転生先が殺し合いを約束された帝国の第三王子だった件 作:冷やかし中華
十三歳になった。
一人で身体を鍛え始めてから、もう八年以上が経つ。
八年。
そう考えると、結構長い。最初の頃は、走って、跳んで、転んで、姉さんに笑われていた。今も走るし、跳ぶ。転ぶことは、さすがに減った。姉さんには今も笑われる。あまり変わっていない気もする。
ただ、俺たちを取り巻くものは、随分変わった。
◆
最近は、きちんとした講師がつくようになった。
剣術。
体術。
乗馬。
礼法。
外国語。
歴史。
政治。
法律。
その他。
王子なら知っておけ。
王子ならできて当然。
王子だから覚えろ。
そんなものが、年々増えている。
「カイエン殿下」
「はい」
「聞いておられましたか?」
「聞いてます」
「では、先ほどの問いにお答えを」
「聞いてました。今考えてます」
「そうですか」
「はい」
身体を動かしていれば褒められた頃が、少し懐かしい。とはいえ、嫌ではなかった。知らないことを知るのは面白い。
剣術を習えば、自分が思っていた以上に足の置き方が雑だったと知った。体術を習えば、必要のないところまで力んでいたと知った。乗馬では、相手が生き物なら自分の都合だけでは動いてくれないことを学んだ。政治では、人間も大体同じだと学んだ。
たぶん。
馬の方が素直だ。
◆
姉さんと一緒にいる時間も減った。別に、仲が悪くなったわけじゃない。第二王子には、第二王子の予定がある。第三王子には、第三王子の予定がある。歳を重ねるほど、受ける教育も、会う人間も、任される仕事も増えていった。
国内の視察。
外国から来た人間との会食。
式典。
挨拶。
顔合わせ。
姉さんが王宮にいる日に俺がいない。俺が帰ってきた頃には、姉さんが別の場所へ出ている。そんなことも珍しくなくなった。昔なら、朝、庭へ出ていれば、そのうち姉さんが来た。最近は来ない日も多い。
たまに顔を合わせると。
「遅い!」
と言われる。俺のせいじゃない。これは、昔と変わらない。変わったのは、その後だ。
昔なら、そこから半日は一緒にいた。走って、勝負して、姉さんが飽きて、俺が笑われて、それで一日が終わった。今は、そうもいかない。二言三言で、どちらかが呼ばれる。
「殿下、そろそろ」
「カミーラ様、お時間です」
同じ日に、別々の人間が、別々の場所へ連れて行く。姉さんはそのたびに不機嫌になる。俺も、あまり気分は良くない。仕方ないとは思う。
思うのだが。
庭で顔を合わせるだけの相手だった頃の方が、たぶん、簡単だった。
◆
そして、俺自身にも、大きく変わったものがあった。
念だ。
初めて自力で精孔を開いてから、もう何年か経つ。《纏》は、かなり安定した。座っているだけなら、ほとんど意識しなくても維持できる。
歩ける。
走れる。
食べられる。
本も読める。
授業だって受けられる。
「殿下」
「はい」
「今、別のことを考えておられましたね?」
「少しだけ」
「何を?」
「言えません」
「……そうですか」
言えない。授業を受けながら《纏》の状態を確認してました、とは。
《絶》も覚えた。《纏》とは逆。
閉じる。
オーラが外へ漏れないようにする。知識としては知っていた。けれど、実際にやるのと、漫画で読むのとでは全然違う。最初は怖かった。それまで身体を覆っていたものが消えると、服を一枚脱がされたような心細さがある。
それでも繰り返した。
《纏》。
《絶》。
《纏》。
《絶》。
何度も。
何度も。
練も、一応はできる。ただ、そこから先はほとんど触っていなかった。理由は簡単。
分からないからだ。
◆
前世の知識がある。だから名前は知っている。
《凝》。
《隠》。
《周》。
《円》。
《硬》。
《流》。
どんな技術なのかも、大体は知っている。でも、知っていることと、できることは違う。できることと、正しくできていることは、もっと違う。それは、八年以上身体を鍛えて、嫌というほど思い知った。
自分では正しいつもりだった動きでも、一流の人間に見せれば。
「そこは違います」
と普通に言われる。身体ならまだいい。悪い癖がついても、痛みなり不調なりが出るし、見てくれる人間もいる。
念で変な癖をつけたら。
俺には、自分でそれを見つける方法すらない。
鏡もない。物差しもない。
