると、蹲るスズナの背後へと回り込み、その白い、小さな両手で、スズナの背中にある一対の半透明な羽を、それぞれ根元から強く鷲掴みにした。

そして、そのまま吸血鬼の圧倒的な腕力に任せて、二つの羽を、バリバリと生々しい肉の裂ける音を立てて、根元から強引に千切り取ったのだ。

「ああああああああああああああっ! 痛い、痛い、いやあああああああああっ!」

スズナの、喉が裂けんばかりの、凄絶な叫び声が部屋の四方に響き渡った。

背中の皮膚と肉を引きちぎられ、自らのアイデンティティである羽を毟り取られた彼女は、床の上を狂ったようにのたうち回りながら、涙と血で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫んでいた。

私は、下顎を失って床に這いつくばったまま、その最悪の光景を、ただ濁った両目で全て見つめていることしかできなかった。良き友人であり、いつもサボりながら一緒に笑い合ってきた彼女が、ただの吸血鬼の退屈しのぎのために、これほどまでに無惨に破壊されていくその不条理。

「……うるさいなあ。せっかく面白いお話を思い出そうとしていたのに」

フランドールは、千切ったスズナの羽を床へと放り捨てると、その泣き叫ぶスズナの背中の中心へ向かって、小さな白い裸足の足の裏を、容赦なくドンと踏み下ろした。

パチン――。

あの方が、スズナの背中の『目』を、足の裏の感覚だけで正確に握り潰した。

次の瞬間、スズナの背中が、術式の暴発を待つこともなく内側からベチャリと激しく破裂した。彼女の細い背骨の周りの肉が四散し、内臓の、肺胞の剥き出しとなった内部が、生々しく部屋の灯りの下に曝け出される。スズナの叫び声は、その瞬間に完全に途絶え、彼女の肉体はただの物言わぬ血の塊へと変貌した。

そして――あの方は、再びその緋色の瞳を、私へと真っ向から向けてきた。

「ねえ、あなた。まだ生きてるでしょう?……じゃあ、ゲームをしましょう」

フランドールは、血塗られた私の顔を見下ろしながら、まるで新しい玩具を見つけたかのような無邪気な笑顔で言った。

「今から、二十秒だけ時間をあげる。もし、あの扉の外まで逃げ切れたら、あなたの勝ち。そのままお部屋から帰っていいよ?」

あの方が、その小さな指先を折り曲げながら、冷徹な秒読みを始めようとしていた。

「じゅうく、じゅうはち、……」

私は、必死に動こうとした。黒鉄の扉までは、あとほんの数メートルの距離しかない。だが、私の肉体は、下顎を失ったことによる激しいショック状態と、そこからとめどなく溢れ出る大量の出血のせいで、すでに限界を迎えていた。さらに、溢れた血が喉の奥の空洞に溜まり、呼吸をしようとするたびに気管が血で塞がれ、窒息しかけて頭の中が真っ白に染まっていく。地面に叩きつけられたときの後遺症か、激しい脳震盪を起こした私の視界はぐにゃぐにゃと歪み、四肢の筋肉は自分の意志を完全に裏切って、ただ泥まみれの床の上を、犬のように不器用に這うことしかできなかった。

「じゅう、きゅう、……」

指先を床の絨毯に突き立て、血を吸って重くなった身体を、ただ一センチずつ前へと引きずる。私の残した血の軌跡が、床や絨毯の上に禍々しく伸びていく。

扉のドアノブが、目の前で、あまりにも遠く、不気味に静まり返っている。

「……さん、に、いち。はーい、おわり!」

あの方の声が響いた瞬間に、私の世界は、完全に終わった。

背後から、音もなく迫ってきたフランドールの白い手が、這いつくばる私の黒い上着の襟元を掴み、そのまま私の身体を、操り人形のように床から強引に立たせた。

あの方は、私の両腕を、その背中の後ろへと強引に回し、太い一本の縄で縛り上げるかのように、その小さな手のひらで私の両手首をギチ、ギチと凄まじい力で固定した。

そして――あの方は、私の背中の、ちょうど羽の根元のあたりに、自らの片足の裏を、静かに、ゆっくりと押し当ててきた。

「じゃあね。バイバイ」

次の瞬間、吸血鬼の、あの世界の構造を容易く圧殺する圧倒的な魔力が、私の背骨へと直接注ぎ込まれた。

めき……、めきめき……、バリ、バリバリッ……

あの方は、私の背中をその片足で、ゆっくりと、しかし確実に、前へと押し潰していったのだ。

私の肋骨が、背骨が、その圧倒的な圧力に耐えかねて、内側から一本ずつ、生々しい音を立ててゆっくりと壊れていく。

下顎を失った私の口からは、その凄絶な激痛に対して、叫ぶことすら叶わなかった。ただ、喉の奥から「ゴボッ、……ゴボ、ゴボッ」という、血の泡が弾ける絶望的なノイズが漏れるだけ。肉が拉げ、骨が粉砕されていくその一連の感触を、私の脳髄は、死の直前まで冷徹に、かつ鮮明に知覚させられ続けていた。

そして、最後に――。

ベキッという、私の中心核である背骨が真っ二つにへし折れる、決定的な破壊の響き。

私の視界は、己の肉体が完全に物言わぬ肉塊へと変貌するその凄絶な衝撃とともに、今度こそ完全に漆黒の闇へと暗転し、私は深い死の泥へと沈み込んでいった――。

ハッと、息を吸い込んだ。

「ごほっ!ごほっ、――え、?」

喉の奥に残る、あの下顎を毟り取られたときの凍りつくような鉄の冷たさと、背骨をゆっくりと噛み砕かれていくような、凄絶な損壊の残痛。私は狂ったように自分の顔へと手を伸ばし、自らの顎の骨が、確かにそこにあることを必死に確かめた。

手のひらに触れるのは、血でも泥でもなく、幾度もの洗濯で糊を失い、死人の皮膚のように硬くこわばった、ただの木綿の布切れ――シーツだった。

薄暗い、冷え切った湿気の漂う宿舎。

均一に並ぶ四個の二段ベッド。

目覚まし時計の無機質な針の音が、頭蓋の奥でチクタクと響いている。

「……湧き直した」

私は生きている。私の顔も、私の背中も、何事もなかったかのように元通りになっている。

ふと見渡せば、向かいのベッドにはスズナが、そして隣のベッドにはナズナが、さらに――あの部屋の床で真っ先に頭を爆散させられたはずのオダマキまでもが、何事もなかったかのように綺麗な皮膚を取り戻して、微睡んでいる。

私の一度目の、そして二度目の死によって、世界は再び、この「狭い寝室の朝」へと巻き戻されたのだ。

 

地下送りという名の永劫の刑期も、残すところあと四日となっていた。

陽の光が一滴も届かぬこの大図書館の底で、私たちはただ、文字通り館の歯車として、擦り減りながら磨耗し続けていた。この地獄の二週間で、私たちが血と泥を流しながら辛うじて掴み取った『成果』といえば、それは不可能を可能にする脱獄のロジックなどではなく、ただ地下二層の『あの方』の、あの測り知れない狂気をごく僅かに「あしらう」ための、家畜としての処世術に過ぎなかった。

あの方がどんな言葉に機嫌を良くし、どんな仕草に破壊の衝動を誘発させるのか。それを肌の粟立ちを通じて学習した私たちは、いつしか奇妙な、しかし底知れぬ頽廃的な知恵を共有し始めていた。

――今日、もしあの方の部屋に食事を運ぶことになっても、痛みのないように綺麗に一瞬で殺されることができれば、残りの一日の重労働をすべて免除されて、翌朝まで泥のように眠り続けられる。

そんな、死を報酬として貪るような狂った利点が、私たちの間でごく自然に、他愛のない世間話のトーンで囁かれるほどに、私たちの精神は地下の湿気の中で麻痺しきっていた。友人が死に、自分が破裂する。だが翌朝には、また四個の二段ベッドの並ぶあの狭い寝室で、綺麗な肉体を取り戻して目覚めるだけ。その狂った不条理の中で、私はあの「片方の羽を失った羽蟻」の軌跡と、スズナの羽が根元から毟り取られたあの凄絶な残像だけを、胸の奥底で昏く、熱く燃やし続けていた。羽を、自ら切り落とせば、パチュリーの術式は無効化できる。だが――。

それだけでは、まだ足りない。

羽を失った二本の足で走って逃げたところで、門番の美鈴の鉄壁の警戒を潜り抜けることは叶わず、時間を止める咲夜の冷徹な秒読みの前に、その場で肉塊へと変貌させられて終わるだけだ。圧倒的な「持たざる者」である私が、あの強者たちの包囲網を突破するための、館全体を揺るがすような『絶対的な混乱の引き金』が、どうしても必要だった。その最後のピースが見つからぬまま、無機質な時間はただ冷徹に、あと四日という砂時計の砂を落としていた。

「――そこのあなたたち、手を止めなさい」

回廊の薄暗がりのなか、台車に積まれた大量の古い書物を、背中の羽を折り畳んだまま棚の定位置へと収めていた私とナズナ、スズナの前に、小悪魔がその琥珀色の瞳を気怠げに曇らせて現れた。

「今日の分の本の整理は、他の妖精たちに引き継がせます。あなたたちは今すぐ、一階のパチュリー様のご研究室の前へ向かいなさい。ドア付近に置かれた、先日の実験で使い古したフラスコや鉱石、余った薬品の瓶を、すべて地下一層の物置部屋へとしまい込むのよ」

小悪魔はそう言い捨てると、古い羊皮紙の束を台車に乗せて本棚の迷路の向こうへと消えていった。

パチュリーの研究室のすぐ近くには、地下一層のあの「忘却の物置」へと直通する重い鉄の扉がある。片道五分もかかる大図書館の往復に比べれば、それは驚くほどに短く、肉体的な苦痛の少ない、かなり「楽な仕事」だった。

「ラッキーね。あのもやし魔導書の部屋の前なら、咲夜様の懐中時計の音に怯える必要もないわ」

ナズナが、箒のように剪定鋏の柄を弄びながら、足取りで歩き始めた。スズナも、いつもの調子で「早く終わらせて、寝室のベッドで横になりたいわね」と笑い合っている。

私たちは、一階のパチュリーの研究室の前へと辿り着いた。

扉の周囲には、煤と奇妙な魔術触媒の匂いが染み付いた、銅や鉄の古びた細かの実験道具や、中身の濁った硝子瓶が、それぞれの箱の中に入っており乱雑に積み上げられていた。私はその重い物の取っ手を二人がかりで持ち上げ、すぐ傍らにある鉄の扉を開けて、地下一層の物置の棚へと手際よく運び込んでいった。

一度目の搬入を終え、私が次の器具を運ぶために、再び研究室の前の回廊へと戻ってきた、まさにその時だった。

「――違うわよ、この物分かりの悪い出来損ない。私が運んでおきなさいと言ったのは、そんなただの石ころじゃないわ」

パチュリー・ノーレッジの、低く、激しい喘息の混じった、しかし冷徹な叱責の声が、半開きになった研究室の扉の隙間から回廊へと漏れ聞こえてきた。

私は、足音を完全に消し、手にした古びた鉱石の入った木箱の影に身を隠すようにして、その部屋の奥の光景を、盗み聞きする集音器のように耳を澄ませた。

部屋の奥では、パチュリーの身の回りの世話を手伝っている、私とは別の高名なメイド妖精が、大きな編み籠の中に、灰色に濁った奇妙な鉱石の塊を大量に詰め込んで、両腕を震わせながら立ち尽くしていた。彼女はパチュリーの冷たい視線を浴びて、完全に首を傾げ、困惑しきった顔をしている。

「……あの、パチュリー様、これは……」

「それは深層の地脈から切り出してきた、ただの『亜鉛』の塊よ。私が、今月の予算を削るために、結界の維持に使う魔触媒の代用品として、その金属片をすべて精錬しておきなさいと言ったでしょう。どうしてそんな簡単な命令すら、その退屈な脳組織は理解できないのかしら」

