お続きですわ
重い瞼を開けると、見覚えのない天井が視界に飛び込んできた。
カビ臭い地下街の匂いとは違う、どこかさっぱりとした清涼な空気。柔らかい布の上で寝かされていたことに気づき、僕は勢いよく体を起こした。
「う……っ」
全身の節々が痛むが、21日間の過酷な旅で疲弊しきっていた身体は、いくらか休息を取り戻していた。
周囲を見渡す。質素だが、地下街の住処にしては異常なほど整理整頓され、埃ひとつ落ちていない綺麗な部屋だった。
そして──部屋の隅、椅子に腰掛けて静かにナイフの手入れをしている男の姿があった。
あの、暗闇で僕を助けてくれた黒髪の青年だ。
「……あ」
声を出そうとすると、喉が干からびていた。僕は慌ててベッドから下り、頭を下げた。
「あの……助けてくれて、ありがとうございます」
青年はナイフを拭く手を止め、冷ややかな三白眼でじっと僕を見つめた。
感謝の言葉に対して返ってきたのは、予想外の一言だった。
「……礼を言う前に、まずその汚ねぇ体を綺麗にしてこい」
「え……? あっ、はい! わかりました!」
青年が指さした先には、地下街には珍しい小さな洗面所と脱衣場があった。
自分の姿を鏡で見ると、泥と汗で顔は真っ黒、髪はボサボサのひどい有様だった。言われた通り、僕は言われるがまま洗面所へと向かった。
◇
桶に溜めた水で、石鹸を使って身体中の泥と汚れを必死に洗い流していく。
その最中、玄関のドアが開く音がし、足音が部屋へと入ってきた。
洗面所の隙間から、男たちの会話がかすかに聞こえてくる。
「おいリヴァイ。あのガキの荷物、チンピラどもから全部取り返してきたぞ」
帰ってきたのは、少し長めの髪をした別の青年だった。
「……あぁ」
「『あぁ』じゃねぇよ、感謝の言葉もなしかよ。……それにしても、なんであのガキを助けたんだ? あんな身ぐるみ剥がされたガキなんて、地下街にゃ腐るほどいるだろ」
「……さあな。わからない」
「わからないって……」
「ただ……誰かに似てたからだ」
水音を立てないようにしながら、僕は息を殺してその会話を聞いていた。
(僕の荷物を……取り返してくれた……!?)
あの大切な日記も、隠したお金も、荷物全部戻ってきたのだ。胸の奥が熱くなるのを感じながら、僕は急速に身体を拭き、用意されていた大きめの清潔な服に着替えた。
◇
「……あの、体を洗い終わりました」
洗面所から出ると、二人組みの青年がこちらを振り返った。
ダボついた服の袖を折り返しながら、僕は深々と頭を下げた。
「着替えまで貸していただいて、本当にありがとうございます。……えっと、お二人の名前をお伺いしてもいいですか?」
髪の長い方の青年が親しみやすい苦笑いを浮かべ、黒髪の男を指さした。
「俺はファーラン。そっちの無愛想なのがリヴァイだ」
「……アランです。リヴァイさんに、ファーランさんですね」
名前を口に刻み込む。するとファーランが、ソファの脇に置かれた巨大な物体を親指で指さした。
「それと、これ。お前のだろ」
「あ! 僕のバッグ……!!」
そこには、僕がレイス領から命がけで背負ってきた、あの二回りも巨大な革バッグが無傷で置かれていた。
駆け寄って中身を確かめる。二重底の鋼貨も、一番底に隠した『日記』も、すべて無事だった。
「よかった……本当に、ありがとうございます……!」
心底安堵した僕の姿を見て、リヴァイが冷たい声で問いかけてきた。
「で……なんでガキが一人で、そんな大荷物抱えて地下街になんか来た」
静かだが、嘘を許さない圧迫感。
(僕の荷物の重さや中身を見て、地上から逃げてきた奴だと見抜いているんだ……)
僕は一瞬ためらい、小さな声で答えた。
「……家族から、逃げるためです」
「家族?」
ファーランが首をかしげる。リヴァイは腕を組み、淡々と言った。
「なぜだ。そんな大荷物持って逃げるくらいなら、家族のところへ戻った方がいいんじゃないのか」
「──嫌だ!!」
気づけば、僕は叫んでいた。
「……っ!?」
二人が少し目を見張り、驚いたように僕を見る。