何年もかけて間違ったまま固めて、それに気づくのが十年後だったら、目も当てられない。だから、十三歳になった俺は、王族の特権をかなり正しい方向へ使うことにした。
◆
「プロハンターを?」
「うん」
俺の前で、教育関係を担当している役人が少し困った顔をした。
「カイエン殿下の講師として、ですか?」
「一年だけ」
「専門は?」
「そこも含めて、俺が選びたい」
「現在の講師陣に、何かご不満が?」
「ないよ」
これは本当だ。剣術の先生も、体術の先生も、皆、優秀だった。
「では、なぜわざわざハンターを?」
少し考える。
「違う人を見たいから」
「違う?」
「王宮が用意してくれる人じゃない人」
相手が黙る。
「今いる先生たちは優秀だよ。でも、基本的に王家や軍や、そういう場所と繋がってる人でしょう?」
「それは当然です」
「うん。だから、その外で生きてる人から習ってみたい」
「……何をです?」
「何でも」
危険な土地へ行く。未知のものを探す。誰も守ってくれない場所で、自分の判断で動く。
失敗すれば、たぶん、普通に死ぬ。
「そういう人が、どうやって歩いて、どうやって見て、どうやって危険を避けるのか知りたい」
「王子殿下が、ですか?」
「王子だから」
外遊へ行って、王宮の外を初めてまともに見た。それから、ずっと思っていた。俺の周りにいる人間は優秀だ。でも、同じではない。育った場所が違えば、身につけたものも、たぶん違う。
「外で生きてる人の空気を知りたい」
役人がしばらく俺を見た。
「……候補は?」
「決めてる」
「どなたでしょう」
俺は名前を告げた。
◆
ビスケット=クルーガー。
プロハンター。
専門は石。
鉱物。
宝石。
そして、俺が前世で知る限り、念を教わる相手としてこれ以上ない人。もっとも、そんな理由を口に出すわけにはいかない。だから名前を挙げるまでに、それなりの手間をかけた。
公開されているハンターの一覧を取り寄せる。実績を並べる。国内の鉱山関連の記録と照らす。
石を専門にするハンターを招くことには、王宮側にとっても筋の通った説明がつく。その上で、他にも数人の名前を混ぜて出した。最初から一人だけ指名すれば、なぜその人物なのかと必ず聞かれる。
実際、俺は聞かれた。
「なぜ、この方を?」
「実績が一番はっきりしてる」
「他の候補も遜色ないように見えますが」
「そう?」
「ええ」
「なら、あとは勘」
役人が、それ以上は追及しなかった。
王子の気まぐれ。そういうことにしてもらえるのは、こういう時だけ便利だ。
招聘の打診を出してから、返事が来るまでに一ヶ月近くかかった。その間も、俺は同じことを続けていた。走って、身体を伸ばして、座って、纏を確かめる。断られたら断られたで、次の候補を探せばいい。
そう思ってはいたが。正直に言えば。
毎朝、返事の有無を確認していた。
◆
返事が来たのは、諦めかけた頃だった。断りの文面ではなかった。かといって、承諾でもない。
一度会って話を聞く。そう書いてあった。
当日、王宮の正門に現れた人物を見て、案内役の侍従が固まっていた。
無理もない。王家が招聘するプロハンターとして通されたのが、自分の主君の弟より小柄な少女だったのだから。本人は、まったく気にしていなかった。むしろ、廊下の柱や床石を、通りすがりに指で撫でては眺めていた。
石だ。
この人は、建物を見ていない。
建材を見ている。
そして、席に着いて最初に言ったのが、これだった。
「お断りします」
「ですよね」
早かった。すごく早かった。
目の前にいるのは、どう見ても少女だった。
小さい。
華奢。
整った髪。
かわいらしい服。
俺と比べても年下に見える。
でも、知っている。
外見は信じちゃいけない。
「あら?」
「何ですか?」
「今、失礼なこと考えなかった?」
「考えてません」
「そう?」
「はい」
危ない。この人、多分かなり鋭い。
◆
場所は、王宮の中でも人をかなり絞った応接室。俺と、ビスケット=クルーガー。それから、契約を扱う人間が一人。
正式な依頼内容は、一年間、第三王子カイエン=ホイコーロの外部講師。
護身。
武術。
危機管理。
野外活動。
ハンターとしての知識。
そのあたり。
「一年でしょう?」
「はい」
「その間、アタシはカキンに拘束される」
「原則として」
「他の長期依頼も受けにくくなる」
「はい」
「石を見つけても、すぐ飛んでいけない」
「そこは契約条件次第で」
「そういう問題じゃないのよ」