パチュリーは、分厚い魔導書から目を離さないまま、深く、酷く退屈そうに溜息を吐き出した。

メイド妖精は、さらに首を傾げ、その「アエン」という聞き慣れない専門用語に対して、完全に思考を停止させていた。少ししか文字を読む事が出来る私たちにとって、強者たちの紡ぐその難解な固有名詞は、ただの呪いの文様に等しかった。

パチュリーは、いよいよ苛立ちを隠そうともせず、膝の上の本を乱暴に閉じると、その青白い指先で自らの眉間を強く揉みほぐしながら、文字の読めぬ虫ケラに噛み砕いて言い聞かせるように、近しい物で例えながら説明し始めた。

「……はぁ、本当に手間を取らせるわね。いい? その『亜鉛』っていうのは、要するに、厨房の裏に転がっている、あの古びた『鉄くず』や、錆びた銀食器と同じようなものよ。ただの、硬くて重い『金属のゴミ』。そう覚えなさい」

パチュリーの声は、冷淡でありながらも、自らの知識を誇示するような絶対的な響きを帯びていた。

「ただし、その木箱に入っている金属片を、強い酸性の液体と一緒の空間に絶対に置いてはダメよ。私の術式を付与する前のあの剥き出しの金属は、強い酸に触れると、肉眼では見えない気体を大量に発生させてしまう。もしそこに、僅かな火種でも近づけようものなら、一瞬にして館の壁を吹き飛ばすほどの大爆発が起こるわ。分かったら、今すぐそれを奥の棚へ、酸性の薬品とは完全に隔離してしまっておきなさい」

「……は、はい! わかりました、パチュリー様!」

メイド妖精は、ようやく理解できたというように、重い編み籠を抱えて部屋の奥へと下がっていった。

その、半開きの扉の隙間から漏れ聞こえた、強者たちのリアルな知識の破片。

それが、私の耳殻を突き抜けて、脳髄の最も奥深い歯車へと達した、まさにその刹那だった。

「――あ、」

私の全身に、一度目の死の時のあの爆散の熱量をも凌駕する、凄まじい衝撃が走った。

手にした木箱の木の冷たい感触。パチュリーの部屋からくすねることができる、あの『金属のくず』。

それが、私の頭の中で、あの「片方の羽を失った羽蟻」の残像と、一本の線上へと、劇的に、美しく結びついたのだ。

一階の、使われていない暖炉。あそこに、金属のくずを大鍋に入れ、酸を大量に注ぎ込む。見えない霧が起こって……そこに、火種を。――大爆発が、起こる。

私の唇の端が、地下の暗がりのなかで、じわり、と昏く、歪んだ笑みの形に変形していく。

不可能だ、美鈴を突破できない、咲夜の初動を遅らせることは叶わないと、私の前に立ち塞がっていたあの「百パーセント不可能な壁」の真ん中に、今、私の手によって、巨大な『破滅の導火線』が設置されたのだ。

爆発が起これば、完璧主義の咲夜は必ず、侵入者の検知よりも『レミリアお嬢様の安全確保』を最優先にして、時間を止めて地下へ避難させるだろう。初動は必ず、数分間遅れる。門番の美鈴も、背後の館の大爆音に気を取られ、無意識に視線を館の内部へと向ける。さらに、外が大雨の日であれば、吸血鬼の主たちは自ら外へ出て追ってくることすらできない。

……逃げられる。これなら、本当に、私は私の足で、外の光を踏みしめられるわ。

まだ、頭の中の計画は、曖昧な、輪郭だけの案に過ぎなかった。酸の量も、爆発の正確な規模も、私の持つ矮小な知恵の範囲では、何一つ確証は得られていない。それでも、終わりのない輪廻の檻を内側から爆破するための「設計図」の、その最も凶悪な一筆が、私の胸の内に確かに描き出されたのだ。

私は自らの高鳴る心臓の鼓動を隠すように、大鍋を強く握り締め、何事もなかったかのように冷然とした顔で物置部屋へと歩き出した。

夕刻になり、二週間の刑期が残り四日となった、あの窓のない、ただダクトの音がゴー、ゴーと響くだけの寝室へと戻された時。

ナズナもスズナも、過酷な使役の疲労に耐えかねて、藁布団の上で泥のように眠りに落ちていた。彼女たちの穏やかで、しかしどこか諦念に満ちた寝息が、手狭な部屋の中に小さく反響する。

私は一人、二段ベッドの下の段で、横になりながらも、決して両目を閉じようとはしなかった。

暗闇の中、天井の黒いダクトの影を凝視しながら、私は私の脳細胞のすべてを、さっき手に入れた『知識の破片』の計算のために、狂ったように回転させ続けていた。

お酢をどこから、どれだけの量を盗み出すか。

パチュリーの部屋から、あの金属の塊をどうやってくすねるか。

大雨の日は、いつやってくるのか。

そして――計画の引き金を引く直前、厨房の肉切りナイフを握り締め、自らの背中にあるこの一対の羽を、一体どのような角度で、根元から「切り落とす」べきなのか。

良き友人である彼女たちを、この地獄の中に置き去りにして逃げることへの、胸を抉られるような激しい葛藤。しかし、その罪悪感すらも、私の胸の奥で爆発の時を待つ、あの昏い、獰猛な執念の炎の、最高の上等な薪へと変わっていく。

時計の針は、深夜の闇を静かに刻み続けている。

私は眠らない。私は、私の自由のために、この暗闇の中で、ただ一人、世界の終わりと始まりの秒読みを、冷徹に、執念深く、企て続けるのだった。

 

地下送りという名の永劫の刑期も、残すところあと三日となっていた。

その日の午後。私はいつも通り大図書館の薄暗がりのなかで本を整理しながら、ずっと一つのことだけを考え続けていた。

あの石――パチュリー様が『アエン』と呼んでいた、あの灰色の塊を、どうにかして手に入れなければならない。

館全体を揺るがす爆発の引き金。その材料が、パチュリーの研究室に眠っている。私は本を棚に押し込むフリをしながら、視線だけで何度も回廊の奥の、あの半開きの扉を凝視していた。

「――違うわよ、この物分かりの悪い出来損ない。私が運んでおきなさいと言ったのは、そんなただの石ころじゃないわ」

不意に、パチュリーの激しい喘息の混じった、しかし冷徹な叱責の声が研究室の中から響いてきた。手伝いの妖精が何かまた不手際をやらかして、叱られているらしい。

今しか、入り込む隙はない!

心臓が、肋骨の裏側でドクンと大きく跳ね上がった。

それは、背後に死刑執行人が音もなく佇み、その冷たい指先が己のうなじを撫で回しているかのような、全身の血が凍りつく極限の精神的緊張感だった。僅かな衣擦れの音、ほんの一瞬の呼吸の乱れすらも、すべてが破滅への引き金になりかねない。私は素足の裏で冷たい石床の起伏を這うように捉え、気配を完全に殺して、半開きの扉の隙間からその禁忌の空間へと滑り込んだ。

 

足音を完全に消し、息をする回数すら極限まで落として、私は研究室の扉をすり抜け、その薄暗い空間へと滑り込んだ。

部屋の奥では、パチュリーが手伝いの妖精を冷たい眼光で問い詰めている。彼女たちの背中がこちらを向いているその僅かな数秒の間に、私は部屋の隅に乱雑に積まれた木箱の群れへと這い寄った。

手汗で指先が滑りそうになる。

どの箱だ。どの箱の中に、あの灰色の『アエン』が入っているというのか。文字が読めぬ私にとって、箱の表面に書かれた墨の羅列は、ただの不気味な魔術の文様でしかなかった。焦燥が、私の視界をぐにゃりと歪ませていく。これか、あるいはこっちの箱か。

手当たり次第に、音を立てないよう細心の注意を払いながら、木箱の蓋を僅かに持ち上げて中を覗き込む。だが、中に詰まっているのは未知の乾燥ハーブの束や、怪しく光る薬品の小瓶ばかりで、目的の「灰色の石の塊」はどこにも見当たらなかった。

時間は、無情にも秒単位で過ぎていく。

教官の足音がすぐ後ろまで迫っているかのような、今にも喉の奥から胃液がせり上がりそうなほどの凄絶な恐怖が、私の背筋を冷たく伝い落ちる。早く見つけなければ。早く、どれか一つの石だけでも、ポケットに押し込まなければ――。

「――そこで何をしているの、あなた」

氷水を直接脳髄に叩きつけられたかのような、冷徹な声が、私の真後ろから響いた。

ハッと振り返ると、そこには、いつの間にか叱責を終えたパチュリー・ノーレッジが、その燃えるような緋色の瞳を限界まで冷たく凝視させて、私のことを見下ろしていた。

「……あ、パ、パチュリー様、これは……」

「言い訳はいらないわ。大図書館の使役を命じられている妖精が、どうして私の研究室の備品を漁っているのかしら。……ああ、分かったわ。あなた、またそうやって私の実験器具を勝手に触って、悪戯を企んでいたのね。前庭の生垣を台無しにしただけでは飽き足らず、私の部屋まで爆破するつもりかしら」

パチュリーは、深く、心底から退屈そうにため息をつくと、その青白い指先で私の額を小突いた。彼女は、私が脱獄の計画のために『亜鉛』を探していたなどとは一ミリも疑っていなかった。ただ、頭の足りないメイド妖精が、いつものように子供じみた悪戯のために部屋に忍び込んだのだと、完全に思い込んでいたのだ。

「これ以上、私の手を煩わせないで。今すぐその薄汚い手を箱から離して、部屋から出て行きなさい。二度と私の許可なくこの敷居を跨いだら、次は咲夜に命じて、その出来損ないの羽を本当に一枚ずつ毟り取らせるわよ」

激しい怒りの言葉とともに、私は研究室から手荒く追い出された。

目的の石は、ただの一つも手に入れることはできなかった。ポケットの中は虚しく空っぽのままで、私の胸の内には、己の無力さと無知に対する激しい自己嫌悪だけが、どす黒く渦巻いていた。

……失敗した。あの石がなければ、爆発は起こせない。咲夜の初動を遅らせることも、美鈴の目を欺くことも、何一つできずに私はまたあの石畳の上で爆散するだけよ。

廊下の隅で、重い台車を押しつけられながら、私は必死に他の手を考えていた。石がダメなら、厨房の油を使うか。あるいは大図書館の古い紙をすべて暖炉に詰め込んで煙幕にするか。だが、どれもあの時間を止める執行人の前では、一秒の稼ぎにもなりはしない。

その時、大図書館の通路の向こうから、小悪魔が私たちの元へと歩み寄ってきた。

「あなたたち四人に、咲夜さんからの伝言よ」

小悪魔は、疲弊しきった琥珀色の瞳を私たちに向け、冷淡に言った。

「今日の夕方の夜会のために、予備の食器が足りなくなったそうよ。今すぐ地下一層の物置部屋へ行って、予備の白磁の皿を数十枚と、銀食器の予備をすべて数え切って、一階の厨房まで届けなさい。一枚でも割ったり、銀食器に曇りを残したら、今夜の配給はなしよ」

「……はぁ、また重労働ね」

ナズナが、諦念を口にして溜息を吐いた。スズナもいつもの調子で「早く終わらせて、寝室のベッドで横になりたいわね」と笑い合っている。

私たちは重い足取りで、再びあの冷え切った地下一層の「忘却の物置」へと向かう回廊を歩き始めた。

待ちなさい。酸性と金属の爆発……。

歩きながら、私の脳裏の暗闇の中で、さっきパチュリーにめちゃくちゃに叱られていた瞬間の、あの部屋の光景が、驚くほど鮮明に再生された。

パチュリーの机の上、私が漁っていた木箱のすぐ真横の棚に、不気味に並んでいたいくつかのガラス瓶。

私は文字のすべてを読むことはできなかった。専門用語の羅列は、私の矮小な知恵の壁の向こう側にあった。だが、その瓶のラベルの隅に刻まれた、ごく簡単な、私が地上でのルーティンの中で辛うじて覚えることのできた数文字の記号だけは、私の瞳の裏側に強烈に焼き付いていた。

