ちょいちょい時間が飛んでいてわかりづらいところもあります
序章 青い光の底で
神代零が自分の誕生日を知らないのは、別に記憶喪失だからではない。
気がついた時には、北極海の底で青い立方体を抱いていたからだ。
冷たい海水も、押し潰すような水圧も、零の皮膚には届かなかった。彼の周囲一メートルだけ、世界の法則が彼を避けて流れていた。水は触れる直前で分かれ、冷気は熱へ変わり、暗闇は輪郭を持った。
目の前には、星を閉じ込めたような立方体がある。
触れようとすると、頭の奥で知らない景色が弾けた。黄金の宮殿。燃える国。紫色の巨人。六つの光。そして、赤と金の鎧を着た男が、宇宙の闇へ落ちていく姿。
零は手を引いた。
未来を見る趣味はない。見たところで、ろくなものではない。
一九四五年。ハワード・スターク率いる捜索隊が、海上を漂う少年を発見した。少年は凍えてもおらず、空腹でもなく、ただひどく眠そうな顔で最初の言葉を口にした。
「すみません。ここ、陸まで遠いですか」
ハワードは後年、その瞬間をこう記録している。
人類はあの日、兵器にも神にもなれる存在を拾った。幸運だったのは、彼がそのどちらにもなりたがらなかったことだ、と。
零は戦後、戦略科学予備軍の記録から消された。ペギー・カーターだけが彼を人として扱い、ハワードだけが彼を未知の物理現象として追い回した。やがて組織はS.H.I.E.L.D.と名を変え、零は何度も身分を変えながら、その影で世界の終わりを遠ざけた。
弾丸は止められた。戦車は指先一つで紙のように畳めた。核爆発さえ、熱と衝撃を無害な光へ変えられた。
ただし、死者だけは戻せなかった。
世界を書き換えるたび、零の胸には黒い亀裂が一本ずつ増えた。法則を曲げた代償として、現実が彼の内側へ矛盾を押し込む。限界を越えれば、零という人間を中心に世界そのものが裂ける。
だから彼は、最強でありながら、なるべく働かないことにしていた。
それから六十三年後。
ニック・フューリーから届いた短い連絡が、零の静かな生活を終わらせた。
『アフガニスタンへ行け。ハワードの息子が攫われた』
零は携帯電話を伏せ、冷めたコーヒーを見つめた。
「親子二代で面倒を持ち込むの、遺伝なのかな」
答える者はいなかった。
第一章 鉄屑の洞窟
アフガニスタンへ向かう輸送機の中で、零はフューリーから渡された資料を閉じた。スターク・インダストリーズ製のミサイルが、正規軍ではなく武装勢力の手に渡っている。トニーの拉致は偶発的な事件に見えるが、使われた武器の製造番号だけが不自然に消されていた。
「内部協力者がいると思うか」
向かいに座るコールソンが尋ねた。
「思う、ではなく、います。問題は誰かです」
「心当たりは?」
零は資料に挟まれたオバディア・ステインの写真を見た。ハワードの死後、会社を支え、幼いトニーを取締役会から守った男。疑うには功績が多く、信じるには笑顔が整いすぎている。
「あります。でも証拠がない。僕が力ずくで吐かせれば、正しい答えより僕が望んだ答えが出てくるでしょう」
最強の力は、捜査には向かない。扉を壊せる者ほど、鍵が何のために掛けられたのかを見落としやすい。
テン・リングスの見張りは、自分の銃がなぜ撃てなかったのか理解できなかった。
引き金を引いた。撃針も動いた。火薬も燃えた。だが弾丸だけが薬室の中で静止している。
次の瞬間、銃身が飴細工のように垂れた。
「こんばんは」
砂埃の向こうから、黒いコートの青年が歩いてくる。月明かりの下で見る限り、武器はない。防具もない。なのに銃弾も爆風も、青年の手前で勢いを失い、砂へ落ちた。
零は見張りを殺さなかった。足元の摩擦だけを奪い、転ばせ、意識を落とす。洞窟の奥から金属を叩く音が聞こえていた。
壁越しに内部を観測する。胸に電磁石を埋め込まれた男と、痩せた医師。二人は粗末な設備で、兵器ではなく人型の装甲を作っている。
零はすぐに助け出せた。岩盤を消し、敵を眠らせ、二人を米軍基地へ運ぶ。それで任務は終わる。
洞窟には、トニーが設計したジェリコ・ミサイルの部品が山積みにされていた。箱には自社のロゴがある。自分の名前を冠した技術が、自分を閉じ込める檻になっている。その皮肉を、トニーは一言も口にしなかった。
夜になると、彼は小型リアクターの青い光を見つめた。インセンが銅線を巻き、金属片を削る。その横で、トニーは設計図を何度も引き直していた。傲慢な天才の手が、時折止まる。
「怖いですか」
姿を隠したまま、零が問いかける。インセンだけがその声を聞いた。
「彼が?」
「あなたがです」
インセンは少し考え、眠らないトニーを見た。
「怖いよ。だから、彼を一人にしない。勇気とは、恐怖がなくなることではないだろう」
零は返す言葉を失った。六十三年も生きてきたのに、短い人生を覚悟した男の方が、ずっと多くを知っている。
