山岳エリアの断崖絶壁に、異様な圧迫感が満ちていた。
黒霧が闇の渦から放ち落とした刺客――漆黒の皮膚を硬質な外骨格で覆い、二本の丸太のような豪腕を誇る異形の生物兵器。
その爛爛と光る無機質な眼球が、冬真たち4人を捉えていた。
「おいおい……マジかよ……さっきの雑魚どもとは雰囲気がまるで違うぞ……!」
上鳴電気が喉を鳴らし、ガチガチと歯の根を鳴らせながら後退する。
「上鳴、下がるな! 隙見せたら一瞬で殺される!」
耳郎響香が冷や汗を頬に伝わせながら音波プラグを握り締める。八百万百もまた、引き締まった表情で腕のシールドを構え直し、冬真の横顔を見つめた。
「氷叢さん……指示をいただけますかしら。あの異形、ただ者ではありませんわ」
「……ああっ」
冬真は短く答え、両手の『集束グローブ』のダイヤルをコンマ五ミリ単位で微調整した。
(呼吸:正常。心拍数:八十八。排熱システム:正常。――だが、圧迫感が異常だ。筋肉の密度、外殻の強度、生体エネルギーの放出量……これまでの実戦訓練で遭遇したいかなる対象とも規格が違う)
冬真は右足をわずかに引き、体重移動の軸を作る。
「八百万、上鳴、耳郎。後ろに下がれ。あいつの第一撃の到達速度と威力が不確定だ。巻き込まれればお前たちの身体能力では死ぬ」
「なっ……また一人で戦う気!? 相手はさっきの連中とは――」
耳郎の叫びを遮るように、怪物が大地を蹴った。
――ドォォンッ!!
爆発音にも似た踏み込みの衝撃波。山岳エリアの堅牢な岩肌が蜘蛛の巣状に砕け散り、巨大な黒い影が一瞬で冬真の視界を覆い尽くした。
(速い――!!)
冬真の動体視力が、脳内にコンマ一秒の警報を発する。
脳無の右の豪腕が、風切り音を置き去りにして冬真の頭部へと振り下ろされる。それは拳というより、巨大な鉄槌の落下だった。
「――発動」
冬真は反射的に左手の掌を前方に掲げ、地表の熱奪取――『薄氷絶摩』を脳無の踏み込み脚の足元に展開した。
如何に強大な筋力があろうと、物理法則に従う限り、足元の摩擦がゼロになれば進行ベクトルは狂い、自重で体勢を崩すはずだった。
だが――。
ガギギィィンッ!!
不快な金属摩擦音が、山岳エリアに響き渡った。
「なっ……!?」
冬真の眼球が衝撃に大きく開かれる。
脳無は足元の氷膜に滑るどころか、脚部の硬質外骨格から張り出した鋭利な鉤爪を、力任せに岩山そのものへ深く突き刺していた。摩擦の喪失を「地殻の物理的破砕」によって強引に相殺し、突進の運動エネルギーを殺すことなく維持したのだ。
「ギァァァアアアッ!!」
咆哮とともに振り下ろされる豪腕。
回避がコンマ数秒遅れた。冬真は咄嗟に集束グローブの両腕を交差させ、相手の肘関節に向けて最大密度の冷却圧を放射した。
「霜刃一閃!」
――カチィンッ!!
超低温の冷気が脳無の腕を包み込み、関節部分を白く凍りつかせる。通常の人間であれば、細胞内の水分が一瞬で結晶化し、運動能力を喪失して凍傷破砕するはずの決定打。
しかし、伝わってきた打撃の質量は、微小たりとも衰えていなかった。
ズガァァァンッ!!!