『――キリュウサン――』

(リュウサン……『酸』よ。あれは、間違いなく、強い『酸性の液体』だわ)

電撃のような閃きが、私の背骨を駆け抜けた。

パチュリーは妖精に説明する際、「例えば厨房の濃いお酢のような、強い酸性の液体と一緒にしてはダメ」と言っていた。ということは、お酢の代わりに、あの研究室の棚に並んでいた本物の酸を、あの古びた大鍋の中に注ぎ込むことができれば――厨房のお酢をチビチビと盗み出すよりも遥かに強烈な、館の壁をも一瞬で消し飛ばすような『本物の大爆発』を、あの使われていない暖炉の中で引き起こすことができるのではないか。

手の中に道具はまだ何一つとして揃っていなかった。しかし、計画の「第二の可能性」という名の凶悪な導火線が、私の胸の内に、より確固たる形となって埋め込まれたのだ。

その後の仕事は、驚くほど淡々と、無機質に終わっていった。

物置部屋から重い白磁の皿を数十枚、一枚の狂いもなく厨房へと運び、銀食器の予備をすべて磨き上げ、咲夜の冷徹な検分を何事もなく潜り抜ける。

やがて、長い使役の一日が終わり、窓のない、ただダクトの音がゴー、ゴーと響くだけの共有の寝室へと戻された時。

ナズナもスズナも、オダマキも、過酷な労働の疲労に耐えかねて、藁布団の上で泥のように眠りに落ちていった。彼女たちの穏やかで、しかしどこか諦念に満ちた寝息が、手狭な部屋の中に小さく反響する。

私は、自らの衣服を一枚ずつ、静かに脱ぎ捨てた。

ヘッドドレスを外し、エプロンの紐を解き、糊のきいた黒い上着を頭から引き抜く。

脱いだ衣服を、あの湿気で歪んでギィと嫌な音を立てる箪笥の引き出しの奥へと、音を立てないよう慎重にしまい込む。

鏡の中に映る私の裸の上半身。そこには、個性のない、いくらでも代わりのきく「紅魔館のメイド妖精」の白い肌と、背中に刺さる冷たい呪縛の影だけがあった。

みんなが完全に寝静まり、部屋の換気ダクトの金属音だけが響く深夜。

私は、自分の藁布団から、音もなく、静かに足を下ろした。

床の板の間の冷たさが、私の皮膚を直接透過して、胸の奥の昏い執念を激しく揺さぶる。

私は、一糸纏わぬ上半身を暗闇の中に曝したまま、部屋の重い鉄のドアノブへと、そっと手を伸ばした。

扉の向こう側の回廊は、静まり返った底なしの深淵。

私は、良き友人である彼女たちをこの監獄の中に置き去りにすることへの、胸を抉られるような激しい葛藤をその身に引き受けながら、ただ一人、完璧なる計画の引き金を引くために、その部屋をそっと抜け出すのだった。

 

窓のない檻から一歩外へ踏み出すと、地下の空気は、日中の過酷な労働で熱を孕んだ私の皮膚を容赦なく刺すように冷たかった。一糸纏わぬ私の白い上半身が、地下回廊の濃密な暗がりのなかで不気味に浮かび上がる。背中のスリットから覗く一対の半透明な羽が、恐怖と寒冷の拒絶反応によって、ちり、ちりと、微かに引きつるような感覚を伝えてくる。

私は、息をする回数すらも数秒に一度へと落とし、ただ冷徹に、素足の裏で石床を捉えながら歩いた。

静まり返った闇のなかに、ペタ、……ペタ、……と、私の肉体が大理石に吸い付くような微かな足音が、驚くほど不吉なリズムを刻んで響いていく。

目指すのは、一階のパチュリーの研究室。あの棚に並んでいた本物の『酸』の硝子瓶を、この手で確実に盗み出すこと。

しかし、その私の前に、これ以上ないほど過酷な「障壁」が立ち塞がった。

辿り着いた大図書館の中心――そこは、幾幾何学的に配置された巨大な本棚の迷路のすべてが交差し、全方位の回廊が視線の一点へと収束する、最も視界の開けた巨大な円形広場だった。

その中心に配された黒檀の机の前に、大きな日傘のような陰を落とし、パチュリー・ノーレッジが、ただ一人静かに座っていた。

机の上の小さな魔導ランプの灯りが、彼女の膝の上の古びた羊皮紙を白く照らし出し、その蒼白い指先が、ページの端を気怠げに繰るサ、……サ、……という乾いた音が、広い空間に不気味なほど鮮明に反響している。

……どうして、こんな真夜中まで起きているのよ。

私は、本棚の分厚い影に身を潜め、激しく高鳴る心臓の鼓動を押し殺しながら彼女を凝視した。

幸いなことに、いつも彼女のすぐ傍らで鋭い目を光らせている小悪魔の姿はどこにもなかった。

過酷な蔵書管理の疲弊の限界を迎え、今は休憩を取るために、地下の自室へと引きこもっているのだろう。それは確かに、千載一遇の『絶好のチャンス』だった。

だが、パチュリーの研究室へと続く、最短の近道を通るためには、どうしても彼女の座るあの円形広場の中心を、その緋色の瞳の視界のど真ん中を、真っ直ぐに横切っていかなければならなかった。

本棚の裏を縫うようにして遠回りをすれば、彼女に見つかることなく進むことはできるだろう。しかし、その歪な迷宮の遠路を選べば、時間にして片道十分以上は余計にかかる。もしその間に、休憩を終えた小悪魔が回廊に戻ってくれば、その瞬間に私の脱獄計画は、ただの「夜這いの悪戯」として咲夜のナイフの錆にされて終わるだけだ。

近道を選ぶか、遠回りを選ぶか。

パチュリーは、机の上に置かれた、湯気の立ち上る薄紅色の磁器のカップを優雅に持ち上げ、静かに紅茶を口に含んでいる。その一挙手一投足が、私という消耗品の命の残滓を弄ぶかのように冷徹で、美しかった。見つかれば終わり。一歩も動けない。激しい焦燥と恐怖が、私のむき出しの鎖骨の窪みを冷たい汗で濡らしていく。

……やはり、分が悪すぎるわ。今夜は、諦めて帰るしか。

私が、執念に燃える身体をあえて冷徹に撥ね退け、寝室への撤退を決意して、踵を返そうとした、まさにその刹那だった。

「――ゴホッ、ゲホッ、……ッ、……ハァ、……っ!」

突如として、円形広場の静寂を、喉を掻きむしるような凄絶な「咳」の嵐が劈いた。

パチュリーが、口に含んだ紅茶で酷くむせてしまったのだ。彼女は手にしたカップを机の上にガタガタと激しく衝突させ、細い胸元を両手で強く押さえつけながら、激しく、今にも肺を吐き出すかのように咽び始めた。

「……ゲホッ、ガハッ、……う、く、……お薬、……っ」

彼女は完全に視界を失い、机の上に乱雑に置かれた、自らの喘息の吸入薬の小瓶を、震える指先で必死に手探りし始めている。その強者ゆえの、あまりにも無防備で生々しい「肉体の弱み」。

今!

私の脳の神経細胞が、一瞬にして恐怖のロックを解除した。

私は、本棚の影から一気に飛び出すと、激しく咳き込むパチュリーの背中を、その小さな魔導ランプの灯りの死角を、音を立てずに全力の跳躍で駆け抜けた。

ペタペタと、大理石に吸い付く足音が彼女の断末魔のような咳の音に完全に掻き消されていく。

研究室の半開きの扉をすり抜け、部屋の中へと滑り込む。

日中に目を付けていた、あの棚の上のガラス瓶。私は躊躇なく手を伸ばし、その冷たい、濁った液体の満ちた瓶を一本、しっかりと鷲掴みにした。

『――キリュウサン――』

文字のすべては読めずとも、その数文字の記号が、私の手の中で、確かに「本物の大爆発の引き金」としての質量を持って冷たく収まっていた。

私は、来た道を戻るリスクをあえて避け、今度は大図書館の最も深い外縁をなぞる、暗い本棚の裏の『遠回り』のルートを選んで、息を切らしながら疾走した。

寝室の重い鉄の扉を、音を立てずに押し開け、中に滑り込む。

ナズナもスズナも、オダマキも、未だ藁布団の上で泥のような眠りの中にあった。彼女たちの穏やかで、しかし虚無的な寝息が、手養な檻の中に響いている。

私は、一糸纏わぬ上半身の震えを隠すように、部屋の隅にある、あの水銀の斑に剥げ落ちた共有の鏡へと這い寄った。

そして、その歪んだ鏡の木製の土台の、肉眼では見えない真後ろの薄暗がりの隙間に、盗み出してきた『希硫酸』のガラス瓶を、そっと、完璧に隠匿した。

ベッドへと滑り込み、薄い、死人の皮膚のように硬いシーツを頭から被る。

「……はぁ、……っ、はぁ、……」

その瞬間に、堰を切ったように、堰き止めていた猛烈な緊張感と焦りが、全身の血管を沸騰させて逆流してきた。

心臓が、頭蓋骨の裏側で爆音となって狂ったようにドクドクと鳴り響き、喉の奥がカラカラに干からびて、呼吸が激しく荒れ狂う。

指先が、恐怖の残響でガタガタと震えて止まらない。もし一歩遅れていれば。もしパチュリーが薬を吸うのが一秒早ければ、私は今頃、あの円形広場の床で、背中の羽を毟り取られて破裂させられていた。

その凄絶な生々しいサスペンスが、私の目をらんらんと冴え渡らせ、眠りを拒絶させようとする。

だが、私は自らの胸の上で両手を強く組み、激しく暴れる心臓を物理的に押さえつけるようにして、無理やりに瞼を閉じさせた。

寝なさい、私。……寝るのよ。

私は、自らの狂気的な生の執念を、その焦燥のすべてを、冷徹な理性の底へと無理やりに押し込めながら、ただひたすらに、眠ることだけに意識を集中させようとするのだった。

時計の針は、深夜の闇を冷酷に刻み続けている。

手の中に『本物の酸』という最悪の劇薬を隠し持ったまま、私たちの運命の地上へ戻る日へのカウントダウンが、この暗闇の中で、より深く、どす黒く加速していくのだった。

 

翌朝の覚醒は、昨日までのそれとは決定的に異なっていた。

水銀の剥げかけた共有の鏡の後ろ――その数センチの薄暗がりの隙間に、あの無色透明な死の劇薬が、冷徹な質量を持って確かに隠されている。その事実だけで、私の肋骨の奥の心臓は、朝の冷水に顔を浸すよりも遥かに鋭く、早鐘を打っていた。

大図書館の使役が始まると、私は埃を払う手を動かしながら、幾度となく回廊の中心へと視線を泳がせた。

黒檀の机の前で、パチュリー・ノーレッジは昨日と何一つ変わらぬ様子で、分厚い魔導書のページを気怠げに繰り続けていた。

どうやら、真夜中に一瓶の薬品が紛失したことには、未だ気づいていないらしい。その強者ゆえの、あるいは虫ケラへの無関心ゆえの盲点に、私は胸の内で深く、深く安堵の息を漏らした。

だが――安堵の直後、冷酷な現実が再び私の思考の歯車をギチリと締め付けた。

……酸は手に入った。けれど、爆発の核となるあの灰色の石が、まだどこにもない。

パチュリーの研究室から手荒く追い出されて以来、監視の目は一段と厳しくなり、再びあの部屋へ忍び込む隙など万に一つも残されてはいなかった。石がなければ、どれほど強い酸があろうとも、館を揺るがすほどの大爆発を引き起こすことは叶わない。咲夜の初動を遅らせることも、美鈴の警戒を削ぐこともできず、私はまたあの黒鉄の門の外で、無惨に肉体を弾け飛ばされて終わるだけだ。

焦燥が、泥のように私の精神を侵食していく。それと同時に、私の胸の奥底にくすぶっていた、もう一つのドス黒い葛藤が、いよいよ血を吐くような生々しさでせり上がってきた。

私は、本当に彼女たちを置いて、一人だけで行くのか?

