元剣豪のTS巫女が昔のライバルに抱かれるまで 作:ともがら
土蜘蛛が、跳んだ。
残った脚を広げて真上から落ちてくる。
斬り上げた刃が、脚を二本まとめて飛ばした。踏み替えて腰を切ると、もう腹へ返っていた。昔なら一度退いていた間に、二太刀入った。
剣が、面白い。
追いかけた足が止まった。背後で、兵馬の脇差が石に触れた。私は杉の前へ戻った。
左の小手を、わざと空けた。そこへ土蜘蛛の脚が伸びる。
足を引かずに半身を入れ替え、爪を刃で流す。もう一本が峰を押さえた。
足元から脇差が走り、押さえた脚の付け根を裂いた。爪が外れた。
私は突いた。兵馬も、片膝から身を投げた。
二本の切っ先が、ひとつの拍子で腹を貫いた。
倒れた土蜘蛛の脚が縮み、腹の毛が尾へと伸びる。そこに横たわっていたのは、一匹の狐だった。白い糸が解け、鉈や菅笠が地へ落ちた。
「あな口惜しや。天下一の剣豪の魂を、喰ろうてやろうと謀ったに」
毎日、耳の奥で聞いていた声が、狐の口から出ていた。
「狐か」
尾が一度地を打ち、それきり動かなくなった。
「新三郎」
兵馬が名を呼んだ。
「左を誘って、足は退かぬ。その剣を、おれが見間違えると思うか」
脇差を置いた兵馬は、右肩を私へ預けた。押し当てていた手拭いが落ち、左腕を血が伝っている。
私は白衣の襟を開き、胸の晒に指をかけた。兵馬の目が近い。一瞬、襟を押さえかけ、晒の端を引いた。
兵馬は目を閉じた。
冷たい風が胸を撫でた。肩へ手を伸ばした拍子に、兵馬が薄く目を開けた。その目が、左胸で止まった。襟を掻き合わせ、手拭いを傷へ戻し、肩から二の腕へ晒を回した。引き絞って結ぶと、兵馬が歯を食いしばった。
「やはり、傷があるな」
「見ていたのか、こんな時に」
結び目をたしかめた。血は、まだ滲んでくる。
「縁が切れたと言ったのは、嘘だ」
兵馬の右手が、私の袖をつかんだ。
「刀の縁は、おれに続いていた。初めの手拭いも、そうだった」
「なぜ、死んだと思わせた」
答えずに済ませたかった。手当てを終えても、袖は離されなかった。
「この姿を、お前に知られたくなかった」
兵馬の顔を見た。
「お前に会っていたくて、嘘をついた。すまなかった」
「今は、何も言うな」
私は兵馬の右腕を肩へ回し、その身体を支えて立った。
◇ ◆ ◇
社へ戻り、厨で湯を沸かしていると、耳の奥で声がした。
『ようやく、あの男の手を取ったのう』
『生きていたのか、狐』
『二人が添うところを見とうてな。添わぬなら、二人とも喰えばよいと思うておった』
『兵馬に傷まで負わせてか』
『あそこでお主が逃げれば、まずあの男からじゃ。よう刀を取ったのう』
奥で兵馬が呻いた。私は煮立った湯を桶へ移した。
町の医者に傷を診てもらっても、兵馬は幾日か熱を出した。私は火を絶やさず、粥を煮た。崖へ落ちた大刀は、吾平たちが見つけて届けてくれた。
熱が下がっても、兵馬は私に名を呼びかけなかった。椀を受け取り、薬を飲み、夜は壁を向いた。
翌夕、粥の盆を下げようとすると、兵馬が私の刀を膝の前へ置いた。砕けた鞘は、木片を寄せて布で留めてある。吊った左腕をかばい、兵馬は右手でそれを押さえていた。
「なぜ、女になった」
「お前に、勝ちたかった」
兵馬が、目を見開いた。
「あの祠で、強くしてやると言われた。狐と知っていて、乗った」
「馬鹿か」
「お前に言われたくない」
「おれが、誰に勝つために振っていたと思う」
兵馬は鞘を押さえたまま、こちらを見ていた。
「お前が消えてからもだ」
兵馬は、私の刀を押し返してきた。
「おれをあれほど剣に夢中にさせておいて、一人で捨てるな」
柄を受け止めた。
「お前のせいでもある」
兵馬の手が止まった。
「誰に勝っても、お前に見せねば足りなんだ。だから狐にまで縋った」
「ならば、戻ってくればよかった」
私は、刀を挟んで頭を下げた。
「女になって逃げた。ほかの誰に見られても、お前にだけは知られたくなかった」
「おれなら、頼れたであろう」
