水の魚たちによる牽制に、水のタコやクラゲによる行動阻害。
それから、水のシャコや鮫による、攻撃。
意図的に抑えているのもあるけれど、決定打を与えているような感覚はない。
ただ……どうにか、時間を稼ぐことはできていた。
……今は、これでいい。
ここで戦いを決め切るつもりは最初からない。
敵の気を引いてはねたぬきによる回復を間に合わせることが最大の目的なのだから、戦況は概ね狙い通りと言えるだろう。
現状では、水の生き物たちで気を引くことに成功しており、怪異もどきがこちらを直接的に狙ってきていないのも、良い。
……が、しかし。
今の状況に、問題がないというわけでもない。
それはというと、この戦いのタイムリミットが、予想よりも短くなってしまいそうなこと。
……異界内部で変身状態を保ったまま行動していたことによる消耗に、フィールド魔法の展開及び維持、それから、はねたぬきを介した回復に加えて、同時並行的な異能の行使。
魔力的なリソースが最後まで持つかどうかは、正直不安だ。
そして、不安な要素といえば、もうひとつ。
これは現状問題になっていない部分ではあるけれど……もしも、あの怪異もどきが私の視界から外れたら、その瞬間に極めて面倒なことになる。
私は今、身体を動かすことができない。
多少なら首を動かすことでどうにかなるけれど、一度大きく視界の外に出られたら、再び視界に収まるのは困難だろう。
私の作る水の生き物たちは、あくまで異能による直接的な制御に過ぎない。
当然、感覚器官を備えているわけでもない。
私があの怪異もどきを見失ったら、その瞬間に、できることが無くなってしまう。
……今は、そうならないように戦況を制御することができている。
それとなく行動範囲を制限する包囲網を形成し、水で作った生き物で、どうにか気を引いている。
ただ、その結果がこの膠着状態であるという話もある。
しかし、露骨な包囲は強行突破される危険があるし、下手に危機感を刺激すると、行動パターンに変化が生じても厄介なことになりかねない。
……遠隔で動くユニットで気を引く際は、怪異もどきに『存在を脅かす脅威ではないがたかられると鬱陶しい』という程度に認識させるのが、現状、最も確実な手段と言える。
それが『脅威である』と認識された瞬間、怪異もどきは、その脅威の発生源を断つ行動に切り替わるのではないかと、考えられる。
逆に、そのラインに到達するまでは、怪異もどきはその『無害なユニット』に、ただ対応するだけなのではないか、とも思う。
全力で回避行動を取らないと命中するような攻撃に、存在を脅かす威力があれば、それは脅威。
捕まった瞬間に行動不能に陥るような拘束を試みれば、それも脅威。
しかし、それらを満たさないものだけで攻撃し続ければ……怪異もどきにとって、高度な思考パターンに切り替えるに値する状況とは、判断されない。
これは、たった今、私が立てた怪異もどきの行動パターンの共通点に関する仮説のひとつであり、同時に、賭けている可能性だ。
……私と奏蕾で怪異もどきと戦っていた時は、こんなことを考えるようなキッカケすら無かった。
いつも怪異もどきは、直接、私や奏蕾を狙っていた。
それを、怪異もどきが常にそういう行動をするからだというわけではなく、普段、私たちがわざわざ、脅威にならない攻撃をする必要がないからそうなっているだけではないかと考えたのは……花久楽による怪異もどきとの戦闘がきっかけだった。
組織は、異界の外部からある程度危険度を測定できる。
だから通常は、魔法少女の攻撃が怪異もどきにとって脅威にならないような状況はあまり起こらない。
その上、『その攻撃が遠隔で動くユニットによるものである』という条件まで付け足すとなると、そんなパターンは、ほとんどないとすら言えるだろう。
しかし、それは事実として起こった。
組織が推奨しないレベルの怪異もどき討伐に、私が、花久楽を連れて行ったから。
……そして、現れた怪異もどきの本体に、彼女はフィールド魔法で出現させたロボットやドローンで攻撃した。
その時あの怪異もどきは、次から次へと現れるロボットやらドローンやらを、ただ振り払うような行動を繰り返した。
……あの時は、別になんとも思わなかった。
けれど今、この状況に陥ってからフィールド魔法を展開して、それから、『あの状況』を再現できなければ勝機はないと即座に判断して……ようやく、あれは再現性のある事象であるという可能性に思い至った。
結果として、うまくいっている。
複雑な異能の制御に加えての尋常でない魔力の消耗と引き換えに、少しずつ傷は癒えて、反撃の準備が整いつつある。
今、怪異もどきはまるでこちらを見ていない。
「……もう少しで、動けるようにはなるはずだッチ! でも、あくまで今は応急処置の範疇だッチ! あれを倒したら、すぐにまた回復を再開する必要があるッチ!」
「うん、わかってる。……今は、それでいい」
あと少し、もう少し。
いつあの目がこちらに向くかという心配はそれほどない。
……しかし、魔力が持つかどうかの時間的な制限が今は心配で、まともに攻撃できない現状がもどかしい。
「……これで、一応は治したッチ! でも、あまり無茶はできないから気を付けるッチ」
……治った、というには全身が軋むような感覚だ。
どうにかして立ち上がることはできたけれど、たしかに、身体を動かせば痛みが走る。