だが、炉の前に立つトニー・スタークの目を見て、零は足を止めた。
あれは逃げる男の目ではない。自分が売った武器の行き先を、ようやく直視した男の目だった。
「助けないのか」
背後から声がした。ホー・インセンが、零へ銃を向けている。手は震えていたが、目は静かだった。
「助けます。ただ、彼が自分で歩くところまでは待ちます」
「君は誰だ」
「ハワードの知人です」
「彼の父親の友人にしては若いな」
「よく言われます」
インセンは零を怪しみながらも、敵ではないと判断したらしい。銃口を下げた。
脱出の日、鉄の巨人が炎の中から現れた。無骨な装甲が銃火を浴び、火炎放射器が洞窟を焼く。だが制御装置の起動には時間が足りない。
本来なら、インセンはその時間を稼ぐために命を落とすはずだった。
零はそれを許さなかった。
敵兵が放った弾丸の群れを空中で止める。指を返すと、すべての銃が部品単位に分解された。爆風を上空へ逃がし、崩れた岩盤を宙へ固定する。
灰色の仮面が零を向いた。
「誰だか知らないが、登場が遅い」
「自分で歩けるようになるまで待っていました」
「教育方針が厳しすぎる」
トニーはそう言いながら、仮面の奥で笑った。
零が二人を抱えて飛ぶこともできたが、トニーは自作の装甲で空を選んだ。墜落寸前に零が重力を緩めたことには、最後まで気づかなかった。
砂漠に横たわったトニーは、隣で咳き込むインセンを見て、しばらく何も言わなかった。
やがて零へ手を差し出す。
「トニー・スタークだ」
「知っています」
「君の名前は?」
「神代零」
「ゼロ。気に入った。何でもゼロにできそうだ」
零は握手を返した。胸の奥で、黒い亀裂がかすかに疼いた。
「だいたい合っています。でも、請求書までゼロにはしませんよ」
第二章 鉄の男と幽霊
アメリカへ戻ったトニーは、武器製造からの撤退を宣言した。
株価は落ち、取締役会は荒れ、オバディア・ステインは笑顔の下で怒りを煮立たせた。零は会見場の後方でチーズバーガーを食べながら、そのすべてを眺めていた。
「止めなかったんですね」
隣に立ったペッパー・ポッツが小声で言う。
「止めても聞かないでしょう」
「ええ。そこだけは父親に似ています」
零が答えると、ペッパーは目を細めた。
「あなた、本当にハワードさんを知っているんですか?」
「少しだけ」
記者に囲まれたトニーが、こちらを指差した。
「それから、後ろで私のバーガーを盗んでいる男。あとで研究室へ来い」
「これは僕のです」
「袋が私の会社のものだ」
「細かい男は嫌われますよ」
会見後、トニーは兵器部門の研究施設を一人で歩いた。展示されたミサイルの光沢に指を滑らせ、若い技術者が作業する姿を眺める。昨日まで誇りだったものが、今日は墓標に見えているらしい。
「会社を止めたら、何千人も職を失う」
トニーは零を見ずに言った。
「だから撤回しますか」
「しない。だが、正しいことをした顔で帰る気もない」
零はそこで初めて、トニーが単なる罪悪感で動いているのではないと知った。自分の決断が生む痛みまで引き受けようとしている。やり方は乱暴でも、逃げてはいない。
「ハワードも、会社を閉じようとしたことがあります」
トニーが振り返った。
「聞いていない」
「彼はあなたに、失敗した自分ではなく、成功した父親だけを見せたかったのでしょう」
「最低の教育方針だ」
「親というのは、だいたい不器用です」
こうして零はマリブの豪邸へ出入りするようになった。
トニーは零の力を科学で説明しようとした。レーザー、超音波、強磁場、真空、放射線。検査は一週間続き、最後に零が機材の電源をまとめて切った。
「結論は?」
「君は物理法則に対する侮辱だ」
「褒め言葉として受け取ります」
「それと、私の新型アーマーより強い」
その言葉だけは、ひどく不満そうだった。
零の能力は単純な念力ではない。彼が認識した範囲に限り、現象の条件を書き換える。運動を止め、熱を移し、距離を折り畳み、物質の結合をほどく。観測でき、理解でき、代償に耐えられるなら、ほとんど何でも可能だった。
トニーはそれを「公理干渉」と名づけ、勝手にコードネームまで作った。
アクシオム。
証明を必要としない絶対の前提。
零は大げさだと却下したが、JARVISがその名で個人ファイルを登録したため、いつの間にか定着した。
オバディアがアイアンモンガーを起動した夜、零はロサンゼルス上空にいた。巨大な装甲を一瞬で止めることはできた。だがトニーから通信が入る。
その数時間前、ペッパーはオバディアの端末から兵器取引の記録を持ち出していた。零は彼女を止めなかった代わりに、地下施設の構造をすべて頭へ入れた。彼女が角を曲がるたび、監視カメラの視界だけを数秒ずらす。それでもペッパーは自分の足で危険へ踏み込み、自分の手で証拠を掴んだ。
