第百四十二話 小さな翼にも、窓は狭い
ホグワーツの階段を上がりながら、鬼太郎は鞄の位置を直した。
肩は痛まなかった。
キーノが隣から、その動きを見ている。
「大丈夫ですよ」
「まだ聞いてない」
「聞かれると思いましたので」
「なら、聞かずに済むように歩け」
鬼太郎は笑い、階段を上がった。
休暇は、まだ少し残っていた。城へ戻っても、すぐ授業へ出るわけではない。まず課題を部屋へ置き、ハーマイオニーを探すつもりだった。
彼女は、図書館にいた。
机の上には教科書と、何枚もの羊皮紙が並んでいる。二人に気づくと、羽根ペンを置いた。
「戻ったのね。課題は終わった?」
「ええ。キーノさんに何度か、本題へ戻していただきながら」
「調べ始めると、違うことまで書くんだ」
キーノが椅子を引いた。
ハーマイオニーは鬼太郎を見る。
「それは別にまとめておけばいいのよ。あとで役に立つかもしれないもの」
「そうしました。読んだ本についても、少し聞いていただきたいことがあります」
鬼太郎は鞄から紙を出した。
ハーマイオニーは自分の課題へ栞を挟み、二人へ場所を空けた。
◆
本の話を終えたあと、ドラゴンの調査結果を確認した。
ハーマイオニーが、罰則を書き留めた紙を広げる。
鬼太郎は火と牙についての記録を、その隣へ置いた。
「ハグリッドには、まだ話していないのよね」
「ええ。今日、伺おうと思っています」
「卵を見に行くんだろ?」
キーノが言う。
「それも、気になりますからね」
鬼太郎は否定しなかった。
ただ、孵化を見ることと、飼育を続けることへの判断は別に必要だった。
ハーマイオニーが紙の端を揃える。
「危なくなったら考える、だけでは困るわ。危ないと認めたくなくなったら、いつまでも決められないもの」
「何を見て判断するか、本人にも考えていただきましょう」
鬼太郎が答えたとき、図書館の入口にハリーとロンが現れた。
ハリーが三人を見つけ、足早に近づいてくる。ロンは背後を振り返り、入口から少し離れてから声を落とした。
「いた。ハグリッドから手紙が来たんだ」
ハリーが、小さく折られた紙を見せる。
卵に変化がある。
見に来るなら、早く。
鬼太郎はキーノへ目を向けた。
「ちょうどよかったですね」
「話を聞く余裕があるといいけどな」
キーノが立ち上がる。
ハーマイオニーも調査の紙をまとめ、本を閉じた。
◆
小屋へ近づくにつれて、煙突の煙がよく見えた。
ハリーが扉を叩くと、ハグリッドはすぐに開けた。
「来たか。早く入れ」
五人を急かし、扉を閉める。
室内は、前に来たときと同じように暑かった。
黒い卵は、テーブルの上に置かれていた。
鬼太郎が見る間にも、小さく揺れる。
殻の内側から、何かを擦るような音がした。
「朝から、こうなんだ」
ハグリッドは椅子へ座ろうとせず、卵の側へ立っていた。
「もうすぐだぞ」
大きな手が、触れかけて止まる。
待つしかない時間が、ひどく長いらしかった。
鬼太郎は卵を見てから、ハグリッドへ顔を向けた。
「生まれる前に、調べたことをお伝えしてもよろしいですか」
「調べたこと?」
「飼育の罰則と、生態です」
ハグリッドの笑みが、少し引っ込んだ。
「今、その話か」
「生まれたら、もっと聞いていただけなくなりそうですので」
キーノが小さく頷いた。
◆
ハーマイオニーは紙を広げた。
「人に被害が出ていない無許可の飼育だけなら、アズカバンに送られるとは書かれていなかったわ」
ハグリッドが顔を上げる。
彼女は続けた。
「でも、罰金は最大で四百ガリオン。それにドラゴンは押収されて、保護区へ移されるの。捕まえる費用や、その間の管理、運ぶ費用も飼っていた人が負担することになる」
「四百……」
ハグリッドは低く繰り返した。
「必ず四百ではなく、上限です。ただ、移送に掛かる費用は別です」
鬼太郎が付け加える。
ハグリッドは卵を見た。
「まだ、生まれちゃいないんだぞ」
「だから、今から考えていただきたいんです」
鬼太郎は椅子へ手を置いた。
「長い間、ドラゴンを飼いたかったんですよね」
ハグリッドが頷く。
「ずっとだ」
「でしたら、僕がそれを見て、ただ取り上げれば済むとは思いません」
鬼太郎の視線が、揺れる卵へ戻った。
殻の向こうで、生き物が動いている。
それが生まれる瞬間を、この人はずっと望んでいた。
「ただ、飼い続けるなら危険をよく見て、終える時機はご自分で決めていただきたいです。人に被害が出る前に」
「ちゃんと世話はする」
「世話をすることだけでは、足りなくなるかもしれません」
鬼太郎は生態の記録を開いた。
◆
「人が餌を与えても、犬と同じように懐く生き物ではないそうです。縄張りを守ろうとする性質も強い」
「ファングとは違う。それくらい、俺にも分かる」
ハグリッドが言った。
ファングは寝床から卵を見ていた。近づこうとはしていない。
「ええ。それでも、小さいうちは扱えてしまうでしょう。その間に、大きくなったときのことを後回しにしないでいただきたいんです」
鬼太郎は小屋の中を見た。