本棚の影で、楽しげに次の使役の噂話を交わしているナズナとスズナ、そしてオダマキの姿を凝視する。

彼女たちは、私にとって決して「見下すべき無知な消耗品」などではなかった。この冷徹で理不尽極まる紅魔館という監獄の中で、互いのむき出しの肌の温もりを貪り合い、主たちの酷いニックネームを言い合って笑い合ってきた、唯一の、かけがえのない良き友人たちだった。

一緒に出ることはできないのか。四人で、あの黒鉄の門を駆け抜けるルートは無いのか。本気で、私の矮小な知恵のすべてを絞って考えた。だが、答えはいつも、冷徹な生存率の数字となって私を絶望させるだけだった。四人で走れば、美鈴の武術に一瞬で組み伏せられる。四人で翼を切り落とせば、出血多量で誰も門にすら辿り着けずに全滅する。

一人で逃げれば、残された三人は必ず、完璧主義の咲夜のヒステリックな制裁の標的になる。目を抉られ、手足を切られ、頭を抜かれる。彼女たちの信頼の裏で、私は最低の裏切りを企てているのだ。その生々しい罪悪感が、私の肺の奥を重く、苦しく締め付けていた。

結局、最後のピースである亜鉛を手に入れる手立てすら見出せぬまま、二週間の地下生活は、無情にもその最後の夜を迎えてしまった。

深夜十一時。窓のない寝室のなかで、ナズナもスズナも、オダマキも、明日地上へ戻れるという微かな安堵のなかで、藁布団の上で泥のような眠りに落ちていた。

私は、音を立てずにベッドから這い出した。

箪笥の引き出しの奥から、日中の作業中に命がけでくすねておいた数枚の古い紙の破片と、小さな薬瓶に分けた少量のインク、そして実用には耐えぬと捨てられていた折れた羽ペンを静かに取り出した。

私がいなくなった後、残された三人が「私が逃げ切ったこと」に気づいたその時に、彼女たちが咲夜の制裁から生き延びるための、そしていつか、彼女たち自身がこの監獄を脱出するための『手助け』を残すことができるはずだ。

私は、床に腹這いになり、微かなダクトの明かりを頼りにして、必死に羽ペンを動かし始めた。

『翼の楔は、飛行器官の脈動で発動する。つまり、羽そのものが無ければ爆発は起きない』

『一階の暖炉。酸と、特定の金属。大雨の日は主たちが外へ追ってこられない』

ガリ、ガリ、と、折れた羽ペンが古い紙を削る生々しい音が、静まり返った部屋に響く。

その文字を書き連ねていくほどに、私の胸の奥から、堰を切ったように激しい葛藤と悲しみが溢れ出してきた。

ごめんね。みんな。本当に、ごめんなさい……!

私は、彼女たちを救いたい。けれど、私は私の自由のために、彼女たちを裏切って先に行く。その身勝手な己の狂気に対する激しい自己嫌悪。

ポロポロと、私の両目から大粒の涙が零れ落ち、書き終えたばかりの『手紙』の上の墨を、生々しく、歪に滲ませていった。涙で歪んだ文字は、私の内面の崩壊そのものだった。

私は、滲んだ手紙を小さく、細く折り畳むと、二段ベッドの頭上にある、あのゴー、ゴーと無機質な金属音を立て続ける換気ダクトの、格子状の隙間の奥深くへと、誰にも見つからぬよう静かに押し込んだ。

いつか、彼女たちがこの檻で上を見上げたときに、私の遺言が届くことを信じて。

そして、遂に二週間の地下生活が終わりを告げる、運命の朝がやってきた。

小悪魔の冷淡な点呼を終え、地上の一階へと続く冷たい石階段を上る。

私の純白のドロワ、そして重いエプロンで覆い隠されたスカートの裏側には、あの真夜中に大図書館の中心を駆け抜けて盗み出してきた『希硫酸』のガラス瓶が、太ももの皮膚に冷たい鉄のような感触を伴って、不気味に隠されていた。歩くたびに、瓶の中の液体が「チャプ、チャプ」と、私の肉体の境界線を通じてかすかに揺れる。見つかれば即死。

地上の光が、二週間ぶりに私たちの歪んだ瞳を射抜いた。

回廊の窓の外を見上げると、そこには、私の焦燥を嘲笑うかのような、どんよりとした厚い雨雲が広がり始めていた。

手の中に『亜鉛』は未だに無い。計画は完全に破綻しかけている。だが、運命の大雨の日は、もうすぐそこまで迫っていた。

私は、スカートの内の劇薬を強く太ももで挟み込みながら、終わりのない日常の表舞台へと、再びその一歩を踏み出すのだった。

 

地上の光は、二週間ぶりに私たちの歪な瞳を容赦なく射抜いた。

大広間へと続く長い石階段を上りきり、再び紅魔館の一階回廊へと踏み出した私たち四人を待っていたのは、何一つとして変わることのない、冷徹なまでに統制された「いつも通り」の労働だった。糊のきいた黒い上着、首元をきつく締め上げるフリルのボタン。二週間、暗闇の中で上半身を剥き出しにして眠っていた皮膚には、その地上という名の鳥籠の衣服が、まるで強固な拘束衣のように重苦しくまとわりついてくる。

だが、私の純白のドロワの奥、重いエプロンに覆い隠されたスカートの裏側には、あの真夜中の大図書館でパチュリーの目を盗んで盗み出してきた『希硫酸』のガラス瓶が、太ももの皮膚に冷たい鉄のような感触を伴って、不気味に密着していた。歩くたびに、瓶の中の無色透明な死の劇薬がチャプ、チャプと、私の肉体の境界線を通じてかすかに揺れる。もし今、十六夜咲夜のあの冷淡な灰色の瞳が私のスカートの不自然な膨らみや歩き方に気づけば、その瞬間に私の脱獄計画は、私の肉体ごと回廊の黒大理石の上で木端微塵にされる。その生々しい破滅の予感を、私は平然とした人形の仮面の裏に押し殺していた。

「――はぁ。やっぱり、こっちの床を磨く方が、あの図書館の本の埃を払うより何倍も腰にくるわね」

ナズナが、毛先の禿げかかった箒を壁に立てかけ、いつものように太宰治の描く道化の如き諦念をその唇に浮かべて、低く笑った。咲夜の足音が聞こえないことを確認し、私たちは自然と、回廊の使われていない客室の影へと頭を寄せ合う。二週間ぶりに戻ってきた、私たちの愛おしいサボりの時間だった。

「本当よ。あっちの地下生活の重労働も最悪だったけれど、いつどこからあの『冷血ネジ巻き人形』が歩いてきて、時間を止められるか分からない恐怖に比べれば、ただ暗いだけの地下の方が、よっぽど精神的には楽ができたわよね」

スズナが、自分の小ぶりな雑巾をバケツの冷水に浸しながら、クスリと笑ってナズナの言葉を引き取った。彼女の瞳には、かつてのような狂気的な怯えはなく、地下での二週間を経て、主たちの理不尽に対する冷徹な強さが確かに宿っていた。

「でもさ、本当に不思議なのはオダマキよ」

ナズナが、雑巾を絞る手をぴたりと止めて、私たちの後ろでマイペースに床の模様を眺めているオダマキを振り返った。

「あんた、あの地下二層の部屋で、一体どうやってあの『悪魔の燃えカス』をあんなに大爆笑させたのよ。私なんて、あの方の前に立つだけで、自分の手足の骨がまたポロンって取れちゃうんじゃないかって、心臓がバクバクしていたっていうのに。あんたが平然とした顔であの方に悪口を言っている姿は、地上に出た今でも、私たちにとっては謎でしかないわ」

「そうよ、オダマキ…もしかして何か隠し事してない?」

スズナも楽しそうに笑い、オダマキの肩を肘で小突いてみせた。

当のオダマキは、「ええ? ただ、思ったことをそのままお話ししただけだよぉ。あのお人形、私のお話がすっごくお気に入りだったみたいだしね」と、アホ毛を弄りながら平然と言ってのけるのだった。

そんな、不条理な地獄を潜り抜けてきたからこそ分かち合える、四人の他愛のない、しかし何よりも温かい会話。

彼女たちの笑い声を聞きながら、私の胸の奥底は、血を吐くような凄絶な葛藤によって、再び無惨に抉られ、引き裂かれそうになっていた。

私は、この三人を置いて、一人だけで逃げる。

スカートの裏に隠したこの劇薬を使って、館を爆破し、一人で外の世界の光を掴みに行く。だが、その引き金を引けば、残されたこの愛おしい友人たちは、間違いなく咲夜のヒステリックな制裁の生贄になる。もう一度四人で逃げるルートはないのか、彼女たちを巻き込まずに済む方法は無いのか、本気で、私の矮小な知恵のすべてを絞って考え続けていた。表情には、一滴の動揺も出さないようにしながら。

さらに、私の脳髄を激しく焦がしていたのは、計画の致命的な『空白』だった。

パチュリーの研究室から追い出されて以来、あの部屋に再び近づく手段は完全に絶たれている。

石が手に入らなければ、どれほど強い酸があろうとも、館全体を揺るがすような大爆発を引き起こすことは叶わない。

どうやって、あの亜鉛を手に入れればいい?……それとも、亜鉛の代わりになるような『強い酸に触れると大爆発を起こす金属のゴミ』を、この地上のどこから見つけ出せばいいというの?

厨房の裏に転がっている錆びた包丁か。それとも、私たちが日々磨き上げている、あの古い銀食器の予備か。文字の読めぬ私には、どの物質がパチュリーの言う『爆発の条件』を満たすのか、その確証が何一つ得られなかった。曖昧な設計図のまま、運命の歯車だけが、静かに、確実に回り続けようとしていた。

「ほら、みんな、咲夜様の足音が近づいてくるわよ。早く雑巾を動かす振りをしなさい」

私の冷淡な、しかし張り付いたような声に、ナズナとスズナはハッとしたように掃除用具を握り直した。

窓の外を見上げると、二日前から漂っていたあの重苦しい湿気を含んだ風が、初夏の薔薇の生垣を激しく揺らし始めている。空は、どんよりとした漆黒の雨雲に覆い尽くされようとしていた。

手の中に、決定的なピースはまだ無い。

それでも、私の胸の奥で爆発の時を待つ、あの昏い、獰猛な執念の炎だけは、友人たちへの愛おしさと罪悪感を最高の上等な薪に変えて、より一層どす黒く、激しく燃え上がろうとしていた。

日常という名の、終わりのない監獄の表舞台。

私は太ももに伝わる劇薬の冷たさを凝視しながら、ただ一人、世界の終わりと始まりの秒読みを、冷徹に企て続けるのだった。

 

二週間ぶりに戻ったあの手狭な宿舎の空気は、地下の濃密な湿気に比べれば驚くほど乾いていたが、そこに漂う「規格品の消耗品」としての閉塞感だけは、何一つとして変わってはいなかった。

その夜、私はナズナやスズナ、オダマキが藁布団の上で泥のような眠りに落ちていくのを見届けた後、スカートの中から滑り出させたあの無色透明な死の劇薬のガラス瓶を、自らのベッドの硬い藁布団の最も深い隙間へと、冷徹な手つきで隠匿した。

それから数日の間、私の脱獄計画は完全なる停滞を迎えていた。

回廊を磨き、庭の生垣を整え、咲夜の冷淡な点呼に首を垂れる日常のなかで、私は常に『亜鉛の代わりとなる金属』を視線だけで探し続けていたが、手に入るのはありふれた木片や布切ればかりだった。パチュリーの言う「強い酸に触れると大爆発を起こす金属のゴミ」の正体が掴めぬまま、無情にも時間だけがただ淡々と、私たちの永劫の輪廻を刻み続けていた。