「あなたなら、最初から全部盗めたでしょう」
脱出後、ペッパーが言った。
「できます」
「では、なぜ?」
「あなたがトニーを守りたいと思ったことまで、僕の功績にしたくありません」
ペッパーは呆れたように息を吐いたが、すぐに小さく笑った。
『手を出すな、とは言わない。ただ、最初の一発は私に殴らせろ』
「子供ですか」
『会社を盗られ、胸のリアクターまで奪われた。今夜くらいは子供でいい』
零はため息をつき、戦場を覆うように力を広げた。落下する車を受け止め、逃げ遅れた人々の周囲から炎を遠ざける。トニーが戦う間、誰一人として巻き添えにさせなかった。
最後にオバディアが大型リアクターへ落下した時だけ、零は出力を抑えた。爆発は夜空へ細い光の柱となって抜け、街を焼かなかった。
戦いの翌日、トニーは記者会見で用意された説明を捨てた。
コールソンが用意した筋書きは完璧だった。昨夜トニーはヨットに乗っており、屋上で戦った装甲の操縦者は警備員。書類上は目撃証言も映像も処理されている。
壇上のトニーはカードへ目を落とした。記者の一人が、彼にヒーローらしい資質などないと言う。以前のトニーなら笑って受け流したはずだった。しかし今の彼は、炎の中でインセンが生きていたこと、街で逃げる人々、墜落する自分を支えた見えない力を知っている。
零は会場後方で腕を組んだ。
トニーがこちらを見た。ほんの一瞬、視線が重なる。
それから彼はカードを置いた。
「真実は——」
会場が静まり返る。
「私がアイアンマンだ」
次の瞬間、記者たちが一斉に立ち上がった。閃光と質問が押し寄せる。その中心でトニーは、隠れる機会を自分から捨てた男の顔をしていた。
フューリーが隣に立つ。
「お前なら、あの鎧を必要としない」
「だからこそ、彼が着る意味があります」
「英雄になれる力があるのに、隠れている男が言うと重いな」
零は答えなかった。
英雄は、間に合わなかった時の顔を忘れられない者がなるものだ。零は六十三年かけても、まだその顔に慣れなかった。
第三章 二人目の装甲
アーマーを手に入れてから、トニーの生活はさらに不規則になった。夜明けまで改良を続け、昼に会議をすっぽかし、夕方には軍の公聴会で装甲の引き渡しを拒否する。零はその騒動をテレビで見ながら、マリブの作業台に置かれた血液検査の結果を読んだ。
毒素濃度は、笑って済ませられる値ではない。
「本人は知っています」とJARVIS。
「だから余計にたちが悪い」
零は地下工房へ降りた。トニーはグラスを片手に、完成したばかりの装甲を眺めていた。
「死ぬことをペッパーに話してください」
「断る。彼女は今、会社の最高経営責任者だ。問題を一つ増やす必要はない」
「自分を問題に数えないでください」
「私は昔から最大の問題だ」
軽口の奥にある恐怖を、零は暴かなかった。死なない自分が、死を前にした人間へ正解を教えることは傲慢に思えた。
トニーの胸を蝕むパラジウムの毒を、零は消せなかった。
正確には、消そうとすれば消せた。ただし、リアクターとトニーの生命活動は複雑に絡み合っている。人体の条件を強引に書き換えれば、記憶や人格まで別物になる危険があった。
「万能ではないんだな」
トニーはグラスを傾けながら言った。
「安心しましたか」
「少し。君まで何でもできたら、私は高価な置物だ」
トニーは死を隠して派手に振る舞い、周囲を遠ざけた。零にはそれが分かったが、答えを与えなかった。ハワードが遺した模型も、未完成の研究も、息子が自分で見つけなければ意味がない。
代わりに零は、ナタリー・ラッシュマンと名乗る女性へコーヒーを渡した。
「砂糖は?」
「要らないわ。それと、その名前で呼ばないで」
「では、ロマノフ捜査官」
ナターシャの指が一瞬だけ拳銃へ動く。
「いつから気づいていたの?」
「初日から。一般社員は、入室するたびに出口と狙撃地点を数えません」
「あなたも数えている」
「僕は心配性なので」
モナコでウィップラッシュが襲撃した時、零は観客席にいた。鞭の電流がレーシングカーを裂き、破片が客席へ飛ぶ。零が掌を上げると、無数の破片は一枚の薄い金属板へ変わり、空中で止まった。
「派手ね」
隣でナターシャが言う。
「スターク家に関わると、いつもこうです」
トニーは携帯型アーマーを装着し、イワン・ヴァンコと正面からぶつかった。零なら敵のリアクターを停止できたが、トニーは助けを求めなかった。
そしてハマー・インダストリーズのドローンが暴走した夜、助けを求めたのはローディだった。
会場の上空には、軍用ドローンが編隊を組んでいた。地上では観客が出口へ殺到し、転んだ子供を母親が覆っている。零は敵機をまとめて停止させようとしたが、ウォーマシンの制御系にはローディの神経入力が残っていた。機体だけを止めれば、首を折る危険がある。