暖炉、椅子、寝床。
人と犬が暮らすには足りる場所も、翼を広げるドラゴンには、いずれ足りなくなる。
「自分より強い相手と上下関係が出来ることはある、とも書かれています。ただ、それも愛着とは別です。ご自分が扱えることと、他の人が安全に近づけることも、分けて考える必要があります」
ハグリッドが口を開きかける。
鬼太郎はその顔を見たまま、続けた。
「火を安全に収められない。小屋の中で身体を動かせない。人を傷つけそうになる。そうした変化があれば、まだ大丈夫だと延ばさず、手放すことを選んでいただきたいです」
「罰金を払えば、飼えるってことか?」
ロンが念のため尋ねた。
「いいえ。罰金は飼育の許可を買うお金ではありません」
鬼太郎は首を振った。
「手放すときには、その責任も引き受けるつもりでいていただく、という話です。誰かが怪我をしてからでは、同じでは済みません」
ハーマイオニーが頷いた。
ハリーはハグリッドを見ていた。
「ハグリッド。僕たちも、誰かが怪我をするのは嫌だよ」
ハグリッドは、しばらく返事をしなかった。
大きな指が、テーブルの縁へ掛かる。
「……聞いた。ちゃんと、見ておく」
手放す、とまでは言わなかった。
キーノが鬼太郎を見る。
彼も、その違いには気づいていた。
もう少し具体的に尋ねようとしたとき、殻の内側で大きな音がした。
◆
黒い卵が揺れた。
細いひびが、表面を走る。
ハグリッドがテーブルへ身を屈めた。
「来るぞ」
ひびの端が持ち上がる。
硬い殻の破片が、外へ押し出された。
鬼太郎も身を乗り出しかけ、距離を保って止まった。
割れ口から、黒い頭が出た。
細長い鼻先が動く。口が開き、殻の内側を押していた身体が、不器用に外へ出ようとする。
赤みのある目が、灯りを受けた。
ハグリッドが息を呑む。
ドラゴンは殻を蹴り、大きな翼を引き抜いた。
翼はまだ折り畳まれ、細い身体へ不釣り合いに見える。背には、黒い棘の列があった。
尾が卵の破片へぶつかり、テーブルの上で音を立てる。
生まれたばかりのドラゴンが、五人とハグリッドの前にいた。
◆
ハグリッドの顔が、喜びで緩んだ。
「見ろ。こいつ、俺を見てる」
彼が手を近づけると、小さな顎が動いた。
尖った歯が見える。
鬼太郎の左手がわずかに動き、何も放たずに止まった。
ハグリッドが指を引いていた。
「元気だな」
噛まれかけても、その声は嬉しそうだった。
ハーマイオニーが本を開く。
キーノは黒い棘と翼を見比べた。
「背中の並びも、本と同じだ」
「ノルウェー・リッジバックですね」
鬼太郎が答えた。
卵の見分け方だけで推測していたものを、今は生きた姿で確かめられる。
頁の上の絵と、目の前で動く身体は違った。
爪が木へ掛かる。翼を動かすたび、肩の位置も変わる。まだ歩き方は頼りないが、歯だけは、触れて確かめたいと思える形ではなかった。
ドラゴンが、かすれた声を出した。
鼻先から火花が散る。
ロンが椅子ごと身体を引いた。
「もう火を出すのかよ」
「火を吐くようになるのが早い種類なの」
ハーマイオニーが本を見ながら答える。
「布を遠ざけた方がいいわ」
キーノが、テーブルの端にあった布を退けた。
ハグリッドは礼を言い、小さなドラゴンへ顔を近づけすぎない位置で覗き込んだ。
鬼太郎はその動きを見ていた。
注意はしている。
ただ、火花まで愛らしいものとして見ているのも、よく分かった。
◆
「名前がいるな」
ハグリッドが言った。
ドラゴンはテーブルを歩き、殻を鼻で押した。
ハグリッドの大きな掌が、落ちそうな端を塞ぐ。
「ノーバート。どうだ」
ハリーが笑った。
「いいと思うよ」
「ノーバートか」
ハグリッドはもう一度呼び、満足そうに頷いた。
ドラゴンはその名に応える代わりに、掌へ顎を向けた。
彼は手をずらし、殻の破片を片づけ始める。
鬼太郎も、目の前の幼竜から目を離しにくかった。
翼が開くところを見たい。火がどこから生じるのかも知りたい。大きくなれば、どのように地面を蹴り、空へ出るのだろう。
ハグリッドが、この瞬間を望んだことは理解出来る。
しかし、いま掌で塞げるテーブルの端も、いつまでも同じようには守れない。
世話が出来るうちに、飼い続けられるかを考える必要がある。
鬼太郎は、その話をもう一度する時機を探した。
◆
ハリーが、急に顔を上げた。
視線が窓へ向く。
「誰かいる」
カーテンの隙間に、顔があった。
薄い色の髪。
マルフォイだった。
赤みのある小さな目も、翼も、テーブルの上に出ている。
ハリーが椅子を離れた。
窓の向こうの顔が消える。
ロンが扉へ走った。
鬼太郎はノーバートから視線を移し、立ち上がった。扉が開くと、外の冷たい空気が一度に入ってくる。
離れていく足音がした。
ロンは入口から外を見て、ハリーへ振り返った。
「マルフォイだ。見られたぞ」
ハグリッドの手が止まった。
ノーバートは何も知らず、残っていた殻を踏んで翼を動かしていた。
小屋の窓は閉めてあった。
それでも、秘密を隠し続けるには足りなかった。