静寂と異質の風
視界を覆っていたのは、ヘルサレムズ・ロット(HL)特有の焦臭く粘ついたあの煙霧ではなかった。
鼻腔を突くのは濡れた土の匂い。
濡れそぼった木々の葉が擦れ合う、どこまでも静性で澄み切った風の音。
そして——耳を打つ、小鳥の囀り。
「……ふむ」
巨躯を横たえていた太い幹の根元から、ゆるりと体を起こしたのは、ひとりの男であった。
身長二百一センチメートル。体重百三十六キログラム。
仕立ての良い三つ揃えのスーツに身を包み、赤毛のオールバックに眼鏡を乗せた男——秘密結社ライブラのリーダー、クラウス・V・ラインヘルツである。
クラウスは静かに眼鏡の歪みを正すと、左手の甲に装着された武骨なナックルガード、そして右手のグローブの感触を確かめた。
手元にあるのは、愛用のパイプと煙草、手帳、そして胸ポケットに収められた二重の懐中時計。
怪我はない。血闘術の発動に必要な「血液」の巡りも、些かの滞りもなく全身を駆け巡っている。
しかし、決定的な違和感がひとつあった。
「……大気に満ちる、このエネルギーは……」
クラウスの鋭い三白眼が、周囲の樹海をゆっくりと見分ける。
HLに漂う「異界(ビヨンド)」の狂暴で支離滅裂なエネルギーとは根底から異なっていた。大気そのものが、まるで生きて息づいているかのような、均整の取れた密やかな大波動——。
後日、彼がそれを「魔力(マナ)」と知ることになる未知の理(ことわり)であった。
「空間転移……あるいは異次元への落尽(ダウンフォール)か。スティーブン達の姿はないな……」
自身が人界でも異界でもない、全く異なる世界へ放り出された事実を、クラウスは僅か数秒の観察で冷徹に分析し、そして何より平然と受け入れた。
絶望も狼狽もない。
彼という男の精神は、どのような理不尽を突きつけられようとも、一微粒子すら揺らぐことはない。
「どこへ至ろうとも、私のやるべき事は変わらん。……まずは、人里を探すとしよう」
クラウスが立ち上がり、スーツの塵を払ったその瞬間——遠く樹木の隙間から、耳を裂くような断末魔の悲鳴と、獣の咆哮が地鳴りのように響き渡った。
風に乗って漂ってくるのは、生臭い鉄の匂い。
危険に晒されている「人間」の気配であった。
巨躯が動き出す。一歩の足取りが重厚でありながら、疾風のごとき速度で森の深部へと切り込んでいく。
「ひっ……ひぃぃっ! 助け……誰かぁっ!」
街道沿いの開けた木立ちの中で、数人の行商人たちが腰を抜かしていた。
彼らを囲んでいるのは、通常の狼の三倍はあろうかという巨体を持つ魔物——「剛毛狼(ガルム)」の群れであった。
鋭い爪と赤く光る眼球を持ち、血に飢えた口から粘液を垂らしている。
護衛の傭兵はすでに二人、血だまりの中に転がっていた。
残された行商の男が、迫り来る魔物の牙を前に目を閉じ、死を覚悟した——その時である。
「——そこまでだ」
重低音の声が、木々を揺らした。
魔物たちが一斉に首を巡らせる。
そこに立っていたのは、見たこともない奇妙な衣服を纏った、異形の巨漢であった。
鋭い三白眼。
角張った厳めしい顎から覗く、猛獣のような下顎の犬歯。
魔物以上に獰猛で、圧倒的な威圧感を放つその顔立ちに、行商人たちは「魔族の将軍が現れた」と勘違いして悲鳴を上げかけた。
だが、男の佇まいは恐ろしい顔立ちとは裏腹に驚くほど自然体で堅牢であった。
自然に正中線へ垂らされた片腕(右手)は、あらゆる攻撃を弾き返す「盾」。
耳の側面に縦拳で構えられた片腕(左手)は、隙を穿ち抜く「槍」。
脱力された構えから繰り出されるのは、現実世界のスパルタ重装歩兵を思わせる、無駄を完全に削ぎ落とした格闘の姿勢であった。
「グルアッ!」
一頭の剛毛狼が、音もなく跳躍した。丸太のような前脚が、クラウスの頭部を叩き割らんと振り下ろされる。
クラウスの右腕が動いた。
グローブの表面から瞬時に噴出した血が、空中へ幾重もの光る血結晶の小盾を展開する。
『ブレングリード流血闘術117式——
ガアアアンッ!!