零は一機ずつ、兵器と操縦者を切り分けて認識した。銃口の向き、推進器の出力、落下先の人影。力の大きさではなく精度が求められる。額に汗が浮かび、袖の下の亀裂が熱を持った。
『零、子供たちがいる!』
「把握しています」
零は博覧会場全体を領域に収めた。ドローンが放った弾丸を花火へ変え、ミサイルの推進力を奪い、落下する機体を地面の直前で静止させる。
しかしヴァンコ本人だけは、トニーとローディが倒した。
戦いの後、三人は壊れた会場に並んだ。
「君が全部片づけた方が早かった」とローディ。
「それでは彼の自尊心が死にます」
「世界を救うより大事だ」とトニー。
「本人が言うんですか」
零が笑うと、胸の亀裂がまた疼いた。広い範囲で現実を書き換えすぎた。袖の下、腕に黒い線が伸びている。
ナターシャだけが、それを見逃さなかった。
第四章 雷神が落ちた町
零がニューメキシコへ呼ばれたのは、クレーターが見つかる二日前だった。ジェーンの観測機器は、大気中にあるはずのない重力波と空間のねじれを記録している。セルヴィグは慎重に理論を組み立て、ダーシーはその横で機械を叩いて直そうとしていた。
「叩くと直るんですか」
「直るまで叩けば、結果的にはそうなる」
零はその理屈を嫌いになれなかった。
ジェーンが広げたノートには、宇宙を結ぶ橋の仮説がびっしり書き込まれていた。数式の一部は、零が能力を使う時に感じる空間の構造と一致している。
「あなたは、これをどこまで証明したいんです?」
「全部。世界が私の想像より大きいなら、その端まで知りたい」
零は眩しそうに彼女を見た。未知を恐れて閉じ込めようとする者は多い。未知へ会いに行こうとする者は少ない。
ニューメキシコの砂漠に、空から男が落ちてきた。
金髪で、大柄で、尊大で、病院の職員を数人振り回した後、鎮静剤で眠らされた。
零は観察室のガラス越しに男を見て、隣のコールソンへ尋ねた。
「あれが神ですか」
「履歴書にはそう書くことになりそうだ」
砂漠のクレーターには、誰にも持ち上げられないハンマーが落ちていた。S.H.I.E.L.D.の研究員が測定を続ける中、零は柄へ手をかける。
持ち上げるだけなら簡単だった。重力を消すことも、空間ごと移すこともできる。
だが、ハンマーには物理法則とは別の意志があった。
資格なき者を拒む、古い王の魔法。
零は手を離した。
「無理だったか?」とコールソン。
「持ち上げる方法はあります。でも、それは鍵を壊して家に入るのと同じです」
「礼儀正しい泥棒だな」
追放された王子ソーは、力を失って初めて人の痛みを知ろうとしていた。ジェーン・フォスターと空を見上げ、セルヴィグ博士の話に耳を傾け、自分以外の命を守る選択を学んでいく。
零は離れた場所からそれを見守った。
ロキが送り込んだデストロイヤーが町へ現れた時、零は真正面に立った。灼熱の光線が放たれる。零が片手を上げると、光線は掌の前で球体に圧縮され、白い蝶の群れとなって空へ散った。
背後で店の窓が割れ、避難する人々の悲鳴が重なる。零が防壁を広げれば、デストロイヤーは止められない。敵へ集中すれば、町を守れない。
ソーの仲間たちは迷わず住民の避難へ走った。力を失ったソーも、ジェーンを安全な場所へ押しやってから、零の横へ並ぶ。
「あなたは戦えない」と零。
「それでも立てる」
その言葉には、王子としての誇りではなく、守られる側に残ることを拒む人間の意志があった。
デストロイヤーの金属が軋む。零が指を閉じれば、それだけで装甲を潰せる。
「待ってくれ」
背後からソーの声がした。
力を失った男が、仲間と町を庇って立っている。
「これは、私が招いた」
「今のあなたでは死にます」
「分かっている」
恐怖はある。それでも退かない。
その選択に応えるように、遠くで雷鳴が轟いた。
ムジョルニアが大地から飛び立ち、零の横を抜け、ソーの手へ収まる。雷が降り注ぎ、追放された王子は再び雷神となった。
零はデストロイヤーから町を隔離する結界だけを残し、後ろへ下がった。
戦いの後、ソーは零へ豪快に手を差し出した。
「ミッドガルドにも、これほどの戦士がいたとは!」
「戦士ではありません。できれば無職です」
「ムショク。強き者へ与えられる称号か?」
「たぶん説明しない方が平和です」
ソーは笑い、いつかアスガルドへ来いと約束した。
虹の橋が消えた後、零は空に残る歪みを見上げた。その向こうから、何者かが自分を見ている。
緑の瞳をした、角ある王子。
そしてさらに遠く。闇の玉座に座る巨大な影。
零が視線を返すと、影は楽しげに笑った。
第五章 氷の中の約束
スティーブが目覚める前、零は一度だけペギーを訪ねた。老いた彼女の部屋には、戦時中の写真が並んでいる。ハワードも、若いコールソンの前任者たちも、多くはすでにいない。