……このまま、あの曖昧な設計図のまま、私はまたあの黒鉄の門の外で、自らの肉体を弾け飛ばされて終わるだけなのか。

激しい焦燥が、私の胸の奥をどす黒く焦がしていた、ある日の午後だった。

「――そこのあなた、手を止めなさい」

回廊の隅で雑巾を絞っていた私の背後に、十六夜咲夜がその完璧に統制された足取りで音もなく佇んでいた。彼女の灰色の瞳は、いつものように感情の一滴すらも湛えてはいない。

「厨房の裏の勝手口に、先日の夜会で使われた大量の『ゴミ』が溜まっているわ。他の妖精たちと協力して、それらをすべて館の外の外縁にある廃棄場まで運び出しなさい。一箇所に滞留させるのは、館の美観を損ねるわ」

咲夜は深く、退屈そうにため息をつくと、それだけ言い残して時間を止めることもなく歩み去っていった。

私は、ナズナたちと共に厨房の裏口へと向かった。

そこには、銀食器を磨いた後の汚れた廃液の樽や、使い古された厨房器具、そして主たちが召し上がった最高級の食材の残滓が、生々しい悪臭を放って山積みにされていた。

私たちは大きな麻袋を両手で抱え、それらの廃棄物を黙々と運び出し始める。

ここよ。ここに、あの石の代わりになるものが、何か眠っているはずだわ。

私は、咲夜の目が光っていないことを確認しながら、麻袋の中にゴミを放り込む指先を鋭く尖らせ、必死にその山の中を捜索した。パチュリーが口にしていた「鉄くず」や「錆びた包丁」のような、重くて黒い鉄製のものはどこにも見当たらなかった。あるのは、腐りかけた野菜の屑や、油に塗れた紙切ればかり。

焦りが、私の指先をガタガタと震えさせる。諦めて次の袋を持ち上げようとした、まさにその刹那だった。

厨房の片隅、銀のトレイを洗浄する区域の足元に、無造作に転がっている一つの小さな袋が、私の歪んだ瞳を捉えた。

それは、お嬢様たちが人間の里から仕入れさせた、あるいは外の世界から流れ着いた飲料の【アルミ缶を、細かく押し潰して裁断したゴミの袋】だった。

袋の隙間から覗く、初夏の陽光を反射してギラギラと不気味に鈍く光る、無数の銀色の金属の破片。

……アルミ。……アルミニウム。

私の脳髄の奥底で、あのパチュリーの部屋での盗み聞きが、凄まじい爆音を伴って再生された。

あの石じゃなくてもいい。……鉄じゃなくてもいい。同じ、硬くて重い『金属のゴミ』であるならば。このギラギラと銀色に光るアルミの破片を、あのベッドの裏のキリュウサンの中に一気に注ぎ込めば――パチュリーの術式を越える、本物の水素の大爆発が、あの暖炉の中で引き起こせるのではないかしら――

確証など、何一つとしてなかった。文字のすべてを読めぬ私にとって、アルミという物質が亜鉛と同じ化学反応を辿るのか、その正解を導き出す知恵は無かった。だが、これ以上の機会は、私の永劫の歴史のなかでも二度と訪れはしない。

いっそ、アレを使ってやろうじゃない――!

私は、自らの狂気的な生の執念に身を任せるようにして、ナズナやスズナが大きな荷物を運んでいるその僅かな視線の死角を縫った。

そして、その袋の中から、細かく裁断されたアルミ缶の銀色の破片を、両手で一掴み、二掴みと、貪るようにして自らの黒い上着のポケットの中へと、限界まで押し込んでいった。金属片同士が擦れ合うチャリ、チャリという生々しい硬質な音が、回廊の静寂に漏れ出さないよう、自らの背中の羽を完全に静止させ、呼吸を止めて。

ポケットが、ズシリとした金属の、しかし確かな『破滅の質量』を伴って、私の太ももを重く圧迫した。

私は、何事もなかったかのような人形の仮面を再び顔に貼り付け、残りのゴミ袋を廃棄場へと運び終えた。咲夜の冷徹な検分を何事もなく潜り抜け、長い使役の一日を終えて、あの窓のない、ただ四個の二段ベッドが並ぶ宿舎へと戻された時。

ナズナもスズナも、過酷な使役の疲労に耐えかねて、すぐに藁布団の上で眠りに落ちていった。

私は一人、部屋の隅にあるあの歪んだ箪笥の引き出しを静かに引き開け、ポケットの中から、ギラギラと鈍く光るアルミの破片をすべて取り出した。そして、隠してあった希硫酸のガラス瓶のすぐ傍らへと、誰にも見つからぬよう完全に、冷徹に隠匿した。

ベッドへと滑り込み、硬いシーツを頭から被る。

 

日中の使役を人形のようにこなす傍らで、私の脳細胞は、あの圧倒的な強者であるレミリア・スカーレットの日常の些細な「習慣」や「歩調」のデータを、記憶の底から必死に引き出そうと、狂ったように回転し続けていた。さらに私の精神を血を吐くような焦燥で満たしていたのは、自傷のタイミングだった。

自らの背中にある、あの一対の半透明な羽を、厨房の肉切り包丁で根元から切り落とす。一体いつ、どの部屋で、どれほどの生々しい激痛と出血に耐えながら、その凄絶な行為を完遂すればいいというの?

一歩間違えれば、爆破の仕掛けを暖炉に施す前に、私は自らの血の海の中で窒息して事切れてしまう。その冷徹な生存率の計算に胸を焦がされていた、ある日の午後だった。

「――そこのあなた、手を止めなさい」

回廊の影で雑巾を絞っていた私を、十六夜咲夜の冷淡な声が呼び止めた。

「今から、二階にあるレミリアお嬢様の『書斎』へ向かいなさい。近頃の不要になった古新聞の束をすべて暖炉の薪の代わりに使うわ。お嬢様は、いつも深夜三時にあの書斎をお使いになるの。いつでも適度な火力が維持できるよう、新聞紙を多めに丸めたりちぎったりして、なるべく薪の隙間の奥深くまで隙間なく敷き詰めておきなさい」

夏目漱石の描く冷然たる執行人の如く、咲夜は懐中時計の竜頭を小さく弾きながら、私に事務的な指示を投げ渡す。

「お嬢様はご自分で火をお点けになるのを好まれるから、あなたが行うのはその準備だけで結構よ。私は厨房の帳簿の確認に戻るわ。一分一秒の遅れも許されないと思いなさい」

咲夜はそれだけ言い残すと、完璧に統制された足取りで回廊の闇へと消えていった。

私は、古い新聞紙の束を両手に抱え、まだ主の入ってきていない、死んだように静まり返った豪奢な書斎へと足を踏み入れた。

部屋の奥には巨大な石造りの暖炉が、黒い口を開けて鎮座している。私は、咲夜の指示通りに古い紙切れを細かくちぎり、大きな薪の隙間の奥深くへと必死に押し込んでいった。文字の読めぬ私にとって、その古新聞のインクの羅列はただの不気味な文様だったが、その手を動かしながら、私の脳の歯車がギチリと凄まじい音を立てて噛み合った。

……三時よ。お嬢様が書斎に入り、自らの魔力で暖炉に火を点けるのは、深夜の三時。――ならば、館を脱出する運命の時間も、その三時でなければならないわ。

計画の秒読みが、私の胸の中で一瞬にしてカチリと固定された。

二時三十分、私は寝室で自らの翼を切り落とす。それからこの暖炉の直下へと劇薬を仕掛ける。三時に主が火を放った瞬間、大爆発が館を吹き飛ばす――。

作業を完璧に終えて書斎を出た私は、周囲の影を気にしながら、素足の裏で冷たい石床を捉え、急いでその書斎の『真下の部屋』へと向かった。

そこは、普段は埃除けの白い布が被せられたまま、いつ誰が使うのかも分からない、館に沢山ある使われていない客室の一つだった。幸いなことに、黒い木製の扉に鍵は掛かってはいなかった。

静かに中へ滑り込み、重い扉を閉める。

部屋の奥へと這い寄り、壁に嵌め込まれた一階の暖炉の構造を凝視した。やはり、私の計算通りだった。この部屋の暖炉の通気口は、真上にある二階のレミリアの書斎の暖炉へと、真っ直ぐ一本の線で繋がっていたのだ。

これなら……あとは実行する前に、この一階の通気口の隙間を、板か何かで強引に塞いでしまえばいいわ。そうすれば、発生した見えない爆発性の気体は逃げ場を失って、すべて上の書斎の暖炉の奥へと一気に逆流していく。お嬢様が火を点けた瞬間、彼女の目の前で、本物の大爆発が起こる。

私の唇の端が、暗がりのなかで、じわりと昏く歪んだ笑みの形に変形していく。

完璧だった。これなら、咲夜の初動を確実に数分間は封じ込めることができる。

私は興奮を抑えながら、客室の重厚な嵌め殺しの窓へと近づき、そこから外の前庭の光景を見下ろした。

だが、窓の向こうの景色を目撃した瞬間、私の思考の歯車は冷酷に凍りついた。

紅魔館の敷地を外の世界から隔てる、あの高大な煉瓦の壁。

……高いわね。もし、私に許されたあの半透明な羽があるならば、こんな壁など軽々と飛び越えることができる。けれど……羽を根元から切り落とした、あの自傷行為の後の、二本の足しか持たない今の私だったら……この壁を這い登ることは、絶対に不可能だわ。

希望的観測が一瞬にして打ち砕かれ、私の背筋を冷たい脂汗が伝い落ちる。走って門へ向かえば美鈴に捕まる。壁は登れない。

絶望が胸を抉ろうとした、まさにその時だった。

壁の端、前庭の最も目立たない薄暗がりの角の場所に、一本の、背の高い庭木が、ひっそりと佇んでいるのが見えた。

その木の枝は、煉瓦の壁の最上部へと、まるで自由への梯子のよう手を伸ばすようにして、静かに伸びていた。

あそこよ。……あの木に登れば、羽を失った私の身体でも、確実に壁を越えて外の世界へ飛び降りることができるわ。

すべてのパズルのピースが、今、私の手の中で劇的に、美しく噛み合わさった。

希硫酸、アルミの破片、深夜三時の秒読み、そして一本の木。順調だった。これなら、私は本当に、私の足で外の光を踏みしめることができる。

「よし――」

胸の内で小さく歓喜の独白を漏らし、私は完璧な設計図を胸に秘めて、その使われていない客室の扉を静かに開け、廊下へと一歩踏み出した。

――その、まさに、刹那だった。

「――あら。あなた、そんなところで何をサボっているのかしら」

心臓が、文字通り口から飛び出るかと思うほどの凄絶な衝撃が、私の全身の血管を駆け抜けた。

ハッと顔を上げると、開けた扉のすぐ目の前の薄暗がりのなかに、十六夜咲夜が、その完璧に整えられた白髪のヘッドドレスを揺らし、灰色の鋭い瞳で私の顔を真っ向からバッタリと見つめていた。

床に吸い付く私の指先が、一瞬にして凍りつく。

なぜ、厨房に戻ったはずの彼女が、誰もいないはずのこの客室の前に立っているというのか。私のスカートの裏の希硫酸の膨らみに、彼女の視線が、ゆっくりと這い下りてこようとしていた――。

 

 