「ですよね」
そこは、ちゃんと分かっているつもりだった。プロを一年縛るというのは、金を払って時間を買うという話ではない。その一年で本来この人が手に入れられたはずのものを、まるごと諦めさせるということだ。だから、そのぶんを用意した。
ビスケが報酬額を見る。悪い顔はしていない。
でも。
「これだけ?」
「現金は」
「現金は?」
食いついた。なので、次を出す。
「こちらを」
資料。
ビスケが受け取る。
開く。
止まった。さっきとは、明らかに止まり方が違った。
「……これ」
「王家の管理下にあるものです」
「本物?」
「鑑定記録もつけます」
ビスケの目が紙面から離れない。紙をめくる速度が落ちている。一枚ごとに、視線が上から下まで丁寧に往復していた。
「契約終了まで問題なく勤めてもらえれば、正式な手続きを踏んで譲渡します」
返事はない。まだ紙を見ている。
「あと」
もう一枚。
「国内で確認されている希少鉱物と宝石について、公開可能な範囲で資料を提供します。現物の取得が無理でも、産地や過去の採掘記録なら調べられる」
顔が上がった。
「坊や」
「はい」
「アタシのこと、随分調べたのね」
「プロを一年雇うのに、相手の専門すら調べない方が失礼でしょう」
「あら。口が上手い」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてないけど」
ですよね。ビスケはもう一度資料を見る。そして、ようやく。
「で?」
「はい?」
「本当の目的は?」
来た。
◆
契約担当の人間には席を外してもらった。二人になる。ビスケは、さっきまでとは少し違う顔をしていた。笑ってはいる。
でも、目が、こっちを見ている。
「外で生きてる人の空気を知りたい」
「本当です」
「それだけじゃないでしょ?」
「はい」
俺は息を吐いた。
「念を教えてください」
笑顔が消えた。
ほんの一瞬。
「……どこで、その言葉を知ったの?」
「言えません」
「誰に習った?」
「誰にも」
「誰にも?」
「独学です」
目が細くなる。
「見せなさい」
「ここで?」
「今」
「はい」
《纏》。
身体をオーラで包む。
ビスケが黙った。近づいてくる。俺の周りを一周。
「絶」
閉じる。
「戻して」
《纏》。
「練」
出す。
数秒。
「もういい」
止める。
「何年?」
「三年弱くらいです」
「誰にも習ってないの?」
「はい」
「精孔は?」
「自分で開きました」
「何日?」
「三日」
止まった。
「もう一回言って」
「三日です」
「……そう」
顔が変わった。
喜んでいる、というより。
値踏み、している。
俺を。
「面白いわね」
ぽつり。それから、ビスケは椅子へ戻った。
「契約書」
「受けてくれるんですか?」
「条件を詰めるわよ」
現金。
宝石。
それだけじゃ、なかったらしい。
◆
「延長は?」
「俺からは求めません」
「よろしい」
「先生がしたいなら?」
「調子乗らない」
「はい」
条件が、一つずつ置かれていく。
「教える内容はアタシが決める」
「はい」
「武術も見る」
「お願いします」
「念だけ教えてくれ、は無し」
「むしろ、そのつもりでした」
ビスケの手が止まった。
「……変な子」
「よく言われます」
「嘘ね」
「何で分かるの?」
「顔」
怖い。
「それと」
「はい」
「アタシが駄目だと言ったことはやらない」
「はい」
「王子だからって例外はなし」
「もちろん」
「泣いても知らない」
「努力します」
「泣かない努力じゃなくて、言うこと聞く努力しなさい」
「はい」
契約が決まった。
◆
「それと、一つ」
「まだあるの?」
「姉がいます」
「知ってるわよ」
「なるべく近づかないでください」
ビスケが俺を見る。
「何で?」
「面倒なので」
「お姉さんが?」
「はい」
「アンタも大概面倒そうだけど」
「否定しません」
「しなさいよ、そこは」
仕方ない。説明する。
「姉さんは、気に入ったものを自分の近くに置きたがります」
「子供ならそんなもんじゃない?」
「人も含めて」
少し間があいた。
「……なるほど」
「俺の周りにいる人間は、とりあえず調べます」
「怖いわね」
「隠すともっと調べます」
「もっと怖いわね」
冗談を言っているつもりはない。
「それで、俺がわざわざ外から人を呼んだとなれば」
「来る?」
「多分」
