君の浴衣を見るのは初めてで、可愛くて、なんだが浮ついた一日だった。
そんな日の、帰り道、駅のホームにて。
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私は君といたいだけ。
君との時間が欲しいだけ。
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私がどんな人なのか、君がどんな人なのか、あなたのご想像にお任せします。
バチッ。
反射で肩をすぼめて縮こまる。後ろから「カブトムシだ」と聞こえてそっと顔をあげると、光る蛍光灯近くに、一匹の虫の足が見えた。
「私、何気にカブトムシ生で見たの初めてかも」
隣の君が虫の足を見て言う。興味の色を纏った目で観察を始めた。
「うわ、裏キッモ」
「……虫の裏なんかどれも一緒やで。……あ、羽、しまい忘れてる」
「ほんまや」
落ち着いた鼓動を撫でおろして体を起こした途端、再び虫が羽ばたいた。唐突な羽音に体が勝手に怯え、とっさに君の肩を掴んだ。カブトなる虫が繰り広げる、蛍光灯との攻防をじっと見る。ただこちらに来ないことを願って。その間も、君は「おー」やら「おっ」やら、声色をコロコロ変えて面白そうに観察していた。虫は気が済んだのか、一度空中を漂うとそのまま駅のホームから飛び立っていった。
「虫ってなんで蛍光灯に集まるんやろ?」
「……紫外線が出てるから、とか? ほら、LEDライトは紫外線ないからって集まらんやん? 知らんけど」
「へー」
「夜は暗いし「太陽ない〜……あった!」って近づいてくるんかもな」
「ははっ」
謎知識を披露する代償は大きい。間違っていたらひどく滑稽だし、合っていても「そういうことじゃない」と言われれば空気の読めない迷惑な奴になる。疲れた頭ではこういう事後処理しかできなくて、そんな自分がひどく憐れに見えた。時間が巻き戻せればいいなと、何度思ったことか。
……番線に列車がまいります。ご注意ください。列車がまいります……
「じゃあね!」
「うん、じゃあね!」
あ、気をつけて、も言えばよかった。君は私に軽く手を振ってドアの奥に消えていく。鮮やかな青と黄色の浴衣の後ろ姿が、ふわりと空いている席に腰掛けた。窓越しに、巾着袋からイヤホンを取り出す手元が見えた。発車まではまだ時間があるようで、ドアはすぐに閉まることはない。ここで帰ってしまってもいい。私の帰る方向は逆だから、向かいのホームへ行く必要がある。でも足が動かなかった。その場に一人、立って何かを待っていた。
バチッと弾ける音がして、ビクリとした体を抱きしめる。見上げると蛍光灯に虫が集っていた。その一匹が、慌ただしく羽をばたつかせながら電車内へ入っていった。一両をぐるりと巡ってまた出てくる。君が見上げたのかは、見えている手元だけで判別することは難しかった。「もしかしたら虫を追いかけた君が振り向いて、目が合うかもしれない」なんて思考がよぎり、消えていく。
ベルが鳴って扉が閉まる。ガタン、ガタンと進んでいき、動いた窓へ手を振ってみる。チラリと見えた君とは目が合わない。今度は腕を振ってみるが、視線が交わる前に窓の羅列に消え、走行音に連れられて行った。
羽音が聞こえる。私は一人、ホームに立っている。まるで置いていかれたみたいだ。電車に、時間に、君に。思い切って一歩踏み出すと浴衣がはだけてあられもない素足が露になる。慌てて裾を掴んで引き寄せ、速足で駆けた。人というのは、誰も見ていなくとも羞恥心を抱くらしい。
向かいのホームへ降り立ち、元いた場所を見る。見慣れない点字ブロックが並んでいるだけだった。ホームに備え付けられた黒い椅子に座り、窓からかろうじて見えた君の手元を思い起こす。
もしかしたら、向かいのホームに来るだろうと踏んで、君は窓際に座ったのかもしれない。向かいへ行っていれば君と目が合ったのかもしれない。だったら私は見当違いなことをしたのだ。そうならば、目が合わないのも気づかれないのも当然だ。
両手で顔を覆うと、長いため息が抜けていった。自分はどうしてこうなのだろうか。思い出される君の姿は、誰かとの話を楽しそうにする笑顔ばかり。君がそういう風に話す度に心がざわついて、そんな自分を自覚する。客観視して、ああ可哀想だと思う。どれだけ望んだとしても、手に入れることなんてできないから。
そもそも手に入れようと思っているのかも怪しい。ただ純粋に、今の自分に一番影響を与えているのが君だから気になるだけかもしれない。
何かが欲しいと、明確に思ったことはない。これから思ったとしても、今の関係を壊すくらいなら、成就する確証がないなら私は手を出さない。人生の全ては確証がないものだと知っていても、それに手を出すのを怖がるほどに臆病で、壊れたものを取り戻すことが面倒な人間なのだ。
私はきっと、ただ褒められたいだけだ。褒めて、撫でて、無償の愛が欲しい。まるで飼い犬のように、家と飼い主が世界の全てである犬のように。
ああ、来世は。どれだけわがままを言っても最後は愛してくれる飼い主の元に生まれたい。
君ならば、いい飼い主になってくれるだろうか。私ならば、いくらでも君の帰る場所になる。何時間、何日、君が帰って来なくとも、待とう。君が落ち込んだ時はそばでじっと寄り添おう。無条件に君のそばにいられる、そんな場所が欲しい。
最寄り駅、街灯のない川沿いを歩く。
この前買った、君と揃いの指輪が右手の薬指で光っている。
蝉の声がする。
少し欠けた月が光っている。
次会えるのはいつだろうか。きっと夏休みが明けた頃。……一か月後。
どうか、この緊張が、浮足立った私の心根が、君にバレていませんように。