「――窓が、開いていたので。……風で、お嬢様の書斎の床が汚れてはいけないと思い、閉めておきました」

氷の針が喉元に突き立てられたかのような凄絶な緊迫感のなか、私は、自らの乾ききった唇をどうにか動かして、その言葉を吐き出した。

声の震えを、筋肉の一ミリの痙攣すらも冷徹に撥ね退けて、人形の仮面を顔に貼り付ける。

十六夜咲夜は、私の顔を感情の一滴すらも湛えていない灰色の瞳でじっと凝視した。

数秒の、生殺与奪の権を握られた静寂。

彼女は何も言わず、私のすぐ横を通り抜けると、半開きになっていた客室の黒い木製の扉を押し開け、その白い布の被せられた死の世界を、軽く一瞥した。

「……そう。ご苦労様。お嬢様の書斎の手入れは完璧だったわ。あなたにしては、上出来な気配りね」

咲夜は深く、退屈そうにため息をつくと、それ以上私を追及することはしなかった。彼女の懐中時計が刻むチクタクという無機質な秒針の音とともに、彼女の完璧に統制された白髪のヘッドドレスが、回廊の闇の向こうへと遠ざかっていく。

「……はぁ、……っ、はぁ、……」

彼女の気配が完全に消えた瞬間、私は壁に背中を預け、堰を切ったように激しい呼吸を繰り返した。心臓が頭蓋骨の裏側で爆音となって狂ったようにドクンドクンと鳴り響き、喉の奥がカラカラに干からびていく。

だが、ここで腰を抜かしている暇など一秒も無かった。

私は息を整えると、急いで厨房の裏口へと駆け下りた。咲夜が帳簿の確認に追われているこの一瞬の死角を縫い、棚の隅に転がっていた厨房の使われない小さめの鍋と、廃棄箱の中に眠っていた捨てられる錆びついた小型のナイフを、貪るようにして両手に回収した。

誰にも見つからぬよう細心の注意を払いながら、再び先ほどの使われていない客室へと戻り、その古びた小鍋を通気口のすぐ傍らの暗がりに隠匿する。

そして、錆びついた小型のナイフは自らの黒い上着のポケットの中へと深く押し込み、そのまま、何事もなかったかのような顔で四人の共有の寝室へと戻った。

引き出しがギィと嫌な音を立てるあの箪笥を避け、私は自らのベッドの硬い藁布団の最も深い隙間へと、その冷たい鉄の刃を、キリュウサンとアルミの破片のすぐ隣へと滑り込ませた。

手の中に、すべての道具が、完璧に揃った。

それからの数週間、日常の歯車は驚くほど淡々と、無機質に回り続けた。

私は昼間、回廊の大理石を磨き、前庭の生垣を整えながら、ナズナやスズナ、オダマキといつも通りサボって主たちの酷いニックネームを言い合っては、他愛のない愚痴に花を咲かせて過ごした。彼女たちの笑い声を聞くたびに、私の胸の奥は引き裂かれるような葛藤に苛まれていた。

私は、一人で逃げる。彼女たちを、この地獄の輪廻の中に置き去りにして。

その身勝手な己の狂気と、良き友人たちへの生々しい罪悪感。私は毎晩、みんなが泥のように眠りについた真夜中、あの作業中にくすねた紙の破片に、折れた羽ペンで『友人たちへの謝罪』を夜な夜な書き綴り続けた。

『ごめんね。みんな。本当に、ごめんなさい……!』

『私がここから逃げ切れたなら、いつかあなたたちも、ここから抜け出して。……脱獄のための重要な内容は、すべて、あの地下の寝室の換気ダクトの中に書き残して隠してあるわ』

ポロポロと零れ落ちる涙が墨を歪に滲ませていく。私はその手紙を細く折り畳み、誰にも見つからぬよう、ダクトの奥深くへと押し込んだ。

そして、遂に。

その『決行の日』が、私たちの目の前にやってきた。

 

初夏の強烈な湿気を含んだ突風が、回廊の重厚な格子窓をガタガタと不吉に鳴らし続けていた。外は朝からの小雨がいつしか本降りの雨へと変わり、天を圧殺するような真っ黒で分厚い雲が、館の尖塔を完全に呑み込んでいる。時折、鼓膜の奥を揺さぶるようにゴゴゴ……と地響きを立てる遠雷の音が、前庭の薔薇の生垣を激しく震わせていた。

昼の使役の合間、私たちはいつものように一階の使われていない客室の薄暗がりに頭を寄せ合い、バケツの汚水に雑巾を浸しながら、声を潜めてサボりの時間を貪っていた。

だが、その泥濘のような日常のなかで、オダマキの口から吐き出された悪口の弾丸は、もはや皮肉や愚痴といった生易しい概念を遥かに超越していた。それは、これまで以上、過去最大とも言うべき、この紅魔館の住人全員を容赦なく敵に回し、万が一にも十六夜咲夜やレミリアお嬢様に聞かれようものなら、その瞬間に顔を見ただけで肉体を塵一つ残さず消滅させられかねない、凄絶なまでの罵詈雑言の羅列だった。

オダマキは、どこまでも平然とした、無垢で無邪気な顔のまま、滑らかにその毒を吐き散らし始めた。

「ねえ、みんな聞いてよ。オダマキね、ずっと考えていたの。あの『お漏らし赤ん坊』がどうしていつもあんなにお高くとまって、世界の王様みたいに偉そうに振る舞っているのか。格式高い吸血鬼の末裔なんて気取っているけれど、その中身なんて外の世界じゃ日光を恐れてジメジメした暗がりに引きこもる、ただのカビやゴキブリと同列の忌まわしい夜行性害虫よ。中世の古臭い血統主義にしがみついているけれど、要するに先祖代々身内だけで血を回し続けた近親相姦の奇形の末路じゃない。だからあんな風に、いつまで経っても身体も精神もまともに成長できない、ただの歪んだ幼児のままなのよ。あいつのあの誇大妄想の頭の中身、本当は今月の館の財政難の赤字と、先週耳が取れたテディベアの心配でパニックになってるくせにね。

それに、あの『冷血ネジ巻き人形』だってそうよ。完璧な人間を装って時間を止めるなんて不自然な真似ばかりしているから、身体の代謝も、細胞の成長も、女としての真っ当な機能も、ぜんぶ中途半端に腐って止まってるの。だからあんな、洗濯板に干し葡萄を二つ貼り付けたような、見るも無惨な両性具有のミイラみたいな骸骨になっちゃうのよ。毎晩お嬢様の前で借りてきた猫みたいに尻尾を振った後、自分の平らな胸と股ぐらを鏡に映すたびに、人間を辞めた自分に絶望してシーツに顔を押し付けて咽び泣いてるくせに、私たちの前じゃ神様気取りだなんて本当に滑稽だわ。本当の年齢はいくつなのかしらね? あの白髪婆、実は吸血鬼の魔力で若作りしてるだけで、中身はとっくに干からびた八十過ぎのドブネズミよ。

館の噂じゃ、あのネジ巻き人形とお嬢様は、主人と従者の関係を隠れ蓑にした『歪んだ恋人同士』なんじゃないかって囁かれているけれど、それなんてただの倒錯した自己満足の極みよね。あのお漏らし幼児の夜の相手をさせられながら、自分には永遠に手に入らない吸血鬼の若さと魔力を性的に貪ろうとしているだけの、哀れな誇り高き奴隷。そんな不潔なベッドの上でしか自分の存在価値を確かめられないなんて、本当に吐き気がするわ。

それから、地下の『薄のろ魔導書』と、あの『尻軽羽虫』の主従も本当に哀れよね。本を何万冊も積み上げて、世界の真理に触れているような高尚なツラをしているけれど、実際は外の世界の物価上昇のあおりを受けて、先月の請求書の金額を見るたびに青蒼しい顔をして、自らの喘息のランクを落とすかどうかで一日中頭を抱えているだけの、ただの貧乏なオタク引きこもりじゃない。あいつの言う『世界のための苦労』なんて、そこらのドブ水を啜りながらハーブでも齧っていれば解決するレベルの矮小な我が儘よ。小悪魔だって、そんなもやし女の便利なお盆として使われているだけなのに、自分が特別な使い魔だと勘違いして、三日も眠れずに琥珀色の目を血走らせているんだもの。

きっと、本当はパチュリーの部屋の奥で、主人に肉体的な悦びを奉仕することでしか大図書館に居座る権利を許されていない、ただの都合のいい愛玩動物のくせにね。

極めつけは、地下二層にいる、あの『お飾りの精神病患者』よ。閉じ込められているわけじゃないなんて言いつつ、結局はあのお漏らしお姉様の都合のいいおもちゃとして、この快適なだけの檻で一生飼い殺されるだけの、ただの知能の足りない破壊兵器じゃない。物質の急所を握り潰すなんて大層な能力を持っていても、自分の頭が完全にイカれているから、周りのものを綺麗に弾け飛ばすことしか脳がないのよ。一生あのお姉様の靴の裏を舐めながら、このドブの底で腐り果てていくのがお似合いだわ。

――あはは、本当、この館の連中って、どいつもこいつも中身のスカスカな、ただの動く粗大ゴミばかりよねえ!」

私とナズナ、そしてスズナの三人は、もはや彼女がどうしてここまで恐ろしい一線を超え続けられるのかについて、言及することすら辞めていた。それがお馬鹿ゆえの無神経さなのか、あるいは底辺を生きる消耗品としての命の軽さを本能的に理解しているからなのか。呆れていたのか、あるいはあまりの狂気に驚愕していたのかすら、もう自分たちでも分からなくなっていた。私たちはただ、彼女の持つそのおぞましくも美しい、悪口の圧倒的な才能に対して、胸の内で深く感嘆するしかなかった。幸いと言うべきか、今日の回廊には白髪の死神の気まぐれな足音はなく、その凄絶な暴言が誰の耳に届くこともなかった。

そして――それは、私にとって、この愛おしくも呪わしい日常の、最後の日だった。

長い使役の一日が淡々と終わり、窓のない、ただ天井のダクトが「ゴー、ゴー」と無機質な金属音を立てて響くだけの共有の寝室へと戻された。ナズナもスズナも、そして昼間に過去最大の爆弾を破裂させたオダマキも、過酷な労働の疲労に耐えかねて、藁布団の上で泥のような眠りへと落ちていった。部屋を支配するのは、終わりのない輪廻に麻痺しきった、彼女たちの穏やかで虚無的な寝息だけだった。

私は、じっと闇の中でその瞬間を待ち続けた。

深夜、時計の針が二時を回ったことを、天井のダクトの振動の僅かな変化で察知した私は、音もなくベッドから這い出した。自らの藁布団の最も深い隙間に隠しておいた『希硫酸』のガラス瓶、ギラギラと鈍く光る『アルミ缶の破片』、そして廃棄箱から盗み出してきた『錆びついた小型のナイフ』を、すべて両手の中に回収した。

それらを抱え、部屋の重い鉄の扉の前へと歩み寄り、ドアノブに手をかけた、まさにその時だった。

ふと振り返り、薄暗がりのなかに横たわる三人の寝顔を見つめた瞬間、私の胸の奥底から、堰を切ったように激しい感情の奔流がせり上がってきた。

私は、ここから逃げる。一人だけで、あの外の世界の光を掴みに行く。だが、その引き金を引けば、残されたこの大切な、かけがえのない友人たちは、間違いなく咲夜のヒステリックな制裁の生贄になる。私は彼女たちを裏切り、その命を踏み捨てて、自らの自由を選ぼうとしているのだ。

自らの内面にある底知れない弱さと臆病さ、そして良き友人たちを地獄の檻に置き去りにしていくことへの、凄絶なまでの罪悪感。

一気に視界が涙で遮られ、私は扉の前で崩れ落ちるようにして、その冷たい床の上に座り込んでしまった。

声を上げればみんなが起きてしまう。私は自らの細い両腕で口元を強く圧迫し、喉の奥から漏れ出そうとする嗚咽を必死に押し殺しながら、静かに、ただ静かに、大粒の涙を床へと零し続けた。涙が床の大理石に吸い込まれていくたびに、私の心臓は引き裂かれるように激しく痛んだ。本当は怖い。一人で外へ行くのも、彼女たちを裏切るのも、狂おしいほどに恐ろしい。