鉄をも引き裂く魔物の爪が、血の十字盾に接触した瞬間、衝撃波とともに弾き返された。
盾にヒビ一つすら入らない。
魔物が体勢を崩した、その1ナノ秒にも満たぬ刹那。
クラウスの左拳が、溜められた爆発的な加速とともに一閃した。
『02式——
左手のナックルガードから射出された無数の血の小型十字架が、音速を超えて魔物の巨躯を穿ち抜く。
絶叫すら上げる間もなく、剛毛狼の胴体は内側から破砕され、空中へ弾け飛んだ。
「な……!?」
行商人が目を見張る。
だが、驚愕はそれだけに留まらなかった。
倒された魔物の肉体が肉や骨を残すことなく、黒い魔力の塵となって風に霧散していったのだ。
(吸血鬼の眷属(グール)の灰化とは異なる……肉体そのものが崩壊し、塵に還るか。この世界の敵対生物の特性……把握した)
クラウスは思考を巡らせながら残る三頭の魔物へ視線を向けた。
身の毛もよだつ恐怖を感じた魔物たちが尻尾を巻いて逃げ出そうと背を向けた、その時。
「逃がさん」
一歩の踏み込み。地殻を揺らすほどの踏み込みとともに、クラウスの巨体が旋風と化した。
『32式——
血の細剣を纏った拳が空間を裂き、逃走を図った三頭の魔物を瞬く間に貫通、破砕する。
黒い塵が舞い散り、静寂が再び樹海へと戻った。
戦闘時間、わずか五秒。
「……ふぅ」
クラウスは静かに息を吐くと血を納め、グローブとスーツを整えた。
そして、腰を抜かしたまま震えている行商人たちのもとへゆっくりと歩み寄ると、
膝を折り、目線を合わせて静かに頭を下げた。
「お怪我はありませんかね、皆さん。……無事で何よりだ」
その声は、顔の恐ろしさを完全に忘れさせるほど、温かく、気品に満ちた紳士そのものであった。
「……何だ、今の?」
街道の奥から駆けつけてきたひとりの少年——戦士シュタルクは、手にした巨大な斧を構えたまま硬直していた。
彼らの目の前で繰り広げられたのは剣術でも、一般的な魔導術でもない、見たこともない「拳による殺陣」であった。
「シュタルク様、軽率に近づかないでください。……あの人、普通ではありません」
シュタルクの後ろから、杖を構えた静かな少女——フェルンが警戒の声を上げる。
そして、その中央に立つ小さなエルフの魔法使い、フリーレンは——その蒼い瞳を極限まで細め、クラウスの背中を食い入るように見つめていた。
(魔力……じゃない。いや、あれは命の力……血液を触媒にした術式……?
それに、あの技の奥にあるもの……。)
千年以上を生きる大魔法使いフリーレンの探知能力は、クラウスが技を繰り出した瞬間に周囲の空間が一瞬だけ「時間の歪み」を起こしたことを見逃さなかった。
かつて全知のシュラハトや南の勇者が扱った「未来視」とも異なる、物理的な事象そのものに介入する圧倒的な「不変の時間」の力。
「フリーレン様……?」
フェルンの問いかけに応えず、フリーレンはすたすたとクラウスの方へ歩み寄った。
「フリーレン! 危ねえって!」
シュタルクが焦って追いかける。
クラウスは気配を察し、ゆっくりと振り返った。
そこにあったのは、あまりにも対照的な二つの存在であった。
二百センチを超える巨躯と鋼の筋肉、圧倒的な圧迫感を放つ赤毛の巨漢。
そして、華奢で小さな体に、白い髪と長い耳を持つ、どこか遠い目をしたエルフの少女。
「……やあ。君たちが、この方々の仲間かね?」
クラウスは穏やかな笑みを浮かべ(犬歯が覗いてシュタルクが「ヒッ」と息を呑んだ)胸に手を当てて一礼した。
「私の名はクラウス・V・ラインヘルツ。怪しい者ではない……と言いたいところだが、この通りの容貌だ。驚かせてしまったなら申し訳ない」
「……私はフリーレン。魔法使いだよ」
フリーレンはクラウスを見上げ、淡々と言った。
「あなた、人間? でも……この世界の人間の魔力の巡り方と全く違う。どこから来たの?」
「フリーレン様、いきなり失礼です!」
フェルンが慌てて制止するがクラウスは腹を立てる様子もなく、むしろ感心したように頷いた。
「素晴らしい観察眼だ、フリーレン殿。……実を言えば、私も自分がどこにいるのかを把握しかねているところでね。気がついた時には、この森の中に横たわっていたのだ」
「異世界……ってこと?」シュタルクが目を丸くする。「おいおいマジかよ。そんな大魔法みたいなことが……」
「あるいは空間の歪み、異界の介入かもしれん」
クラウスは顎に手を当て思案するように言った。
「だが、どのような理屈であろうと、私が今ここに存在しているという現実に変わりはない。……まずは、この街道の先にある街へ向かいたいのだが、案内を乞うことは可能だろうか?」
フリーレンはしばらくの間、クラウスの瞳をじっと見つめていた。
恐怖も、邪心も、偽りもない。
そこにあるのは、澄み切った鋼のごとき意志と、どこまでも深い誠実さ。
フリーレンの脳裏に、ふと——かつて同じように、どんな理不尽の前でも前を向き続けた「彼」の姿が重なった。
(……ヒンメルに、少し似ている)「……いいよ」
フリーレンは小さく頷いた。
「私たちも次の街……オイサーストへ向かう途中だ。一緒に行こう」
「フリーレン様!?」
フェルンが驚く。
「よいのですか? この方、あまりにも謎が多すぎます……!」
「大丈夫だよ、フェルン。この人は人を傷つける嘘をつかない。……それに」
フリーレンはクラウスの左手のナックルガードを見つめ、言った。
「この人の魔法……ううん、その技は、すごく綺麗だ」
クラウスは一瞬目を見開き、それから心底嬉しそうに、柔らかな笑みを浮かべた。
「……感謝する、フリーレン殿。君の言葉は、私にとって最高の誉れだ」