「気に入られたら?」
「自分にも教えろって言います」
「別に教えればいいじゃない」
「契約しないでください」
「あら」
「先生を姉さんに取られるために宝石まで出したわけじゃないので」
ビスケがくすりと笑った。
「アタシを心配してるのかと思った」
「それもあります」
「へえ?」
「先生が姉さんに腹を立てて帰るのが一番困る」
「……かわいくないわね、アンタ」
「安全面については、あまり心配してません」
「当然よ」
そこだけは、ものすごく自信がありそうだった。
「まあ、契約は契約よ」
「ありがとうございます」
「追加で弟子なんて取らないわ」
「宝石積まれても?」
ビスケが一瞬黙った。
「先生?」
「積まれてもよ」
ちょっと間があったな。
◆
初日。
俺は、自分が八年間何をやってきたのか、少しだけ分からなくなった。
「重心」
「はい!」
「高い!」
「はい!」
「肩!」
「はい!」
声の飛んでくる速さに、返事が追いつかない。
「そこで力入れない!」
「はい!」
「目ぇ切るな!」
「はい!」
「返事だけは立派ね!」
「ありがとうございます!」
「褒めてない!」
厳しい。ものすごく厳しい。そして、ものすごく上手かった。最初にやったのは念ではない。
立つ。
歩く。
走る。
止まる。
避ける。
転ぶ。
起きる。
殴る。
受ける。
また立つ。
地味。
全部、知っている。全部、今までやってきた。
そのはずだった。
「そこ」
足を払われた。
「うわっ」
転ぶ。
「今の何が駄目だった?」
「重心?」
「半分」
「視線」
「それも」
「……足?」
「考える前に立つ!」
「はい!」
立つ。また転ばされる。
その日、何度地面を見たかは覚えていない。嫌になったのは、痛みではなかった。同じ場所で、同じように崩される。こちらが直したつもりの部分は、たいてい直っていない。直っている時は、別の場所が崩れている。
自分の身体なのに、自分の言うことを聞いていないような気がした。
数時間後、床へ座り込んだ。汗が冷えて、背中が重い。
「八年以上やってきたんだけどな」
「分かるわよ」
「本当?」
「身体はちゃんと出来てるもの」
「よかった」
「でも」
「はい」
「独学でついた癖もある」
「やっぱり」
やっぱり、だ。薄々は思っていた。誰にも見てもらわずに八年やれば、間違いも八年ぶん積み上がる。
自分で気づけた癖は、その時点で癖ではない。
気づけないから癖なのだ。
「そこ、嫌がらないの?」
「何を?」
「八年やって、それ間違ってるって言われたのよ?」
「直した方がいいですよね?」
「そうだけど」
「だから雇いました」
ビスケが少しだけ変な顔をした。
「……そう」
何だろう。
◆
念も一から見られた。
《纏》。
「安定はしてる」
「はい」
「でも、右肩」
「右肩?」
「厚い」
「え?」
「あと背中。意識が抜けると偏る癖がある」
全然気づいていなかった。
「直して」
「はい」
意識する。
崩れる。
「ほら」
「本当だ」
「長くできるのと、綺麗にできるのは別」
「はい」
「もう一回」
やる。
《絶》。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「でも切り替えが遅い」
「はい」
「もう一回」
《練》。
「雑」
「はい」
「腹立たないの?」
「先生を雇って、全部完璧ですって言われる方が困るんですけど」
「……それもそうね」
また変な顔をされた。
◆
水見式もやった。コップに水を張り、葉を一枚浮かべる。両手で挟んで、《練》。単純な作業だ。
水が溢れれば強化系。
味が変われば変化系。
葉が動けば操作系。
色が変われば放出系。
不純物が出れば具現化系。
前世の知識としては、そこまで知っていた。俺の場合は、そのどれとも違った。
水は溢れない。葉も動かない。色も変わらない。
代わりに、水面が、ほんの少しだけ揺れ続けた。
波紋ではない。外から力が加わったわけでもないのに、内側から震えているような、そういう揺れ方だった。
ビスケが変化を見て、しばらく黙る。
「特質ね」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「あ」
「何が、やっぱり?」
「何となくです」
「ふうん?」
危ない。
「で」
「はい」
「発は?」
「ありません」