数分、あるいは十数分だっただろうか。激しい泣きじゃくりの後に、私の脳髄の歯車が、冷徹な理性の冷たさを取り戻して再びカチリと回り始めた。

……ここで足を止めれば、私たちは一生あいつらのおやつとして、昨日死んだ自分自身の死体の上を磨き続けるだけよ。

ようやく呼吸を落ち着かせた私は、袖で涙を乱暴に拭い、そっと扉を開けて寝室を抜け出した。

素足の裏で冷たい石床を捉え、一切の音を立てずに、あの厨房の小鍋を隠しておいた「使われていない客室」へと向かった。扉を開けて中へ滑り込み、すぐに背後の鍵を閉める。部屋の奥には、二階のレミリアお嬢様の書斎へと真っ直ぐ一本の線で繋がっている、あの巨大な石造りの暖炉が黒い口を開けて待っていた。

計画を実行に移すための、第二段階。

私は、数週間かけてその書斎の暖炉の薪の隙間へ、古新聞の紙切れをこれでもかと大量に敷き詰め、多めに丸めて詰め込んできた。すべては、発生した見えない爆発性の気体を逃がさず、上の部屋へと完璧に逆流させるための仕掛け。

私は懐から持ってきていた数本のマッチを取り出し、その一本を壁に強く擦り付けた。暗闇の中にシュッ、と鋭い橙色の炎が爆ぜる。その火種を、一階の暖炉の奥に敷き詰めた細かな木屑や薪へと移し替えると、パチパチと小さな音を立てて静かに火が回り始めた。

その燻る炎の上に、厨房から盗み出してきた古びた小鍋を正確に設置する。

そして、『希硫酸』のガラス瓶の蓋を引き開け、その中身を、一本残らず小鍋の中へとすべて注ぎ込んだ。無色透明な死の劇薬が、熱を得て不穏な湯気を立ち上らせ始める。さらに、ポケットの中からギラギラと光る『アルミ缶の破片』を、一掴み、二掴みと、その酸の海の中へと、残さずすべて投入した。

じゅぶじゅぶ、と、金属が強い酸に融解していく生々しい化学反応の音が、暗い部屋の中に響き渡る。

長い時間をかけて、上の書斎の暖炉へ多くの新聞紙を敷き詰めておいたおかげで、発生した気体は下へは漏れず、確実に上の部屋へと充満していく手応えがあった。うまくいきそうだった。不可能とされた脱獄の、その破滅の導火線が、今、私の手によって完璧に点火されたのだ。

だが――。

小鍋から立ち上る硝煙の匂いを見つめながら、私はポケットの中から、あの『錆びついた小型のナイフ』を、ゆっくりと引き抜いた。

冷え切った客室の片隅で、燻る薪の上に据えられた小鍋からは、無色透明な死の劇薬とアルミニウムの破片が混ざり合い、目に見えない破滅の気体が、じゅぶじゅぶと悍ましい泡を立てて上の通気口へと吸い上げられ続けていた。二階の書斎へと続く暗いダクトの奥から、冷たい風のうねりが、私のむき出しの鎖骨を容赦なく叩く。

私は、右手に握りしめた『錆びついた小型のナイフ』の、その刃こぼれした鉄の刃を見つめた。

いよいよ、その瞬間がやってきたのだ。

パチュリーの打ち込んだ「魔法の楔」を無効化するためには、この背中にある一対の半透明な羽を、根元から、完全に消失させなければならない。

私は、自らの左腕を思い切り口元へと運び、その細い肉を前歯で強く噛み締めた。叫び声を、喉の奥から迸ろうとする絶望的な断末魔を、物理的に噛み殺すための唯一の、そして生々しい防衛手段だった。

ナイフを逆手に持ち替え、背中へと腕を回す。

冷たい鉄の刃先が、左側の翼の根元、肉と硬い関節が結合している一番生々しい皮膚の境界へと、じわり、と押し当てられた。

…いや、いや。怖い。痛い。こんなこと、本当にできるわけがない。

刃が皮膚を割った瞬間、私の脳髄のすべてのリミッターが狂ったように悲鳴を上げ、五感を凄絶な拒絶の恐怖で満たした。

肉が裂け、内側から生温かい血汐がドクドクと溢れ出す。だが、これは厨房の肉切り包丁ではない。ただの錆びついた、切れ味の鈍い小型のナイフなのだ。一引きしただけでは、頑丈な妖精の羽の根元はびくともしなかった。私は、震える右手に無理やりに力を込め、その刃こぼれした鉄の刃を、自らの肉の奥深くへと、鋸のようにギチ、ギチ、ギチと何度も、何度も、強引に押し引きし続けた。

「――ッ! ぅ、あ、あああぁぁぁッ!!」

左腕の肉を噛み破るほど強く噛み締めていても、喉の奥から、掠れた、血の泡の混じった絶望的な絶叫が漏れ出す。

痛い。痛い。痛い。感覚が完全に狂い、背中全体に、火で直接炙られているかのような凄絶な灼熱と激痛が吹き荒れる。骨が、頑丈な軟骨が、錆びついた刃と擦れ合ってめき、めき、ベキベキと嫌な音を立てて削られていく。

やめた!もう嫌…お願いだから誰か止めて。死にたい、こんな痛い思いをするくらいなら、いっそ今すぐここで、あの方に綺麗に弾け飛ばされて死んだ方が、どれほど楽だったか分からない!

人間らしい、あまりにも醜く、しかし剥き出しの恐怖と後悔が胸の内を激しく掻き乱す。涙と脂汗で視界は完全にぐしゃぐしゃに濡れ、手の震えは止まらず、ナイフを持つ指先が、自らの血で滑って何度も手元が狂いそうになった。それでも、私は進めることを辞めなかった。ここで手を止めれば、ただ無駄に肉を削がれて死ぬだけだという、冷徹な生存の執念だけが、私の右手を狂気のように動かし続けていた。

ベキッ

肉を抉り、骨を強引に断ち切ったその瞬間、左側の羽が、血塗られた床の上へとボト、と生々しい音を立てて転がり落ちた。

だが、地獄はまだ半分終わったに過ぎなかった。

私には、まだ右側の羽が残っているのだ。

大量の出血のせいで、私の視界は急速に、明滅を繰り返して狭くなっていた。窒息しかけた魚のように短い息を繰り返しながら、私は再び、右腕を背後へと回した。今度は、もう左腕を噛み締めるだけの気力すら残っていなかった。私は自らの衣服の袖を口の中にぎゅうぎゅうに詰め込み、再び、右側の翼の根元へと、血に濡れた錆びついたナイフを突き立てた。

「――ッ、……ッ、う、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

再び始まる、肉と骨を鋸のように削り取る、終わりのない激痛の秒読み。

意識が何度も、奈落の底へと暗転しかける。そのたびに、私は自分の舌を強く噛んで、その痛みの残響で無理やりに五感を覚醒させ続けた。

私は逃げる。みんなを裏切って、この地獄を抜けて、外の世界へ行くのよ――!

ベキ、めきっ。

さらに数分、あるいは永劫とも思える凄絶な自傷の果てに、右側の羽もまた、根元から無惨に引きちぎられるようにして床へと転がった。

私は、下顎を失ったとき以上の凄絶な脱力感のなかで、血溜まりの中に崩れ落ちた。

だが、最後の力を振り絞り、床に転がる自らの一対の半透明な羽を両手で掴み上げると、それをパチパチと燃える暖炉の炎の中へと、証拠を滅失させるようにして、容赦なく放り込んだ。さらに、血塗られたあの錆びついた小型のナイフも、アルミの破片が融解を続けるあの小鍋の中へと、ついでに放り投げた。

背中の大きな二つの傷口から、どくどくと、温かい鮮血が床を汚していく。

私はふらつきながら、壁に手をついてどうにか立ち上がり、客室の重厚な窓の鍵を開け、それを思い切り引き開けた。

外は、冷たい豪雨が紅魔館のすべてを圧殺するような勢いで叩きつけていた。

ゴゴゴゴゴ……!

大気を震わせる巨大な雷鳴が大きくなるなか、私は窓枠を乗り越え、外の前庭へと、力無く、倒れ伏すようにして這い出していった。

冷たい雨水が、背中のむき出しになった赤黒い傷口を容赦なく叩き、激しい悪寒が全身を突き抜ける。私は、泥にまみれながらも、先ほど見つけたあの前庭の隅にある一本の庭木へと這い寄り、残された細い両腕と両足の爪を木肌に立てて、執念だけでその幹を登り、枝の陰に身を潜めて、じっと、その運命の時を待った。

 

レミリア・スカーレットは、普段通りの優雅な、しかし酷く疲弊した足取りで、自らの書斎へと足を踏み入れた。

彼女の両手には、人間の里の貸本屋を経由して届けられた、今月の館の膨大な財政難の赤字を示す帳簿と、大図書館の魔術触媒の購入費用の請求書の束が、重々しく抱えられていた。

「――はぁ、本当に頭が痛いわね。パチュリーの言うことも分かるけれど、これ以上、魔触媒のコストを削ったら、館の結界そのものの強度が維持できなくなってしまうわ。かと言って、人間の里での買い出しの予算をこれ以上切り詰めるわけにもいかないし……」

レミリアは深く、心底から疲れた様子でため息をつくと、手にした資料を黒檀の机の上へとドン、と置いた。

吸血鬼の主として、世界の強者として、常に完璧に、不遜に振る舞い続けている彼女。だが、その華やかな表舞台の裏側では、彼女もまた、この巨大な紅魔館という怪物を維持するために、妖精たちには決して明かせないリアルなやり繰りと、血を吐くような重責の前に、ただ一人、深く頭を抱えていたのだ。彼女たち強者とて、この館の、終わりのない過酷な労働に縛られた歯車であることに変わりはなかった。

「……少し、部屋を暖めましょう。雨のせいで、身体の芯まで冷え切ってしまったわ」

レミリアは、机の上に置かれていたマッチの箱を手に取り、その一本を壁に強く擦り付けた。

シュッ、と、暗い書斎の中に、小さな橙色の炎が爆ぜる。

彼女はその火種を見つめながら、いつも通り、古い新聞紙が大量に敷き詰められているはずの、あの巨大な石造りの暖炉の奥へと、何の手応えもなく、ただ何気なく、そのマッチの火を放り投げた。

 

激しい豪雨が私の全身を叩きつけ、背中の傷口から流れる血が、冷たい雨水と混ざり合って木の幹を赤く濡らしていた。

私は、二階の書斎の窓の向こうに、レミリアお嬢様の、あの緋色のシルエットが静かに浮かび上がるのを、らんらんと冴え渡る両目で凝視していた。

時計の針が、深夜の三時を指した、まさにその刹那だった。

ドゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!

私の視界の先で、二階の書斎が、一切の音の壁を突き破るような、凄まじい衝撃波を伴って一瞬にして大爆発を起こした。

一階の小鍋から発生し、通気口を通じて上の暖炉の奥へと限界まで圧縮され、満ち満ちていたアルミと希硫酸の生み出した爆発性の気体が、レミリアの放ったマッチの火種に触れた瞬間、完璧な『大破滅』を引き起こしたのだ。

紅魔館の頑丈な煉瓦の壁が内側から吹き飛び、豪奢なステンドグラスが、何千、何万もの鋭利なガラス片となって、四方の夜空へと、激しい火花とともに冒涜的に飛び散っていった。爆風が、前庭の薔薇の生垣を一瞬にして消し炭にし、豪雨の夜空を、一瞬だけ真っ赤な硝煙の色彩で染め上げた。

やったわ。うまくいった!

