眷属なき魔王、独りの玉座 作:一般通過アクシズ教徒
大和の進軍部隊が文字通り一瞬にして消滅した、あの事件。
その凄絶な噂が地上の神々の間で密かに駆け巡った瞬間、これまで破竹の勢いで進軍を続けていた大和の軍勢の足が、不自然なほどピタリと停止した。
その異変を、最前線で睨み合っていた洩矢の王国の斥候たちが見逃さなかった。
大和の陣営の不可解な膠着の報を受け、山深き洩矢の社は、張り詰めた緊張感に包まれていた。
「大和のあの凄まじい進軍が急に止まった理由が、後方に佇むあの遺跡にあるというのは、間違いなさそうね」
社の最深部。大きな帽子を被った土着神――洩矢諏訪子は、卓上に広げられた地上の勢力図を見つめながら、愛らしい声で呟いた。
彼女の周囲には、地上の怨念や恐怖の概念を神気として束ねたミシャグジの波動が、赤黒い蛇のように不気味にうねっている。
洩矢の国は、この地では群を抜いた高度な製鉄の技術を有していた。
鉄の輪をはじめとする強力な武具を鍛え上げ、自らの領域を頑強に守り続けてきた自負がある。しかし、新興の勢力である大和の神々の、洗練された組織力と圧倒的な武力の前には、その鉄の防壁を以てしても徐々に戦況を圧迫され、劣勢を強いられつつあった。
国を拓き、自らの存在理由である信仰を死守せんとする土着の神々や妖怪たちにとって、大和の侵略はまさに滅びへの秒読み。
その破滅の足音が、あの不気味な要塞の存在によって一時的に食い止められている。この好機を、百戦錬磨の祟り神である諏訪子が利用しないはずはなかった。
「諏訪子様。大和の神々があの場所を最悪の要素として恐れ、動きを完全に凍結しているのは紛れもない事実です。もし、あの要塞に潜む主をこちらの陣営に引き入れることができれば、大和の侵略を正面から押し返す決定的な切り札となります」
玉座の前に進み出て、重々しく頭を垂れたのは、洩矢の参謀である老神――多手賢であった。
彼はかつて大和の斥候が一瞬で塵に還されたあの事象を遠方から探知し、その理不尽なまでの圧倒的な魔導の威力を、誰よりも正しく評価していた。
「分かっているわ。あそこの力を借りられるなら、私は神のプライドなんていくらでも捨ててあげる。けれど、あの要塞から立ち上る生命を拒絶するような気配は、私たち神々にとっても触れることすら躊躇われる不浄よ。まともに言葉が通じる相手かどうかも分からない不気味な存在の元へ、誰を使いに出すというの?」
「この多手賢が、命を賭して向かいます。我が身に宿る山の霊気であれば、あの凍りついた瘴気を一時的に防ぎ、要塞の主へとこちらの声を届けることができるはずです。大和に滅ぼされるのをただ指をくわえて待つくらいならば、あの死の檻へ首を突っ込む方が、まだ洩矢の神としての誇りが立ちます」
老神の瞳には、自らの国と、主君である諏訪子を守り抜くという、凄絶なまでの覚悟と執念が燃え盛っていた。
諏訪子は静かに目をつぶり、背後に蠢く祟り神の波動を一時的に鎮めると、多手賢へと真っ直ぐに視線を向けた。
「分かっているわ、多手賢。もし相手が交渉に応じる知性を持っているなら、大和を退けるための加勢、あるいは助力を依頼しなさい。対価としては、大和の地の利権を半分譲り渡しても構わないわ。……必ず、生きて戻りなさいよ」
「ハッ。必ずや、洩矢の未来を繋ぐ約束を取り付けてまいります」
多手賢は深く一礼すると、山の風を纏い、社の影からあの遺跡への方角へと向かって、静かに、しかし音をも超える速度で飛び立っていった。
彼らはまだ知らなかった。自らが最上の対価として提示しようとしている地上の利権や富など、あの放浪の魔法使いにとっては一銭の価値もない無意味なものでしかなく、この加勢の打診そのものが、アインズの外部の戦争への巻き込みとして見られる。非常に厳しい事案であることを。
◇
多手賢が辿り着いたその場所は、死の荒野と化していた。
かつては瑞々しい緑に覆われていたはずの山肌は、要塞を中心とした広大な範囲にわたって漆黒に変色し、草木は炭化するように脆く崩れ去っている。大気は凍りついたように冷たく、呼吸をするだけで肺の奥が灼けるような不快感が多手賢を襲った。
(何という……何という悍ましい気配だ。これは呪いか? あるいは、大和の神々すら一瞬で消滅させたという、その絶技の残滓か……)
老神は自身の内に眠る山の霊気を限界まで引き出し、身体の表面を薄い光の膜で覆う。その防壁がなければ、ただこの領域に立っているだけで、己の神格そのものが摩耗し、崩壊してしまうのではないかという恐怖が、彼の老躯を震わせた。
目の前にそびえ立つのは、日光を完全に拒絶するような、どす黒い光沢を放つ結晶の城壁。
門の周辺には、いくつかの人影が直立不動の姿勢で佇んでいた。だが、それらは生きてはいなかった。多手賢がどれほど感覚を研ぎ澄ませても、彼らからは生命の鼓動も、魂の揺らぎも、あるいはこの世界の妖怪や神々が持つ特有の気配すらも一切感じられない。
そこに立っていたのは、精巧極まる職人技によって作られた、美しくも無機質な自動人形たち、そして、ただ上位の命令に従うためだけに魂を抜かれた、冷徹な不死者の兵卒であった。彼らには独自の意志など毛頭ない。ただ主の領域を守護し、侵入者を排除するためだけに配置された、完璧なる機構としての警備兵。
その無機質な視線が一斉に多手賢へと向けられた瞬間、老神は心臓を冷たい手で掴まれたような錯覚に陥った。言葉は交わされない。敵意や悪意すらそこにはない。ただ、合理的な排除の最適解を弾き出そうとするかのような、圧倒的な静寂のプレッシャー。
多手賢は乾いた喉を強引に鳴らし、今にも折れそうな膝を叱咤して、その不浄の門へと力強く一歩を踏み出した。ここで退けば、洩矢の王国に未来はない。諏訪子から託された重責が、彼の背中を冷徹に押し出していた。
「――我が名は多手賢! 畏れ多くも、この地を統べる洩矢の神・諏訪子様が名代として、結晶の主へ、大和の軍勢を退けるための助力を願うべく、拝謁を申し入れる!」
彼の決死の声は、死に絶えた大気の中に吸い込まれるように響き、そして消えた。
意志を持たぬ人形たちは、ただ主の判断を待つかのように微動だにしない。張り詰めた沈黙が、多手賢の精神をじりじりと削っていく。
その時、重厚なる漆黒の結晶門が、地響きひとつ立てずに、滑らかに、そして厳かに左右へと開き始めた。
中から溢れ出してきたのは、門の外に満ちていたものとは比較にならないほどの、魂そのものを凍結させる圧倒的な『死』の波動。
多手賢の視線の先、冷徹なる静寂の玉座の間から、静かにその姿を現したのは、この世界のどのような神話にも、どのような怪異の系譜にも属さない、至高にして異貌の存在。
漆黒の魔導衣を身に纏い、その身を構成する純白の骨格に神々しいまでの魔力を漲らせた放浪の魔法使い――アインズ・ウール・ゴウンであった。