「ぐ、ハァッ……!?」
激しい衝撃波が弾け飛び、冬真の身体が弾丸のように後方へ吹き飛ばされた。
ガガガッと荒々しい岩肌を数十メートル滑走し、右膝を突き立てて強引に制動をかける。グローブの交差した前腕部分からはプシューッと不穏な高温の排気煙が立ち上っていた。
「氷叢さん!!」
「おいマジかよ! 氷叢の冷気がまったく効いてねぇ!?」
上鳴と八百万が悲鳴のような声を上げる。
冬真は擦りむけた頬の血をあごで拭い、冷徹な瞳で己の右前腕と、突進を終えてゆっくりと振り向く脳無を交互に視認した。
(腕の骨折は免れたが、グローブの内部冷却媒体が限界圧まで急上昇した……。冷気が効いていないのではない。あの怪物の表皮――あの漆黒の外骨格は、過酷な極低温環境でも細胞が脆化しない『特殊冷気耐性』を備えている)
それだけではない。打撃を直接受け止めた感覚から、冬真の脳内コンピューターは即座に敵の生体スペックを算出した。
(第一:あらゆる刃や衝撃を弾く『高密度外骨格』。第二:一撃で岩山を粉砕する物理の『豪腕』。第三:俺の冷気を表皮でシャットダウンする『冷気耐性』……)
冬真の背筋を、氷よりも冷たい不快な寒気が駆け抜けた。
ふと、彼の思考の片隅に、理不尽なまでの「違和感」が芽生える。
(……待て。なんだこの都合のいい個性の組み合わせは? 俺の『絶対零度』の戦術……足場の無力化、関節の局所凍結、打撃の殺傷性。それらすべてを過不足なく殺すためだけに誂えられたかのような耐性構造――まるで、俺の個性のスペックと戦術パターンを事前に熟知していたかのようなメタ性能――)
(……いや、考えを捨てろ)
冬真は即座にその疑問を頭の中から力任せに排除した。
(いま戦場で敵の出自や意図について推測を巡らせるなど、無意味な熱量の浪費だ。目の前にある『現象』と『物理スペック』だけに集中しろ。思考を乱せば死ぬ)
「ギガァッ……!」
脳無が再び豪腕を大きく掲げ、地面を叩き割る。衝撃波で巻き上がった拳大の岩石が、散弾銃のような速度で冬真たちへ向けて飛散した。
「『創造』――! 複合多層防盾(マルチ・シールド)!」
間一髪、前に飛び出した八百万が、腕から一瞬で作った分厚い特殊鋼の大型盾を接地させ、岩石の雨を受け止めた。
ドガガガガアンッ!
猛烈な金属音が響き、八百万の綺麗な眉が苦痛に歪む。
「くっ……なんという馬鹿力……! シールドが一撃で歪みますわ……!」
「八百万、耳郎、上鳴!」
冬真が立ち上がり、低いが鋭い声を飛ばした。
「これより作戦を変更する。あの怪物は単体での個性のゴリ押しでは突破不能だ。俺の指示に従え」
「あ、指示って言われてもよ! 氷叢の氷が効かねぇ相手に、俺たちの攻撃が通るわけねぇだろ! 電撃だって外側の甲殻で弾かれちまうよ!」
上鳴がパニック寸前で叫ぶ。
「動揺するな、上鳴。冷静に観察しろ」
冬真はグローブの圧力を下げながら、冷たく言い放った。
「あの怪物の『冷気耐性』と『硬化』は、外皮……つまりあの外骨格だけに偏重している。関節の繋ぎ目、頚椎の隙間、そして耳孔や口内といった内孔組織までが同じ耐久度を持っているわけがない」
その言葉に、八百万の瞳がハッと見開かれた。
「……! そうですわ! 生物である以上、可動域を確保するための『継ぎ目』は必ず存在する……! 内部からの破壊、あるいは外骨格の隙間を狙えば……!」
「その通りだ」
冬真は八百万に向き直った。
「八百万、お前はあいつの足止めと、伝導用の特殊アンカーを作成しろ。外骨格の隙間に突き刺せる極細の高張力ワイヤーだ。耳郎は音波で内耳の平衡感覚を狂わせろ。外皮が頑丈でも、脳と内耳の液胞は振動の影響をダイレクトに受ける」
「わ、わかった! 内部の耳の奥を直接揺らせばいいんだね!?」
耳郎が即座に音波プラグをコスチュームのスピーカーへ接続する。
「上鳴。お前は八百万がアンカーを突き刺した瞬間に、そのワイヤーを通じて全電圧を流し込め。外骨格の『内部』へ向けて直接放電しろ。熱ショックで内部の肉体を焼き、外皮に亀裂を生み出す」
「内側から焦がす……! それなら俺の電撃でも……通る……!」
上鳴の顔に、生気が戻ってくる。
「……だが、それだけではあの怪物は止まらない」
冬真は己の右手を静かに見つめた。
「急激な高電圧の打撃で外骨格に熱ヒビが入った、その瞬間のコンマ一秒――俺が『終止符』を打つ」
「ギァアアアアッ!!」
脳無が八百万のシールドを力任せに粉砕し、再び跳躍した。
「させませんわ――! 創造・超伝導ワイヤーアンカー!」
八百万が叫び、腕から射出された細い鋼鉄の杭が、脳無の脇腹の「外骨格の隙間」へと正確に突き刺さった。
「耳郎さん、今ですわ!」
「いっけえぇぇぇ視覚と平衡感覚を腐らせろ!!」
耳郎が地面に突き刺したプラグから、凄まじい指向性音波が脳無の頭部へ向けて放たれた。空気が目に見えるほど歪み、脳無の巨大な体が空中での姿勢制御を失って「ぐらり」と揺らぐ。
「上鳴くん!!」
「うおおおおお! 喰らいやがれバケモノ!! 全力放電一〇〇万ボルト―――っ!!」
アンカーのワイヤーを伝い、眩いばかりの青白い電撃が脳無の脇腹から内部へと一気に流れ込んだ。
バリバリバリバリバキィィィッ!!