「作ってないの?」
「はい」
「作りたいものは?」
「まだ」
ビスケの眉が少し上がる。
「珍しいわね」
「そうですか?」
「普通、念を覚えたら自分だけの能力が欲しくなるものよ」
「俺も欲しくないわけじゃないです」
「なら?」
「何が必要になるのか、まだ分からないので」
俺は十三歳。
王子。
姉さんがいる。
王位継承がある。
この先何が起こるか、ある程度知っている。でも、俺がいる時点で、知っている未来は少しずつ変わる。
便利そう。
強そう。
それだけで自分の能力を決めたくない。
「特質系なら、なおさら急がなくてもいいかなって」
「そう」
ビスケは少し考えた。
「それ自体は悪くないわ」
「本当ですか?」
「ただし」
「はい」
「決めるのが怖いだけなのを、慎重って言葉で誤魔化すのは駄目よ」
刺さった。
結構、深く。
「……はい」
「発を作らないことを目的にするのも違う」
「はい」
「必要になった時に、ちゃんと選べるようにしときなさい」
「分かりました」
「それまでは?」
「基礎をやります」
「地味よ」
「好きです」
「そういう問題じゃないんだけど」
また変な顔。
◆
一ヶ月。
二ヶ月。
俺は基礎をやった。
身体。
《纏》。
《絶》。
《練》。
また身体。
また《纏》。
できることが増える。増えるたび、戻される。
「もうできます」
「もっと綺麗に」
「はい」
「疲れてても」
「はい」
「考え事してても」
「はい」
条件が増えていく。
「足場が悪くても」
「はい」
「殴られても」
「はい」
「寝ながら」
「それは無理では?」
「冗談」
「ですよね」
「そのうちやるけど」
「冗談じゃない」
毎日、まとまった時間が取れるわけではなかった。公務のある日は、朝しか会えない。だからビスケは、その日の課題を渡す形に切り替えた。
「移動中は纏」
「はい」
「安全な場所が取れたら絶。十五分を三回」
「はい」
中庭の朝は、まだ冷える。
「足音。今日は自分のじゃなくて周囲のを数えなさい」
「何人分?」
「アンタが拾えた全部」
「多いなあ」
「王子様なんだから、人いっぱい連れて歩くんでしょ?」
「確かに」
「帰ったら報告」
「はい」
それを持って仕事へ行く。会食の席で纏を確かめる。馬車の中で足音を数える。式典の最中、退屈な挨拶を聞き流しながら、肩の偏りを直す。
傍から見れば、行儀よく座っているだけの王子だ。誰も気づかない。
それがいい。
戻ったら、また修行。同じことを、何度も、何度も。
数ヶ月もすると、ビスケという人が少しずつ分かってきた。この人は、褒めない。正確には、できて当たり前のことを褒めない。その代わり、間違いは絶対に見逃さない。こちらが百回やれば、百回とも違うところを指摘してくる。適当に流している時は、必ずばれる。そして、危ないことは絶対にやらせない。
厳しさと乱暴さは違うのだと、この人を見ていて初めて分かった。
◆
「アンタ」
「はい?」
「飽きないの?」
「何が?」
「これ」
《纏》。
もう何百回。いや、もっとか。
「まだ直すところありますよね?」
「あるけど」
「じゃあ、やります」
ビスケが俺を見る。
「才能ある子ってね」
「はい」
「大抵、基礎ができるようになると、その先をやりたがるのよ」
「俺も先はやりたいですよ」
「見えないわねえ」
「急いでないだけです」
ビスケが少し黙る。
「……アンタ、十年後も同じことやってそう」
「やめる理由がなければ」
「そういう返事が嫌なのよ」
「何で?」
「何でも」
理不尽。でも、この人に理不尽と言われるのは、そんなに嫌でもなかった。
◆
そんなふうに、俺の一年は静かに進んでいった。
朝、課題を受ける。昼、王子をやる。夜、また課題をやる。
地味で、繰り返しばかりで、進んでいるかどうかも分かりにくい。
悪くない。むしろ、ずっとこうしていたいくらいだった。
もちろん、そんな都合よくはいかない。
最初の兆候は、些細なものだった。修行に使っている中庭の入口で、侍女が一人、こちらを見ていた日がある。目が合うと、丁寧に頭を下げて去っていった。それだけなら、よくあることだ。
次の週、別の侍女が同じ場所にいた。その次は、俺の予定表を管理している人間が、聞かれてもいないのに午後の予定を説明してきた。
誰が、何を知りたがっているのか。考えるまでもなかった。
問題は、やっぱり、姉さんだった。