「あの子を起こすのね」とペギー。
「はい」
「あなたは、また置いていかれると思っている」
零は否定しなかった。
ペギーは皺の増えた手で、零の手を握った。
「人と出会わなければ、別れずに済む。でも、それは生きているとは言わないわ」
「僕は生きているんでしょうか」
「それを決めるのは、あなたの力ではなく、これから選ぶことよ」
零は懐中時計を預かり、病室を出た。廊下の窓に映る自分だけが、一九四五年から何も変わっていなかった。
北極海で発見された機体から、スティーブ・ロジャースが運び出された。
零は蘇生室の外で、古びた懐中時計を握っていた。それは一九四五年、ペギーから預かったものだった。
彼が目覚め、偽りの病室を破ってタイムズスクエアへ走り出した時、零は追わなかった。七十年を一度に失った男へ、最初に何を言えばいいのか分からなかった。
やがてスティーブが立ち尽くす群衆の中へ、零は歩いていった。
「久しぶりです、隊長」
スティーブの目が大きく開く。
「君は……変わっていない」
「あなたは少し寝坊しました」
冗談は失敗した。スティーブの顔が歪む。
零は懐中時計を差し出した。蓋の内側には、若いペギーの写真がある。
「彼女は生きています」
その一言で、スティーブはようやく息をした。
二人は夜の街を歩いた。スティーブは高層ビルや携帯電話より、人々が戦争のない顔で笑っていることに驚いた。
「君が守ったのか」
「僕だけではありません。守れなかったものも多い」
「それでも、残った」
スティーブは零の胸元を見た。服の下に広がる亀裂を見透かしたわけではない。ただ、同じ時代から取り残された者の沈黙を感じたのだろう。
「今度は一人で背負うな」
零は返事をしなかった。
最強という言葉は、一人で勝てるという意味だ。
一人で背負っていいという意味ではない。
その違いを、零はまだ理解していなかった。
第六章 怪物は静かに暮らしたい
ナターシャがブルースを勧誘している間、零は診療所の外に集まった患者を見ていた。薬を買えない老人、熱を出した子供、仕事中に腕を傷めた男。ブルースは追跡を恐れながらも、この場所で医師を続けている。
逃亡者であることと、誰かを助けることは両立する。零にはその事実が不思議だった。自分は力を使わない理由ばかり探してきたのに、ブルースは怪物を抱えたまま、使える知識を差し出している。
診察を終えたブルースが、最後の患者を見送った。
「壊す力があるからって、壊すことしかできないわけじゃない」
独り言のような声だった。
零はその言葉を覚えておくことにした。
カルカッタでブルース・バナーを見つけた時、零は医者の列に並んだ。
「どこが悪いんです?」
やつれた医師が尋ねる。
「胸にひびが入っています」
「比喩ですか?」
「できればそうであってほしいです」
ブルースは脈を取り、聴診器を当て、眉をひそめた。
「心音が二つ聞こえる。一つは君のもの。もう一つは……何だ?」
「世界の機嫌が悪い音です」
直後、ナターシャが姿を現し、テッセラクトが奪われたことを告げた。
ロキはセルヴィグ博士とホークアイを操り、青い立方体で門を開こうとしている。フューリーは世界各地から候補者を集めた。
空母ヘリキャリアへ向かう前、ブルースは零へ尋ねた。
「もし僕が変わったら、止められる?」
「止められます」
「殺さずに?」
「あなたが百回暴れても」
ブルースは安堵せず、むしろ悲しそうに笑った。
「それは、少し羨ましいな」
「僕はあなたが羨ましいです」
「冗談だろ?」
「あなたの中の怪物は、怒る理由を持っている。僕の中にあるのは、理由のない穴です」
二人はそれ以上話さなかった。
だがその日から、ブルースは零を恐れない数少ない人間になった。
第七章 集められた問題児たち
ロキを乗せた輸送機へ雷が落ちた時、ソーは挨拶もなく弟を連れ去った。トニーは即座に装甲を閉じ、後を追う。スティーブも盾を背負った。
「零、止めろ」とフューリーの通信。
「誰をです?」
『全員だ』
森の中で、アイアンマンとソーが衝突した。リパルサーの光が木々を薙ぎ、ムジョルニアの一撃が地面を陥没させる。零は周辺から動物と民間人の反応がないことを確かめ、すぐには割って入らなかった。
やがてスティーブが二人の間に立つ。ソーが振り下ろしたハンマーを盾が受け、衝撃波が森を円形に倒した。
倒れかけた木々だけが、地面へ届く直前で止まる。
零は三人の中央へ降りた。
「続けるなら、次は武器ではなく服だけを分解します」
三人が沈黙した。
「脅し方が卑怯だ」とトニー。
「効果的と言ってください」
ソーはしばらく零を睨んだ後、先にムジョルニアを下ろした。
ヘリキャリアの会議室に、地球で最も扱いにくい人間たちが集まった。