感情を乱した自分に気づき、僕は慌てて口を押さえた。
「あっ……ごめんなさい……大声を出して……。でも、絶対に嫌なんです。戻ったら……また戻されたら、僕は僕じゃなくなってしまうから……」
リヴァイは追及するのをやめ、少し視線を落とした。
「……質問を変えよう。お前、どこから来た?」
「……ウォール・ローゼの、オルブド区近郊です。レイス領地から来ました」
その言葉を聞いた瞬間、
「ウォール・ローゼ!?」
ファーランが声を裏返らせて目を見開く。
「おいおいマジかよ……! ここからどんだけ離れてると思ってんだ!? それに……どうやってウォール・シーナの門を突破したんだよ! ガキ一人で通れるわけねぇだろ!」
「……シーナへ入る高級商隊の親方に、お金を渡して……荷台の樽の裏に隠してもらいました。憲兵には親方が賄賂を渡して、そのまま通り抜けました」
「……」
二人とも、絶句して引きつった顔で僕を見つめていた。
7歳のガキが一人で馬を調達し、20日以上かけて壁を越え、大人を金で動かしてシーナを突破してきた──その異常な行動力と冷徹な知略に、完全に引いているのだ
リヴァイは小さく溜息をつき、子供を見る目ではない、どこか一目置くような鋭い視線を僕に向けた。
「……とんでもねぇクソガキだな。その歳でそれだけの粘り強さと頭が回りやがるか」
「あハハ……。で? そこまでして地下街に来て、お前はここで何をするつもりなんだ?」
ファーランの問いかけに、僕はピタリと動きを止めた。
「……あっ」
「あん?」
「……考えてなかったです」
「……は?」
二人は拍子抜けしたように口をぐうの音も出さず開け、心底呆れ返った顔をした。
「お前……あんな必死こいて壁越えておいて、ノープランだったのかよ!?」
「だって……逃げることだけで精一杯だったんです……」
気まずくなって俯く僕。
ふと、部屋の壁に掛けられている「ある装置」が目に入った。
革ベルトと鞘、そして腰に取り付ける金属製の駆動部。先ほどリヴァイが路地裏で見せた、あの人間離れした動きの源だ。
「……あの、リヴァイさん。その武器、なんて言うんですか? 腰につけて、空を飛ぶみたいに動くやつ……」
僕が尋ねると、リヴァイは装置に視線をやった。
「……『立体機動装置』だ。本来は壁の外で巨人と戦うための兵器だが……この地下街じゃ、天井の岩盤を使って飛び回るのに都合がいい」
「へぇ……すごい構造だ……アンカーを射出してガスで巻き取るのか……」
一目見ただけで構造を分析し始める僕に、ファーランがニヤリと笑った。
「ちょうどよかったな。これからお前の分の装置も、闇市から調達しに行くところだったんだよ」
「えっ……!? 僕の分も……? いいんですか!?」
驚いて目を見開く僕に、リヴァイは装置を腰に装着しながら冷たく言った。
「あぁ。ただしタダじゃねぇぞ。体が動くようになったら、俺たちの仕事を手伝ってきっちり恩を返せ」
「はいっ……! なんでもします!」
カチャリと装置を固定した二人は、窓枠に足をかけた。
「じゃあ、留守番してな」
アンカーが甲高い音を立てて射出され、二人の身体は夜の地下街の闇へと一瞬で躍り出て、飛ぶように去っていった。
◇
静かになった部屋で、僕は一人、ポツンと佇んでいた。
「……そうだ。ここで何をするか、だ……」
カバンを開け、一番底からあの重い『暗号日記』を取り出す。それを固く胸に抱きしめた。
「ここに来るまでは、逃げることだけで精一杯だった……」
でも、僕は逃げ切ったのだ。
記憶を消される恐怖から解放され、大人たちの手が届かない場所に辿り着いた。
「ここを起点にするんだ……」
日記を強く握りしめ、瞳にメラメラと青い炎を宿す。
「この地下街で力をつけて、知識を蓄えて……この世界の歪んだ仕組みを、全部知って、変えてやる……! そのために……今、僕は何をすべきか、しっかり考えなきゃ」
天性の狂気的な探求心と野性心、そして冷徹な計算が、暗闇の中で静かに噛み合い始めていた。
このペースを届けていきます