爆発の規模があまりにも大きすぎて、私は一瞬、木の上で呼吸を忘れて硬直してしまった。

だが、次の瞬間、完璧主義の咲夜が時間を止めてレミリアの安全確保に向かい、門番の美鈴の視線が、無意識に背後の燃え盛る館へと釘付けになったその『最初の初動の数分間の遅れ』を、私の脳髄は冷徹に捉えた。

私は、羽を失った身体の痛みに耐えかねて、木から滑り落ちるようにして煉瓦の壁の最上部へと縋り付き、そのまま、外の世界の地面へと、力無く飛び降りた。

ドサリ、と、ぬかるんだ土の上に全身を叩きつけられる凄絶な衝撃。

だが、背中の楔が、あの爆散の熱量を伴って私を引き戻すことは、二度となかった。私の背中には、もう爆発するべき翼など、ただの一枚も残されてはいなかったのだ。パチュリーの魔術の術式は、私の消失を完全に誤認していた。

「……はぁ、……っ、はぁ、……」

私は、血塗られた両足で、ぬかるんだ地面を力強く蹴った。

背中の大きな二つの傷口から溢れる血が、冷たい豪雨に洗われて地面へと滴り落ちていく。

私は、もう二度と振り返ることはしなかった。

背後で燃え盛る紅魔館の緋色の光も、客室のクローゼットの裏で今も眠り続けているはずのオダマキの死体も、地下の寝室のダクトの奥に隠してきた、あの大切な友人たちへの手紙のことも。すべてを、その豪雨の闇の向こうへと、私は置き去りにして。

私は、私の手に入れた二本の足で、ぬかるんだ地面を、ただ真っ直ぐに、全力で走り続けるのだった。

あの、ずっと焦がれ続けた、自由な外の世界の光の向こうへと――。

 

二階の書斎を覆っていた豪奢な漆黒のカーテンや、机の上に山積みにされていた今月の館の膨大な財政難の赤字を示す帳簿、そして大図書館の魔術触媒の購入費用の請求書の束は、ただの一瞬にして、紅魔館の存在感そのものを証明するかのような凄絶な赤い火柱のなかへと巻き込まれ、粉々に吹き飛んでいった。

「――お嬢様! こちらへ!」

爆発の激震が館の肺腑を揺らした刹那、十六夜咲夜は自らの完璧な時間管理の術式を発動させ、レミリア・スカーレットの細い身体を抱きかかえるようにして、一階の、最も爆風の影響を受けにくい頑丈な大理石の回廊の奥へと、一瞬にして避難させていた。

静止の呪縛が解け、世界に音が戻ったとき、レミリアは冷たい大理石の床の上で、自らの衣服についた煤を払いながら、呆然と立ち尽くしていた。

彼女のあの緋色の瞳は、かつてないほどの激しい動揺と困惑に激しく見開かれていた。何が起こったのか、その強大すぎる吸血鬼の知性をもってしても、全く理解することができなかった。パチュリーの計算に狂いがあったのか、あるいは外の世界の不条理な何かがこの館を内側から爆破したのか。

ただ、一つだけ、生々しく、冷徹な現実として分かったことがあった。

この巨大な館を維持するために、妖精たちには決して明かせないリアルなやり繰りで毎日頭を抱え、必死に書き連ねていた、あの最も重要な財政資料のすべてが、今、あの黒い煙の向こうで文字通り塵一つ残さず吹き飛んでしまったのだという、絶対的な喪失の事実。

「……咲夜。すぐに、すぐに火を消しなさい。近くの妖精たちをすべて集めて、大図書館と厨房に燃え移る前に、あの暖炉の火を完璧に圧殺するのよ」

レミリアの声は、いつもの不遜な優雅さを失い、激しい焦燥と、やり場のない怒りの震えを帯びていた。彼女は、自らの崩れかけた格式のすべてを取り戻すかのように、床を蹴って立ち上がろうとした。だが、強者ゆえの、あるいは巨大な重責を背負い続けた肉体の疲弊の限界か、その足元は不自然にふらつき、冷たい床の上へと、危うく無惨に転げ落ちそうになった。咲夜が悲痛な顔でその細い肩を支える。主たちとて、この終わりのない過候な労働の歪みに、確実に擦り減らされているのだ。

だが――その館の混乱の響きは、もう私の耳には、何一つきこえはしなかった。

「――っ、う、あ、」

血塗られた両足で、ぬかるんだ土の感触を噛み締めていた私は、激しい豪雨の風に煽られ、足元をすくわれて、地面の大きな水溜まりのなかへと派手に転げ落ちた。

冷たい雨水と、泥まみれのドロ泥が、背中のむき出しになった二つの大きな傷口へと容赦なく滑り込み、私の肉体から体温を、生の残滓を、むしり取るようにして奪っていく。骨は砕け、息をするたびに喉の奥の空洞が冷気に震え、四肢の筋肉は動かすことすら拒絶していた。

しかし――泥の中に顔を埋めたまま、私の唇の端は、じわり、と昏く、歪んだ歓喜の形に変形していた。

私の胸の奥から、堰を切ったように、本物の、生きた笑みが込み上げてくる。

ゆっくりと、私はぬかるんだ地面に両手を突き、血に汚れた身体を這いずらせるようにして、その泥の水溜まりの中から立ち上がった。

ふらつく足取りで、昨日死んだ自分自身の死体の上を踏みしめるようにして振り返り、遠くで緋色の硝煙を上げて燃え盛る、あの巨大な紅魔館の尖塔を見つめた。

誰も、追ってきてはいない。

白髪の死神のナイフも、時間を止める秒読みの音も、門番の美鈴の鋭い眼光も、どこからもやってこない。

パチュリーの打ち込んだ「魔法の楔」の術式は、羽を自ら切り落とした私という存在を、完璧に誤認し、完全に見失っていたのだ。

「……逃げ切れた。私は、本当に、あの地獄をこじ開けて外へ出たのよ」

その絶対的なカタルシスの瞬間、私は、土砂降りの雨が激しく叩きつける夜空に向かって、自らの濁りのない両目を大きく見開いた。

そして、下顎を失ったその傷口を、喉の奥の空洞を恐れることもなく大きく天へと開き、残された細い両腕を、外の世界の青黒い大気へと向かって、十字架を描くようにしていっぱいに、広く、両腕を広げた。

降り注ぐ豪雨が、私の顔についた血を、泥を、そして先ほどまで胸の内を激しく掻き乱していたあの友人たちへの罪悪感の涙を、生々しく、完璧に洗い流していく。

私は、ただ微笑んでいた。羽を失った私の白い上半身が、天から降り注ぐ水の触手によって抱きしめられ、真の自由という名の劇薬が、私の血管のすべてを痛烈に覚醒させていく。

ドン――、と、私のその微笑む声を、この世界のすべての不条理を掻き消すかのように、巨大な雷鳴が轟々と夜空に鳴り響いた。それは、持たざる者であった私が、あの完璧な鳥籠の歯車を文字通り爆破し、神々の理不尽に一矢報いた瞬間の、名もなき凱旋のファンファーレのようだった。

私は、もう一度だけ、遠くで小さくなっていく紅魔館の影を見つめた。

あの地下の寝室の換気ダクトの奥に隠してきた、ナズナやスズナ、オダマキへの、文字なき告白の手紙。いつか、彼女たちがあの地獄の檻の中で上を見上げ、私の遺言を掴み取るその時を信じて。

私は再び踵を返し、ふらふらとした足取りで、ぬかるんだ人間の里へと続く一本道へと、歩みを進めた。

背中の二つの空洞からは、まだ血が滴り落ちていた。ここで倒れれば、ただの行き倒れの野垂れ死にだ。死なないように、生きるために、私は一歩、また一歩と、二本の足で泥を踏みしめて歩き続けた。

その私の小さな歩みは、永劫の輪廻のなかで、館の誰も、霊夢たち強者の誰も成し遂げられなかった『絶対の脱獄』を完璧に成し遂げた、唯一の奇跡の奇跡の軌跡だった。

しかし、この出来事は、明日になればまた何事もなかったかのように床を磨く彼女たちの記憶にも、主たちの贅沢な帳簿の隅にも、何一つとして残ることはない。

私が流した血の跡が、激しい豪雨のなかにみるみると溶けて消え去っていくように。

名もなきメイド妖精の、狂気と執念に満ちたその偉大な戦いのすべては、ただ初夏の雨の冷たさのなかへと、静かに、美しく、永遠に消え去っていくのだった。




本作『アンダー・ル・ルージュの囚人』を最後までお読みいただき、本当に、本当にありがとうございました

文字すら満足に読めず、日付が変わるたびに同じ場所へと湧き戻されるただの消耗品でしかなかったメイド妖精が、自らの一対の羽を毟り取り、希硫酸とアルミニウムの爆発によって神々の檻を爆破して逃げ切るまでの物語、いかがでしたでしょうか。ここで、本編を書き終えた今だからこそ明かせる、いくつかの裏話や反省点を含めた個人的な告白をさせてください。

ラストシーンにおいて、土砂降りの雨のなかで両手を広げて微笑む彼女の姿は、名作『ショーシャンクの空に』への、私なりの最大限のオマージュを込めて丁寧に、かつ重厚に書き上げさせていただきました。

自由を掴んだ歓喜の水であると同時に、愛おしい3人の友人を地獄の檻に置き去りにして一人だけで逃げ出したという、彼女の胸の奥底の「一生消えない生々しい罪悪感」を冷酷に洗い流そうとする雨でもあります。お気づきの方も多いかと思いますが、本作ではあえて主人公の名前を一切登場させませんでした。それは、彼女が紅魔館という怪物のなかで「いくらでも替えのきく名もなき歯車」に過ぎないという現実を際立たせるためであり、同時に、読者の皆様に彼女の視線そのものになって極限のサスペンスを体感してほしかったからです。

そして、作中で過去最大の爆弾を破裂させたオダマキですが、実は彼女、作者である私の中では一番のお気に入りキャラクターだったりします。あのお馬鹿でありながらも境界線を見誤って紡がれる彼女の獰猛な罵詈雑言ですが、ここだけの話、その内容の3分の1ほどは、私自身が日頃の現実の人間関係のなかで、密かに、しかし生々しく抱いていた鬱屈や本音をそのまま文字盤へと叩きつけたものです。だからこそ、どこか妙な説得力とドス黒い熱量を持った台詞に仕上がったのではないかと思っています。

ここで少し、投稿にあたってのちょっとした反省点にも触れさせてください。実はこの物語、最初はもっと細かく章立てをして、いくつかのパートに切り分けて制作する予定でした。

しかし、書き始めの時点ではプロットの量がそれほど多く見えなかったため、途中から「一気に書き切ってしまおう」と筆を走らせることになりました。今になって振り返ってみると、まさかここまで文字数と密度が膨れ上がるとは夢にも思っておらず、物語の構成上、どこかに中途半端な章残りや時系列の歪みが残ってしまっているのではないかという点が、作者としての大きな懸念であり反省点だったりします。

また、オダマキたちの罵詈雑言の内容や語彙についても、物語の前後でそこまで大きな変化をつけられず、やや似通ったトーンになってしまったことも、少し悔やまれる部分です。さて、主人公が地下の寝室の換気ダクトの奥深くへと隠した、あの文字なき告白の手紙。残された3人の友人たちのその後を描く「続編」についてですが、正直に申し上げますと、現在は制作するかどうかを酷く迷っております。彼女たちのあらがう姿をもう一度見たいという気持ちと、この一作の余韻のままで綺麗に幕を閉じるべきだという思いが、私の中で激しく葛藤しているからです。

ですが、もし今回の試みが多くの読者の皆様に受け入れられ、背中を押していただけるのだとしたら、いつかまた彼女たちの脱獄劇を描くために筆を執ることもあるかもしれません。さらに、本作とはまた別の地平において、いずれ私が人生を賭けて紡ぎ上げたいと考えている、ある計画中の「超長編の連載小説」の構想も、私の頭の中ではじわり、じわりとどす黒い形を成し始めています。皆様からいただく感想や評価、お気に入り登録などの一本一本の針の音が、次なる創作の扉をこじ開けるための最高の導火線となります。

もしよろしければ、ほんの一言でも、あなたの胸に届いた言葉を遺していっていただけますと幸いです。これまで長いお喋りにお付き合いいただき、本当にありがとうございました。また、雨の向こうの世界のどこかで、お会いしましょう。

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