トニー・スタークは勝手に端末を操作し、スティーブはそれを咎め、ソーは弟を連れ戻すと主張し、ブルースは誰より静かに怒っている。ナターシャは全員を観察し、コールソンは憧れの隊長へカードを見せる機会をうかがっていた。
零は隅で紅茶を飲んでいた。
「君はどちらの味方だ」とスティーブが聞く。
「静かな方です」
「なら私だな」とトニー。
会議室にいた全員がトニーを見た。
「何だ。その反応は」
ロキの杖は、増幅器にすぎなかった。疑念、劣等感、恐怖。すでにある亀裂を広げ、仲間同士を敵へ変える。
零には効かなかった。
杖の力が触れた瞬間、胸の内側に蓄積された矛盾が、逆に侵入者を呑み込んだからだ。
だが、効かないことと、正しい答えを知っていることは別だった。
会議室で言い争いが激しくなるほど、零には全員の恐れがよく見えた。スティーブは再び兵器が人間の良心を追い越すことを恐れ、トニーは父親の影とフューリーの秘密に支配されることを嫌う。ブルースは自分が利用される未来を知っている。ソーは弟を失うことを、ナターシャは取り戻せない過去を、フューリーは地球が宇宙の戦争に踏み潰されることを恐れていた。
零自身も同じだった。
自分が力を失うことではない。力を使い切った時、自分の方が世界を壊すことを恐れている。
杖は恐怖を作ってはいない。ただ、人が隠していたものへ声を与えていた。
「あなたなら全部止められる」
ナターシャが二人きりの通路で言った。
「たぶん」
「なのに、いつも誰かが立ち上がるのを待つ」
「人は、助けられただけでは前へ進めません」
「綺麗な理屈ね。失敗して誰かが死んでも、同じことを言える?」
答える前に、艦内で爆発が起きた。
洗脳されたホークアイの襲撃。エンジン停止。暴走するハルク。解放されるロキ。
零は落下するヘリキャリアを空中で支えながら、同時にエンジンの炎を隔離し、乗員を守った。広大な機体すべてを領域に収めた代償で、胸の亀裂が首筋まで伸びる。
その隙を、ロキは見逃さなかった。
コールソンの胸へ、杖の刃が迫る。
零は距離を折り畳んだ。
刃とコールソンの間に現れ、素手で受け止める。青い光と黒い亀裂が衝突し、艦内の窓が一斉に震えた。
「お前は何者だ」
ロキの顔から初めて余裕が消えた。
「休暇中の職員です」
零が杖を握ると、先端が砕けかけた。だがテッセラクトと同質の力が胸の矛盾へ流れ込み、零の視界が暗転する。
ロキはその一瞬に逃げた。
コールソンは生きていた。けれどフューリーは血のついたカードを集め、仲間たちへ見せた。
「死んだことにするんですか」と零。
「必要な一押しだ」
「本人の許可は?」
医務室からコールソンの声が響く。
「カードに血をつけるのは聞いてないぞ!」
フューリーは通信を切った。
「許可は取った」
零は、この組織で最も恐ろしい能力者はフューリーかもしれないと思った。
第八章 王と道化
ロキはスターク・タワーを選んだ。世界で最も目立つ建物を奪い、最も自信に満ちた人間の名を踏み台にする。その選択を、トニーは個人的な侮辱として受け取った。
装甲を失ったままロキと向き合うトニーを、零は階下から観測していた。すぐに割って入れる距離だったが、トニーは会話を続け、さりげなく両腕のブレスレットを起動する。時間を稼いでいるのは恐怖を隠すためではない。飛行する新型装甲を呼び寄せるためだ。
ロキが杖をトニーの胸へ押し当てる。金属音が二度響いた。リアクターに阻まれ、洗脳は成立しない。
「そこは空席だ」とトニーが笑う。
零は思わず息を漏らした。死の目前でも相手を苛立たせる才能だけなら、トニーは宇宙一かもしれない。
ロキが彼を窓の外へ投げる。零が動くより早く、赤と金の装甲が落下する身体へ追いつき、空中で閉じた。
アイアンマンが再び上昇した時、零は初めて理解した。トニーにとって装甲は強さを得る道具ではない。落ちても、もう一度戻ってくるという意志の形なのだ。
スターク・タワーの屋上で、ロキは空を裂いた。
青い光が雲を貫き、宇宙の向こうからチタウリの軍勢が押し寄せる。戦車のような飛行艇。巨大なリヴァイアサン。悲鳴を上げて逃げる人々。
零が本気を出せば、門を閉じることはできた。
しかしテッセラクトへ触れた瞬間、六十三年前の記憶が蘇った。
自分は海で生まれたのではない。
門の向こうから、投げ込まれたのだ。
何者かが、インフィニティ・ストーンへ対抗する器として零を作った。彼の胸にある穴は傷ではなく、宇宙の法則を喰らうための空白だった。
門を無理に消せば、空白がテッセラクトを呑む。零はさらに強くなる。代わりに、人間から遠ざかる。
ロキが笑った。
「理解したか。お前は彼らを守る者ではない。彼らの世界を食らう怪物だ」
零は否定できなかった。
「だったら、座って見ていろ」
「それも嫌です」
零はロキを殴った。