「ギガギャアアアアアッ!?」
初めて、脳無の口から苦悶の悲鳴が上がった。
高電圧の超熱量が内部から外骨格を焼き焦がし、その猛烈な熱膨張によって、漆黒の外骨格全体にパキパキと蜘蛛の巣状の「亀裂(ヒビ)」が走り抜ける。
「成功した……! ヒビが入ったぞ!!」
上鳴が歓喜の声を上げる。
だが――。
「ガァァァアアアッ!!」
脳無の知性のない瞳が、赤い殺意の光を激しく増幅させた。
体内の肉体が焼かれ、外骨格が砕け散りながらも、その暴走した肉体スペックは止まらない。強引にワイヤーを引きちぎり、右の豪腕を冬真に向けて振り上げた。
外骨格が砕けたことで、内部の生の肉体と筋肉線維が露出している。
だが、その速度と破壊力は、八百万たちの命を即座に刈り取るに十分な死の質量だった。
「ひ……っ!?」
上鳴と耳郎が凍りつく。
(……やはり、浅いな)
冬真は、静かに一歩を踏み出していた。
自身の胸元に手を当てる。
深部体温:三十五・八度。心拍数:百二十。
集束グローブの安全装置(セーフティ)が、限界を超えた熱奪取に対して耳鳴りのような過負荷警報(アラート)を鳴らし続けている。
(これまで俺は、己の個性を『制御』することだけに固執してきた。深部体温の低下を防ぐため、体感温度を氷点下に落とさないため……最小限の熱奪取、最小限の氷結スケール。それが俺の『合理』だった)
冬真は両手の集束グローブのダイヤルを、最大の限界値を超えて強引に「破壊(リリース)」するように捻り切った。
カチ、カチ、カチ―――パキンッ!
グローブの過圧弁から、凄まじい勢いで白い冷却ガスが噴き出す。
(だが――目の前にある理不尽な暴力をねじ伏せるには、計算通りのちっぽけな熱量など、何の役にも立たない)
冬真の指先から、腕、そして全身の皮膚へ……凄まじい過冷却の紋様が青白く浮かび上がっていく。
視界の端が白く濁り始め、吐き出す息が一瞬で結晶となって空気中に砕け落ちた。
自分の肉体が凍りつく恐怖。
深部体温が一気に急降下し、心臓が凍結する死の予感。
そんなものを、冬真は冷酷な思考で完全に切り捨てた。
「氷叢さん……? 体が……凍って……!?」
八百万が、冬真の全身から放たれる異様な冷気に戦慄して声を漏らす。
冬真は焦凍の戦い方を脳裏に浮かべた。
広大な空間を一瞬で埋め尽くす、あの圧倒的な『氷の質量』。
これまでは「自傷リスクが高すぎる愚行」として切り捨てていた領域。
「制約解除」
冬真が低く呟いた瞬間、山岳エリア全体の空気が、一瞬で「死の静寂」へと沈み込んだ。
「過剰熱奪取――『万物凍冬』」
豪腕を振り下ろす脳無の巨体を目の前にし、冬真は両手を大きく広げた。
自身の肉体を犠牲にして解き放たれる、規格外の「氷の質量攻撃」。
冬真の全身を包む青白い冷気が、爆発的なスケールで山岳エリア全体を呑み込もうとしていた――。
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