あくまで、この場でどうこうなりかねないような致命傷を、回復しただけ。
……しかし、いくら痛みがあると言っても、身体が動くのなら充分だ。
「……ありがとう」
いつもよりも少し緩慢な動作で、弓に半透明の矢を番えた。
……そして、渦を巻く矢の先を、わずかに震える手で狙いをつける。
「あとはここで、あれを倒し切るだけ」
心配そうにこちらを見るはねたぬきを安心させるように、あるいは自分自身を鼓舞するように、私は小さく呟いた。
「……穿て」
歯を食いしばり、痛みを堪えながら矢を放つ。
──同時に、水の生き物たちの、動きが変わった。
いや、私が、変えたのだ。
怪異もどきが容易に反応できるよう単調に、そして、仮に当たっても軽く吹き飛ばす程度に調整していた水のシャコや鮫は、鋭く怪異もどきの命を狙い始める。
それから、水の魚たちの群れは、その数を活かして確実に怪異もどきを削り始め、そして水のタコやクラゲは、捕らえた怪異もどきの脚を、引きちぎるまで離さないよう力を加えるように、変化した。
それらの唐突な変化は、予想以上に、怪異もどきの虚を突くことになった。
たしかに、残った魔力量は心許ない。
……しかしそれは、ここから怪異もどきをゼロから相手にする想定でのこと。
ただ一撃、それで倒し切れるのならば、もはやなんの問題もない。
既に、あの怪異もどきを穿つための矢は放たれている。
怪異もどきは、今この瞬間に行動のパターンが変化したようで、拘束を全力で抜け出そうとしているようだけれど……しかし今からでは、完全な回避はとても間に合わないはずだ。
怪異もどきは力づくで水の触手による拘束を引きちぎり、魚の群れの合間を縫うように動き出し、そしてようやくこちらを見た。
……しかし。
その眼前には、あらゆるものを捩じ切る特大の大渦が迫っている。
──そして、直後。
……怪異もどきは、あの状況から矢の直撃を避けることができたようだ。
しかし、大渦に巻き込まれるのは避けられなかったようで……その体躯の大半が消し飛んだ。
方々に弾け飛んだ脚や破片が、ゆっくりと粒子状に分解されていくように消えていく。
……やがて。
たしかに、あの怪異もどきは消え去った。
「……これで、終わり」
あれが怪異もどきの本体であったことはちゃんとこの目で見て確認してある。
……フィールド魔法を、解除する。
すると景色は、あの山奥の村ではなくて、ただの古びたトンネルの中に戻っていた。
「……どうやら、取り越し苦労ってやつだったみたいだな」
暗いトンネルの中を、聴き馴染みのある声が響く。
……この声は、鈴実の声だ。
「……前例のない深度と思われる、認識への干渉。それも、おそらく無条件」
今回の異界、及び怪異もどきの持っていた要素について、淡々と鈴実がまとめる。
「組織のお偉いさん方は、救援を送っても二の舞になるだのなんだの言い争って、結局なんの判断も下せてなかった。……あれじゃあ、何のために精霊が組織に中継してんのかって話だな」
肩をすくめて、鈴実は、心底呆れたとでもいうような態度でそう言った。
「……どうして、知ってるの?」
組織云々はともかくとして、あの怪異もどきが持っていた力を、どうして鈴実が知っているのか。
緊急性の高いものだったから、インターネットへの配信はしていなかったはず。
「お前の精霊が直接連絡を送ってきたんだよ。……お前が危機に瀕してること、異界に突入するにあたっての留意点。それから、向こうでワチャワチャするばかりで、対応してくれない組織について」
私は、その言葉を聞いてはねたぬきの方を見る。
……はねたぬきは、そっと小さく頷いた。
「……それだけじゃ、なかった」
私は、あの異界で感じた違和感をもっと詳細に伝えるために、口を開いた。
……その時。
口を開く瞬間、息を吸って、異様な匂いがすることに気づいた。
「……これは、遺体……?」
言おうとしていた言葉を切り、匂いの発生源に目を向けると、そこには人の遺体があった。
トンネルの中で暗くてよく見えないけれど……それは、年老いた男性の姿に見える。
「死後数日ってところだな……。どうやら、あの怪異もどきが発生した時点で、既にここで……ってところだな」
緊急性が高かった理由。
巻き込まれていたかも知れない、お爺さん。
異界の中で死んだら、その遺体は異界に吸収されるはずだから……これは、元からここにあったということになる。
「あーあ。かわいそう」
……その時、私のものでも鈴実のものでもない、声が響いた。
「さなぎは、ちょうちょになれなかった。……あなたが、殺してしまったせいで」
私と鈴実は、同時に背後を振り返る。
……そこには、トンネルの外から差し込む光を背にし、クマのぬいぐるみを抱く幼い少女の姿があった。
「お前は……何だ?」
困惑したように、鈴実が問う。
情けない話だけれど、私は、想像もしていなかったモノを目の当たりにして……少し、固まってしまっていた。
「ワタシは、ちょうちょ。……気が向いたから、あなたたちと、おしゃべりしに来たの」
……まるで人間のように、ソレは口を開き、言葉を紡いだ。
その瞬間、なんとなく。
アレが抱く、まるで買ったばかりのように真新しさを感じるクマのぬいぐるみが、かつて空き家の子供部屋で見た、ボロボロのクマのぬいぐるみと重なって見えたような気がした。