拳が触れる直前、間の距離をゼロにする。衝撃の逃げ道だけを上空へ限定する。ロキの身体は屋上を跳ね、空中で静止し、もう一度床へ叩きつけられた。
神の肉体を傷つける必要すらない。運動の結果だけを指定すればいい。
「神に向かって——」
「説教はソーにしてください」
零はロキの魔力を封じ、杖を奪った。
それでも門は閉じない。セルヴィグの安全装置を作動させるには、杖を装置へ届ける必要がある。
そして街のすべてを、一人では見られない。
零の力は認識したものにしか届かない。ビルの陰、地下鉄の構内、瓦礫の下。どれほど強くても、見えない誰かを救うことはできない。
通信機からスティーブの声がした。
的確な指示が飛ぶ。トニーは上空、ソーは門の周囲、バートンは高所、ナターシャは装置、ハルクは大型目標。スティーブ自身は地上で市民を守る。
そして最後に、零へ告げた。
『零。君は戦場全体を見ろ。俺たちの手が届かない場所を頼む』
命令ではない。信頼だった。
「了解、隊長」
最強の一人ではなく、チームの一人として、零は空へ上がった。
第九章 アベンジャーズ
スティーブは戦場を一度見渡しただけで、ばらばらだった七人を一つの部隊へ変えた。警官には避難経路を確保させ、バートンには敵の流れを読ませ、ナターシャには門を閉じる手段を探させる。
零には、その指示がありがたかった。
何でもできる者は、何からするべきかを一人で決め続けなければならない。救えなかった命を見るたび、選択が正しかったのかを永遠に考える。だが今は、隊長が優先順位を示し、仲間が零の見えない場所を受け持っている。
「零、北側のビルを頼む!」
「了解」
短い命令に従うだけで、身体が軽くなった。
戦いは、零が想像していたより忙しかった。
リヴァイアサンの進路を曲げれば、別の通りへ兵が降りる。崩壊するビルを支えれば、その間に三機の飛行艇が地下鉄へ向かう。広域干渉を重ねるほど、黒い亀裂が身体を覆っていく。
一人ですべてを救う。それは傲慢だった。
だが、今は一人ではない。
零が曲げたリヴァイアサンをハルクが殴り砕く。散った装甲をソーの雷が焼く。ビルの陰へ逃げた敵をバートンの矢が射抜き、ナターシャが地上部隊を止める。スティーブは瓦礫の下から人々を導き、トニーは最も危険な場所へ迷いなく飛び込んだ。
「右へ三度」と零。
『数字が雑だ!』とトニー。
「三度です。あなたのアーマーならできます」
トニーが機体を傾けた直後、光弾が肩をかすめる。その光弾を零が折り返し、敵の飛行艇へ命中させた。
『最初から君が撃て』
「僕が撃つと威力が高すぎます」
『嫌味か?』
「事実です」
やがて世界安全保障理事会が、マンハッタンへ核ミサイルを発射した。
零はその存在を感知した。止められる。消すこともできる。
だが同時に、地下で崩落が起きた。数十人の生命反応が瓦礫の下で消えかけている。
どちらも救うには、身体がもたない。
零が迷った一秒の間に、赤と金の影がミサイルへ向かった。
『地下へ行け、ゼロ』
「トニー。戻れなくなります」
『だったら戻してくれ』
軽口なのに、声は静かだった。
零は歯を食いしばり、地下へ落ちた。瓦礫の重さを消し、炎から酸素を奪い、崩れたトンネルを一時的に接合する。人々を地上へ送り出した時、胸の亀裂が心臓へ届いた。
空を見上げる。
トニーが核ミサイルを抱え、門の向こうへ消える。
零の脳裏に、北極海で見た未来が重なった。
赤と金の鎧が、宇宙の闇へ落ちていく。
「二度も見せないでください」
零は自分へ課していた制限を一つ外した。
世界から、距離という条件を消す。
視界が砕けた。マンハッタンと宇宙が同時に存在し、無数の星が皮膚の裏側を流れる。零は門の向こうへ手を伸ばし、落下するトニーの胸部装甲を掴んだ。
核爆発が背後で広がる。
その熱も衝撃も、零の背中で静止した。
「捕まえました」
意識を失ったトニーは答えない。
零は彼を門の内側へ投げ返し、最後に爆発の全エネルギーを一点へ圧縮した。掌に収まる小さな星が生まれる。
それを握り潰した瞬間、零の胸から黒い光が噴き出した。
現実が悲鳴を上げる。
門の向こうにいたチタウリ艦隊だけでなく、さらに遠くの存在がこちらを振り向いた。
紫の巨人。
サノス。
零と巨人の視線が、宇宙を越えて交わる。
巨人は微笑んだ。
零も笑い返した。
「次は、そちらから来てください」
そして門が閉じた。
第十章 最強の代償
門の向こうから帰還した直後、零には街の音が聞こえなかった。爆発も叫び声も、厚い水の底を通したように遠い。代わりに、胸の空白から宇宙の囁きが響く。
喰らえ。
青い石を。雷神の力を。緑の怪物を。赤い装甲の炉を。
取り込めば、次は誰も死なない。
それは零が最も拒みづらい誘惑だった。支配したいのではない。称賛も要らない。ただ、間に合わなかった顔を二度と見たくない。その願いを叶えるためなら、人間である必要などないのではないか。