「お前だからだ。刀を持つおれしか、お前には見せられなかった」
「おれが、そう言ったか」
「言ったではないか。あいつが刀を捨てるはずはない、と」
兵馬の口が閉じた。
「おれは捨てた。この姿で、七年飯を炊いていた。どうお前を頼れというのだ」
「それを、言えばよかった」
「言えば、今までどおり、おれに刀を向けたか」
返事がなかった。盆を取って立とうとすると、袖を掴まれた。
「すぐに今までどおりには、できなんだかもしれん」
袖を掴む手は、離れなかった。
「それでも、生きていてほしかった」
「剣を忘れていたおれでもか」
「しの殿に会いに来ると言った。お前の剣を見る前にだ」
峠道で、私は待つと答えた。その先を、あの時は新三郎の名で壊したくなかった。
兵馬の目が、膝の前の刀へ落ちた。
「おれに酒を供えさせて、どんな顔で見ていた」
盆を置き、膝を揃えた。
「あの酒は不味かったな」
「何」
「お前が寝たあと、私の分を飲んだ。朝に気づかれぬよう、注ぎ直してな」
兵馬の右手が袖を離れ、拳になった。
「殴ってくれていい」
「殴れば、お前は済んだと思うのか」
首を振った。拳は、膝に置かれたままだった。
「二度と、あんな嘘はつくな」
「つかぬ」
兵馬は拳をほどいた。
「お前を捜しに来て、しの殿に惚れた。お前が帰ってきたら、何と言えばよいかと思っていた」
「誰に、何を言うつもりだった」
「お前を捜す旅が、楽しみになってしまったと」
「どちらもお前では、逃げ場がない」
私は、兵馬の右手を取った。
「私は、おれに妬いていた」
「何だと」
「隣にいるのに、お前は新三郎の話ばかりする。そいつのためなら、私の布団を出て、霜の降りるところで寝る」
言うまいと思っていたことが、次々に出た。
「死んだことにすれば、私を見てくれると思った。……それで、お前に酒を供えさせた」
取った手を、両手で包んだ。
「こんなことまで、お前には知られたくなかった」
兵馬は、手を引かなかった。
「今は」
隠したいことは、まだあった。木刀を借りられなかった夜も、自分の刀から二度逃げたことも。言えば、またこの男を怒らせる。
「お前に、知っていてほしい。剣を捨ててからの私も」
包んだ手が、握り返してきた。
「お前と斬り合いたい。帰ってきたら、飯も食わせたい。どちらも欲しい」
「聞く。勝手に話を終わらせるな」
私は頷いた。
「兄にも、生きていると知らせる。この姿のことも。春には会いに行く。年越しの支度を済ませて、ここの留守を頼んでからだ」
「おれの暇は、暮れまでだ」
引き留める言葉を、飲みこんだ。
「先に帰って、待っていてくれ」
兵馬は私の手を放し、己の刀を差し出した。
「触ってみろ」
「まだ、天下一ではない」
「決着は、腕が治ってからだ」
柄へ伸ばした手を止めた。
「女だぞ」
「知っておる」
「手加減をしたら、許さぬ」
兵馬は呆れた顔をした。
「あの突きを見て、手加減などできるか。次は、おれに向けて来い」
差し出された柄を握った。七年前、この手を見て逃げた。今は、この手で兵馬へ突き込むところが浮かんだ。
「逃げるなよ」
「お前こそ」
「土蜘蛛を突いた時、腰が浮いておらなんだ」
兵馬は、こちらを見た。
「遅いわ、馬鹿」
「七年ぶりだ。少しは褒めてやる」
「その七年、誰に見せるつもりで直したと思う」
もう一度、この男の突きを受けたかった。今の身体で、どこまで届くか試したい。
「腕が治ったら、確かめてやる。飯を炊く前にな」
「では、食うのは立ち合いのあとか」
「負けても三杯は食うのだろう」
笑うと、兵馬も笑った。
柄に触れた指へ、兵馬の手が重なった。そのまま指を包まれた。
共に天下一の剣豪となって、また会おう。
そう誓って別れた男の手を、自分の頬へ当てた。今の顔を、見ていてほしかった。
兵馬の手が背へ回った。吊った左腕に触れぬよう、私はそっと身を寄せた。
「新三郎」
「しのと、呼んでくれ」
兵馬は少し考えて、それから言った。
「しの」
尋ね人は、見つかった。
(了)