だが地上から呼ぶ声には、命令も崇拝もなかった。
ただ、帰ってこいと言っている。
トニーは地上へ落ち、ハルクに受け止められた。
数秒後に目を覚まし、最初に口にしたのは食事の話だった。零は安心した。死にかけても食欲を失わないなら、たぶん大丈夫だ。
問題は自分だった。
空中に立つ零の身体を、黒い亀裂が覆っている。輪郭が薄れ、その向こうに星空が透けていた。
胸の空白が、核爆発とテッセラクトの力を求めている。
喰らえば傷は塞がる。もっと強くなれる。門を素手で開き、星を消せるほどに。
代わりに、神代零という人間は終わる。
「零!」
スティーブが呼んだ。
「降りてこい。戦いは終わった」
終わった。その言葉が、遠かった。
零は何十年も、次の破滅に備えてきた。より強く、より速く、より広く救えるように。だから目の前の力を受け入れるべきだと、胸の空白が囁く。
ソーがムジョルニアを構えた。ハルクが唸る。ナターシャとバートンが武器を向ける。彼らは零が敵になれば勝てないと知りながら、それでも退かなかった。
トニーだけが、壊れたアーマーでふらつきながら前へ出た。
「ゼロ。請求書の話を覚えているか」
「……何の話です?」
「私を宇宙から回収した。高額案件だ。支払うまで消えるな」
「無茶苦茶ですね」
「君にだけは言われたくない」
零は笑った。
それだけで、胸の空白より、人々の声の方が近くなった。
零は掌の小さな星を解放せず、自分の内側へも取り込まなかった。上空へ投げ、無害な光へ変える。マンハッタンの空に、昼間の星が降った。
代償は残った。亀裂は消えず、零の力は大きく不安定になった。
それでも彼は地上へ降りた。
スティーブが肩を貸し、ブルースが脈を取り、ナターシャが無言で背中を支えた。ソーは友の勇気を称え、バートンは「派手すぎる」と笑った。
トニーが最後に言う。
「食事にしよう。六人、いや七人で」
零は目を閉じた。
六十三年。世界を守りながら、どこにも属さなかった。
その長い孤独が、ようやく終わった。
終章 円卓ではなく食堂で
店は半壊していた。
それでも店主は営業を続け、七人は狭いテーブルを囲んだ。
ソーは初めて食べるシャワルマを気に入り、二本目へ手を伸ばした。スティーブは周囲の被害を気にして落ち着かず、ナターシャは黙って食べ、バートンは天井の穴から落ちる埃を避けて椅子をずらす。ブルースはハルクになった後の空腹を満たし、トニーはアーマーのままソースをこぼした。
「それ、洗えるんですか」と零。
「戦闘用装甲に食事機能を要求するな」
「次の改良点ですね」
「採用だ」
誰も勝利を祝わなかった。
食事の途中、スティーブの携帯電話が鳴った。使い方に慣れず、画面を何度も押している。トニーが横から奪おうとして手を叩かれ、ナターシャが無言で通話ボタンを押した。
それはペギーの病院からだった。
スティーブは店の外へ出た。零も少し遅れて後を追う。
「彼女に会うのが怖い」とスティーブは認めた。「俺の中では、まだ昨日のことなんだ」
「会わなければ、昨日のままです」
「君は会ったのか」
「はい。そして、もっと早く会えばよかったと思いました」
スティーブは頷き、迎えの車を断って歩き出した。零はついていかなかった。そこから先は、七十年を越えて約束を果たす二人の時間だった。
店へ戻ると、トニーが零の分の肉を勝手に食べている。
「それ、僕のです」
「細かい男は嫌われるぞ」
砂漠で交わした言葉を返され、零は何も言えなくなった。
街の外では救助が続き、失われた命もある。完全な勝利ではない。零がどれほど強くても、すべては救えなかった。
だが、彼らは次に同じことが起きた時、今日より多くを救える。
一人ではないからだ。
食事を終えた後、フューリーから通信が入った。
『チーム名が決まった』
「問題児保護観察会ですか」と零。
『アベンジャーズだ』
トニーが顔を上げる。
「復讐者たち? 暗すぎないか」
スティーブは小さく笑った。
「名前は、これから意味を変えればいい」
零は窓の外を見た。
空にはもう門も敵もいない。青いだけの、静かな空だった。
だが胸の亀裂の奥では、宇宙から届いた視線がまだ燃えている。
サノスは零を知った。
零もまた、自分が何のために作られたのかを知り始めた。
戦いは終わっていない。
それでも今夜だけは、次の破滅ではなく、目の前の仲間について考えてもいい。
「ところで」
零は会計票を持ち上げた。
「誰が払うんです?」
全員の視線が、億万長者へ集まった。
トニー・スタークは深いため息をついた。
「分かった。アベンジャーズ最初の共同作業は、私にたかることらしい」
笑い声が、壊れた店の中に響いた。
宇宙最強の怪物になれる青年は、その輪の中で、人間のように笑っていた。
第一部 完